旅の 食べものと飲みもの

キリストの聖体 福音黙想   09/06/14   トマス・ ロシカ師

 

今日のマルコ福音書 (14:12-16 22-26) の朗読は、イエスの死を、イスラエルの解放の祝いである 過越の祭と結びつけます。 最初の過越(出 12 )では、家の入り口の二本の柱と鴨居に塗られた子羊の血が初子の死を防ぎました。 最後の晩餐で裂かれたパンは、ご自身を捧げられたイエスの犠牲を弟子たちが分かち合うことを象徴しています。 イエスの血の杯から飲むことは、相互の新しい、ダイナミックな「絆」を創出します。 イエスの血はわたしたち一人ひとりを聖化し、新しい生命を吹き込みます。 聖体には、他の全ての記念物とは違った何かがあります。 それは、パンとぶどう酒のしるしの下に隠されていますが、過去の記念であると同時に、今ここに現存するものなのです。


聖体の典礼は、神とその民との間の生命の絆を宣言します。 その聖心から流れ出る血が、教会のメンバーを一つの生命の流れの中に結び付けるように、わたしたちもイエスの尊い身体と血を通して神と親しく結び付けられるのです。 聖体の本質が意味するものは、神と教会共同体との絆です。   わたしたちの将来は、神ご自身の生命に撚り合わされています。血が相互の「絆」なのですから、私たちは一人で生きることはできません。

 

今年のキリストの聖体のミサで、わたしたちは二つのことを理解します 聖体は毎日でもいただけるものです。 それなのに、わたしたちは一年に一日を別にとって、聖体の祝日とします。 わたしたちは主の身体と血となるパンとぶどう酒とを祝うばかりではなく、新しいアイデンティティを祝うのです。 新しいアイデンティティは、イエスの身体と血を分かち合い、そして自分たちが食べ、飲むもの(主)に一致する人々に与えられます。


もしも、飢えている兄弟姉妹と現実にパンを分かち合う心を生みだすのでなければ、イエスの復活の信仰は、それ自体、非生産的で危険なイデオロギーとなり得ます。 わたしたちは社会的、政治的な活動に参加しているのではなく、想起し記念する、聖なる祭儀に参加しているのです。 

*それは、イエスの生涯と死の想起です。 わたしたちが確信するように、復活して名誉ある神の右の座に着き、パンを得られない貧しく虐げられた人々の弁護者としておられる主の想起です。 

聖体を拝領するとき、わたしたちは人々のための食べもの・飲みものとなられた御方を共に分かち合うのです。 聖体拝領の度に、わたしたちは、キリストが本当に貧しい者のためのパンとして現存されていることを自覚しているでしょうか? キリスト教、カトリック、秘跡、とりわけ聖体の秘跡は、神学的な概念、過程、ものごと、考え、心象、シンボルなどではなく、それは生きているペルソナであり、その名はイエスです。

 

ケベックの聖体大会:

キリスト教の歴史の中には多くの危機や騒動がありました。 主はそのような時に、奇跡的な方法で、ご自身の聖体の中の現存を確認されました。 (話題になった)聖体の奇跡の多くは、ホスチアが「人間の身体と血になられた」という出来事です。 イタリアのボルセナとオルビエトの奇跡が思い浮かびますし、勿論、よく知られているイタリアのランチアノの聖体の奇跡もあります。 * 訳注参照:聖体が語りだすなどの奇跡)  これらの物語は、わたしたちの経験からはほど遠く、信じがたいものです。 現代の神学および霊性の中心的な話題からは後退し、エキセントリックな信心と見られています。


カトリック信徒として、聖変化されたホスチアは、パンとぶどう酒の形体の下に、主の神性、身体、血、霊であることを信じます。 それゆえイエスは、聖体の奇跡を通して、より人間の五感にふれる方法でご自分の現存を表されたに過ぎないのです。 自分たちが既に知っており、信じているものごとを確かめるために、特異な霊的出現など必要なはずはないと言う人々もいます。 その人たちによれば、特異な霊的出現は、聖体の崇敬、信心とその理解の欠かせないものではないのです。 わたしは、カナダの教会に深い跡を残し、世界の他の地域にも感銘を与えた特別な聖体のできごとについて考えてみたいと思います。

 

2008 6 15 22 の一週間、わたしは特別な聖体の奇跡について再発見をしました。この度に限っては、それは古いヨーロッパの教会の出来事ではなかったのです。 ケベック市ペプシ競技場ホッケー・アリーナで行われた第 49 回国際聖体大会でのことです。私は、カナダと世界のその他の 75 ヶ国から来た 1,500 人の人々と共に、聖体が非常に力強く、生き生きと存在する姿を見たのです。

 

聖体大会の開会に当たっての説教の中で、教皇特使で、 84 歳の スロバキアのヨゼフ・トムコ枢機卿は、こう語りました。 「イエスは神の賜物です。イエスは、わたしたちを育み、満たし、永遠のいのちに導く食物です。 聖体は、ペルソナです;単なる物、命の無い賜物ではありません。 聖体とは何かと訊ねるべきではないと知りつつ訊ねます。 聖体とはどういう方なのでしょうか?」 この問いかけに対するトムコ枢機卿の回答はこうでした。 聖体とは、パンとぶどう酒の秘跡の形体におけるイエスであり、「イエスが、わたしたちの食物となり、わたしたちの生命の活力を支えたいと望んでおられることを示しているのです。」

 

ケベック大会の記憶に残る奥深い教えの一つは、「聖体、わたしたちの生命の中のキリストの生命」についてでした。 これはフィリピンのイムスのルイ・タグル司教が与えたテーマです。

タグル司教は、ミサ以外の場での聖体崇敬について語りました 「イエスを見つめるとき、わたしたちは崇敬するこの神秘を受け、それによって変容させられます。 聖体崇敬は、イエスの十字架の下に立つことと似ています。 それは、イエスの犠牲の証人となり、それによって刷新されることです。」


タグル司教は、ローマの百人隊長の例を指摘しました。 この隊長は「崇敬のモデル」として十字架上のイエスを護衛した人です。

「この百人隊長が、どのようにイエスを直視し、注意を払い、見つめ、黙想したか、その様子からわたしたちは学びます。 最初、この百人隊長は、義務をはなれて何時間もイエスを眺めていました。  しかし、彼は遂に、真理においてイエスを黙想したのです。 百人隊長は何を見たのでしょうか?  わたしたちは、彼がイエスの死に先立つ苦しみの恐怖を見たとも推定できます。 しかし、わたしはこうも信じるのです。 イエスの中に百人隊長は、信じがたい愛を見たのだ。 それは、この苦しみの杯をイエスから除かなかった神への愛、そしてイエスの隣人への愛でした。」

司教はこの力強い教えをこう結びました。 「聖体崇敬によって、人びとが、今日十字架を背負う多くの人々の心に寄り添う仲間としてのイエスをもっと知るようになることを望みます。 わたしたち罪びとのために、ご自分の生命を御父に捧げられたイエスを称えましょう。 わたしたち自身のために、貧しい人々のために、*この地球のために、教会のために、世界中の生命のために、イエスを崇敬しましょう。」

 

ケベック大会は、連日雨模様で、ある日わたしはタクシーで会場に向かいました。 アルジェリアから来たイスラム教徒の若い運転手は、わたしがどこから来たのか聞いてから、世界中からいろいろな人たちがケベックに来ているこの大会について訊ねました。 わたしが英語圏カナダ゙から来たと聞いて、彼は顔を輝かせました! 「この大会ではどんな食物が出されているのですか?」と訊ねられて、わたしは戸惑い、なぜと問うと彼は正しい英語で答えました。 「 10 年前に移住してきて以来、このケベックで、これほど多くの幸福そうな人々を見たことはありません。 何か特別なものが、食物や飲み物に入っているに違いありません。 何かすごいものです。」

 

ケベックの聖体大会は、カナダにとって特別な恵みのときでした。 それは、聖体の神秘に根ざす教会の、聖なる歴史的・文化的遺産と、社会への関与を改めて具現化する機会でした。

2003 年に書かれた、教皇ヨハネ・パウロU世の回勅「聖体の教会( "Ecclesia de Eucharistia" )」は、こう述べています 「聖体は教会を建て、教会は聖体となる。」 まさに一年前、ケベック国際聖体大会において、それが実現したのです。 

 

 

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訳注:  Wikipedia の「聖体の奇跡」の項目にいろいろな聖体の奇跡の説明が載っています。 http://en.wikipedia.org/wiki/Eucharistic_miracle

The miracles in Bolsena and Orvieto in Italy” については Real Presence Eucharistic Presence and Adoration Association 」の説明が http://www.therealpresence.org/eucharst/mir/bolsena.html に載っています。

In 1263 a German priest, Peter of Prague, stopped at Bolsena while on a pilgrimage to Rome. He is described as being a pious priest, but one who found it difficult to believe that Christ was actually present in the consecrated Host. While celebrating Holy Mass above the tomb of St. Christina (located in the church named for this martyr), he had barely spoken the words of Consecration when blood started to seep from the consecrated Host and trickle over his hands onto the altar and the corporal. ・・・・・」

Eucharistic miracle story from Lanciano, Italy. 」については、 http://www.trosch.org/inx/lanciano.html に物語が載っています。

 


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Food and Drink for the Journey

Biblical Reflection for the Solemnity of the Body and Blood of Christ

By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, JUNE 10, 2009 ( Zenit.org ).- Today's Gospel [Mark 14.12-16,22-26] links Jesus' death with Israel's great feast of liberation, the Passover. At the first Passover, the blood on the doorpost prevented the death of the firstborn. The bread broken at the Last Supper symbolizes the disciples' sharing in Jesus' self-offering. Drinking from the cup of his blood creates a new and dynamic common bond. Jesus' blood sanctifies and revitalizes each of us. The Eucharist has something that distinguishes it from every other kind of memorial. It is memorial and presence together, even if hidden under the signs of bread and wine.

 

Our Eucharistic Liturgy proclaims the one bond of life between God and his people. Just as blood that flows outward from the heart unites all the bodily members in one flow of life, so too are we united intimately with God through the precious body and blood of Jesus. The very nature of the Eucharist implies a bond with God and with the community. Our destinies are intertwined with God's own life. We cannot be loners, for blood is a common bond.

 

As we celebrate the solemnity of the Body and Blood of the Lord this year, we realize two things: this feast is a daily one. Yet we set aside one day in the year to celebrate a feast of those feasts which we celebrate every day. Not only do we celebrate the bread and wine which become the body and blood of the Lord, we celebrate the new identity given to those who share among them Jesus' body and blood and then become what they eat and drink.

Faith in Jesus' resurrection can itself be an unproductive or dangerous ideology if it does not stimulate us actually to share bread with our brothers and sisters who are hungry. We are not engaging in social and political action but in sacramental celebration, a memorial or commemoration: the recollection of Jesus' life and death, in the conviction of faith of his resurrection as Lord, sitting in God's place of honor as the advocate of poor and oppressed people who have no bread. When we receive the Eucharist, we partake of the one who becomes food and drink for others. Each time we celebrate the Eucharist, do we realize that the Eucharistic Christ is really present as bread for the poor? Christianity, Catholicism, the sacraments, especially the Eucharist, are not theological concepts, courses, things, ideas, passing fancies, symbols -- they are a living person and his name is Jesus.

 

Quebec's Eucharistic congress
At many moments of crisis and turbulence in Christian history, the Lord confirmed his real presence in the Blessed Sacrament in some rather miraculous ways. Most of these Eucharistic miracles involved incidences in which the Host has "turned into human flesh and blood." The miracles in Bolsena and Orvieto in Italy quickly come to mind, and there is, of course, the well known Eucharistic miracle story from Lanciano, Italy. Such stories seem to be far removed from our own experiences, and are often times quite hard to believe. In recent times such miracle stories have receded from the front burners of contemporary theology and spirituality and are often relegated to the realm of eccentric piety and devotion.

 

As Catholics we believe that the consecrated Host is the Body, Blood, Soul, and Divinity of our Lord, under the appearances of bread and wine. Therefore, Jesus, through the Eucharistic miracles, merely manifests his presence in a more tangible way.

Some tell us that we don't really need the extraordinary manifestations to confirm what we already know and believe. They say that extraordinary miracles are not the essence of true Eucharistic piety, devotion and understanding. I would like to reflect on a extraordinary Eucharistic event that deeply marked the Church in Canada and touched many parts of the world as well.

 

For one week last June 15-22, 2008, I rediscovered what extraordinary Eucharistic miracles are all about, only this time it wasn't in churches of old Europe. Along with 15,000 other people from throughout Canada and 75 other countries of the world, I saw the Eucharist come alive in a very powerful way in a hockey arena in Quebec City's Pepsi Coliseum during the 49th International Eucharistic Congress.

In his homily for the opening of the congress, the 84-year-old Slovakian Cardinal Jozef Tomko, papal legate to the event, said that "Jesus is the gift of God, he is the food that feeds us and fulfills us and allows us life in eternity. The Eucharist is a person, not an object, not a dead gift. Maybe we should ask not what is the Eucharist, but who is the Eucharist?" The answer to this question, Tomko said, is Jesus in the sacramental form of bread and wine "to indicate he wanted to become our food and sustain our life."

One of the very memorable and profound catechesis sessions of the Quebec congress was on the theme "The Eucharist, the life of Christ in our Lives" given by Bishop Louis Tagle of Imus in the Philippines. Bishop Tagle spoke about Eucharistic adoration outside of Mass: "Beholding Jesus, we receive and are transformed by the mystery we adore. Eucharistic adoration is similar to standing at the foot of the cross of Jesus, being a witness to his sacrifice of life and being renewed by it."

Bishop Tagle pointed to the example of the Roman centurion who guarded Jesus on the cross as a "model of adoration."

"We learn from the centurion to face Jesus, to keep watch over him, to behold him, to contemplate him. At first the centurion spent hours watching over Jesus out of duty but ended up contemplating him in truth. What did the centurion see? We can assume that he saw the horror of suffering that preceded Jesus' death. But I also believe that in Jesus the centurion saw incredible love, love for the God who had failed to remove this cup of suffering from him, and love for neighbors."

The prelate concluded his powerful catechesis: "I wish that Eucharistic adoration would lead us to know Jesus more as the compassionate companion of many crucified peoples of today. Let us adore Jesus who offered his life as a gift to the Father for us sinners. Let us adore him for ourselves, for the poor, for the earth, for the Church and for the life of the world."

 

One day during the congress in Quebec, the daily rainfall compelled me to take a taxi to the Pepsi Coliseum. The young driver, an Algerian Muslim man, asked me from where I came and then spoke to me about the congress, having encountered so many of the delegates on the streets of Quebec City. When he learned that I was from English-speaking Canada, he lit up! "What are they giving you people to eat these days?" he asked me. I looked puzzled and asked him to explain and he did so in impeccable English! He said: "I have never seen so many happy people in Quebec City since I emigrated here 10 years ago. There has to something in the food and drink. It must be awesome!”

 

Quebec's Eucharistic Congress was a privileged opportunity for Canada to re-actualize the historic and cultural patrimony of holiness and social engagement of the Church that draws its roots from the Eucharistic mystery.

In his 2003 encyclical letter "Ecclesia de Eucharistia" Pope John Paul II wrote: "The Eucharist builds the Church and the Church makes the Eucharist." The International Eucharistic Congress in Quebec City did just that one year ago.

 

朗読:

 

出エジプト 24:3-8 ( 山から ) モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 

ヘブライ 9:11-15 (皆さん)キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

 

マルコ 14:12-16, 22-26 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

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