聖霊の恵みを解き放つ

聖霊降臨の主日( 2009/5/31 )福音黙想  トマス・ロシカ師

 

 

キリスト教の神学はユダヤ教に根ざしています。 霊という用語は、ヘブライ語の「ルアーハ」という語の翻訳で、その発音から神の風と息吹が感じ取れます。 神の風、神の息吹、神の現存は、全て神がここの居られることを示す表現です。 「聖霊」の表現は旧約聖書では7回しか使われませんが、「神の霊」 または「主の霊」 の語は、ヘブライ語の聖典には67回も現れます。 創世記第1章第1節の冒頭では、(初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、) 神の霊は、混沌のうちに秩序が生まれる時を待ちながら、穏やかに水の面を動いていました。 イエスご自身、ニコデモとの神秘的な会話の中で「風は思いのままに吹く。 あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。 霊から生まれた者も皆そのとおりである。」  ( ヨハネ 3:8) と、身体に感じられる風のイメージを聖霊に用いておられます。 これは、聖典の中の聖霊の第1の働きです。 人間的、世間的な論理に矮小化することのできない、歴史の中の、神の神秘的な現存という働きです、

旧約聖書の中の霊の第2の働きは、ものごとに秩序を与える働きです。 創世記第1章の創造の物語は、この混沌の世界に霊が降ったことを示し、この降下が創造の奇跡を生み、混沌から宇宙を、無秩序から秩序を、だれも知らぬものから共同体を生みだします。 旧約聖書の中の聖霊の第3の働きは、生命の与え主としてのものです。 創世記は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。 人はこうして生きる者となった。 (もはや単なる被造物ではなく、神のイメージに造られたパートナーとなり、彼と共に、彼に向かって神は語られ、この関あなたに対する責任をゆだねられた。)」(創世記 2:7 ) と語ります。 聖霊の第4の働きは、導きです。 イザヤは、「(エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/) その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」  ( イザヤ 11:1-2)   「主を畏れ」は、「恐れる」のではなく、神の御業、神の創造の前に畏怖を感じる能力と理解できます。

 

第5の働きは、癒やしです。 エゼキエルは「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。 わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」 (エゼキエル 36:26-27 )。聖霊は、人の心に入り、造り直し、健康を回復し、罪を消し去ります。 第6の働きは、ヨエルが 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」  ( ヨエル 3:1-2) と述べる普遍的な働きです。 その日に、全ての人間性が聖霊によって備えられる時がきます。 そして、その日は、預言者が語る、待ち望まれるメシアの時と符合します。 注目すべき方法でイエスの活動と司牧を魅力的にしたのは、この原理でした。 聖霊の第7の働きは、五旬祭の日に起こります。 その時、イエスの弟子たちは「聖霊に満たされ、 が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」(使徒 2:4 )ました。 聖霊の到来は、キリスト教徒にとって、イスラエルの地理的境界を越えて、まずローマへ、そしてローマから地の果てに至るまでの、世界規模の福音宣教の使命の始まりの合図でした。 それは、聖霊に駆り立てられて人間的な障害を克服する使命(ミッション)です。


カトリック的体験:

聖霊はキリスト教徒の体験を、全ての人に対して開かれた真にカトリック的で普遍的なものにします。 カトリック信者であることは、普遍的で、世界に開かれているということです。 カナダ、北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、あるいは世界の中の身近な場所や社会の一部分だけではなく、それは、全ての人、すべての個人に開かれている筈です。 キリストの望みは、少数の限られた人々のためではなく、全世界の人々の刷新と贖いに向けられています。 しかし、それゆえに、救いの世界的な広がりは、大きな痛みと混乱なしには実現しなかったのです。 事実、新約聖書に記された全てのことは、キリスト教徒の生活の中に現れる「普遍、世界」そのものであると理解することができます。 キリスト教は、もしそれが特に定められた小さな場所(エルサレム)から出なかったならば、ユダヤ教のひとつの修正派に過ぎなかったことでしょう。 それは、エルサレム周辺に留まり、文字通りにイスラエル王国の復興を望むユダヤ教信仰の小さなグループに留まっていたことでしょう。 キリスト教徒の最初の二つの世代は、キリスト教がそこに留まらないことを覚りました。 なぜなら、彼らは普遍的な本質をもつ聖霊を受けていたからです。 聖霊を受けた非ユダヤ人との出会いを通して、聖霊が人々の目をキリスト教の真理の重要性に開いたのです。


中世の芸術家はしばしば、バベルの塔を、上の部屋(使 1:13 )の「塔」と対照させました。 (「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。 そして、全地に散らされることのないようにしよう』 と言った。 主は降って来て、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなこと (罪)をし始めたのだ。 直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』 」(創 11:1-9 )) 

バベルの塔は、罪による人間の分断を象徴します。 ペンテコステは、そのような人間の分断は、悲劇的な必然ではないとの希望を表します。 バベルの群衆の状態を、ペンテコステでの心を通わせる一致と比較することは出来ません。 バベルは群衆に過ぎませんが、ペンテコステは共同体です。 神のない民は、心を通わせる力を失いました。 霊に満たされた民は、心と心を通わせ( が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し)ました。 ペンテコステの時には、イエスのいのちとメッセージの十全な意味が、この共同体の中に生きる霊によって、わたしたちの心に注がれます。 新約聖書は、地上の諸国民がほんの束の間、日常の労苦から離れ、神が与えられる共同体を体験した、と説明しているように思われます。 ペンテコステの短く、輝やかしい時間は、今日でもわたしたちを惹きつけ、励ましてくれます。

ワールド・ユース・デイ:

最近の、聖霊についてのすばらしい教えの一つは、2008年7月にオーストラリアのシドニーで開催されたワールド・ユース・デーの前夜の祈りの時にもたらされました。 ランドウィック競馬場で、7月19日土曜の暗闇の中でヴィジルの祈りが始まり、聖霊への第一歩を表す、台上のダンサーが灯す松明の光で次第に明かりが増して行きました。 

教皇ベネディクト16世は若者たちに 「今晩、どのようにわたしたちは証し人になるかを考えましょう。」 と語りかけました。

 「あなた方、若い人々は、キリスト教の証し人が、いろいろな面で衰弱しているこの世界に捧げられることを知っています。 神の創造物(である人間)の一致は、社会関係が引き裂かれ、また人間精神が、搾取と暴力によって破壊される時にとりわけ深まる傷によって弱体化しています。 実際に、今日の社会は、本来的に短視的なものの考え方で細分化されつつあります。 なぜなら、そのような考え方は、真理の地平線の全容を、神についての真理を、そしてわたしたち(人間)についての真理を無視するからです。 その性質上、相対主義は、全体像を見ようとせず、わたしたち人間が生き、一致し、秩序と調和のうちに繁栄することを可能にする、まさにその原理を無視します。 相対主義による一致の試みは、一致を蝕みます。 聖霊を、教会の組織的構造に現存するキリストから分けようとすることは、キリスト教共同体の一致を危険にさらします。 そしてその一致はそもそも霊の賜物なのです。

……不幸にして、「(援けを得ずに)独りでやる」 誘惑は続きます。 ある人たちは、自分たちの共同体が、霊に柔軟で、開かれていると言い、厳格で霊を欠いているいわゆる制度化した教会とは違うと言います。」 

「さあ、聖霊の助けを願いましょう。 聖霊は神の御業の巧みな職人です。」 教皇は結論します。

「聖霊の賜物があなたを形成するのにゆだねましょう。 教会は全人類と共に同じ旅路を歩みます。 そこであなた方は、自分の生活がよい時にも悪い時にも聖霊の賜物を自分の生活の中で実践するように呼ばれているのです。 学び、仕事、スポーツ、音楽、芸術を通して、自分の信仰を成熟させましょう。 祈りによって支えられ、秘跡によって養われますように。 

……結局、蓄積だけが人生ではありません。 成功だけが目的ではありません。 本当に生きるということは、神のエネルギーの中で変容させされ、それに開かれることです。 聖霊の力を受け容れれば、あなたも、自分の家族を、共同体を、そして国を変えることができます。 聖霊の賜物を解き放ちましょう。 智恵、勇気、畏敬、崇敬を“偉大さ”のしるしとしましょう。」

 

聖霊来てください!

福音はこう告げます。 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、

あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 (ヨハネ 14:26 ) この、「思い起こし」については、カトリック教会のカテキズムの中に明瞭に記されています。  [No. 1099] 「聖霊は教会の生ける記憶である。」  

 

教会の誕生の祝日に当たって、記憶の賜物を祈りましょう。 力を与える「上の部屋(高間)」の神秘から、日々の生活の現実へと身を移す勇気を求めて祈りましょう。

聖霊、来てください。信者の心を満たしてください。 

あなたの愛の火をわたしたちに内に燃やしてください。 

主よ、あなたの霊を送ってください。 

そして、地の表を新たにしてください。 

わたしたちの教会の、共同体の、わたし自身の顔とわたしたち自身の心を新たにしてください。

アーメン

 

 

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Set Free the Gifts of the Spirit

Biblical Reflection for Solemnity of Pentecost By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, Canada, MAY 27, 2009 ( Zenit.org ).- Christian theology of the Holy Spirit is rooted in Judaism. The term Spirit translates the Hebrew word (ruah) and even in the pronunciation of it we detect God's wind and breath. The wind of God, the breath of God, the presence of God are all ways of referring to God's presence. The expression "Holy Spirit" was used only seven times in the Old Testament, whereas the terms "Spirit of God" or "Spirit of the Lord" occurs 67 times in the Hebrew Scriptures. In the very first line of the book of Genesis 1:1, God's Spirit was gently hovering over the primordial waters waiting for the opportune moment of drawing order from that chaos. Jesus, himself, uses the sensory image of the wind in the mysterious, nocturnal conversation with Nicodemus when he talks about the Spirit as the wind that blows where it wills [cf. John 3]. This, then, is the Spirit's first function in the Scriptures: to be the mysterious presence of God in history, not reducible to human or earthly logic.

The second function of the Spirit in the Old Testament is that of putting things in order. The Genesis creation account [Chapter 1] reveals a descending Spirit upon this formless world and its descent produces the miracle of creation, the transformation of chaos into cosmos, of disorder into order, of anonymity into community. The third function of the Spirit in the Old Testament is life-giver.

In Genesis 2:7, we read: "The Lord God formed man from the dust of the ground and breathed into his nostrils the Spirit, the breath of life and man became a living being. As a result of this divine breath, the human creature is transformed into a living being, no longer to be simply a creature but a partner made in the image and likeness of God, with whom and to whom God speaks and confides responsibility for the world." The fourth function of the Holy Spirit is guide. We read in Isaiah 11: "The Spirit of the Lord shall rest upon him, the spirit of wisdom and understanding, the spirit of counsel and might, the spirit of knowledge and fear of the Lord." The fear of the Lord is not something that terrorizes people but could be understood as our ability to say "wow," "awesome" before God's handiwork and God's creation.

 

The fifth function of the Spirit is healer, articulated so powerfully in the prophecy of Ezekiel 36:26-27 -- "I will give you a new heart and place a new spirit within you, I will put my spirit within you and make you live by my statutes, careful to observe my decrees." The Spirit enters, recreates, restores to health and vanquishes sin. The sixth function of the Holy Spirit is the universal principle. We read in Joel 3:1-2: "I will pour out my spirit on all flesh, your sons and your daughters shall prophecy, even upon the men-servants and the maid-servants, in those days I will pour out my spirit." The day will come when all humanity will be truly possessed by the spirit and that day will coincide with the eagerly awaited Messianic age of which the prophets speak. It was this principle that captivated Jesus' activity and ministry in a remarkable way. The seventh function of the Holy Spirit takes place on the feast of Pentecost when the disciples were all filled with the Holy Spirit and began to speak in other tongues as the Spirit gave them utterance. The coming of the Holy Spirit signals the start of a world-wide mission for Christians beyond their geographic boundaries of Israel, first from Israel to Rome, and then from Rome then to the ends of the earth. It is a mission that overcomes human obstacles and has the Spirit as its driving force.

 

The Catholic Experience

The Holy Spirit makes the Christian experience truly Catholic and universal, open to all human experience. To be Catholic is to be universal and open to the world. Not only to Canada, North America, Europe or Asia, or a certain familiar part of the world or segment of society, but it must be open to all, to every single person. The mind of Christ is not intended to be a selective mentality for a few but the perspective from which the whole world will be renewed and redeemed. An insight like this, the universal scope of salvation did not however come easily and without much pain and confusion. In fact, the whole of the New Testament can be understood precisely as the emergence of the Catholic, the universal, in Christian life. Christianity had it not moved from where it was particular and small would have just been a small modification of the Jewish experience, a subset of Jewish piety that was still focused in and around Jerusalem and the restoration of a literal kingdom of Israel. The first two generations of Christians discovered that Christianity could not be just that. Because they had received the Holy Spirit, which is the universal principle, the Holy Spirit opened peoples' eyes to the universal import of the Christian truth and through the encounter with non-Jews who received the Holy Spirit.

 

The artists of the Middle Ages often contrasted the Tower of Babel with the "Tower" of the Upper Room. Babel symbolizes the divisions of people caused by sin. Pentecost stands for a hope that such separations are not a tragic necessity. The babbling mob of Babel compares poorly with the heartfelt unity of the Pentecost crowd. Babel was a mob. Pentecost was a community. A people without God lost the ability to communicate. A people suffused with the Spirit spoke heart to heart. At Pentecost the full meaning of Jesus'life and message is poured into our hearts by the Spirit alive in the community. The New Testament seems to say that - for a fleeting moment - the nations of the earth paused from their customary strife and experienced a community caused by God. The brief and shining hour of Pentecost remains to charm and encourage us to this day.

 

World Youth Day
One of the finest teachings on the Holy Spirit in recent times took place last July during the great vigil at World Youth Day 2008 in Sydney, Australia. [] The Saturday evening prayer vigil at the Randwick Racecourse on July 19 began in darkness, gradually illuminated by torches borne by dancers on the podium, representing the opening to the Holy Spirit.

"Tonight we focus our attention on how to become witnesses," Benedict XVI told the young people in his address.

"You are already well aware that our Christian witness is offered to a world which in many ways is fragile. The unity of God's creation is weakened by wounds that run particularly deep when social relations break apart, or when the human spirit is all but crushed through the exploitation and abuse of persons. Indeed, society today is being fragmented by a way of thinking that is inherently shortsighted, because it disregards the full horizon of truth, the truth about God and about us. By its nature, relativism fails to see the whole picture. It ignores the very principles which enable us to live and flourish in unity, order and harmony". Yet, the Pope went on, "such attempts to construct unity in fact undermine it.

To separate the Holy Spirit from Christ present in the Church's institutional structure would compromise the unity of the Christian community, which is precisely the Spirit's gift! [...] Unfortunately the temptation to 'go it alone' persists. Some today portray their local community as somehow separate from the so-called institutional Church, by speaking of the former as flexible and open to the Spirit and the latter as rigid and devoid of the Spirit."

"Let us invoke the Holy Spirit: He is the artisan of God's works," the Pope concluded. "Let His gifts shape you! Just as the Church travels the same journey with all humanity, so too you are called to exercise the Spirit's gifts amidst the ups and downs of your daily life. Let your faith mature through your studies, work, sport, music and art. Let it be sustained by prayer and nurtured by the Sacraments. [...] In the end, life is not about accumulation. It is much more than success. To be truly alive is to be transformed from within, open to the energy of God's love. In accepting the power of the Holy Spirit you too can transform your families, communities and nations.

Set free the gifts! Let wisdom, courage, awe and reverence be the marks of greatness!"

Come Holy Spirit!
We read in the gospels "the one whom the Father will send will teach us everything and remind us of all that Jesus has said to us" [John 14:26]. This act of reminding and recalling is stated very clearly in the Catechism of The Catholic Church, [No. 1099]
"The Holy Spirit is the Church's living memory." 

On this great feast and birth of the Church, let us pray for the gift of memory, and for the courage to move from the empowering mystery of the Upper Room to the reality of daily life.
Come Holy Spirit, fill the hearts of your faithful
And kindle in us the fire of your Love!
Lord, send us your Spirit,
And renew the face of the earth...
The face of our Church, the face of our communities,
Our own faces, our own hearts. Amen.

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朗読

 

使徒 2:1-11 : 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 

ガラテヤ 5:16-25 : わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 

ヨハネ 20:15:26-27; 16:12-15 : わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

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