2009 年度 第 1 回「学び合いの会」例会記録

2009 4 18 日(土) 13 30-16 00  真生会館

 

参加者:   29

 

年間テーマ:  「対話の教会 −現代社会を変えられるか−」

 

本日のテーマ:  「信教の自由と対話の可能性」

―生き方の違う人々との対話―

 

<例会の進行 >

 

1) 本日のテーマ説明

2) 発題  3

3) グループ分かち合い

4) 全体会 意見交換

5) マシア師コメント

6) 連絡事項、解散       

 

◇◇◇

<テーマ説明>  

 

 学び合いの会は、今年で 7 年目になります。 これからも永く続くことを願って皆さんの協力をお願いします。

 今年のテーマは 1 月の合宿テーマ「教会は現代社会と対話できるか」で話し合われた対話への理解の重要さを意識して、学びを続ける意向から決められました。

 「対話の教会」というテーマには、教会内部に目を向けた時は教義主義、管理主義的体質を脱皮して大人の教会となることを、対社会、教会外部の人々とは、謙虚な、そして責任ある姿勢で対話し、共に豊かになることを目指す力強い信頼される教会、そんな意味があると考えられ、現代にふさわしい良いテーマが用意されたと思っています。

 信徒と呼ばれる我々が大人の集団として成長するために、学び合いの会という場が大きな力となることを信じ願っています。

(当日十分言えなかった部分を書き加えて記録します。  )

 

 
◇◇◇

<発題 1 > 信教の自由と対話の可能性 

 今年私達は「対話の教会」というメインテーマを学ぶことになりましたが、“対話”ということは、古くて新しいものとして、色々なことを思い起こさせます。半世紀位前から盛んに聞かれるようになったと思いますが、私自身漠然と対話ということをイメージし、それに向き合ってきた様に思います。

 

 現代に於いて国際社会、政治、経済、外交、社会問題、情報関係等あらゆることがグローバル化し、それだけに遠くて近い関係で対話も出来やすい面もあり、問題解決の手段と考えられている様に思います。しかし、本来人間は人との対話によって活き活きと自分を啓発し、人と共に補い合いながら生き成長していくものではないでしょうか。

 

 諸宗教間の対話を考えてみると、それは仲々うまく出来ていなかったと思いますが、第 2 バチカン公会議の影響もありキリスト者の間で活発な対話が見られるようになったと思います。確かに、今日キリスト者は、相互に他の宗教を信じる人に対しても、無信仰の人に対しても活発な対話が行われる様になったと思います。

 

1969 年に P. ネメシェギ神父様が執筆されたものの中に「人は・・自分を支える根を失うことなしに、この対話に心を開くにはどうしたらよいのであろうか」と云われています。これは示唆に富んだヒントだと思います。

 

 私自身を振り返ってみますと、色々な場面で人と向き合う時、自分の考えや思い、そして価値観があり、それが余りに強すぎると相手の心や話の意味を理解することは出来なくなり、真の意味での対話は、成立ちにくい様に思います。自分を失うことなしに平坦に話し合うことの難しさを感じます。

 

 対話するということは、相手に“関心を持つこと”そして話し合う中で“信頼関係を育て”対話しやすくすることだと思います。対話は、ただ互いにしゃべっている時だけでなく、黙っている時も続いているものだと思います。

 

 ここで、私達の教会での対話の場についてお話してみます。月 1 回ですが、日曜日のミサ後、教会に初めて来られた方、久しぶりに来られた方、お話しする人がいない方、誰かとお話したいと思っている方(プロテスタントの方や未洗者の方もおられました)の為の居場所として1時間半位集まっています。集まる方は、 10 〜15名くらいで、その度に自由に出入があります。その日のみことばを分かち合ってから誰からともなく話が始ります。それは、楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいことなど体験や思いが語られます。皆でそれを静かに聞いていますと、しばらくして、それに呼応する様に、“私もそうよ”、“私も同じ体験したわ”、“その時こんな風に考えたわ”、など共感の言葉が出てきます。その時の雰囲気は、その吐露された方の話を理解しようと向き合い静かに待ちながら聴くという姿勢が感じられます。その様な場を望まれる方が再度参加され対話を繰り返されていかれます。

 

 私達は、教会の中であるいは、その他の場で出会った人々に対して心を開きながら、その人の良い所に関心を持ちながら受け入れ対話をしていけたら良いと思います。生き方の違う人々との対話は、とても大切なことですが難しいと感じています。その為に私達は、自分の思いではなく、キリストの思いをしっかりと根に持っていることが必要だと思います。


 

<発題 2 > 信教の自由と対話の可能性 

 

 現代の混沌とした社会の中で、「生き方の違う人々」へ対話を通して福音を伝え、問題を解決出来るだろうか?

この問いに対し、答えを先に述べるなら、単に話だけを以て問題を解決する事は不可能だが、話している事の裏付けとなる行為を通して気持ちの通じ合いがあれば、理解が伴ってくると考えています。私のつたない経験を通して感じ、今日までこの問題について考えて来た事を少し話させて頂きます。

 

•  対話のすれ違い:
•   同じ言語で同じ単語を使って居ても、人によって言葉に対する概念が異なる為、同じ事を話しあっているつもりが、全く異なるイメージで受け取って居ることは多々存在します。日本の国でよく起こる「総論賛成、各論反対」等はこれに該当する場合が多いと思われます。議論を詰めるところまで詰めず、自分固有の解釈と他人の解釈も同じと決め込み結論付けるのですから、いざ実行となった時、「思惑と違う」と意見がばらばらになり、実行不可能になる構図です。意図的にテクニックとして使われることもあると思います。
•   左脳人間と右脳人間の間にも、語れば語るほど理解しがたい状況に陥っていく現実があります。自分のことで恐縮ですが、右脳人間の私が物事を説明するとき、しばしば通訳を必要とする事があります。
 私の場合、先ず自分の経験した事からその本質をキャッチします。論理的に考えて到達したわけではないので、どのように人に説明してよいか分からないのです。簡単に言えば、「直感」で理解しています。その 情景 を分析しその仕組みを説明し、結論へ導こうとする。帰納的に物事を説明する事になります。演繹的に思考する人から見れば、「全く逆方向から話されるので理解出来ない」のが実状らしいと、大分年を取ってから分かる様になりました。蛇足ですが、其れまでは自分が人とサイクルの違う人間だと思っていました。

 

2.対話と行動を通してのコミュニケイション

機能的現象からに考えても双方の質的違いの為に理解出来ないのですから、人種・言語・習慣・宗教 etc. の違いが加われば混沌として来るのは当然の事でしょう。

 外国に暮らした事のない私は、他国でどのような営みが行われているか知りませんし、国内においてもごく狭い範囲の社会に生きています。私にとって、家族を除き、一番身近な社会は教会なので、ここで見聞きした事からお話したいと思います。

教会では同じ信仰を持ちながらも、十人居れば十色の在り方が存在します。この中でお互いを認め合い理解する事の難しさは、乱暴な言い方かもしれませんが、「生き方の違う人々との対話」と余り大きな違いはないと私には思われます。もしかしたら、「生き方の違う人々」との対話の方が、むしろやり易い場合も有るのではないかとさえ考えます。

 私の所属する町田教会に、数名の信者でない人たちが来て居られます。彼等は、ウェルカムテーブル(始めて教会に来た人・話し合う人が居ない人等を対象にした信徒ホールのテーブル)でミサ終了後、一番最後まで残って話し続けています。たまたま、この中の一人がクリスマスの夜のミサに初めて参加し、信徒ホールで話していた私たちの中に、「入ってもいいですか」と近づいてこられた関係から、主任司祭のアドバイスも有って、私はつかず離れずの状態で見ていました。

 

 彼は持病の為 ( 鬱病ではないかと推察する ) 、会社を止め自営の仕事をして居り、プロテスタントの教会へ行ったが構われ過ぎ、負担になってカトリックの教会へ来たとの事でした。「自分に合わなければ、来るのを止める。来ているから合っているのでしょう」と言っています。ある日曜、主任司祭が、彼が聖体拝領の行列に並んで来た折、「洗礼を受けていない人は聖体拝領はできない」と告げた時の反応で、「もう来ないかもしれない」と言われました。二週間ほど姿が見えないので「もう駄目か」と思いましたが、ご復活祭のミサに彼が現れました。話の中で、忙しい時もあり毎週は無理だが落ち着いたら勉強をして洗礼も受けたい」と言っていました。今のところ、ウェルカムテーブルで自由に自分を出し、又、受け容れられていると感じていられるのでしょう。まだ結果は分かりませんが、これからの教会は求めてくる人誰にでも居場所を提供出来る存在にならねばという事を教えられました。

 

人は皆、一人では生きていけません。自分を受け入れてくれる居場所を求めています。現代社会では、特に若い人達の中で、他人に迷惑をかけるのを恐れ、又自分も嫌な思いをするのを恐れ、人との交わりを深く持たないようです。結果として、以前存在した「おせっかいな人」が居なくなり、人との交わりが失せ、今日の社会を落ち着きのない、いらついたものにしてしまったと考えられます。人を大切にし、在りのままの状態で受け入れ、関わって行くこと。其れを実行するのは大変難しい事ですが、今、人々が無意識の内に求めているものだと思います。彼も自分の居場所を求めて町田教会へ来たのでしょう。

 

3.結論

信仰と生活は切り離して考えられるものではなく、自分の生き様の基です。平たく言えば、人との関わりの中で「お早う、ありがとう、ごめんなさい」等の言葉が素直に出て来る在りようが、生きた「信仰の中にある生活」と言えるのではないでしょうか。このような生き様に軸足を置き、相手をそのままの形で理解しようと「生き方の違った人々」と対話する時、人は真摯に相手を受け入れ、又受け容れられるようになるのだと思います。

キリストが「第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ。・・・・第二の掟もこれに似ている。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:37・39)と言われた事を思い起こし、キリスト者が、「日常の生活の中で、失敗を続けながらも努力しようとつとめる」裏打ちがある時に、「生き方の違う人」との対話が成り立って行くと、私は信じております。

 

 

 


<発題 3 > 対話の成立と豊かな実り

 

 本日の第 1 回の例会のテーマは「信教の自由と対話の可能性」ということですが、人皆考え方、生き方が違う中で、対話はどう成立し何を生み出すかと問われていると解釈しました。

 

 創価学会の友人がいます。彼は隣町の町会長で、キリスト者の私と榊神社の祭りの総代として協力します。彼に、創価学会が対話という言葉をよく使うようになったがどういう意味だと聞きました。彼はすぐに折伏の反省から対話に移行したと答えました。それは私にとっては教えに従うのみの信仰から、自らもよく考え相手をも尊重する対話を通して得られるより豊かな信仰に移行しなければいけないということになります。彼とは豊かな対話が出来ると感じています。

 

 本田哲郎師の著書の中で気づいたことですが、パウロは「乳飲み児」の状態を卒業して成熟した普通の大人になって欲しいと訴えているのだと解説して、次のようなパウロのことばをあげています。

「固い食物は善悪を見分ける感覚を、経験によって訓練された一人前の大人のためのものです。」「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」(ヘブライ)

「知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようにと祈る」(フィリピ)

パウロはすでに大人のキリスト者になることを強くすすめていることを再確認しました。大人であることは対話の基礎となる資質だと思います。

 

「対話」と題する本で、ネメシェギ師が序文で次のように書いているということを知りました。

「対話の必要性が強調され、対話の価値が高く評価されている。それはまさに人類社会の進歩における新しい、より高い段階の到来を意味している。」「キリスト者は完全に対話する技術を体得するに到るまで、まだ多くの努力を重ねなければならない。」

 

学び合いの会の有志が訳して今年出版された、ベルンハルト・ヘーリンク著「教会への私の希望」という本を読んで、私が日頃考える不充分さを言いあてている文がいくつも目につきました。今回は次の 5 つの点をひろい出して、私が気になっていたことをヘーリンク師の文を借りて申し述べます。

 

•  対話の場
「教会がすべてのレベルにおいて透明性のモデルとなり、だれからも干渉されない対話の場として認められることです。」
•  良心と誠実の尊さ
「世俗社会に対する責任の倫理と、教会の中の無批判な従順の倫理とは両立できないのです。教会は良心と真の誠実の尊さを認識しなければなりません。」
「かつて愚かな信徒たちと呼ばれた眠れる巨人は今、神の民として目覚めたのです。」
•  誠実な疑問に対して
    「生活のすべての重要な領域で生じる誠実な疑問に対して忍耐強い対応が必要です。健全な疑問は真理への愛とより豊かな知識を求める努力の現われなのです。」
 4) 不安と罪悪恐怖症
「宗教は強く平和を唱えます。しかし宗教は不安と罪悪恐怖症の感情をかきたてることが多く、それゆえに平和と和解への重要な責任を果たせなくなっています。」
 
•  本物の責任の倫理
    「本物の責任の倫理は従順を喜んで受け入れ、それを清め、高貴なものとします。これは特に信仰の従順にあてはまります。すなわち神のことばへの真摯な注目、時のしるしに耳を傾け、それを探し求める集団の努力です。責任の倫理は互いに謙遜な心で聴き合う関係の中で形作られ示されます。」
 
  これらの文章は学び合いの会の存在意義をも説明していると思います。

 

 

 

◇◇◇

 

 

<全体会>(抄録) 

 

□ 発題では、信教の自由についてふれられていなかったので、発展がなかった。

   大筋としては、対話についての基本的な話に終始した印象。

 

□ 「対話」のやり方論にとどまらずに、テーマに沿って内容を一歩先に進める必要がある。

 

□ 創価学会のやり方 ( 地域での活動 ) に共感できるところがある。それに対してカトリックは受け入れていく姿勢を大切にしていく必要がある。
 

□ 対話を妨げるものはなにか。

   相手を同化したい、支配したい、説得したいという気持ち

   自分が気付かないうちに言葉として出ていくものがさまたげの原因になることがある。
それを防ぐために、自分の心の中を見直す必要がある。
 

□ 「生き方の違う人々」とは?

   生き方はみなちがうのではないか。

 

□ 相手を幸せにしたいという気持ちを持つともっと対話が成り立つ。

 

□ 6カ国協議を見ても、考え方、価値観の違う国同士の対話が難しいことがわかった。

 

 

 

◇◇◇

 


<第 1 回例会へのコメント>

 

対話の基本的な姿勢における五つの姿勢        J. マシア

二人の人間や二つの文化または二つの異なった宗教などの間に対話や出会いが起こるときには、それは決して二つの容器があって、その中身の一方を他方に移すようなことではありません。 真の対話や真の出会いの場合には、両者の変革や変容が行われると同時に新しいものが生み出されるのである。 言い換えれば、対話するものたちが対話する以前に持ち合わせていなかった何者かが対話の成果として生まれるのです。 しかしそのためには、様々な条件がある。 以下にそれをいつつの段階に分けて挙げておこう。

 

A) 接点を見出す収斂法

 

第一歩として挙げられるのは、接点を見つけることです。 接点がなければ何も始まらないわけです。 いくら自分と違う相手ではあっても、どこかで相通ずるところがあることを期待しながら、双方がそれを探してみることが必要です。

しかし、共通なところしか強調しなければ、話が通じているように思えても、自己変革も新しい創造も行われないのです。

 

B) 違いを認め合う対決法

 

違うところをぶつけ合うことばかりすれば、喧嘩に終わってしまうことにもなりかねないのですが、健全な対決もあると思います。 つまり、違うところを認め合うことによって両者とも相手から学ぶことができるようになるということです。 そしてそこから、両者の自己変革と新しい創造が可能となります。

 

C) 過去を振り返る自己反省法

 

対話や出会いはゼロから始まる訳ではありません。 対話をする両者とも、それなりの過去を背負っています。 環境、成育、歩んできた道などによって、私たちは皆規定されています。 中立な視点に立とうとしてもなかなか出来るものではないのですが、自分が立っている立場について意識的に反省すれば、それが自分の立場の制約を乗り越えるための第一歩となりうるのです。 相手も同じく自分の立場の限界を認めれば、両者とも自分の過去の束縛から解放され始めます。 このことは個人についてだけではなく、国についても言えます。 第二次世界大戦後のドイツにおいて、国を戦争に導いたいきさつについて反省が行われました。 日本の戦後には、どの程度戦争前の状況について徹底した反省が行われたか私には分からないのですが、どの国でも過去を振り返って、その教訓から学ぶと同時に過去の後遺症から解放される必要性があります。

 

D) 橋渡しをする解釈法

 

前述した三つの段階を踏まえた上で、橋渡しをすることが可能になり始めます。哲学者ガダマーに言わせれば、対話者の双方の地平が融合するのです。 そしてまた新しい創造が可能となり、前述した対話者が対話する以前には持ち合わせていなかった何ものかが、その対話の結果として生み出されます。

E) 生命観を深める瞑想法

 

前述した四つの段階をキーワードでまとめれば次のようにまとめられる。  A は個と個の間の共通性、Bは個と個の相違性、Cは個の時空的制約の自覚、Dは個と個の地平融合と言えましょう。

 

この四つの段階を妨げるのは、個の自己閉鎖である。

 

しかし個から出るということは個を否定することではないのです。 むしろ個を拡大し、個に徹して普遍に至るという五番目の段階を付け加えたい。 それは時空的な制約、および文化と時代の違いを超えたかたちで生の深みの次元に身を置いて、初めて発見されるものではないでしょうか。

 

 

                                             <以 上>

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