jewishjournal.com April 27, 2009
この善良な医者
ロブ・エシュマン
1 月 16 日金曜のイスラエルのガザへの軍事攻撃で重傷を負った娘シャタのそばに立つ医師イゼルディン・アブライシュ。 この写真は、シャタが運び込まれたイスラエルのチャイム・シェバ医療センターで撮影されたもの。
わたしロブ・エシュマンが、初めてアブライシュ医師の名を知ったときには、すでに誰もが彼のことを知っていた。過日の戦いの最中のこと、彼がイスラエル・テレビのヘブライ語によるインタビューを受け、ガザ地域内の状況を説明していたそのとき、イスラエルの戦車の砲弾が彼の家に命中して彼の3人の娘が死んだというニュースが飛び込んできたのだ。
それは、2009年1月16日午後3時5分のことだった。
彼が受けたショックと底知れぬ悲嘆は、直ちにウェブサイトに公表され、ニュースは世界中に広がった。アブライシュ医師は、他の誰よりも第二次ガザ戦争を象徴する存在となった。
先週( 4 月 19 日の週)、アブライシュ医師とわたしは(ロスアンゼルス市西の)カルバー・シティで朝食を共にしていた。誰もが彼の顔を見慣れている状況の中で、彼が私に語ったことは、そのような悲劇を経験した人からは想像もつかない言葉だった。
「パレスチナ人とユダヤ人は、共存して生きるようにと(神に)創造されたのです。そしてどちらの側も、他方の権利を否定できないのです。」と彼は語った。
意外? その通りだ。この医師はいま世界に出かけて、「和解」のメッセージを告げて回っているのだ。彼は、アラビア語で、英語で、そしてヘブライ語で聴衆に語りかける。彼はあの日に何が起こったのかを順序立てて話し、聴衆の一人ひとりに向かって、「ガザであろうが、グラナダ・ヒルズであろうが、わたしの願いは、わたしが受けた悲劇を通して叶えられることになるでしょう。」と語りかける。
「この出来事で世界の目が開かれるようにと願っています。わたしたちはどこへ向かい、何をしようとしているのか? その先には新しい時代が待っている筈です。一方的に自分の立場だけを信じるのではなく、敬意を以ってお互いのことを考える新しいチャンスです。真理は、片方だけにあるものではありません。とりわけ、両方が互いの「言い分」(物語)を尊重することを求めたいのです。」
わたしは、一緒に居る時間の多くを割いて、ドクターの個人的な物語を話してもらいたいと頼んだ。正直に言ってわたしには、このような苦しみの最中に、どうしてそのような考え方に到達出来たのか理解できなかったからだ。なぜ、このような人が存在するのだろうか?
ドクターは話してくれた。彼は、ガザのジャバリヤ避難民キャンプで生まれた。 彼の家族は数代にわたって、スデロット市に近いドロト・キブツ(イスラエルの集団農場)の周辺の広大な農場を経営してきた。スデロットは、ハマスの執拗な攻撃がガザ戦争を挑発することになった都市である。「わたしの祖父母は、シャロン元首相の亡妻リリーの墓のそばに埋葬されています。ドロト・キブツの人たちに聞いてご覧なさい、わたしたちアブライシュ家族のことはよく知っていますよ。」 (*アリエル・シャロンは、イスラエルの将軍、 2001 年 3 月〜 2006 年 4 月の間首相。)
1948 年の独立戦争の間、アブライシュの家族はガザを離れた。「わたしたちは国外追放されたのです。その時は、短くて2〜3日、長くても2ヶ月くらいのことだろうと思っていたのです。」 彼の説明は、ユダヤとアラブの立場に配慮しながらも、わたしがどう受け取るかはご自由に、という感じだった。わたしは、ドクターに、イスラエルのユダヤ人との最初に出会いについて尋ねた。
「14歳になるまで、わたしは兵士と、車に乗った観光客しか目にしませんでした。」と彼は言う。6日戦争の後、キャンプの一部をタンクが囲み、兵士が『住民は家から出て、全員広場に集まるように』と命じた光景を覚えているという。「それは世の終わりのようでした。 わたしたち全員を殺そうとしている、と思いました。」兵士たちは、夜間外出禁止令を発し、その結果、家族の収入は激減した。アブライシュ少年は学校に行けなくなり、アイスクリームとナッツを売る商売を始めた。
1970年の夏、14歳のアブライシュ少年は、イスラエル地域内で働く叔父のところに行った。 アシュケロンの近くのモシャヴ・ホダヤに居るイェメニテの家族のための雑事をした。そこでは、ユダヤ人の子供たちが遊びまわり、海に出かけて夏を楽しむのを見た 彼は、鵞鳥の世話をした。 (*モシャヴ: イスラエルの自営小農家の集まる共同農場)
「その家族は、わたしによくしてくれました。しかし、(彼らの目からは)わたしは働くのが当然のパレスチナ人の少年でした。わたしは故郷ガザのドロト・キブツに帰る日を指折り数えたのです。」
キブツに戻ってからのある夜、イスラエル人が、彼の家族に、6時間以内に家を空けるようにと告げた。タンクの作戦活動を容易にするよう、整地のため家を取壊すというのだ。 朝8時には、彼の家は取壊された。アブライシュ少年ら兄弟姉妹8人と父母は、叔父の家の一室に住むことになり、そこで6ヶ月間暮した。「それは、わたしにとって最初の悲劇でした。 わたしは強制的にホームレスになったのです。だからわたしは、だれもホームレスになってほしくないのです。」 と彼は言う。
その後、アブライシュ少年は学校に戻り、優秀な成績で、エジプトのカイロ大学の医学部に進んだ。その後アメリカのハーバード大学医学部を卒業。産科医・婦人科医となり、イスラエル各地の病院でアラブ人、ユダヤ人の患者を診察した。
彼は、苦痛や病気は宗教や人種や歴史に限定されず、どこにでも、だれにでもあることを見た。 病気は病気なのだ。彼は、自分が癒しの世界に引入れられたと信じている。「一人ひとりのいのちは計り知れないほど貴重です。…それは非常に壊れやすいものです。」と彼は言う。
娘たちの死のかなり前から、彼はイスラエルとパレスチナの間の尊敬と平等のキャンペーンをライフワークにしていた。彼は、同僚のユダヤ人医師たちとの間にすばらしい関係を育ててきた。ドクター・アブライシュは、イスラエルのメディアにもよく知られる人物となり、イスラエルのメディアは、彼に、ガザ地域内の状況報告を依頼するようになった。彼は、少年時代に働いたモシャヴのイェメニテ家を再訪することさえした。「1994年にその家を訪ねると、わたしが働いていた当時、1970年に生まれた娘さんが戸口に出てきました。彼女は、パレスチナ人のビジネスマンが来たと思ったようでした。彼女は父親を呼びました。わたしは言いました。『覚えていますか? イゼルディーンです。農場で働いていた手伝いの子どもです。』 わたしたちは、長い間会っていなかった本当の兄弟のように抱き合いました。」
事件の日の午後、イスラエル戦車の砲弾がジャバライヤの家に命中したとき、ドクター・アブライシュの二人の娘は家で宿題をしていた。彼女らはもう一人の少女や従妹と一緒に殺された。
彼の生い立ちの背景を知った後でさえ、わたしには、どうして彼があのように憎しみを表わさずに居られるのか分からなかった。他者への共感や、和解の気持ちにも限度があると思ったのだ。
「娘たちは死にました。もはや取戻すことは出来ません。しかし、生き残っている人たちを考えてご覧なさい。わたしは信じるのです。神はお取りになりますが、何か別のものをお与えになると。わたしに娘たちを下さったのは誰か? それは神です。それはトラスト(委託)なのです。その神が、娘たちを返すようにと言われたのです。」
「復讐を望まないのですか?」 わたしは尋ねた。所詮、目の前にいるのは、何千年もかけて復讐の輪を作り上げてきた地域の人間なのだ。
「復讐を望まないのですか?」「だれに対して? だれがわたしの娘たちを殺したのですか?」 彼は言い、わたしの答えを待った。
「イスラエル人」
「イスラエル人とはだれのことです?」と彼は問い返した。「それはだれのことですか?」
そこで、わたしはようやく悟った。彼は一緒に働くイスラエル人の医師や看護師を殺したいと思うだろうか? 自分がとりあげたイスラエル人の赤ん坊たちを? 彼を抱きしめたモシャヴの農夫を? 殺したいと思うだろうか?
彼は言う。「わたしがイスラエル人全員に復讐しても、わたしの娘たちは帰ってくると思いますか? それは彼らに罪を重ねさせることになりませんか? わたしは人々が、失敗に対しては失敗を以って対処すべきではないことを学んでほしいのです。」
それから、彼はわたしの次の質問を予測して言った。
「わたしの家を砲撃したイスラエルの兵士について…わたしには分かります。わたしたち皆をひとつにするシステムが分かるのです。わたしは、その兵士の良心を信じます。彼はすでに自分自身を罰しています。彼は「自分は何をやってしまったのか?」と自問しています。たとえ今、そう考えなくとも、明日、彼は父親となるでしょう。そのとき彼は苦しむでしょう。」
苦しむパレスチナを支援しイスラエルを非難するウェブサイトが沢山ある。それらのサイトではドクター・アブライシュのことは娘の爆死以外触れようとしない。
例えば、 electronicintifada.com (電子聖戦蜂起サイト)では、彼の悲劇に先立つ3年前に書かれたスト−リーが唯一の記事だ。
ドクターが語るのは、憎悪の主張でも、犠牲者の言葉でもない。彼の立場は明らかである。
互いに相手の言うことに耳を傾けよう、互いを尊重しよう、互いを救い合おう、ということだ。
「われわれは、この問題を政府に解決してもらおうとは望みません。そこにイスラエルの人々が居り、パレスチナの人たちが居ます。彼らが変化を作り出します。指導者が変わり、政府が変わります。」
いまではノーベル賞にノミネートされるようになったドクターは、アラブ世界の女性のキャリア選択を支援する基金を募集している。(彼は、 APN :「今平和を求めるアメリカ人」 * の支援を得て、ロスアンゼルスで講演した。) 亡くなった彼の長女は、ガザのイスラム大学で英語の学士号を得て卒業する直前だった。次女は外科医、三女はジャーナリストを志望していた。ドクターは、基金の名前を決めていないが、「三姉妹基金」と呼びたいと思っている、と言った。
「わたしは、自分の力が神から来るものと考えなければなりません。」彼は顔を赤らめながら語り、ナフキンをとりあげて、そっと目の端を拭いた。そして言った。「なぜ自分が、そして自分の娘たちが選ばれたのか? わたしは、神が何か善いもののためにわたしをお選びになったと全面的に信じます。娘たちの死には目的があるのです。」 了
◇ ◇ ◇
* Americans for Peace Now (APN) は、イスラエル在の Shalom Achshav ( Peace Now : 今、平和を ) の米国での対応団体で、アラブ諸国およびパレスチナとの平和を達成するためイスラエルを支援して働く米国内組織。 APN はイスラエルの安全保障と民主主義特性は、同国がパレスチナを含むアラブ隣国との抗争状態を続ける限り、維持できなくなると信じる。ホワイト・ハウス、国務省、議会における制作立案者に直接働きかけ、 APN は平和プロセスを進める米国の諸政策のさらなる促進を計る、としている。
なお、イスラエルの最大有力ロビー団体は AIPAC(America's Pro-Israel Lobby) であり、最近、リベラル系ユダヤ・ロビー ”J Street” が2008年に設立され影響力を増していると伝えられる。
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なお、 1 月 16 日の砲撃直後のアブライシュ医師を伝えるニュース映像を TouTube で見ることができます。インターネットをご覧になれる方は、下記のテキストで検索してみてください。
World Gazan Doctor Loses His Family -- NYTimes_com_Video
jewishjournal.com April 27, 2009
The Good Doctor By Rob Eshman
I first heard about Dr. Izzeldin Abuelaish when everyone else did. As he was being interviewed live, in Hebrew, on Israeli television describing the conditions inside Gaza in the midst of the last war, the news came in that an Israeli tank shell had landed on his home and killed his three daughters. It happened at 3:05 p.m. on Jan. 16, 2009.
Within minutes the record of the doctor's public shock and bottomless anguish appeared on Web sites and news feeds around the world. More than any other single image, Abuelaish was the face of the second Gaza War.
Last week I met Abuelaish for breakfast at a cafe in Culver City . If his face is familiar to all, his message is perhaps the last one you'd expect from a man who has suffered as he has. “Palestinians and Jews were created to live together,“ he told me. “And no one can deny the other one's rights.”
What? That's right, the doctor is traveling the world spreading a message of reconciliation. He speaks to audiences in Arabic, in English and in Hebrew (see full story here). He recounts what happened that day, and he tells each audience, whether in Gaza or Granada Hills, what he hopes will come out of his tragedy.
“I hope it opened the eyes of the world,“ he told me. “Where are we going? What are we doing? There must be a new era. A new opportunity to think of each other with respect, and not believe in just one side. The truth is not owned by just one side. Most of all I want both sides to respect each others' story.“
For much of our time together, I asked the doctor to tell me his own personal story. I frankly didn't understand how, in the midst of such pain, he could reach such conclusions. Where does a man like that come from?
He told me he was born in the Jabaliya refugee camp in Gaza . For generations his family farmed vast property around Kibbutz Dorot, not far from Sderot, the city whose constant shelling by Hamas helped provoke the Gaza War.
“My grandparents are buried right near Lilly Sharon's grave,“ he said, referring to Ariel Sharon's late wife. “Ask the people in Kibbutz Dorot, they know us. Ask them about Abuelaish.“
During the 1948 War of Independence, his family left for Gaza . “They left, they were deported,“ he said, alert to the different Jewish and Arab narratives, not caring which one I chose to believe. “They thought it would be transient, a couple of days, or a couple of months.“
I asked him about his first encounter with an Israeli Jew.
“Until I was 14, I only saw soldiers and tourists in cars,“ he said.
After the Six-Day War he remembers tanks surrounding his part of the camp, and soldiers telling all the residents to come out of their houses and gather in the square.
“It looked like the end of the world,“ he said. “I thought they wanted to kill us all.“
The soldiers announced a curfew that severely limited his family's income. Abuelaish dropped out of school and started selling ice cream and nuts.
In the summer of 1970, when he was 14, Abuelaish joined his uncle to work inside Israel . They did chores for a Yemenite family on Moshav Hodaya, near Ashkelon . He saw the Jewish children enjoying their summer, running off to play or to the beach. He fed the geese.
“The family was nice to me, but I was the Palestinian boy who was working. I counted the days to return, “ he said.
One night after he returned home, the Israelis told his family they had six hours to evacuate their home, which had to be demolished so tanks could more easily maneuver the street. By 8 a.m., his home was gone. Abuelaish, his eight brothers and sisters and their parents moved in to a single room in his uncle's home. They stayed there six months.
“That was my first tragedy,“ he told me. “I was forced to be homeless, so I don't want to ever see anyone else homeless.“
Eventually, Abuelaish returned to school and excelled. He attended medical school at Cairo University , then Harvard Medical School . He became an obstetrician and gynecologist and works in Israeli hospitals with Arab and Jewish patients.
He saw that suffering and illness did not belong to any one religion, people or history. Sickness is sickness, and he believes he was brought into the world to heal.
“Each human life is invaluable,“ he said. “It is so easy to destroy.“
Long before his daughters' deaths, he had made the campaign for respect and equality between Israelis and Palestinians his life's work. He cultivated excellent relations with his Jewish colleagues.
He became a familiar face to the Israeli media, who looked to him to describe what was happening inside Gaza . He even made a point to revisit the Yemenite family on whose moshav he worked as a boy.
“In 1994 I knocked on their door. The daughter who was born when I was there in 1970 answered. She thought it was some Palestinian businessman. She got her father. I said, ‘You don't remember me. I am Izzeldin, the Palestinian boy who worked for you.‘ We fell into each others' arms like two brothers who met after a long time.“
Two of Abuelaish's daughters were doing their homework when the Israeli tank shell hit their home in Jabaliya that afternoon. They were killed along with another daughter and a niece. Even given his background, I couldn't fathom his lack of bitterness. Even empathy and reconciliation have their limits, I assume. “My daughters who were lost, I can't return them,“ he said. “But think of the survivors. I believe God takes but gives you something else. Who gave me my daughters? God. It's a trust. God asked for them back.“
“Don't you want revenge?“ I asked him. After all, here was a man from a part of the world that has been perfecting cycles of revenge for thousands of years.
“On who? Who killed my daughters?“ he said?and waited for me to reply.
“The Israelis.“
“Who are the Israelis?“ he shot back. “Who?“
I got it: Would he kill the Israeli doctors and nurses he worked with? The Israeli babies he delivered? The moshavnik who embraced him?
“And even if I got revenge on all the Israelis,“ he went on, “do you think my daughters are going to come back? Does it help them to commit more sins? I want people to learn not to treat a mistake with a mistake.“
Then he anticipated my next question.
“The Israeli soldier who shelled my house,“ he said, “I understand. I understand the system that brought all of us together. I believe in his conscience he has already punished himself. He's asking, ‘What have I done?‘ And even if he doesn't think that now, tomorrow he will be a father. He will suffer then.“
There are plenty of Israel-bashing Web sites out there dedicated to Palestinian suffering. They don't write about Dr. Izzeldin Abuelaish, aside from the death of his daughters. The Web site electronicintifada.com, for instance, has only had one story on the doctor?written three years prior to his tragedy. His is not a voice of hate, or of victimhood. And his position is clear: listen to each other, respect each other, save each other.
“We don't look for governments to solve this,“ he said. “There is an Israeli people, and there is a Palestinian people; they will make the difference. The leaders change, governments change.“
Now the doctor, who has been nominated for a Nobel Peace Prize, is raising funds to support career choices for women in the Arab world. (He spoke in LA through the auspices of Americans for Peace Now). His oldest daughter who was killed was about to graduate with a bachelor's degree in English from Islamic University of Gaza, the second wanted to be a physician, and the youngest a journalist. He told me he hasn't picked a name for his foundation, but he is thinking about calling it the “Three Daughters Foundation.“
“For me, I have to think my strength is from God,“ he said. His cheeks flushed a darker shade of red. He picked up a napkin and touched the corner of his eyes. “Why was I selected, and my daughters? I fully believe God chose me for something good. The death of my daughters is for a purpose.“