イエス、美しく気高い羊飼い

復活節第4主日 2009/5/3 福音黙想  トマス・ロシカ師 

 

聖書と古代の近東では、「羊飼い( shepherd )」とは、王が家臣を養う責任を強調する行政的な職名でした。この職名は、他者 ( 公共 ) への配慮と奉仕を含んでいました。 聖書の時代のパレスチナ社会では、家畜の群れの世話には重要な意味があったのです。 旧約聖書では、神は「イスラエルの羊飼い」 と呼ばれています。 神は群れの先頭に立ち(詩篇 68:7 )、行先を示し(同 23:3 )、食物と飲み水のある場所に導き(同 23:2 )、危険から守り(同 23:4 )、幼い者に手を差し伸べてくださいます。(イザヤ 40 11 ) 

主を信じる者の信頼にふかく根ざしたこの隠喩表現は、神が全ての人を護ってくださる事を示しています。

•  「御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。」 ( 詩篇 68:7) 、「わたしを正しい道に導かれ」 ( 詩篇 23:3) 、「わたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い」 ( 詩篇 23:2) 、「わたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」 ( 詩篇 23:4) 、「主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。」 ( 詩篇 40:11) 。

詩篇 23 :

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

 

詩篇 23 の中で、作者は主を「わたしの羊飼い」と表現します。 主人である羊飼いのイメージも、この美しい詩篇の中に見出されます。 主人も羊飼いも、そのイメージは共に砂漠を背景としています。 砂漠では、羊の保護者は旅する者の保護者でもあり、水や食物を与え、敵から守ってくれます。 「鞭」は、野獣に備える武器、「杖」は身を支える道具となります;  それらは、配慮と忠誠心のシンボルです。

新約聖書も羊飼いを同じように表現します。 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出し」 ( ヨハネ 10:3) 、「百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回り」 ( ルカ 15:4ff.) 、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 ( ヨハネ 10:11-12)

羊飼いは神ご自身を表しています。 

しかし、新約聖書は、失われた羊のたとえ ( ルカ 15:4ff.; マタイ 18:12ff.) で「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 という表現をとりますが、決して神を羊飼いとは呼びません。 ここでは、神は、この喜ぶ羊飼いのように、罪びとの赦しと立ち直りを喜びます。 このような表現が選ばれたのは、罪びとに対する、イエスの愛とファリサイ派の侮蔑とを対照的に示すためです。 ルカ福音書のエマオへの道の物語(ルカ 24:13-35) は、ルカ福音書 15 3-7 節で語られた、方向の定まらない弟子たちを導き求めるイエスの旅路のつづきを語っていると言えます。

「そこで、イエスは次のたとえを話された。 『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 ( ルカ 15:3-7).

 

確信:

復活節第4主日は、昔から「よい羊飼いの主日」と呼ばれ、(ギリシャ語テキストによれば)自分の群れを親しく知る、実に美しい、気高い羊飼いの記述に出会います。 イエスは、羊飼いたちを知り、彼らの宿命に同情し、わたしたちがイエスに確信を置くことになる一つのたとえ話を示したのです。 イエスが「羊飼い」の名をご自分に用いたのを聞いた人々にとって、それは、優しさと思いやり以上のものを意味します。 そこには、劇的な、目を見張るほどの大きな愛があり、その羊飼いは喜んで彼の群れのために命を投げ出すのです。 賃金のために働く者とは違い、よい羊飼いの生命は、純粋な愛によってその羊たちのためにささげられます。 羊たちは「よい羊飼い」にとって責任以上のものです。 彼は羊たちを所有者し、羊たちは彼の愛と思いやりの対象です。 したがって、羊飼いの尽くし方は、全く自分を棄てる愛なのです。 よい羊飼いは、羊たちを見捨てるくらいなら、喜んで死ぬことを選ぶのです。 雇われ人にとっては、羊たちは単なる商品に過ぎず、羊毛と羊肉をとるために世話をしているに過ぎません。

しかし、わたしたちの「よい羊飼い」であるイエスの素晴らしさは、その愛にあります。 羊の群れの一匹々々のためにご自分の命を差し出すほどの愛です。 そのようにしながら、一人ひとりと直接的で、個人的な深い愛の関係を築くのです。 そのためにわたしたちは、イエスの素晴らしさと気高さとを愛さずにはいられなくなるのです。 羊飼いである父とその独り子が、わたしたちを見守り、理解し、頑固さ、傲慢さ、臆病さをそのままに愛してくださるのを、わたしたちはイエスの中に見ます。

従う者は、しばしば、先ず指導者の要求を優先するよう求められます。それでは、人々は指導者を満足させる手段にすぎなくなります。 いつも一番大切なのは羊飼いで、羊は最後になっていませんか? 

今日の福音朗読で大切とされるのは、羊とその幸福です。 羊飼いはこの目的のために手段です。 羊の群れの幸福が目的なのです。 羊が先ずあって、羊飼いは後にあるのです。 ヨハネ福音書はイエスを、いのちを差し出す羊飼いとして示しています。

召命:

今年の復活節第4主日は、第 46 回世界聖職者召命祈願の日に当たります。 朗読は、主の広いぶどう畑に働き手を願うわたしたちの願いに適う表現のものです。 イエスは愛が、司牧、とりわけ羊飼いの霊的指導の司牧の唯一の動機であることをお示しになりました。 宗教指導者の側には排他性があってはならないこともお示しになりました。 群れから外れた(自ら群れを離れた)羊がいるなら、よい羊飼いは、自分が出かけてそれらの羊を取戻しに行くべきであり、さらにいつも独りの羊飼いの下に群れは一つとなっているべきことを主は教えました。 包含する動機は愛にあります。 社会的正義ではありません。  倫理的公正さでもありません。 単なる寛容でもありません。 まして政治的調整や統計上の数値のためではないのです。 愛だけが、全ての人を含めるサークルを引っ張るのです。 羊飼いには羊に対する権力があります。 

よい羊飼い、イエスを思えば、わたしたちは、権威を行使する相手全てを心にとめなければなりません。 子供、大人の親たち、協働する人、同僚、その週の間に助けをもとめる人々、霊的に、物質的に支援を求める人々、全てを心にとめます。 どのような立場にあっても、手にある鞭と杖とは、抑圧のためにものではなく、奉仕のためにあるのです。 今日の朗読は、自分が世話する人々に応えなかった時の赦しを求めるようにわたしたちを招きます。 そして、自分がよい羊飼いでいるための恵みを求めるように招きます。 わたしたちの目は「よい羊飼い」に再びそそがれます。 彼は、この群れのものではない羊も、自分の羊であることを知る羊飼いです。 

羊飼いについて、最後にもう一言付け加えます。 文化人類学者は、狩猟と農耕の文化的発展の中で、羊飼いは双方の世界に存し、両方を結ぶ者として立つ、と述べます。 このため、羊飼いは、向かい合う神々の一致のシンボルとして古代の神話と冒険談の中に現れます。 古代に現れた数々の異教から知り得るように、イエス・キリストを偉大な和解者とすることによって、キリスト教徒の信仰は、明快なリアリティを獲得したのです。 イエス 4 は、美と一致と平和を確立するためにいつも大きな争いの中心に現れる「よい羊飼い」です。
教会とこの世界の中で、よい羊飼いとなろうと努力する人一人ひとりにとって、いつもそのようでありますように。 この時代の争いと試練に直面した時、主が「美、気高さ、一致、平和」を確立する道具として、 わたしたちをお使いくださいますように。


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Jesus, the Beautiful and Noble Shepherd

Biblical Reflection for 4th Sunday of Easter By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, APRIL 29, 2009 ( Zenit.org ).- In the Bible and in the ancient Near East, "shepherd" was a political title that stressed the obligation of kings to provide for their subjects. The title connoted total concern for and dedication to others. Tending flocks and herds is an important part of the Palestinian economy in biblical times. In the Old Testament, God is called the Shepherd of Israel who goes before the flock (Psalm 68:7), guides it (Psalm 23:3), leads it to food and water (Psalm 23:2), protects it (Psalm 23:4), and carries its young (Isaiah 40:11). Embedded in the living piety of believers, the metaphor brings out the fact that God shelters the entire people.

In Psalm 23, the author speaks of the Lord as his shepherd. The image of shepherd as host is also found in this beloved psalm. Shepherd and host are both images set against the background of the desert, where the protector of the sheep is also the protector of the desert traveler, offering hospitality and safety from enemies. The rod is a defensive weapon against wild animals, while the staff is a supportive instrument; they symbolize concern and loyalty.

The New Testament does not judge shepherds adversely. They know their sheep (John 10:3), seek lost sheep (Luke 15:4ff.), and hazard their lives for the flock (John 10:11-12). The shepherd is a figure for God himself (Luke 15:4ff.). The New Testament never calls God a shepherd, and only in the parable of the lost sheep (Luke 15:4ff.; Matthew 18:12ff.) does the comparison occur. Here God, like the rejoicing shepherd of the parable, takes joy in the forgiveness and restoration of the sinner. The choice of the image reflects vividly the contrast between Jesus' love for sinners and the Pharisees' contempt for them. It can be said that the Emmaus story in Luke's Gospel (24:13-35) is a continuation of Jesus' journey, his pursuit of wayward disciples which was already prefigured by the parable of the shepherd who went in search of lost sheep until he found them and returned them to the fold (15:3-7).
Confidence
On the Fourth Sunday of Easter, traditionally called Good Shepherd Sunday, we encounter the Good Shepherd who is really the beautiful or noble shepherd [in the Greek text] who knows his flock intimately.

Jesus knew shepherds and had much sympathy for their lot

and he relied on one of his favorite metaphors to assure us that we can place our confidence in him.

For those who heard Jesus claim this title for himself, it meant more than tenderness and compassion; there was the dramatic and startling degree of love so great that the shepherd is willing to lay down his life for his flock. Unlike the hired hand, who works for pay, the good shepherd's life is devoted to the sheep out of pure love.The sheep are far more than a responsibility to the good shepherd -- who is also their owner. They are the object of the shepherd's love and concern. Thus, the shepherd's devotion to them is completely unselfish; the good shepherd is willing to die for the sheep rather than abandon them. To the hired hand, the sheep are merely a commodity, to be watched over only so they can provide wool and mutton. The beauty of Jesus, our Good Shepherd, lies in the love with which he offers his life even unto death for each and every one of his sheep. In so doing, he establishes with each one a direct and personal relationship of intense love. Jesus' beauty and nobility are revealed in his letting himself be loved by us.

In Jesus we discover the Father and his Son who are shepherds who care for us, know us and even love us in our stubbornness, deafness and diffidence.

Sometimes, it seems that followers are expected to put the needs of the leader first. The people are the means to an end: the leader's pleasure.Does it not often seem that shepherds are first, sheep last? The emphasis in today's readings is on the sheep and their welfare. The shepherd is the means to ensure the end: the well-being of the flock. Sheep are first, shepherds last. John's gospel portrays Jesus as the life-giving shepherd.

Vocations
This year the Fourth Sunday of Easter is also the 46th World Day of Prayer for Vocations. The readings are very fitting for as we beg the Lord of the harvest and of the Church to send more laborers into his vast vineyards. As a model of religious leadership, Jesus shows us that love can be the only motivation for ministry, especially for pastoral ministry. He also shows us that there must be no exclusiveness on the part of the religious leader.If there are sheep outside the fold (even sheep excluded by the fold itself), the good shepherd must go fetch them. And they must be brought in, so that there will be one flock under one shepherd. The motivation for inclusion is love, not social justice, not ethical fairness, not mere tolerance, and certainly not political correctness or impressive statistics. Only love can draw the circle that includes everyone. Shepherds have power over sheep.

As we contemplate Jesus, the Good Shepherd, we call to mind everyone over whom we exercise authority -- children, elderly parents, our coworkers and colleagues, people who ask us for help throughout the week, people who depend on us for material and spiritual needs. Whatever title we bear, the rod and staff we carry must be symbols not of oppression but of dedication. Today's readings invite us to ask for forgiveness for the times we have not responded to those for whom we care, and ask for the grace to be good shepherds. We fix our eyes anew on the Good Shepherd who knows that other sheep not of this fold are not lost sheep, but his sheep. One final thought on shepherding. Anthropologists tell us that between the hunting and the farming stages of cultural development shepherds stood as people who existed in both worlds and tied them together. For that reason, shepherds appear in ancient myths and sagas as a symbol for the divine unity of opposites. What the ancient pagans hinted at, Christian faith has brought into a crisp reality with Jesus Christ as the great reconciler. He is the Good Shepherd, who has come into the center of every great conflict in order to establish beauty, unity and peace.
May it be ever so for each person who strives to be a good shepherd today, in the Church and in the world. As we enter those places of conflict and tribulation in our own times, may the Lord use us as his instruments to establish beauty, nobility, unity and peace.

 

 

朗読


使徒 4:8-12; そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

1 ヨハネ 3:1-2 : 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 

ヨハネ 10:11-18 : わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。 ―― 狼は羊を奪い、また追い散らす。 ―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、

羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ

てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

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