ルカ福音書 四楽章からなる復活交響曲
復活節第3主日( 2009/4/26 ) トマス・ロシカ師 福音黙想
わたしはよく、ルカ福音書の 24 章を美しい四つの楽章で構成された復活交響曲だと考えます。 第一楽章は、墓場の女性たちの物語で、それはペトロが確かめるために墓場に出向くところで終わります。(ルカ 24 : 1- 12) 第二楽章は、エマオに向かう二人の弟子の有名な物語です。 それは主がペトロに現れたことを二人が知って最高潮に達します。(ルカ 24 : 13-35 ) 第三楽章は、食事をしている弟子たちへの主の出現で、これはイエスの命令を以って終わります。(ルカ 24 : 36-49 ) そして、第四楽章は、イエスの昇天です。(ルカ 24 : 50 ‐ 52 )
これらの物語の中でもっとも有名なのは、 13 節から始まるエマオの挿話です。 それは、キリストの受難と墓での発見の出来事と、(弟子たちへの)御出現の出来事との間をつなぐ伝承としての役割を持っています。 それは他の復活のご出現とは違います。 なぜなら、二人の弟子が覚った瞬間に主は消えるからです。 弟子たちが食事をし、その人がイエスであることを覚り、急いでエルサレムに戻るというエマオの物語 ( ルカ 24:13-35) は、 空の墓の挿話 (24:1-12) と、弟子たちにご自分を現わされたイエスの挿話 ( ルカ 24:36ff.) とを結ぶ 架け橋となっています。
クレオパと彼の友人は、決定的な出来事(イエスの受難)が起こった現場を去り、名もない小さな村に向かって歩いています。 彼らは、十字架のスキャンダルのために、復活のメッセージを信じていませんでした。 当惑し、意気消沈して、彼らはイエスの死、空の墓、他の人々へのイエスのご出現の中に、解放を見出すことができなかったのです。 彼らの目には、イエスの使命は全く失敗したか、さもなければ、彼ら自身のイエスに抱いた期待がひどく裏切られたものと映ったのです。 打ちひしがれた二人が、イエスと共にエマオへの道を歩む間に、救世主の苦しみの本当の意味を理解するに従って、その心は次第に燃え始めました。 そしてエマオでの食卓で、彼らは心のうちに復活の力を体験したのです。 この二人の弟子の問題を解決は、必ずしも完全に論理的な答えではありませんでした。
シノッド(司教会議)におけるエマオ:
2008 年 10 月の「神の御言葉」についての世界代表司教会議で、一番多く引用された福音書の箇所は、疑いもなく、ルカ福音書の「エマオへの道の弟子たち」の記述でした。 ( ルカ 24:13:35).
世界中から集まった、枢機卿、司教、専門家、特別招待者たちのプレゼンテーションに引用され、エマオへの道の物語は、カテキズム、教理、聖書研究、とりわけ、キリスト者の生き方の偉大なモデル、枠組みであることが再度証明されたのでした。
エマオへの物語に現れた、(そして「御言葉」がテーマの司教会議全体について言えることですが) 旅の主題は、エルサレムとエマオの間の距離の問題ばかりではなく、痛みの多い、時間のかかる言葉の旅路の主題でもあります。 それは頭(知)から心(愛)に降りてこなければならない言葉の旅路、信仰に至る、そして主イエスにほかならない他者との、ふさわしい関係に立ち戻る旅路です。
イエスとともに飲み、食べる:
復活節第3主日の福音は、エマオの物語に続く箇所です。 神はいつも、どのようにして人々を共同体と、食卓仲間の体験に導くのか ( ルカ 24:36-48) 。 この物語にはいくつかの側面があります。
…驚き怖れる弟子たちの中へのイエスの出現 ( ルカ 24:36-43) 。 そして、聖書の言葉の成就と、弟子たちへの委託の言葉 ( ルカ 24:44-48) 。 エマオの物語で示された多くの要素はさらに明らかにされます。 ルカの物語は又、復活された主を、弟子たちのもてなしと食事を受ける方として描きます。
(二人の)弟子たちが、はっきりとイエスを認めることが出来たのは、見知らぬ人を共に留まるように招いたからでした。 歩いている間は覚ことができず、主がパンを裂いたときに初めて覚ったのです。共に食卓を囲む時、深い人間性が露わにされます。 パンと魚をとり、弟子たちと共に食べるイエスの、感動的で人間的な情景は、亡霊は食べず、人間は食べるという事実に気付かせ、復活された主が、本当に自分たちの間に居られるのだという確信を弟子たちに与えます。 神学的、教義的な説明では、これを弟子たちに納得させることはできないでしょう。 それよりも、食卓でのイエスの溢れるような人間性こそが、彼が「生きている」ことを弟子たちに納得させる決め手になるのです。 婦人たちとエマオの旅人二人の証言にもかかわらず、弟子たちは、イエスが目前に現れても自分たちの目を信じることができませんでした。 イエスだけが、その体験を確かなものにし、十分な理解へと導いて下さるのです。
イエスは最初、彼らの体験がまやかしではないことを証明なさろうとしました。 ヨハネ福音書の中でトマスに現れたように、イエスは傷をお見せになり、「触ってみよ」(「あなたの手をのばし、わたしのわき腹に入れなさい」)と言われます。 復活の主の体験は触覚的なものでした。 亡霊とは違い、イエスは実体のある存在です。 ヨハネ 20 章と違い、ルカ 24 章では、イエスは自分の手と足(手と脇腹でなく)を弟子たちに示したとしています。 ルカはイエスの足に釘が打たれたことを暗示しました。 このルカの記述は、ヨハネ21章の焼いた魚の記述と平行します。(「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」) ヨハネ 21:9-14 では、イエスが魚を料理していました。 ルカ 24 : 35-48 )では、弟子たちが焼いた魚の一片を差し出し、イエスはそれを食べます。 ルカ 24:35-48 の記述と、エマオへの道の記述(ルカ 24 : 13 ‐ 35) を合わせれば、両方の物語 ( ルカ 24:30, 35 と ヨハネ 21:13) は「パンを裂くこと」を意味す話になります。 パンと魚の祝福の最も注目すべき表現は、パンと魚を「ふやすこと」にありました。 ( マルコ 6:30-44, 8:1-9 、 マタイ 14.13-21 、 マタイ 15.32-39 、 ルカ 9.10-17 、 ヨハネ 6.1-14) パンと魚の食事は、ガリラヤ湖周辺やエルサレムではふつうのことでした。 そのような食事は、イエスと弟子たち旅をする時のごく当たり前の食事でした。
しかしながら、この物語の真の中心は、食事ではなく、出現または啓示の性質にあります。 イエスは、生きた、確かな姿で現れました。 聖性と神性が、触れることのできる姿で現れました。 聖性は、忘我の境地ばかりでなく、この世を離れた超越性を感じさせます。 神は創造を通し、明確な意図をもって、その民に手を伸ばされました。 この洞察がキリストの身体としての教会の自己認識の基礎となったのです。それはまた、秘跡としての教会の中の礼拝に、基礎を与えたのです。
信じる者は五感を通して復活の主に出会います。 イエスに従う者は、復活の主を見、触れ、声を聞いたのです。 今日、わたしたちは秘跡を通し、共に証しし、他者に奉仕することによって、キリストを見、聞き、ふれるのです。 聖体は、イエスのいのちのエッセンスであり、他者に自分のいのちを差し出すことへの召命です。 パンを裂くことは一致の力強いしるしでもあります。 わたしたちがパンを裂くのは、キリストの身体を分かち合う方法です。 パウロは言います。 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 (I コリント 10:16-17).
人が杯と裂いたパンを分かち合うのは、キリストとの一致を確立するためだけではありません。 同じパンを「共にする」ことによって、それを祝う共同体のメンバー全てとの間に一致を確立するのです。
ここで言う一致とは、うわついた気分の高揚ではなく、パンを裂くことに与えられる恵み、キリストの体において分かち合う一致なのです。 聖体によって、共同体のメンバーは一致(一体感)を祝います。 その一致は三つのレベルに分けられます。 一つは、キリストにおける一致、もう一つはメンバーとの互いの一致、そしてこの世への奉仕における一致です。
若い人々の、キリストとの秘跡的な出会い
さて、終わりに、イエスとの食事(飲み食い)についての考え方を分かち合いたいと思います。 「神の御言葉」の司教会議の間に、サレジオ会のパスカル神父( Pascual Chavez Villanueva )が印象深い話をされました。 師は、聖ヨハネ・ボスコのサレジオ会の管区長会会長および総長です。 この会の人たちには、若い人々と共に働く特別なカリスマがあります。 彼は、エマオへの道の物語を、若者の世界に神の御言葉を近づけるモデルとして示します。 彼が指摘したのは、今日の若者がエマオへの道の二人と分かち合えるのは、自分らの夢が果たされない不満、信仰上の疲労感、キリストの弟子としての幻滅以外には無いだろう、という事実です。 「若者たちは、自分がいる場で、自分と出会う教会を必要としている。 エマオに到着したとき、弟子たちはまだその人がイエスとは分かっていなかった。 二人の弟子と共に旅をし、会話し、神の御言葉を解釈しても不可能だったことを、イエスは「聖体のかたち」によって可能にしたのだ。 信仰教育において、キリストとの秘跡的な出会いを忘れ、または先送りすることは、イエスを見出す確かな、効果的な方法とは言えない。」 この結びの言葉は、わたしの心に残りました。 若者たちに、自身の生活の中の秘跡の重要性をどのように教えればよいでしょうか? 若者がキリストと出会う機会を、どのように準備したらよいのでしょうか? わたしたちは、この大切な課題への扉を閉じているのではないでしょうか? とりあえずは、若者と食事を共にすることによって、そのようなキリストとの出会いを育てることはできないでしょうか? 一緒に食事をする中で、わたしたちの人間性を実感することがよくあります。 わたしたちは人間で、人を愛し、愛され、また、他者の苦悩、希望、未来を含む、その人のすべてに心からの関心を寄せるのです。 食事をいっしょにすることで、人は心の奥を開き、こころを通わせます。 それは成熟した信仰への跳躍台となり、復活の主との生き生きとした出会いに導きます。主は、ご自分のいのちを日々分かち合いたいと望んでおられるのです。 主よ、どうぞわたしたちと共にいてください!
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Luke's Resurrection Symphony in 4 Movements
Biblical Reflection for the 3rd Sunday of Easter By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO , APRIL 22, 2009 ( Zenit.org ).-
I often consider Chapter 24 of Luke's Gospel to be a Resurrection Symphony in four brilliant movements. The first movement is the story of the women at the tomb, which ends with Peter's visit to the tomb to check it (verses 1-12). The second movement tells the great story of the two disciples on the road to Emmaus, culminating in their learning that the Lord had also appeared to Peter (verses 13-35). The third movement is the appearance of the Lord to his disciples at a meal, ending with their commissioning by Jesus (verses 36-49). And the fourth movement -- Jesus' ascension into heaven (verses 50-52).
The most well-known of these stories is the Emmaus episode that begins in verse 13. It serves as a transition between the events of the Passion and discovery of the tomb and the appearance tradition. It is different from the other resurrection appearances because the Lord disappears at the moment of recognition. The Emmaus narrative (24:13-35) serves as a bridge between the empty tomb (24:1-12) and Jesus' self-revelation to his apostles (24:36ff.) immediately following the Emmaus disciples' meal, their recognition of Jesus, and hasty return to Jerusalem . Cleopas and his companion are going away from the locality where the decisive events have happened, toward a little village of no significance. They did not believe the message of the Resurrection, due to the scandal of the cross. Puzzled and discouraged, they are unable to see any liberation in the death, the empty tomb, or the message about the appearances of Jesus to the others. In their eyes, either the mission of Jesus had entirely failed, or else they, themselves, had been badly deceived in their expectations about Jesus. As the two downtrodden disciples journeyed with Jesus on that Emmaus road, their hearts began to gradually catch fire within them as they came to understand with their minds the truth about the suffering Messiah. At the meal in Emmaus, they experienced the power of the Resurrection in their hearts. The solution to the problem of these two disciples was not a perfectly logical answer.
Emmaus at the synod
The most frequently quoted Gospel story at the October 2008 synod on the Word of God was undoubtedly Luke's account of the disciples on the road to Emmaus (Luke 24:13:35). Cited by cardinals, bishops, experts and special guests in many of the presentations coming from every corner of the earth, the Emmaus story proved once again to be a great model or paradigm for catechesis, teaching, Bible study and above all for Christian living. The journey motif of the Emmaus story (and one can say of the entire synod on the Word of God) is not only a matter of the distance between Jerusalem and Emmaus, but also of the painful and gradual journey of words that must descend from the head to the heart; of a coming to faith, and a return to a proper relationship with the stranger who is none other than Jesus the Lord.
Eating and drinking with Jesus
The Gospel for the Third Sunday of Easter (Year B) is the continuation of the Emmaus story
-- how God always leads people into an experience of community and table fellowship (Luke 24:36-48). There are several aspects of the story -- the appearance of Jesus among the startled and frightened disciples (verses 36-43) and the words about the fulfillment of Scripture and commissioning of the disciples (verses 44-48). Many elements that were present in the Emmaus story are made more explicit. The Lukan stories also represent the Risen Lord as the One who receives hospitality and food from the disciples. Only after the disciples have extended an invitation to the Stranger to remain with them is it possible for full recognition to take place. They were unable to fully recognize him on the road, but they did recognize him in the breaking of the bread. Table fellowship reveals the depth of humanity. The touching, human scene of Jesus taking bread and fish and eating it with his disciples drives home the fact that ghosts don't eat -- humans do ? and it reassures the disciples that the Risen Lord is truly in their midst. No theological or dogmatic assertion will prove this to them. Rather, the striking humanity of Jesus, at table, will finally convince them that he is alive. In spite of the testimony from the women and the two travelers, the disciples still could not believe their eyes when Jesus appeared before them. Only Jesus could validate the experience and supply its proper understanding.
Jesus would first prove their experience was no hoax. Like the appearance to Thomas in John's Gospel, Jesus showed his wounds and challenged his followers to "touch" him. The experience of the Risen Lord was tactile. Jesus has substance, unlike a ghost. Unlike John 20, Jesus showed his followers his hands and feet (not his hands and side). Luke inferred that Jesus had been nailed in his feet. Today's passage also parallels John 21 with the subject of the cooked fish. In John 21:9-14, Jesus was cooking the fish. In Luke, the disciples gave Jesus the cooked fish to eat. If Luke 24:35-48 is combined with the narrative from the Road to Emmaus (Luke 24:13-35), both stories involved the breaking of bread (Luke 24:30, 35 and John 21:13). The most notable narratives with the blessing of bread and fish were the multiplication of the loaves and fishes (Mark 6:30-44, 8:1-9; Matthew 14.13-21, Matthew 15.32-39; Luke 9.10-17; John 6.1-14). A meal that featured fish and bread was common around the Sea of Galilee and in Jerusalem . Such meals were a regular part of life on the road with Jesus and his followers.
The real heart of the story, however, is not the meal but the quality of the appearance or vision. Jesus appeared as a living, solid form. The Holy and Divine could be found in the tangible. Holiness was not only a matter of ecstasy, touching the transcendent, while leaving the world behind. God reached his people through his creation, not in spite of it. This insight became the foundation of the Church's self-awareness as the Body of Christ. It also grounded worship in the Church as sacramental. The believer encounters the Risen Christ through the bodily senses. His followers saw, touched, and heard the Risen One. We see, hear, and touch Christ today through the sacraments, through shared witness and service to others. The Eucharist is a summary of Jesus' life, a call to lay down one's life for others. The breaking of bread is also a powerful sign of unity. When we break bread, it is a means of sharing in the body of Christ. Paul says, "Because there is one bread ... we who are many are one body, for we all partake of the one bread" (I Corinthians 10:16-17).
It is not only that the person sharing the cup and the broken bread establishes a union with Christ: A further union is established through the "partaking" of the same loaf -- the union between all the members of the celebrating community. The unity expressed here is not just a matter of human conviviality; it is a gift given in the breaking of bread, a sharing in the body of Christ. The Eucharist makes the members of the body celebrate their oneness, a oneness experienced on three levels: one in Christ, one with each other, and one in service to the world.
The sacramental encounter of young people with Christ
Allow me to share a final thought with you about eating and drinking with Jesus. During the synod on the Word of God, one of the memorable interventions was made by Salesian Father Pascual Chavez Villanueva, president of the Union of Superiors-General and Rector of the Salesian Society of St. John Bosco. Father Pascual, whose Salesian. Congregation has a special charism for working with young people, offered the Emmaus story as model of bringing the Word of God closer to the world of youth. He drew our attention to the fact that young people today share very few things with the two disciples on the road but perhaps nothing as much as the frustration of their dreams, the fatigue in their faith and the disenchantment in discipleship. "Young people need a Church that meets them there where they are. Arriving to Emmaus, the disciples still did not recognize the person of Jesus. What Jesus was unable to do in accompanying them, conversing with them, interpreting the Word of God, he accomplished with the Eucharistic gesture. An education in faith which forgets or postpones the sacramental encounter of young people with Christ, is not a secure, efficient way to find him." Those final words have remained with me. How do we teach young people the importance of the sacraments in their own lives? How do we provide opportunities for young people to encounter Christ? Do we not open the door to this importance and foster such encounters by beginning with simple table fellowship with young people? It is often the very ordinary moments of table fellowship that bring about the realization that we are human, loving, loveable and genuinely interested in others, their tribulations, their hopes and their futures. Table fellowship does indeed reveal the depth of humanity, and the depth of compassion. It is a springboard to adult faith, and to a living encounter with the Risen Lord who wishes to share his own life with us each day. Stay with us, Lord!
On the Net:
Salt and Light Catholic Television Network Web site: www.saltandlighttv.org
Road to Emmaus: www.youtube.com/watch?v=SST_WDWKxwA&feature=related
www.saltandlighttv.org/prog_slprog_snl_presents_easter_video3.html
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朗読
使徒 3:13-15, 17-19 :(その日、ペトロは民衆に言った。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
1 ヨハネ 2:1-5a :わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ です。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
ルカ 24:35-48 :(そのときエルサレムに戻った二人の弟子は)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。