「学び合いの会」例会記録

2005年4月16日(土)

参加者: 総数 27名 

 

本日のテーマ:  今年の年間テーマが「“交わり”の中に生きる」であり、

第一回目として、 「“交わり”を生かすリーダー」

 

 

発題1 (これまでの流れの説明を含む)

今年の「学び合いの会」の例会でのテーマは「“交わり”の中に生きる」になりました。

最初に、「学び合いの会」の例会のテーマについて、ちょっと振り返ります。

2003年は、「洗礼」、「生活と信仰の遊離」、「典礼」でした。キリスト教の根本的なところであり、「学びあい2年間コース」の復習という意味合いもありました。これらのテーマは自分たちの信仰を深めていく上で、しっかりと意識化をはかっていく必要があると思っています。昨年2004年は、「司祭と信徒との関係は本来どのような関係なのか」、聖書に照らして、キリストに従って成長しあうものとしてどうなのかを4回シリーズで学びあいました。私たちは、このようにそれぞれの小教区の教会を離れて、ここに集まった仲間たちや、コメントや発題をいただいた司祭や修道者から多くの気づき、新しい視点を与えられてきたと思います。

 

私は、ここでの学びから、カトリック教会は、本来は、もっともっと信徒に思いやりのある、信徒の肩の荷を降ろしてくれるものであるし、神の愛を中心にしたダイナミックなものであるにちがいないと感じました。そして、それは日本人の信義を重んじ誠実に生きること、清貧をよしとする生き方、美しいものを美しいと感じるこころと直接に結びついていると感じています。日本の社会の中に、教会本来の光が、もっと見えてくるような、そのような教会のあり方があるのではないかと思えるのです。そのことは、多くの人々が講演や書籍で語っていることだと思います。

 

「学び合いの会」は、新しい教会づくりに関心のあるすべての人に開かれた会として、「21世紀の教会を問い続けよう!」ということを掲げています。真生会館の講座のひとつとして、今年も4回の例会を行おうということになっています。テーマは昨年秋以来、多くの人と一緒に準備会などで検討してきました。神の民の教会としては、やはり、「“交わり”の中に生きる」ということを今年は学び合ってみようということになりました。ご案内の通りです。それはどうすることなのか。道筋がついていることではないのですが、自分たちで語り合って、学び合っていこうという新しいチャレンジだと思います。

 

さて、今日の発題ですが、交わり、共同体を生かすリーダーということを考えていて、この「学び合いの会」という交わり、共同体を生かすリーダーってどうなんだろうと思いました。どう思われますか。今日はこのことを発題として次のように考えてみました。

 

「学び合いの会」のメンバーというのは、どうでしょうか。「学び合いの会」に出会ってしまった人たち、或いは出会いたいとか、どんなことをやっているのか尋ねてきた人たちですよね。それは「キリストに出会い人生を変えられた人たち、キリストに出会いたいと願う人たち」だと思います。これらの人を“教会”とパウロは呼んでいると学びました。「学び合いの会」そのものが「交わりの教会」ですよね。キリストに繋がれた者の集まりなのだと思います。

 

先日、読んだ本に、「一人ひとりが小さな者であるからこそ、仲間と共に生きていかないと何も出来ない。イエスが最初に12人の弟子たちを選んだというのは意味があります。最初からちゃんとグループを作って生きたということです。」と書かれていました。これは、英隆一朗さんが 1998 年の上智大学の夏期神学講座で語られていることなのですが、その通りなのだろうと思いましたし、「学び合いの会」のメリットは仲間がいることであると思います。短く3点だけ引用させていただきます。

 

1.「私たちの一人ひとりは弱いので、仲間なしには力を発揮していくことが出来ない。その中で、少しずつ社会を変えていく、という意識が必要なのではないかと思うのです。」
2.「いまの社会を批判することは大切だが、それだけではあんまり意味がない、その中に私たちが生きているのだから、今いる場で、どうやって風を少しでも吹かせていったらいいのかを考えて行動することです。それは本当に祈りの心と仲間なしには出来ないことでしょう。」
3.「やはり神の国と呼ばれるものがあるならば、それを少しずつみんなで手を合わせて、一歩一歩実現しようとする、地道な努力しかないだろうな」
{「キリスト教の神学と霊性」(今日どのように信仰を生きるか)サンパウロ刊
「霊的指導からみた霊性のあり方」p375〜377}
 

「学び合いの会」は自主的な会なので、自発的に、準備会や例会に参加して、合宿を経験して、仲間と共に学び成長することに喜びを感じる、人と気軽に相談しあって、良かれと思うことを気軽に出来るように成長していければいいですね。そして大事だと思うことは、リーダーはというより、ここで学んだすべての人は、「それぞれの生活の場、つまり、家庭、職場、地域社会、小教区教会、遊びの場でもボランティアの場でも、その場の仲間と共に、“交わり”を生きることを実践していければいいなあ、自らもそうしたいなあと願っています。今のところ。

そのようなリーダー、たぶん、非支配的でその場を活性化させるアニメーターでしょう、と仲間たちの交わりの輪が日本の社会に広がっていくように、皆んなで考えあって、導かれて道が開かれていくことに夢と希望を持ち続けること、それが大切なような気がしています。

 

キャッチフレーズ的に言えば、リーダーは、“人と共に学び成長することに喜びを感じる人”ですね。=これは司教団が出した“共に喜びを持って生きよう”ということに、つながっているように思います。

 

発題2 

交わりを生かすリーダー − 共同責任体制を生む教会(小教区)運営組織

 

. 1982 年(昭和 57 年)主任司祭が不在の小教区教会で、教会委員長に選出された。

主任神父への信頼に代わって、教会委員会は小教区を一つにまとめるだけの信頼を得られるかが課題となった。 <主任神父一辺倒の教会には問題がある>

.  教会(運営)委員会の責任

  共同責任に於いて運営され、共同体が一致して、維持、発展することを目的とする。

 教会委員会は、教会そのものについて責任を負う。従来、主任神父一人の責任と考えられていた。

   神父は教会委員会の会議に委員の一人として出席する。

規約第2条 教会(運営)委員会の役割
@情報の収集<信徒の意見を集める> A問題の提出<聞き取った内容の整理>
B議題の提出 C執行責任 D人選任命権

 

.  決議機関としての連絡会

 どこで結論が出るか、明確であることが信頼のもと。

 広く責任者の集まる場で結論を導く。

 連絡会を決議機関とすることで、意思決定への理解が深まり、誤解やうわさによる混乱を防ぐことができた。
規約第3条 委員連絡会議の役割
@議題の検討と決議 A報告事項の確認 B各会、委員会の連絡
規約第16条 委員連絡会議の構成
職務<会計などの実務>担当委員、渉外担当委員、各会役員、諸目的委員会代表委員は共に委員連絡会議を構成し、教会(運営)委員会がその運営にあたる。
 

.  責任の段階、種類の違い

 責任のあるところに権限も生じる

・使徒の後継者司教の代理としての責任        神父、主任司祭

   ・秘跡執行の責任                   神父、主任司祭

・共同体(小教区教会)意思決定の責任        教会委員会

   ・職務執行の責任                      担当委員

・小教区を代表する責任(外部団体との関係維持)  主任司祭、教会委員長、代表委員

   ・会の運営責任(壮年会、婦人会、青年会)  各会役員

   ・諸活動の実行責任                    実行委員

 

.  共同責任では足りず、協働責任による運営

   共同 : 二人以上の人が、仕事を一緒にすること、同資格同条件で関係すること。

協働 : 一つの目的を達成するために各部分やメンバーが補完、協力し合うこと、
      二つの物や現象が互いに作用(影響)し合うこと。
(三省堂新明解国語辞典による)

結論

交わりを生かすリーダーは、共同責任体制を作り、守る。

責任ある信徒の役割が、教会運営全体のなかで明確に位置づけられていることを示す。

最終の意思決定が一つの場でなされることで、決定事項に信頼を得る。

教会の意思決定への信頼は、人々の心を活性化し、司祭信徒の交わり、信徒相互の交わりを深め、共同体としてのまとまりを促進する。

 

発題3 

与えられたテーマ「交わり生かすリーダー」について考えたことを話したいと思います。

テーマを3つのパートに分け、まず、交わりとは何だろうと考えました。

交わるということは、クロスすること。よく数学で使われますが、平行な2本の直線に1本の直線が交わる・・・、などといいますね。つまり、交わるということは、ぶつかることではないでしょうか。

人と人が交わる、人と人がぶつかる。ぶつかって、そして、どうなるか。きっと何かが芽生える、何かが生まれるのではないか。何が生まれるのだろう、そうだ、命が生まれるのだ、と思いました。

 

ここまで考えたとき、交わりの原点は、家庭、家族ではないのだろうか、と思いました。つまり、男性と女性が出会って交わり、その結果、命が生まれる。女性そのものが、交わりの原点なのではないでしょうか。女性は、交わりによって、命を生み、交わりによって育て、そして、その命を守ることに全力を尽くします。そんなことをチョッと考えました。

 

次に、生かす、交わりを生かすとはどういう事なのかと考えてみました。 それは、交わりによって芽生えたものを、育てるということだと思います。 生かすの反対は、殺す。で、交わりを殺すとはどういう事なのかと考えると、交わりによって芽生えたものを、つみとり、潰してしまうことだと思いました。会議の時に、他の人の意見を潰そうとする人がいます。きっと、その行為は、交わりを殺しているのでしょう。ここで、私も、知らず、知らずのうちに交わりを生かさず、殺してしまったことがあるかも知れないとチョッと反省しました。

 

最後のリーダーとは、になります。いままでのリーダーのイメージは、皆を引っ張っていく、先頭を切って走っていくというのがあったと思います。けれども、リーダーは、そこに集まっている人の一人、ひとりの心、思いを理解し、その人の言葉の後ろにある物をみようとする。その人の心に入り込んで自分の心を重ねてみる人だと思います。そして、そこに集まった人の心が一人の人に集中し、集まった人の中から自然にリーダーが生まれてくるのではないでしょうか。

それが、交わりを生かすリーダーなのだと思います。

 

 

全体での 意見交換

(時間の関係から、最初に第1、第3、第5グループからの発言)

第1グループ:

「神にむかうということ」、これは私には前提にはできない。それほどまでに「私は神様から離れた存在である」ということを自分の中で明記しています。「いかに神に向うかということがある」。教会は神の民の集まるところで、集まってくる人は皆、神様をもとめている、苦しんでいる、色々な意味で傷ついている人がいる、そういう中でのリーダーということはどういうことか。この世のリーダーとは全く違うと思うのですね。私はリーダーというのは自分の方がくだけて、くだけて何もなくて神様の救いがないと生きていけない、そこに人に対する広がりがでてくるということだと思うのですね。どこかに、自分の中に自身があったり、いろいろな活動家であったり、皆さんもご苦労していらっしゃることだと思います。教会の中で活動をしていらっしゃるという人はかならず壁を持っていらっしゃいます。壁をのりこえられない弱い人がいるのですね。くだけて、砕けて自分の中になにもない、神様の助け以外には何もないというところに人と繋がり、そして、広がり、そして自分からではないけれども人から自然にリーダーとしてたてられてくる、決して「自分はリーダーになろう」とか、そういう風には思わない。そのことが、私は、皆さん3人の発題された方は思っていらっしゃっても、口には出さなかったと思うのです。私にとってはこれが重大な最大の問題である。そのことを一番苦しんでいます。

それから私達のグループの中で「やはり祈る人ではないか」と云われた方がいましたが。私はプロテスタントですから、「祈り」にたいしては非常に熱心ですが、それでも「祈り」に対しては非常に抵抗を感じています。どうしても祈りに熱心だと形骸化してくるのです。「祈っています」ということで、また、そこで自分自身が出てくる。「祈っています」と言う人は、本当に私は嫌だと思うのですね。ですから、やはり、皆さんの方がすばらしいなと思っています。それで結局は「祈りというのは形ではないということ」を合宿で学んだと思うのですけれども、「形ではない」。それからもうひとつは本を読んで一生懸命学んだのですけれども全部失敗しました。「自分には自分らしい祈りがある」ということ、ですから「自分は自分らしい祈りをしていけばいい」。ことばにならないで形だけで、決まった言葉で言う、でも、神様はそのことすらもわかってくださる。言葉にならなくてもいい。砕けた心が神様にむかっていればいい、そのことが必要だと、このことを私達は皆で確認し合いました。そして3人の方のご意見はやはり神様からあたえられた能力だと思うのですね。本当に教会が素晴らしいというのは、皆それぞれが能力を持っている。その人達、自分達の能力を最大限に生かす、そこにあっては神にあって自信を持つということだと思うのですね。そしてそのことをお互いに認め合うということ、教会の中では何か画一化しようとして、脚をひっぱっていく、同じでないと気がすまない、ということがありますけれども、私はそうではない。すばらしいことはすばらしい、あなたがやっていることはすばらしい、そうやってお互いに認め合う、能力は、神様が与えた能力は違うということを大前提にして。ですから発題者の一人の方が話しをした組織的な事が、私は非常に苦手で大嫌いなのですが、組織を確りやる人がいないと教会はなりたたないのですね。そのように、皆素晴らしい能力を持っているので、その事も聖書に書いてあるのです。「決して今のままで満足してはいけない。とまってはいけない。前に進む。」私はそのことを強調したいのです。

 

第3グループ:

今日の話は「交わりを生かすリーダー」ということで私が非常に尊敬をしているリーダーのことをお話したいと思います。ささやかなことではありますけれども、教会学校に子供達が行っていました時に月に1回教会の掃除を分担していました。全く出席が悪くて、出る人は決まっていて皆こまっていたのですが、その中でもう「聖なるお聖堂の掃除なのであるから、万難を排して参加をするべきである。ですから掃除当番表を作って強制的に割り当てよう」という意見が出ました。それに対して「どうしても出来ない人は出来ないのだからどうしたらいいのだ?」ということで色々と意見が出たのです。

その中でリーダー挌の方が「奉仕というのは喜びをもってするのである。決して強制的に役割を与えて、それがやむを得ない事情で出来ない事を批判するということではおかしいのだ」と発言をされ、皆がそれで納得をし、「自分の時間を捧げて出来ることを喜んでやろう」と。そして出来ない人に対して詮索したり、批判をしたり、また強制的に「こうしなければいけない」というような考え方はやめようということでうまく納まったことがあります。

 

私は今、その事を振りかえって思い出して、何故その方がリーダーとしての資質があるのかというと「夫々の意見を丁寧に聴く」ということ。それ以上にひとつのことを決定する際に「キリストの愛に従うというか、キリストの生き方を中心にしてそれに倣う生き方を今、私達はどのように選択するか」という確実な理念をお持ちだったという、それが、リーダーの資質としてあったから皆が納得したのだと思います。

もうひとつ、分ち合いの中で「交わりということを信仰と理解していない人が多いのではないか?」という発言がありまして、それに対しては各人各様の信仰のあり方が認められなければいけないけれども、多人数が集まる共同体として各自が勝手な信仰理解で勝手な行動をするというのはやはり間違ったあり方だと思います。それで、ここで「勉強が大嫌い」という方が沢山いると思うのですが、別に神学者になるという勉強のレベルではなくても本当に義務教育的なレベルの信仰理解を皆が学ぶ必要があると思います。そういう信仰教育の体制がカトリック教会には組織だって ないということが非常に大きな欠陥だと思っていますので、基本的な信仰理解をきちんと知識として持った上でそれをどのように生きていくのかという信仰のあり方と知識は車の両輪ですから両方を大事にして車の両輪を回していくのが正しいあり方ではないかと思います。

 

5 グループ:

「どういう人が教会のリーダーとして正しいのか」ということを話ました。

最初に出た事は「どんな人の意見も心から聴き取る」これが根本だろう。「最後まで聴く」ということを根本としてコミュニュケーションを作っていく。そして、聴き取ったこと、キリストがすべて多くの民と交わった時に「迅速にこれは善し」と判断されて人々を癒してきた。その姿に私達は倣わなくてはいけない、ということ。結局簡単に言うと、人間のコミュニュケーションと言うのは、どんなことがあっても人の話しを最後まで聴くということ、その聴いたことによって相手を理解でき、心をやわらげ、理解してもらえることは、私達一人一人に資質として今流に言うと、カウンセラーの素質を学んでいかなければ出来ないのだなということを・・・。そういう話をしました。

それから最終的に人の上に立つ教会のリーダーというのは教会という組織の中でリーダーを存続することは最終的には社会に出て教会の組織は、社会に出た時にも、やはり本当に教会の姿がそのまま訴えられるというか、与えられると言うか、そういう状態に持っていけるようなものでなければ本当のものではないのではないか。そういう話し合いになりました。

「人の話に共感する」ということと「感じる」ということは人間の資質、そのひとりひとり、リーダーとなった方がリーダーとして資質を自分なりにいろいろな関わりの中で自分なりに養成していく、自分なりに育てていかなければだめではないか、ダメなのだろうと。そういうような話し合いだったと思います。

 

司会者から 全体での意見交換を導くに当って

「交わりを求めない方が教会にいてそういう方の信仰態度にどうなのか」という話がありましたが、私が属していたグループにもありました。「リーダーがどう関わるか」ということもあるので、このあたり、自分の中で「果たしてどうなのか」というのがあるのです。このことを含めてご意見を頂けたらと思います。自由発言ですから挙手でお願いをします。今発表にはなかったが、「こういう話があった」ということでも結構です。

 

•  教会のミサに来て、何も話をせずにおしらせも聞かずに早々と帰る、そういう信者 何人かいる。ほかの人達といっさい交わりが出来ない状態である。さっさといなくなる。そういう人達とどういう風に関わりを持ったら良いのか。私自身も自分が忙しかったらミサに出るか出ないかという状況の時にそういうことがあったなと反省していますけれども、そういう状態の人とどのように交わっていったら良いのか。
•  そういう人はいるのです。そういう人を無理やり引き込むということは却って負担をかけることになるのではないか。いわゆる自分と価値観が全然違う人達がいるのか、私はいると思っていますが、そういう人達は「人と話したくない」という状況かもしれない。「そういう人達に無理やり話をしましょうよ」というようなことをしない方がいい。
•  神を熱心に求めるあまりに「人が目に入らない」というような、本人に全然悪意はないと思うがみこころを求めてまわりが全然見えないというか・・・。霊性とか何とか言って、そういう傾向があった時もあったのですね。人からも言われたことがあるのです。人の心よりも神、神を知るということに心が熱中している。きっと多くの教会の善意の人々の中にこういうカトリック教会の残照なのでしょうけれども、「神と私との関係」、「人とは関わらないように」というようなことがあったような、人の苦労が何も見えない、世間の人達からは考えられないような偽善というか、ひとりよがりのことがあるのではないでしょうか。

 

参加司祭のコメント         

増田師:

先ほど所属していた分ち合いのグループでのお話をしたいのです。非常に印象的な分ち合いがありまして、交わりを生かすリーダー、交わりと言うよりも、現在よくありがちな小教区の司祭と信徒の関係として、司祭はボスで信徒はそれを「はい、はい」と聞く。それが一番楽であると。自分をボスであると思いこんでいる、猿山のボスであると思いこんでいる司祭が「自分が命令するのが当たり前だ」と、そして猿山の下?と思いこんでいる信徒が「神父樣のおっしゃること何でも、ハイハイ」と。そういう風にしてお互いに共依存関係にあるところで交わりを生かすリーダーとか、学び合いの会へ意識を持ってくる人が「それは違うのではないか?」というと「かえって波風を起こすだけではないか」。その方がそう思っていると言うか、そういうこともあるのではないかということをいっていたのですが、私は「面白い」と思いましたね。そこに満足を持っていない人、問題意識を持っている人がここに集まっているのだと思う。

 

「交わりにおけるリーダー」ということについて、考えるにあたって私がひとつ指摘したい部分ですが、「小教区の主任司祭は教会法上責任を持っているのです。共同で責任を持ちましょう。勿論共同で責任を持つことも出来ますし、一緒に働くことができるのですけれども、教会法上の責任を主任司祭が持っています。司教から派遣されているという責任もあります。ですから、主任司祭は間違いなくその小教区に対して責任を負っていると同時にその小教区のリーダーの一人なのです。つまり、唯一のリーダーと言う必要はないのですが、リーダーの一人でなければ職務を果たせない。同時にリーダーであるということは色々な事に関する「権威を持っている」。権威がなければ責任を遂行できない。その意味で小教区の主任司祭は助任司祭を含めてですが、ある種の権威を持っている。それは唯一のリーダーでもないし、絶対権力を持っているわけでもない。これを区別しないといけないと思う。

 

ではどういう形で権力を遂行するのか。先ほど言ったような形で自分は支配者であるとか、教会の中心であって自分が小教区の共同体を纏め上げる、命令する、管理する、監督する。こういう形のリーダー像とか権威或いは権力の遂行ではないだろうと思いますね。現代これはもう当てはまらない。むしろ、キリスト教の信仰を持っている者として、我々はイエスのリーダーシップのあり方を見ていった時にイエスがそういう形で神の恵みをまず自分がそれを持っていて、それを管理して分配するとか共同体を上位下達形式で自分の共同体 したのか。そうではない。むしろ一生懸命弟子達に任せる、或いは弟子達に信頼を置いて自分の共同体の一員として共同体のメンバーのひとりひとりに働いている聖霊の息吹というものにまかせる信頼は大事だろうと。

 

しかし、そこです。一方で私達は現実的でなければならない。教会共同体の皆さんひとりひとりに聖霊の風が吹いているからその聖霊が一人一人を促して素晴らしい共同体を作り上げるのだと。これはやはり現実的ではないですね。人間、やはり弱さもあるわけです。ぶつかる事や、意見の対立は当然起きてきます。勿論意見の対立は委員会とかそういう場で、あるルールにのっとって対立するだけならばいいのですけれども、噂話が出たり、陰でこそこそしたり。これは残念ですが人間の共同体にはどこでもあります。特にカトリック教会はひどいかもしれません(会場の笑)。その時にひとつ大事なことは権威をもって、人々の間にあるわだかまりや分裂の仲介者、和解者になることですね。和解のための権威、仲介のための権威としてのリーダーシップを発揮する。だから、そういうリーダー像として働くためには当然そういう権威、そういう権力、権力と言うとアレルギー反応を起こす人がいるかもしれませんが、やはり必要だと思うのですね。交わりを生かすためのリーダーというのはまさに支配するための権威ではなく、仲介し和解を推進していくための権威を持っていると。こういう風に考えるべきではないかなと思うのですね。特に現在の日本みたいなところで。

 

今月、我々は特異な時期を生きているわけで、ヨハネ・パウロ・2世が亡くなって、ミサの式文が変わっています。私もミサを司式したり参加したりしますが「私達の教皇ヨハネ・パウロ2世」ではなくなっている。いきなり「私達の司教、ペトロ岡田武夫」(東京の場合)となる。最初はずっとこれまでのリズムがあって、「私達の教皇ヨハネ・パウロ2世」と言っていたが、これがなくなって「ちょっとおかしいな」と言う感じはあったのですが、一方で最近私は今の式文がコンフォタブルで気持ちが良いのですね ( 会場の笑 ) 。何故かというと何故ローマの司教、勿論教皇であり、我々のある種のリーダーである教皇のために祈るということは大事だとは思うのですが、毎回毎回ヨハネ・パウロ2世。私は会った事もないですし、話をしたこともない。あまり親しみを感じないですけれども。

 

一方でヨハネ・パウロ2世は国際政治、教会の中でも偉大なリーダーシップを発揮し沢山の功績を残された方です。しかし、彼も人間ですから彼がやったことがすべてに万々歳ということではない。やはり彼の時代のひとつの大きな、これからずーっと在位期間の反省が出てくると思いますが、リフレクションですね。どういう人だったのか、どういう功罪を遺したの。良いか悪いかは別として、好きか嫌いか、賛成か反対かは別にして客観的に指摘できることはバチカンの中央集権化ですね。バチカンの中央集権化は間違いなく2000年の歴史の中でかつてない程強まってきています。そこで、ヨハネ・パウロ2世自身は子供の頃ナチズムの抑圧を経験し、司祭になってからも共産主義の抑圧の中にあったわけですが、彼の権威とかこの行使を逆説的に学んだと。自分自身が教皇という全教会の全責任を持った時に彼自身はよい事のために、自分の信念に基づいて自由だとか平和のために普及させるために自分の権威や権力を使ったのですが、その権威や権力の行使のスタイルは基本的にはナチズムや共産主義と同じようなスタイルだった。つまり支配的。抑圧的。抑圧的ということばは強すぎるかもしれませんがそういうスタイルだったのではないかな。いろいろな回勅を出したり、文章を出したり、或いは自分がその場に行くわけです。そこでプレゼンスを示す。よい事は沢山あったのですが、やはり中央集権化というのは歴史の中で否めない事実です。色々な歴史学者が存命中から「教皇の中央集権化はカトリック教会 2000 年の歴史の中でこれほど強い時期も珍しい」と言っていました。

 

結局そういうバチカン、司教団との関係がある。司教の交わりのリーダーとしての教皇。基本的には第二バチカン公会議での教会憲章。しかし、現実にはこの教皇の権威とか権力が交わりの中で和解や仲介の権威者ではなくむしろ支配的な形での中央集権的な形での権威、権力の行使が行われていた。そういう関係の中で司教たちが自分の教区に戻れば司教と教区司祭はそういう形になっていく。司教が「自分に責任があるのだから、言う事聞きなさい」。支配的中央集権的な権威、権力の行使になっていく。その関係で育ち、そういう文化の中で息をしている司祭は今度自分の小教区に行けば自分と小教区の信徒の間で同じことを行おうとしている。そういう構図があるのではないかとすごく感じています。カトリック教会の中で一番権力、権威を持っているのはどういうスタイルかは別として、ローマの司教、つまり教皇です。教皇がどのように権力を行使されるのか、そのあたりが実は小教区のレベルに及んでいるのではないか、と私はすごく感じているのですね。

 

むしろヨハネ23世、第2バチカン公会議を開催した教皇ですが、非常にオ―プンで、第2バチカン公会議開催の時に当時の教会が異端視したり危険視した神学者を沢山彼が呼ぶのですね。「彼らを話させましょう。もっと信頼して彼らに話させましょう。話して問題があればその時に皆で話しあえばよいではないですか」と。「これは危険だから、この人は間違っているから、この人は今の教会にとって都合が悪いから呼ばない」からではなく「教会の中にある意見を聞きましょう。もし何かがあれば私がそこに介入します。」介入のし方は黙らせることではなくて、「話し合いをしましょう」という和解と仲介の権力の行使あり方を示そうとしたのです。この意味で「画期的な第2バチカン公会議がこういう方向付けになったわけですけれども、「交わりを生かすリーダー」、交わりを推進しようとすると先ほどEさんが端的に指摘しましたが、「いろいろなぶつかり合いが起きてきます。良い意味でのぶつかり合い。あるいは本当に教会共同体を分裂するようなぶつかり合いが出てきます。」そこで、本当にそれを生かすリーダーというのは和解や仲介の権威を行使するリーダーとして機能する。まさにそれはイエスが示したリーダーとしてのあり方。そしてイエス自身が神と人間の仲介者であった。この我々の信仰構造に基づくあり方ではないかな、そういう風に思います。

 

シェガレ師:

今日は私自身も多くを学びました。「交わり」というのは何かの固定した物にはめ込んでしまうイメージは全く駄目であると思います。「交わり」とは過程(プロセス)であると思うのです。今は離れていると思ってもいつか必ず一致してゆくプロセスでしょう。リーダーにとって必要なのは「祈ること」「聞き入れること」そして、「イエスの生き方に立って考えてみること」であると今日話されたと思いますが、それは大切なことだと私も思います。

 

 

                                以上         文責「学びあいの会」

 

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