「学び合いの会」例会記録
2007年10月20日(土)
年間テーマ:「信仰者の真の自立と真の対話を求めて」
本日のテーマ:「社会生活における信仰者の自立と対話を探る」
参加者: 18名
(今回は「学び合い一年間コース」の講座と日程が重なり、心ならずも欠席となられた方がかなりあったようでした。)
本日の進行:
1) 10:30−11:00 本日の「学び合い」の進め方についての説明
2) 11:00−12:00 グループ別による学び合い
3) 12:10−12 : 55 全体会
4) 連絡事項
(1) 本日の「学び合い」の進め方についての説明
(例会に先立って、司会者より本日の取り進め案及び参考資料をお届けいただいていたので、例会参加者にはそれらが事前に配布されており、当日も手持ちのない方にはお渡しして説明がなされました。)
内容は、次の通りです。
<前回までのサマリー>
第 1 回例会( 4 月 21 日)
* 年間テーマ「 信仰者の真の自立と真の対話を求めて」と 4 回のテーマ説明
* グループ分かち合い
「教会の中での自立と対話、パートT−妨げているものは何かを見極めながら−」
全体会
第 2 回例会( 6 月 23 日)
司会者より『「自立と対話」という年間テーマには、取り付きにくいところがある。教会も 教義も確立していない原始キリスト教共同体の時代に立ち戻り、現代のしがらみを全 て外した心の状態で「自立と対話」を考えてみてはどうか。』との提案があり、その趣旨 に添った学び合いが行われた。
<今回のテーマについて>
* 4 月当初の計画では、第 3 回例会のテーマは、「社会生活における信仰者の自立と対話を探る 。」とされ、「社会の中に信仰者としての自分を置き、そのスタンド・ポイントを探る。」というアプローチが示されていた。しかし 、例えば現在の大きな政治課題などについて、ここで意見を交わしていたら時間がいくら有っても足りないだろう。
* そこで、今日は個々の政治や社会問題などについての見解を述べあうのでなく、むしろ「問題に向き合う時、自立して考えるとはどういうことか」、また「異なる意見を持つ者が、真の対話をするとはどういうことか」、という視点で分かち合ってみたい。
* 私たちが学ぼうとしている 「真の自立」 とは、例えば家庭や教会、職場など、組織の中の優等生として自分の場所を確保したり、社会的・経済的に安定した生き方を獲得したりすることではない。独立したひとつの人格として、自分のアイデンティティ(自分が自分である証)に忠実に生きることを意味している。
一昨年の学び合いのテーマ「交わり」のなかで、「真の交わりは、時として自分を危険にさらすこともある」ことを学んだが、「真の自立」も同様の「 覚悟」 が必要であり、危険や責任を伴うものと考えられる。
また 「真の対話」 の優れた定義のひとつには、『(自立した者同士が、)自分と相手の思考のプロセスに注意を払いながら、相互理解と共通理解を見出し、協働を進めるためのコミュニケーションであり、どこまでも相手の文脈に寄り添うことが求められる。』とある。
さまざまに意見や思想の分かれる政治・宗教・社会問題について、私たちは本当に「相手 の文脈に寄り添って」対話することが出来るのだろうか?今日はこのような視点を意識しな がら、自由・活発に話し合っていただきたい。
(事前配布の参考資料は本記録の末尾に添付しました。)
(2) グループに分かれての学び: 3グループに分かれました。
(3) 全体会
(最初に、それぞれのグループで話題になった事柄のキーワードを挙げて、その後で、本日のテーマにそって、何を感じ、どのように理解したかについて話し合いが自由に行われた。)
キーワードは次の通りです。
1G: ・対話と会話のちがい ・良心 ・市民運動での対話 ・キリストの立場
・教会内での対話 ・信仰の自立 ・信仰者としての自立
2G: ・聴く能力 ・相手に寄り添う ・車間距離 ・真の自立の裏づけ
・気持ちにブレがないことが自立
3G: ・知る力と見抜く力 ・聴く能力 ・自分の主観性(生き方)
・重要なことの見極め(識別) ・他者の目で見ること ・すべての人との対話の姿勢 ・時のしるし ・他人の文脈に寄り添って
自由発言:
このテーマは難しかった。自立と対話がつながらず、具体的な話ができなかった。個人 的には自立と対話のつなぎは「良心」だと考える。
(上記に対しての質問): 良心があるから自立と対話が成立するのか?
・ 自立の根本は良心である。そして良心の裏には愛と聖霊がある。従って良心がしっかりしていないと自立ができないし、対話も出来ない。
・ テーマを決めるときに自立に対話を加えて欲しいという提案があった。自立と対話はセットであると考える。「自立」は前提であり、「自立」だけを考えると今回のテーマからはずれる。
・ (質問): 「市民運動の対話」とは何を意味しているのか?
→ 信仰者としての自分を意識する。
→ 信仰者としての自分を意識するとイエス・キリストに戻る。
→ では、イエス・キリストという共通項のある教会で対話が成り立たないのか?
〈ここで、司教教書など信仰に基づいて素晴らしい内容が書かれているのに、どうしてそれらに関しての対話が教会内でなされないかという疑問に関連して暫く意見が交換された〉
→ それぞれの主観があり、良心がある。
→ しゃべることで自己欺瞞してしまう。自立と自己同一性が必要である。
・ 自立のイメージについて話し合うと時間をとりすぎる。自立した人間がいかに事象と向き合うかを話し合うべきと考える。
・ 対話をするには、 「相手の文脈に寄り添う」 ことが必要、しかし寄り添いすぎると自分の自立性の放棄があり得る。
・ 自分が避けたい人、自分と意見が違う人と話すことが対話ではないか。
・ (質問): 自立しない人との対話も含んでいるのか?
→ 含んでいると思う。色々な種類の対話があり得る。
→ 赤ん坊の要求を探るのも対話である。
・ 自立も対話もこの世にはあまりない。
・ (質問): どうして教会で対話が出来ないのか?
→ 相手の文脈に寄り添うことの必要性。
・ ハードのしたたかさをわきまえてソフトを考える。
・ イエスは自立し対話した人である。聖書のどこでそれを感じるか見直す。自立した神学者が教会を導いてきた。 役割行使は対話を前提としない。 従って、司教教書が、信徒がそれに従うものであるとするならば、対話を前提としていない。 信徒は自分の良心に立脚しなければならない。
・ 「祈り」のなさが対話の欠如につながっているのではないか。祈ることにより得られた実感がある。
良心、神の前の謙遜、あるがままの自分、聖霊と愛
・ 自分を理解させる環境を作る。自立した自分を受け入れて貰える環境を作る。自立した自分を常に発信する。
・ (質問): 具体的にはどういうことか?
→ あるがままの自分を出す。
「相手の文脈に寄り添って」 が本日のキーワードのようだが、それ以外に対話はないの
か?
・ 自分は社会生活の中で、信仰者としての自立性があると見られているのか、認められる自主性があるかどうかを課題にしている。自主性を社会の中で存在感があるかどうかという方向から見ている。
・ 他の人の発言を聞いて安心した。今年度のテーマの中の「社会における」がネックである。同じ土俵に立つ人の中( ex. 教会)でない社会生活で、自分に信仰者としての自主性があるかどうか。
・ 言葉が多すぎると言葉は素通りする。自分の言葉にどれだけ真剣さがあるかであると思う。
・ 言葉が通じない人を受け入れ、寄り添い、祈って待つしかない時がある。
連絡事項:
1. スイドラーさんとのMeetingが真生会館で行われます。
2. フランスへの研修旅行が来年9月に計画されております。参加希望者はお申し込みください。(11月10日現在、既に申し込み者はいっぱいでWaitingになっています。)
3. 「海外ニュース」の配布と意見交換を一部の人が行っています。広く学び合っていけるように、少し情報交換の範囲を広げることが検討されています。
4. 「学び合い全国合宿」の申し込みのご案内は、学習センターで行われている一方、HPにも掲載しております。申し込みは80名まで可能です。
以上
次回例会、 日程:12/15 (土) 森司教のお話の予定です。
(文責:記録作成者)
当日配布の参考資料:
対話について: 伊藤英紀
ダイアローグとは「対話」を意味し、カンバセーション(会話)とは異なる。 会話 は知り合い同士の、お互いの知っている事柄を前提としてなされるものであるのに対して、 対話 は片方にとって、ときには双方にとって知らない事柄についてなされるものであり、単なる「向かい合ってする会話」ではない。自由に考えや思いを伝え合うことにより、自分と相手の思考のプロセスに注意を払いながら、相互理解と共通理解を見出し、協働を進めるためのコミュニケーションである。
したがって、プレゼンテーションの際にテクニックを駆使してスピーチするだけであったり、会話を一方的に支配して自分に都合よく運んだりするやり方はあてはまらない。つまり、ダイアローグにおいては、自分の都合のよい解釈は許されず、どこまでも相手の文脈に寄り添うことが求められる。その意味では、ダイアローグは「知らない」ということに対して開かれていて、話すことよりも相手の言うことを「聞くこと」に重点が置かれているともいえるだろう。
ちなみに、対義語としてあげられるモノローグ(独話)は他者を前にしていても自分だけで話している状態を意味し、相手が話した内容を自分の都合のよいように解釈してしまうことも含まれる。
カレラ著「対話の倫理」の抜粋から: (弱肉強食の)「現代社会における対話は、自分の考えを他人に押しつける闘いの洗練された一手段」という場面にはよく出くわします。
カレラの言葉はこれに対して次のように述べている:
・ 対話とは、他者への愛の一つの形なのだ。この対話は善意あるすべての人によって行われる。
・ 自分の発言の主観性を自覚して、両者の言葉が収斂していく過程にこそ真理が現れる、という事実を受け入れなければならない。
そのための第一歩は、「聞く能力」、他者の目で見、他者を理解する能力である。
対話は、違いを豊かさの源、真理の探究における成長の源と評価することだ。
自分は完全な真理を所有していないことや、対話において自分の殻を破ること、相手に学ぶ態度が必要であることを自覚して、対話に入らなければならない。
人は、愛によって他者を信頼し、身構えをすてて対話に臨まなければならない。
他方、いったん対話が始まったら、たとえ緊急のニーズに迫られて暫定的な合意を得なければならなくても、あわてて合意してしまってはならない。
対話は、すべての人が対話できる状況を求める。対話は支配や暴力の論理を拒絶する。対話は参加者の平等という条件を前提としている。
対話に基づいた倫理は、第三世界に暮らす人々も含めたすべての人が、真に対話に参加できるような社会改革を求める。
対話の文化は不一致も許容しなければならない。
愛とは、自分の告白する価値を自分自身の生活で首尾一貫して実践することである。
教会は、世界との対話を通して自分自身を「対話の共同体」へと変える。真の対話が存在するところに、教会の交わりが持たれる。
教会はその内部において、自分と同じ考えでない人をも愛することが出来る愛に満ちた対話、倫理的価値を押しつけるのではなく、身をもって示す対話を行う必要がある。
教会は、世界を、罪ではなく、聖霊にも満たされていると見なければならない。
私たちは、聖霊をより深く信ずる教会を必要としている。−この点で、東方正教会とのエキュメニズムが大いに役立つだろう。
識別とは、あらゆる環境を福音にしたがって判断する能力のことである。この識別は、時のしるしに対して行われる。教会は聖霊に従って、イエスの福音により忠実な態度や行いとは何かを、祈りのうちに識別することによって、時のしるしを読み取る。−聖霊に忠実な人だけが、新しい状況にあってどの道を選ぶべきかを識別できる。
キリスト教倫理は、−霊性と不可分に結ばれたものとなる。特に社会に蔓延する道徳的相対主義を前に、律法主義の誘惑に乗ってしまいかねない今日、このことを強調しなければならない。教会は、祈りと崇敬のうちに、社会を人間化する価値−私たちを神の国に近づけてくれる価値−を識別しなければならない。
『わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように』(フィリ 1.9-10 )。こうして、世俗的な問題における霊性とキリスト教倫理の分離が解消される。
「対話についての結論」でカレラは、「教会が真に愛と交わりの核であるなら、(さまざまな役務やカリスマを持った)すべてのメンバーの間で、真摯な対話が広く行われなければならない。キリスト者が、非キリスト者に現代社会で行われる対話に参加させるよう要求するなら、そして、その対話が真実なものとなるよう望むなら、まず教会の内部で対話を実践して、よい模範を示さなければならない。教会が愛の共同体となり、愛によって対話の仕方を学んでいくとき、教会は真のキリストの秘跡となる。」と結んでいます。