Thinning: priests and laity united in the pain
寂れる教会: 司祭と信徒の悩みは同じ
ミサの出席者は減る一方です。教会の中核であった頼れる思慮深い信者も教会を去って
行きます。しかし司祭たちは教会に踏み留まっています。彼らは教会(信徒)を守らなけ
ればならないし、実のところ他に行く場所も無いのです。
エリック・ホドゲンス( Eric Hodgens )
(オーストラリアの “ Online Catholics ” 6月7日号の記事です。
Online Catholics (オンライン・カトリックス) は、オーストラリアの信徒の NPO が運営する weekly のホームページです。 http://www.onlinecatholics.com.au/aboutus/aboutus.php )
オーストラリアでは、過去 15 年間、ミサの出席者が確実に減り続けています。
原因の一つは、ジェネレーションXに属する人たち(1961 -1981に生まれた)が13−19歳に達した頃に、彼らの多くが教会を離れてしまったことです。彼らはいま、上限が45歳、下限が25歳になります。彼らの親たちもミサに来なくなりました。また、彼らの子どもたちが教会に戻ってくる兆しも見えません。
しかし、彼らの上の世代、つまり戦後のベビーブーム世代(1940代半ば-1960代半ば)と、その前の「沈黙」の世代(1925-1945)に属する人たちも、同様に減り続けています。その原因は、また別のところにあります。
ある人は「説教の中身が信じられない」と言います。進化論や宇宙の起源を学んだ知性は、聖書の物語を文字通りになぞる説教を到底受け入れられません。物語に隠された寓意は失われてしまいました。
またある人たちは、ローマや一部の司教たちが押し付ける避妊、同性愛、堕胎、婚前性交についての考え方が行き過ぎであり、強迫観念にとらわれているようだと感じています。これは教会の指導力に対する信頼の喪失につながります。ジャック・ドミニオン*と同様に、人々は、性の問題に関する指導は教会当局自身に向けられるべきではないかと感じているのです。
訳 注* ジャック・ドミニオン( Jack Dominion ) カトリック神学者、精神科医。
英セントラル・ミドルセックスの結婚問題研究センター所長。
聖職者による幼児虐待事件で、幻滅と失望感が広がりました。善かれ悪しかれ、より高い倫理を期待されている聖職者が、そのようなスキャンダルに関係するなど許せないというわけです。ボストンのロー枢機卿のよう に 、それまで聖人のように思われてきた人物が新聞種になる度に嫌悪感が高まります。ましてその人物が教会からお墨付きを与えられている場合は、なおさらです。
高位の男性聖職者によって生き方を指図されてきた女性たちの憤懣も、この15年間で大きく膨れ上がりました。
彼女たちはいま、自分を育ててくれた教会、今も大きな心の支えの源泉と信じている教会に、疎外感を覚えています。この「心の支えの源泉」が涸れたとき、彼女たちは静かに去って行きます。
しかしながら、こうした動きの中で、中核をなす人々は教会に忠実を保ってきました。
このグループの一部の人たちは、教会の公式見解を何の疑いもなく受け入れ、若い世代の行動に対しては、首を振って当惑と諦めを表明するだけです。しかし他の人たちは ―教会の公式見解に背いても―「彼らでなく、わたしたちこそが教会の中心」と信じ、しっかりと自分の立場を守ります。その一方で教会上層部と意見が対立したときには、自分の良心に従って問題を解決していきます。この人たちのバックには理解ある友人たちや、小教区、信仰グループの仲間のサポートがあります。
いま、この中核層が危機に直面しています。力があり思慮深い信者は教会を離れようとしています。失望は抑鬱へと変り、ますます悪化しています。新教皇は解決への希望を与えてくれません。ヴァチカンU(の成果)は棚上げされ、或いは破棄されました。彼らはこの戦いに疲れています。疲れ切っています。
この人たちは気付いていないでしょうが、教区で働く司祭の多くが、彼らと全く同じ思いを抱いているのです。司祭たちは、何とか難問を解決しようと熱心に取り組みます。そうすることが、自分たちの受けてきた教育だったからです。しかし、彼らは上に述べた失望の数々を同様に経験しているのです。いや、もっと多いかもしれません。彼らは聖職者の世界の裏側の好ましくないものを見ています。しかし彼らが自分の持ち場に留まっている限り問題は生じません。
この司祭たちは、教会を離れた信者に手を差し伸べています。離婚した 人 たち、カトリックでない夫や妻、同性愛者、同棲カップルに、進んで聖体を授けています。しかし自分の力では、教会を組織的制度的に変えることは出来ないと感じています。
多くの司教は教区司祭を軽視し思い通りに動かそうと考えているようです。司教たちは、ローマの評価を高めるような独自の行動をとろうとしますが、それは司祭にとっては、教区や管区の生活を損なうものに見えるのです。例えばローマが喜ぶような、新しい宗派色の強い活動を命じることです。司祭は、教区でそのような活動をすることに疑念を持ちます。大学の中に秘かに宣教チームを送り込むこと。あるいは管区の若者の組織や、最新のイベントであるワールド・ユース・デーのリーダーに指名されること、など。
しかし、「軽蔑」はお互い様なのです。
司祭たちは、最近の多くの司教令に対して、ほとんど敬意を払っていません。司祭は、司教を、教会の正義を守る自信に満ちた指導者とは認めず、ローマに対するイエスマンと見なしています。司教たちの多くが神学や聖書について無知であるのも困ったことだと思っています。そして司祭たちの目には、司教に任命される人物の多くは、ローマの路線に簡単に自分を合わせることができるような、神学的許容度の広い人たちと映るのです。
それなのに司祭たちはなぜ、愛する信徒たちに倣って教会を去って行かないのでしょうか?
第一の理由は、彼らが自分の小教区とそこの信者たちを大切に思い、教区にヴァチカンUの精神を生かそうと考えているからです。
しかし第二の理由は、彼らは他に行く場所がないという現実です。司祭たちは30年から50年ほどの間報酬を受けて働きますが、蓄えをすることは困難です。司祭職を辞しても、その先に収入の当ては無く、退職金も有りません。昔から「女性を隷属させるためには、外出させず(履物を与えず)妊娠させておけばいい。」と言われてきました。司祭の報酬制度はそれと同様の隷属状態をつくり出しているのです。
いま、現役司祭の3分の2は55歳以上です。その大多数はヴァチカンUの申し子と言って良いでしょう。彼らの多くは、教区の信者たちと同様に、ローマのリーダーシップに失望し、落ち込んでいます。25年以上に亘って教会の公的な指針となってきたヴァチカンUの成果が、捨て去られようとしているのです。やがて彼らの多くは現役を去り、今後20年間その後を埋めることは出来ないでしょう。
僅かながら希望は残されています。2005年のオーストラリア・カトリック司教会議は、その司牧プロジェクト事務局に対し、近年の「中核層*」の教会離れに関して原因調査を行うよう指示しました。教会がその調査結果を生かすことが出来れば、今日の状況を修復することも不可能ではないと思います。
* 参照 : click here http://ppo.catholic.org.au/researcharts/researcharts.shtml#movingAway
http://ppo.catholic.org.au/pdf/Non-attenders%20Preliminary%20Report%20October%2005.pdf
エリック・ホドゲンス( Eric Hodgens ): 1960 年司祭叙階。 1973 年メルボルン大学刑事学修士課程修了。その後オーストラリアの神学校・聖職者に関する統計論文を発表。7年間メルボルン大司教区の司牧人事担当。メルボルン・カトリック司牧計画調査事務局の創立メンバー。カトリック聖職者教育のための全国組織創設時の委員長。現在まで司祭報酬基金と司祭退職基金の委員長。中でも後者の仕事は将来の司祭退職に備えて徹底した統計学的調査が必要。現在メルボルン大司教区の教区司祭。