「学び合いの会」例会記録

2006年6月17日(土)

参加者:総数15名 

 

本日のテーマ: 年間テーマ「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」の第二回目として、本日は

 

「いま、なぜ、福音を語るのか」(使命)」

 

本日の進行: 

1) 10:30 初めに 本日の学びとテーマについて

2) 10:45−11:50 グループによる学び合い

3)  12 : 00−12 : 50  全体会

4) 12:50−13:00 連絡事項

 

•  初めに 本日の学びとテーマについて
今日は、“いま、なぜ福音を語るのか” というテーマで、「グループでの学び合い」を中心に、後で全体での意見交換という予定です。
最初に、今日の集まりの説明役として何をお話すれば良いかを考えていて気づいたことを2点お話させていただきます。

 

1点目は、学び合いの、この仲間同士の気持ちのことです。

「日本人は3つの顔を持っている」と450年前に日本に初めてキリストの福音を伝えに来た外国人(パードレ、ロドリゲス)がローマへの報告の中に書いているとの事です。“@社会の中での顔、A親友に見せる顔、B友達にも見せない自分だけの顔”だそうです。(日本人の顔色を見て、日本人を理解することが相当難しく、苦労したらしく「日本人は嘘つきである」などという手紙もあるそうです。)

それで、今日、ここでは、お互いの顔は、どれで行ってもらえますか。

嘘つきも困りますし、私はわかっているので、わかっていない人に教えてあげようというのはどうでしょうか。昨年のことですが、なんか真剣な口論になったこともあったようですね。お互いに学び合うもの同士、自分もわからないことがあり、他の人に教えてもらうという気持ちということでしょうか。ご本人がかくかくしかじかとお話されているのですから、「ああ、そうですか」と一端は受け止めてから、ゆっくりと相手にわかるように意見交換するのが望ましいでしょうね。相手にぶっきらぼうなことを言って失礼なのも困りますし、一人で長い演説もどうかなあということだろうと思います。願わくは、親友に見せる顔で、誠実にいきたいですね。

 

2点目は、最近、これは「朗報」(福音)と感じたことです。それは、髪の毛が薄くなってきまして、これは老齢のせいですが、頭の地肌がだいぶ透けて見えてきました。髪をくしでなでつけると大事な髪の毛が何本か抜ける、どうしたものか、歳だから、「仕方がない」と思ったりしていたのです。
ところが、あるのですね。薬用ヘヤートニックです。行きつけの散髪屋さんの勧めにしたがって、3ヶ月朝夕、欠かさず使用していると、かなり元に戻ってきたのです。   つまり毛が増えてきたようなのです。これは、朗報、さっそく同様の悩みを持っている兵庫県の兄にメールで知らせました。
同じような悩みを持っている人には、知らせてあげたいですね。
ところが、気がついてみると、育毛剤なんて、雑誌でも TV でもすごく宣伝しているし、種類も多いのですね。いままでは見ていても、信用していないから買う気もなかったのですが、信頼できる行きつけの散髪屋さんが勧めるので使ってみたのです。

 

キリスト教の福音も基本は、自分が気がついて喜び、嬉しく思ったことは何だったのかということではないでしょうか。そして、その喜びを味わいながら生きる、同じような境遇やかかわりのある人に伝えないではおれないようになるものかなと思えました。今日のテーマは、「いま、なぜ福音を語るのか」です。
自分の生活実感から、まったくご自由にグループで「学び合い」を始めたいと思います。
話の入り口として、メモに3つポイントをあげておきました。展開はそれぞれのグループで進めていただいて、全体での集まりでは、ご意見のある方がご自身のお話をいただくようにお願いします。
学び合いのポイント: 

・ 自分は「キリストの福音」をどのようにとらえているか

・ それは他人に語りたいことか、どの範囲の人になら話したいか

・ 語れない、話はしたくないならば、それはなぜでしょうか

 

2) 3つのグループ(5人づつ)に分かれて話し合いが行われました。

 

3) グループ話し合いの後の全体会での主な発言要旨:

(この記録は記録作成者の理解と判断の範囲で要約されたもので、発言者の主旨から外れたところや理解に誤りがあるかもしれません。文責は記録作成者にあります。)

 

A 今日のテーマに関して感じていることを話します。「なぜいま福音を語るのか」といえば、福音をうけとる側の状況、つまり、いま誰がどのような状況で福音を必要としているのかを認識する事が大事ではないかと感じています。福音というものを聖書に書かれている言葉なり、良い知らせと単純にとらえているのですけれども、それがいまの社会、現実の生活の中で、どの部分で必要とされているのかが重要だと思います。
 
歴史的にはいろいろあったかも知れないのですが、ともかくいつの時代にも救いを求めている人がいて、聖書の教えには彼らに理解され、必要とされるものがあったから、彼らに受け入れられた。そのような人たちが大部分であったと思います。いまのわたしたちは現状を確り見て、人々が何を必要としているのかを見定めなくてはいけないのではないかと思います。その認識に関して教会の中で大きな隔たりがあると感じています。聖書には色々なとらえ方があって、同じみことばを聴いても受け取り方はさまざまで、それをもとに日常の生活を生きようとするときに、その方向は様々になるでしょう。この辺のところをもっと話し合いたいと思っています。今はモドカシさやイライラを感じています。
B いまの話には少し引っかかるところがあります。福音をイエスの言葉キリストの言葉と言う主旨のことをいわれましたが、わたしは文字通り福音を「神さまからの良い知らせを聞くこと」だと思います。それを聞くのは誰だと言うことだと思います。聖書の言葉がどの様に福音になるかと言うように聞こえました。わたしには福音が神さまの言葉と言う発想はないのです。それは当然のことだと思うのです。それはこちら側の問題であって。聖書の言葉を必要としている人がいる、とそのような発想はわたしにはないのです。自分が持っているあらゆる枠組みを捨てることが福音だと思っているので、福音を語るとはそのような話をすることだと思っています。聖書の言葉を誰かに伝えなくてはと言うことはわたしにはなじまないなと感じています。
 

C 一番目の発言者はいまの方の理解のような意味でおっしゃったのですか?

 

A 少し違いますが、それはともかくとして、いまの方の云われた、あらゆるものを脱ぎ捨てて、神さまからいただくということはどのようなことでしょうか?
 
B それは神さまと一対一で対峙するときに、わたしがどんな状態であっても神さまの前で隣の人より大きくも小さくもないと感じることです。このことは聖書の言葉に反するのではありませんが・・・・
 

A ご意見、特に異論を感じません・・・・・

 

C 「なぜ語るのか」ということは「どこに語るのか」ということに、つまるところ翻訳できるのでしょう。その辺のところを考えて、お二人の話を理解したいですね。
 
D   「なぜ語るのか」と問われるなら、相手の人が聞きたいと思っているから語るのだと考えます。具体的な質問があればそれに答えますが、そうでなくても相手が聞きたいのではないかと感じたときには、語るという動機を感じます。ですからなぜ語るのかと言われるなら、そのような意味では相手が要求するからと言えると思います。要求もないのに語るのは如何なもんでしょう。いままでの宣教の考え方では機会がよくてもわるくてもともかく折伏せよと教わったと思います。それでもなかなかチャンスがつかまえられなくて、肩身の狭い思いをしたことがある。神父は毎週語れるのだけれども、信徒としてはそうはいかない。宣教とかキリスト教的な活性化とかいった面では信徒は肩身の狭いところにいるのかと思ったこともあります。今はそうではなくて相手の要求に敏感に反応して、自分の大切にしているものを、時を得て、語るのであるということで納得しています。このテーマの表現は良いのだが、議論するとなると容易ではない。

 

E   このテーマから受け止めることは各自異なると思うのですが、わたしが分かち合いたいのは聖書を、その人の生き方のいろいろな場面で、どの様に糧にしていったら良いのかということです。
聖書は自分自身の人間性や人格に高めると言うことでプラスになっています。それぞれの人の生き方や人間像を高めるようにみなが努力してきていると思います。私が今日分かち合いたいのは、キリストが2000年まえ生きて歩まれたエルサレムと弟子たちと実際に交わられたガリラヤ湖に4月に行ってきた体験です。これまで聴いてきた聖書に出てくる物語が、歴史的現実の場に立って、より深く理解できました。これまで以上に聖書が自分にとって大きな力になってゆくだろうとの自信を得ました。今までは一方的に聖書を受け止めてきただけでしたが、これからは自分の生き方としてこうであると、人との関係の中で生かしていこうと考えています。
 
「語る」ということは、人間社会の中で交わりを通じて、自分が他者にしてあげられることで、その方に幸せを与えられるならそれが一番良いことだとおもいます。我々の使命を、他人のために大きな犠牲を払うのではなくとも、心地よい豊かな付き合いを通して、実現してゆくことが一番大事であると思います。人との付き合いを通して、福音の考え方や価値観を示してゆくのが良い意味での語りかけであると思います。そのようにして自分の使命が果たせるのではないかと思います。
 
身近なことですが、結婚40周年になりましたので、子供達の成長と家内の大きな支えを神様に感謝するために、結婚記念ミサを献げる予定です。子供達の伴侶も教会のことがあまり分かりませんので、このミサを通じて、神様の支えがあって、自分が身を持って家庭を築いてきたことを彼らに語りかけたいと考えています。
 
F   形についてはあまりこだわっていません。高校時代に縁があって教会に行き始めて、神さまはおられると言うのが前提にはなります。福音についてはいろいろな考え方があるでしょうが、私は、聖パウロの言葉「あ・よ・へい、即ち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制は霊の実り、神の働き」と覚えており、おまじないのように唱えるとき、神はいつも共におられるという気がします。聖霊の働きとは云いますが、聖書の聖霊降臨の記述の中で、聖霊の働きを「新酒に酔っ払っているのだよ」とあざ笑っている人もいたと書かれています。受け止め方は大きな違いがあります。福音はその人の状況によって福音と感じる人もいれば、感じない人もいると思います。

 

ある人の本によると「時間を守るのは訓練で出来る」「野球の選手が飛んで来る球を横っ飛びに見事に捕球することが出来るのも訓練である」と書かれていました。普通の人は訓練でそれなりの形ができてくると思えるのです。神さまがおられると言うことが生活の中でどこに結びつくかと言えば、私の場合は、困ったことが起こっても、なんとなく「何とかなる」というような気持ちの切り替えであったり、人との付き合いでは挨拶、身だしなみ、笑顔、誠実な生き方を意識することになっていると思います。語るとか云うことではなくて、神様と共に日々生きていることと直接つながっているように思われます。
 
G   福音を語るということは自分の生き方を語るということであると思うのですが。そのような理解でよろしいのでしょうか。

 

H   基本的にはそれで良いと思うのです。これまではそれ以上に何かを求められていたように教えられたように思います。それはチョット違うのではないかと言うことです。ミサでも司祭が変われば変わる。それは司祭がそれまで慣れ親しんできたやりかたをやるからであって、信徒の方は、もっともっと様々な生活のなかで神様とのかかわりがあって、日々生きている。先ずそれで良いのだと肯定することが前提だと思います。だからそれぞれに違いがあるのだと考えています。

 

I   わたしは今日は福音の定義をするつもりはありません。いろいろな考えがあって良いと思いますが、なぜいま福音を語るのかということに関して言えば、先ほどの方のお話にあったように、要求がないのに語るのは無理だと私も感じます。お腹がいっぱいの人は食べたいと思わない、お腹が空いている人が食べたいと思うのでしょう。しかし、お腹が空いている人がいないのかと言うことです。押し付けがましいと思う人がいるかもしれませんが、「派遣されている」とか言われることが共通認識としてあるならば、お腹が空いている人がいることを目をつぶらないで見る必要があるように思います。それぞれの人によって見えるものが違うと思いますが、その点のところが派遣とかミッションとかに関係してくるのではないかと思っています。あつかましくなってしまうようなことはあるかもしれませんが、いま福音を語る必要はあると思っています。それを必要としている人がいると思うからです。そしてそのようなことが出来れば嬉しいと思っています。

 

J   私自身の個人的な体験ですが、15年前に真生会館に足を運んだ理由なんですが、それは語らなくてはならないと言うことでした。それ以前には非常に満足していた教会生活をしていましたが、家庭に不幸が襲った時に、こどもがいくら祈ったって神様はいないよといい始め、それまでの教会の教えに反抗していろいろと突っ込んで来ましたが、私には答えられなかったのです。それまでは、聖書もキチンと読んでいなかったし、教会の教えをキチンと人に語れるように学んでいませんでしたので、どうしたら良いか分かりませんでした。そこで土曜日の仕事が終わってから真生会館に通い始めました。理解し人に分かるように語ろうと決心しました。たった一人の息子のためにです。その学びは10年掛かりました。そして息子も段々に耳を傾けるようになりだしました。反抗し続けた息子が10年たった頃から、神さまは本当にいらっしゃる、と息子の方から言ってくれました。感謝の気持ちでいっぱいになりました。学びを始めるまでは、自分にとっては信仰が支え力になっていると確信はしていましたけれども、それを伝えることは出来なかったのです。いま皆様のお話を聞いている時にそのような忘れていた出来事を思い出しました。このような話をしたのは初めてです。

 

K   カトリック新聞はあまり読む機会がないのですが、政治問題に絡んだ福音の議論が行われているのを見ることがあります。今でしたら憲法改正とか教育基本法とかに関しての議論がなされているでしょうが、その時に思うのは、福音をイデオロギーのように解釈してしまう危険性です。福音はイデオロギーではありません。福音の人類愛といった同じ教えから議論するとしても、例えば、憲法改正に関して、賛成することも反対の立場をとることも出来るでしょう。どちらの立場がより福音的かという議論は出来るでしょうが、***をしないと福音ではないと言った、他者を裁くような言い方は、それこそ福音的ではないでしょう。そんな感じがします。福音はイデオロギーではなく一見対立したような意見でも両方正しいことがあります。

 

それよりも語るとは口で語ることだけが「かたる」ことなのかと言う点です。イエスキリストは神の言葉の顕現なのです。イエスキリストの存在そのものが神の語りかけなのです。生き方そのものが語り掛けです。われわれも言葉で語ることもあるでしょうが、それだけではなくて、福音を語るのは、むしろ、生き方によってでしょう。わたしたち一人一人は神の言葉のある意味での受肉でしょう。神の言葉であるイエスキリストの言葉をいかに受肉していくのか、現実化してゆくのか、が大切になるでしょう。レベルは違うでしょうが、イエスキリストを信じる一人一人が神の言葉の受肉であるといえるのでしょう。そのような神の言葉の現存が世界を大きく生かしてゆき、世界を福音化していくのでしょう。クリスマスの頃に良く聴かれますが、街頭で、マイクで神の言葉と大声で言っているのに出会いますが、あのようなやり方は福音を語るのとは違うように思います。自分の生き方で語るのですが、少なくともキリストの生き方を願う心とか、キリストの生き方を目指すならば、その生き方は福音をかたることになると思います。
 
L   いまの話を聴いていたら、福音を聴きたい人がいたら語ると言う考え方は、何か傲慢な気がしてきました。イエスの言葉を受肉している人の近くに行ってそれに自分も共感することに尽きるように思われます。ですからそのような生き方をするのが福音を語ると言うことではないかと今思います。何かを与えると言ったようなものではないということでしょうか。イエスの言葉を本当に受肉している人というのは、僕らから見ると、ミゼラブルに見えるでしょうね。そのような人に近づくことによって自分にとってもその人にとっても福音になるような気がします。

 

M   福音は私自身にとって必要だと言う感じがしています。私自身に与えられた福音があふれるような感じで人に接することが出来れば良いのだがと思います。自分が福音を語るために具体的に何が必要なのか問題です。

 

いま、父の友人のことを思い出しました。父はいま82歳です。父の教会での友人の奥さんと子供さんは20年前にカトリックからモノミノ塔に移りました。その友人の方はカトリック教会に留まり教会活動を父と共に熱心にしていました。その友人が最近になってモノミノ塔はコンナに素晴らしいと熱心に父を勧誘するようになって来ました。家族がモノミノ塔に移ったきっかけは聖書の勉強をしている時、いろいろ疑問があって神父さんに聞いたけれども満足できる返答が得られなかったので、聖書をもっと良く知りたいとの思いからカトリックを離れたと言うことなのです。子供さんの一人は車椅子に乗るような病気でした。手術をして輸血をする必要がおきましたが、モノミノ塔では輸血を認めませんので結果的にその方は亡くなりました。その時も彼は信仰を守りましたと家族はいっていました。そのような状態が家族の中に起きてもカトリックに留まっていた友人が「いまのカトリック教会では心の平安は与えられない。モノミノ塔の集会に出ると聖書についてもいろいろ教えてくれる。」と云われたそうです。

 

この出来事を聞いてわたしはそこには非常に大きな問題があると感じました。それは、その方にはキリスト教の歴史的にも重要な知識がないということです。また、どちらがより自分に平安を与えてくれるのかと言った観点からカトリックを相対化してしまっている。友人の方がそのような考え方になったその背景には、それまで教会活動をしてきた原点を支える福音の体験が欠けていたのではないかと思われることです。言い換えれば、問題の一つは知識の欠如。二つ目は祈りとかの霊性の養成がなされていないことでしょうか。そこには、これまでのカトリック教会の司牧のあり方の欠陥が凝縮されていると思います。「意識的に学び合いの場を整えてゆく」「霊性の養成をはかること」が出来て初めてわたしたちは福音と云うものを体験しそれを人々にも伝えてゆけるのではないかと思います。

 

司会:

皆様のお手元に、配布した資料は森一弘司教講話集「今、ナイスの意味を問う」(1992年5月、女子パウロ会発行)P22〜から抜粋したものです。これは 1987 年4月に開催された、日本カトリック医師会総会で森司教が話されたものの一部です。

「NICE実行委員会は、各教区から提出されたものを分析検討していく過程で、福音宣教に対していろいろなとらえ方があることに気がつきました。福音宣教に対する考え方に大変な違いがあることに気がついたのです。」と書かれています。

 

我々の今年のテーマ「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」を考えるときにも福音宣教にはいろいろな考え方が現実に存在していると言うことを前提にしたいと考えます。我々「学び合いの会」の参加者の「福音宣教」に関する考えにも多様性があることはこれまでの4月と6月の話し合いの中でも確認されています。自分の考えは多くの考えの中の一つであるとすれば、自分の考えを正解として主張するよりも、なぜそのように考えているのかを自分なりに整理して他者に分かりやすく説明することが大切なように思われます。また、自分と異なった考えの人の発言に注意をはらい、「福音宣教の幅の広さ」を受け止めることが出来れば幸いです。

 

「福音宣教について大きく三つの考え方」 (それぞれの教会像)

1.    ミサとか洗礼とか赦しの秘蹟とかそういう秘蹟を中心にした教会共同体のイメージがあって、その中に周りの人を取り込んでくることを福音宣教ととらえている考え方、つまり、秘蹟を中心にした教会共同体の中に人々を招くための働きを福音宣教とします。(これは伝統的な福音宣教の考え方です。こういう、秘蹟を中心にして福音宣教を考えようという概念は、16世紀ころから強く現れたのでないかと思います。一人でも多くの人に洗礼を授けていこうという宣教の理念は、現代まで大きな影響を与えていると思います。)

 

2.    教会はイエスから正しい価値観とか真理を与えられている。今の日本の社会にはさまざまな歪みがあり不正があるから、この不正とか歪み、過ちに対して価値観と真理を伝えていく、これが福音宣教ではないかという考え方です。世の光、地の塩になる役割があるんだという考え方です。

 

3.    正しい価値観とか真理とかは自分に与えられているから伝えようというのではなく、日本の社会の人々の悲しみや不幸や労苦と一体となって、その人たちと誠実に関わって歩んでいくことを、福音宣教と理解した動きです。共感し、ともに歩んでくれる存在との出会いが希望であり喜びとなるわけです。

洗礼を受けるとか教会共同体に入れるとか、あなたの生き方が間違っているとか云う前に、人間のどろどろとした現実を理解し合い、共感して一緒に手を取り合って歩もうとするところに、福音体験があるのではないか、これが福音宣教だというとらえ方です。

(キリストはこの形から福音宣教を始めたのではないでしょうか。「キリストはわれわれの一人となった」「私達の労苦と重荷を背負われた」ということが、最初の弟子達の体験ではなかったかと思います。)

 

この三つの福音宣教の考え方は、本来は調和すべきことだと思います。実行委員達の報告を受け取って、司教総会議は全国会議の課題とともにメッセージを纏め上げました。そこに非常にデリケートな表現がありました。「どこか遠いところでつくられた信仰様式に生活を無理やりに合わせる努力をするというのではなく」という表現です。

自分達の生活の中から出てくるあかし、形が誕生しなければということです。生活と社会の中に根ざした信仰を育てなければ、教会も福音宣教も開かれていないという自覚から、このようなメッセージが生まれたわけです。さらにメッセージは、カトリック信者としての私たち自身の生活と信仰の遊離、教会と日本の社会からの遊離、これが日本の教会の根本的な問題であると指摘しました。・・・ 日本の教会は自分たちの手で教会の発展を考えていかなければいけないんだよ、ということです。

 

連絡事項:

 

・ 10月例会は10月21日(土)予定通り、「いま、福音をどう伝えるのか」のテーマで学び合いが行われます。
・ 12月例会は、予定日を1月13日(土)・14日(日)とし、1泊2日の合宿に変更される見込みです。場所は、小金井の聖霊修道院の予定(詳細は、後日連絡されます。)

以上

 

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