2008 年度 第 3 回「学び合いの会」例会記録
2008 年 10 月 25 日(土) 13 : 30-16 : 00 真生会館
年間テーマ: 「社会にひびく福音」 本日のテーマ: 「現代人にとっての真の福音」 |
<本日の進行 >
1) 経過報告と本日のテーマ説明
2) 発題 3 名
3) 分かち合い
4) 全体会 意見交換
5) マシア師コメント
6) 連絡事項、解散
◇◇◇
<発題 3 名>
(1) 現代人にとっての真の福音
福音は @良い知らせ、A旧約聖書における神の国の到来の知らせ、B新約聖書においてイエス・キリストが示した「私たちは神の子である」という救いの知らせ、C新約聖書においてパウロが示した「キリストによって罪がつぐなわれた」という救いの知らせ、の4つほどに分けることができる。
@について
ギリシア語のエウアンゲリオン( euangelion )は戦勝報告など、使者の「良い知らせ」を指し、福音と和訳される。英語のゴスペル( gospel )、ヘブライ語ではバーサル( b?sar )という。
親友と争って、相手が赦してくれないために挙動が不安定になった生徒がおり、母親に連 絡し、自宅まで送り届けたたところ、「その友人との人間関係については2、3日前から悩ん でおりました。学校の親切な対応を頂き有難うございます」と喜んで下さった。
(10/22)
文化祭の時、卒業生の母親が来校し、「都立高校に入れたら放ったらかしにされるので、 鶴川高校に入れました。きめ細かく面倒を見て頂いて感謝しています」と御礼を言われた。
(10/18)
ウ . ジョウシ(女性)から苛(いじ)めを受けたという職員への対応を、理事3人が分担して行い、 本 人の気分も治まり、抗議してきた父親も「言い分が聞いてもらえて充分です」と語り、以後、 親も協力的になった。
(10/21)
学園の経営に与(あずか)っていると毎日のように問題が生じる。それを解決した時に、親が 感謝して下さる声、それを「福音」と思っている。
Aについて
旧約聖書の中の「福音」の字句そのものの用例としては、「貧しい者に福音を宣べ伝える」と口語訳聖書(日本聖書協会発行)のイザヤ書61章1節だけにあるといわれている。類似の字句としての「よきおとずれ」(イザヤ書40章9節)などは多くの用例がある
Bについて
旧約聖書の中の「神の子」の字句そのものの用例としては、「それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と共同訳聖書(日本聖書協会発行)のダニエル書3章25節だけにあるといわれている。新約聖書の中の用例としては、「あなたはメシア、生ける神の子です」とマタイによる福音書に多数の用例を見ることができる。
なお、「神の子」とはイエス・キリスト個人を指す場合と、「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とヨハネによる福音書1章12節にあるように、信者全員を指す場合とがある。
さらに、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とローマの信徒への手紙8章14節にあるように、信者でなくても、人間は皆、神の子であると解釈することができる。
キリスト教の立場から言えば、誰(だれ)に対しても「あなたは神の子供なのですよ」と伝えることが福音宣教ということになる。私の母の場合はある人の死をとおして、人間の生死をつかさどる神の存在を悟ったという。
新約聖書を贈呈し、人々をイエス・キリストの救いに導くことを目的としている団体として国際ギデオン協会がある。財団法人日本国際ギデオン協会が発行している『 The Japanese GIDEON 』の第556号から第638号の「証」の欄から要点を抜き出して引用する。引用許可(10/15)は得てある。(エ〜コ)
エ.明瀬(あかせ)恵利奈氏「『沈黙』という遠藤周作氏の本を読み、『神』という存在に対する 問いが始まりました。『顕微鏡で花や虫を細かく見れば見るほど美しいのは一体何故なの だろう』という高校の担任の先生の言葉に、また『神』という存在を意識し始めました。ギデオ ン協会の聖書が配られ、『へんな本だな』と思いましたが、家で読み進めていく内に、涙が 止まらず、読み終える時にはひざまずいてキリストを涙ながらに主として受け入れていまし
た。」
オ.藤本幸恵氏「これからもつらい事や、悲しいことはあると思うけど、神様はそういうことを通し て何かを教えてくれると信じます。私のために祈ってくださった皆様、これからは私は少し
ずつ、同世代の友達が悩んでいる時、悲しんでいる時、嬉しい時にも『神様はあなたを愛し
ている人だよ』と伝えていけたらと思います。」
カ.藤原常隆氏「教育現場(高校)にいて、いつも思わされたことは、今の若者たちの求め続 けている『人生の答え』『からからの渇ききっている心の叫びの答え』が永遠のベストセラー 『聖書の中にある』ということを日本の若者たちは知らないし、このことを大人や友人たちの 誰からも教えられていないのです。」
Cについて
新約聖書の使徒言行録以下には、イエス・キリストによる罪の赦しが強調されている。「この方による罪の赦(ゆる)しが告げ知らされ」(使徒言行録13章38節)、「人々の罪の責任を問うことなく」(コリントの使徒への第二の手紙5章19節)、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙3章21〜26節)などがそれである。
キ.福井時子氏「作文に応募した時、親友は入賞し、私は選外でした。口では「おめでとう」と いい、心の中ではねたましい思いが沸き起こってきて、自分の意志ではどうすることもでき なくて、『だれか私を助けて!』と心の中で叫んでいました。ローマ人への手紙7章23節か ら25節に私の心の中そのままが書かれているのには驚きました。」
ク.横田知子氏「ホームステイ先で『旅人をもてなしなさい。』(ローマ人への手紙12章13節)に従って生きている家人を見、帰国後、教会のチャイムを押し、イエスさまは私の罪のため に十字架にかかってくださったことを受け入れ、イエスさまを自分の主として歩ませていた だくことを決心しました。」
ケ.高谷由実氏「社会に出てはじめて世の中の裏側を目の当たりにし、自分自身の隠れた醜さ にも気付いてしまい、いつも心に虚しさを覚えていました。そんな時、三浦綾子さんの本か ら大きな影響を受け、キリスト教に強く心をひかれたのです。配布されて、捨てられずに持 ち帰り本棚に保管したギデオンの聖書を初めて読んでみようと思いました。イエス様の教え は難しく疑問だらけでした。聖書は再び本棚の一番奥に片付けてしまったのですが、昨 年、神様の不思議なお導きで、キリスト教会の会員となりました。」
コ.前川隆一氏「人を傷つけ、逆に人から傷つけられ、非常に寂しい毎日を送っていました。 牧師から『腕時計は人間の腕にはめられて時計としての用をなすのですよ』といわれてから 人生に行き詰まっていたわたしが、イエス様の十字架の意味も分かり、神の栄光を求めて
生きるようになりました。」
私にとっての福音の始まりとは、22歳の時に古本屋で聖書を購入したことであろうか。その後、原始福音、統一原理、ものみの塔などからのお誘いを受けた。「世の終わりが来る」と言われても頷(うなず)くことは出来なかった。聖書を手にする内に、聖霊(神の作用)があって、一念発起して教会に足を運んだが、福音理解は曖昧模糊(あいまいもこ)としていた。福音の真理を教えて下さったのは、アメリカ人の宣教師 C.A. プレッソン氏であった。「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかけられた。その流された血によって私たちの罪は清められた」と聖書を引用しながら熱心に説明して下さった。
私は「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節・口語訳)を信じた。また、「主は、私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った」(ヨハネの第一の手紙3章16節)を信じた。「主は私の魂を生き返らせ、み名のために私を正しい道に導かれる」(詩篇第23篇3節)とは真実だと断言できる。
2008年9月19日、経営者の会議を終えた私はキリスト教専門の書店に立ち寄り、「福音について書かれている本を下さい」と店員にお願いしたところ、ひと通り店内を探して下さったのだが、見つけることができないで、戻ってきた。「一日中、キリスト教の書物に囲まれているのに、この店員さんは福音についての本を紹介できないのか。聖書を示すだけでもいいのに。」と残念というか気の毒に思った。その直後、入店してきた客の顔が輝いていたので、「福音とは何ですか」と質問してみた。
「イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、私たちの罪を背負って亡くなられました。それによって私たちは罪の呪いから完全に解放されました。これが福音です。グッドニュースです。信ずることにより私たちは永遠の命を受け、神の霊の臨在を体験します。」
まさに立て板に水を流すように福音のポイントを教えて下さったこの人物は、韓国人の宣教師朴(パク)祥栄(サンヨン)氏であった。
クリスチャンは、福音についてすぐに答えられるように備えをしておく必要がある。特に生徒や保護者を相手にし、伝道の第1線に立っている私にはなおさらのことである。
その後、丹念に書架を見て回った私は「福音」と表記されている2冊の本を購入した。1冊目は、ウィリアム・ H ・ウィリモン著、平野克己・笠原信一訳『教会を必要としない人への福音』(日本キリスト教団出版局)である。
目次の前ページには次のように聖書から引用されている。
「主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
モーセの歌(出エジプト記第15章2節)」
29ページに述べられているウィリモン氏の証しの一部を引用する。
『私たちのただ中にある神の神秘は、常にあまりにも貧弱である私たちの信仰に対する臆見によって、堰(せ)き止められることも妨げられることもなく、深く流れている川のようなものであることがわかったのです。私たちの信仰は、生きている間、つま先立ちになって眺めをよくし、首を伸ばして少しでもよく見えるようにすることだけで十分であることがわかったのです。・・・私は自分の信仰を発見したのです。・・・私は何の用意もないままで、信仰に捕らえられたのです。』
2冊目は、井上洋治著『イエスの福音にたたずむ』(日本キリスト教団出版局)である。17ページの一部から引用する。
『私たちキリスト者の人生というのは、神さまが私たちに示してくださったイエスさまこそが私たちを本当の意味で解放し、真の自由と喜びを与えてくださる方なのだと信じて生きることです。このイエスさまがくださる真の自由とは、右にいくか左にいくかという自由とは違います。重み、そして束縛から解放されるという意味であり、それをイエスさまが与えてくださるのだということです。私たちはそれを信じ、イエスさまの弟子として私たちの人生を歩んでいこうというのです。福音というのは喜びの知らせです。本当の喜びは苦しいことをくぐりぬけたときほど分かってくるものではないかと思います。』
(私のまとめ)
現代人にとっての真の福音とは、その人が神の声を聞き分けてそれに従って歩むことであると思う。現実の教会は人の集まりなので、つまずいて失望してしまう。そして卒業クリスチャンになってしまう。ただ、教会にお客として招待して下さったのは神なので教会とは接点を保ちつつ、主イエスを仰ぎ見つつ、神に感謝しつつ、日々生きてゆくしかない。
誰(だれ)もいない夜の御聖堂で、仕事帰りの疲れ切った体を最前列の会衆席に沈め、十字架のキリスト像を見上げながら、神との対話ができること(10/23)、これは私にとってこの上のない幸福であり、これが真の福音であると思っている。
同じようにイエスを家に迎えた時のザアカイの心は、私の何百倍もの至福の境地にあったと思う。(ルカによる福音書19章) 福音とはその人が感じた心の喜びであり、喜びのない福音はありえない。音楽会で歌を聞いて、その人が地上の天国を心に感ずるならば、その喜びの瞬間が福音である。 聖書には「思い悩むな」とある。「神の国を求めなさい」とある。「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカによる福音書12章32節)とある。真の福音とは、その人が福音を体現していること。心のなかに喜びの源を有していること。心に喜びのない人がどうして神の国の福音を伝えることができようか。
「現代人にとっての真の福音」とは、喜びや輝きに満たされている信者によって、ほかの現代人に喜びや輝きが伝えられることである。思い悩みから解放された者は、光輝いて、神を、神の国を、告げ知らせることができる。
また、福音とは聖書からもたされる光である。 「下ではその根が枯れ、上では枝がしおれる」(ヨブ記18章16節)は私の魂をおののかせ、信仰生活の見直しをさせた。この福音の光は私を束縛から解き放ち、天国に向けての備えをさせてくれた。
( 2 ) 現代人にとっての真の福音
カトリック教会の世界に生まれ、そして育ってきた私は、いつも自らの罪を思い、これまでの人生全てを何とか正しい人間になろうと祈り、努力することに費やしてきたと言っても過言ではないような気がします。しかし、いくら祈っても人を羨むし、憎むし、罪深さは少しも減ることはありませんでした。むしろ、罪に罪を更に重ねてきたこれまでの時間でした。
私が福音を感じたのは、自分が罪深さから逃れられないという現実を受け入れた瞬間でした。常に人に追いつこう、できれば人より先に行こうと、自らの非力を責めて、努力を重ね、同時に、自分の罪深さを責め立て、神様から見ても、優れた人間、愛される人間になろうと努力を重ねて来たことがいかに虚しいことであるか。その現実を突きつけられて、私は、初めて自分の存在の小ささとそして意義深さに気づきました。
人間の世界には、心の清らかな人も居れば、罪深い人も居ます。それは、被造物すべてにも当てはまることかもしません。あるいは、一人の人間が、ある瞬間は清らかに輝き、ある瞬間は罪深さに落ち込むと言い換えることもできるでしょう。そんな人間の世界に、神様は私の存在を大切に創造なさったのです。私が素直に物事を受け止めることの出来ない罪深い人間であるからこそ、素直な人が気づかないことに気づくのかも知れません。それで、子供頃から「生意気だ」と言われ続けてきたのかも知れません。生意気な私の存在が、神様に背いている瞬間もあるでしょうが、同時に神様の御心に適っている瞬間もあるでしょう。また、ある存在にとっては私が福音となる瞬間もあるかも知れません。それは神様の取り計らい次第です。
私は拘置所に拘置されている人を訪れることがあるのですが、最近は4人の人を殺害したと思われる人を訪問しています。その人は、いつも看守への不満を言い、自分を正当化し、常識を欠いた身勝手な発言を繰り返します。正直なところ、私は訪問する意味も見いだせませんし、面会の後はいつも虚しい思いでやりきれない気分になります。しかし、私が、その人と同じ人間であることは確かなことです。青年になって手術を受けるまで、その人はほとんど聾唖の状態でした。きっと他者とのコミュニケーションの取り方を学べなかったのでしょう。親の責任もあるでしょう。本人の責任もあるでしょう。では、他の人に責任は全くないのでしょうか。そんな犯罪を犯すような人間は、私と関係のない存在だとどうして言い切れるのでしょうか。
他の場でもお話ししたことですが、先日テレビで見た話なのですが、開高健がベトナムの戦場に行って、少年兵が銃殺されるシーンを目撃したのだそうです。その少年兵は、この先生きていれば何人を殺したか分からない。だからと言って、殺されていいはずはない。では、銃殺している人が悪いのか。ここから先は、私の解釈と言葉になってしまいますが、何が悪で何が善なのか。少年兵が殺されていることそれ自体は絶対悪として存在するけれど、それ以外のすべては相対的な事柄、存在、善悪に過ぎない。そして、単独の人間存在はないのだと、私はつくづくと感じました。
私は、今年30歳になった双子の息子を持っていて、それぞれ既に家庭を持っていますが、私たち夫婦と一つ屋根の下で暮らしています。長男のお嫁さんは立山の麓の地主の家の跡取り娘で、親がこちらに来ることをなかなか許してくれませんでした。この春にやっと無理矢理入籍したのですが、彼女が上京する直接的なきっかけとなったのは、本人の「うつ病」でした。学校を出た後、ふるさとに戻って就職していたのですが、仕事の忙しさと地主の娘として家を守ってきた母親との軋轢でまいってしまったようでした。一方、三年前に結婚した次男のお嫁さんも、新しい生活になかなか馴染みきれなかったようです。私には、二歳半になる女の子と夏に生まれたばかりの男の子の孫も居ます。次世代、その次の世代の人たちに、私たちは何を残せるのでしょうか。第一次産業をないがしろにしてきた国は滅びるぞというのが私の持論です。日本は大丈夫でしょうか?アメリカは大丈夫でしょうか?今、この子、孫たちに何をどう残してやればいいのでしょうか。何が次世代にとっての福音となるのでしょうか。
今の私は、神のみが絶対的存在で、そのことを除いてすべてが相対的であるという感覚に立ち、行き詰まったときには違う生き方があること、自分の存在が小さいものである一方で、掛け替えのないものであると、私の存在、生き方で次世代に伝えたいと考えています。これが、私の残せる福音です。後、何年、私はこの世で過ごすのでしょうか。私の命が次へと繋がって行って欲しいから、私は、そんなことに大切にしながら残りの時間を有意義に過ごしたいと、祈る毎日を送っております。
(3) 現代人にとっての真の福音
この課題は広すぎます。現代人とは誰のことをさすのでしょうか。「真の福音』とはどのように一言で表すでしょうか。ここで現代人の一部と福音の一側面だけについて触れますが、イエスが伝えた福音が現代人の心に響きあうものを提供できるのではないかと思って以下の示唆をまとめました。
現代社会のゆがみの中で次ぎの四点を指摘できると思います。1)生きがいのない状態のための不安、2)帰属する共同体の欠如にともなう孤独、3)世論の操作による麻酔状態、4)世論の操作に埋没し、組織の歯車になる個人の滅亡。
多くの人々は、1)生きがいを与えてくれる力、2)共に生きる場、3)目覚めさせる問いかけ、4)解放される道 を必要としています。
私たちは、イエスが引き起こした運動(福音の運動)を受け継ぎ、それを広めていきたいのですが、生きがいを持って生きること、共に生きること、目覚めて生きること、一人ひとりがみとめられ、その尊厳と人権が尊重されること、そういうことが可能になった世の中を造って生きたい。そういった世の中は神が望まれる世の中であり、「神の国」や「神の場」と呼ばれます。み国が来るように祈り、神の国を待ち望みながら、私たちは神の国の実現のために努めていきたいものです。
これこそ真の良い便り、福音であり、すべて人間にとっての福音だと確信して文化や宗教などを問わず、すべての人間と共に手を組んでこの世で「平和と命の国」をつくっていきたいものです。
前述した現代人の「四つの悩み」を乗り越えようとするとき、どこでも、誰でも悪の問題にぶつかります。その問題を四つの次元でとらえることができます。
イ)個人的な次元で、一人一人の心の中に悪の問題が生じます。パウロのことばを借りて言えば、「私はやりたいと思う善いことをせずに、やりたくないと思うことを行ってしまう」(Rom 7,19)と言えます。生きがいを感じない現代人は自己の中の不安や矛盾に悩まされます。
ロ)インターパーソナルすなわち一対一の人間関係の次元においても、悪の問題にぶつかり、いざとなると悪人に変る人間は、愛からエゴイズムに急に移ってしまう可能性を持っています。帰属する共同体がない現代人は孤独に悩まされます。
ハ)文化的な背景や、無意識のうちに私たちを支配しているものの見方や考え方に影響されて、思想の次元でも、私達は悪の問題に突き当たります。特に、いろいろなイデオロギーにおいて、この問題が注目されます。世論の操作に埋没している現代人はそのような「麻酔状態から目覚める必要があります。
ニ)社会機構や制度のレベルにおいても、悪の問題が生じます。その悪が、誰々のせいである、と割り切って言えない場合が多く、政治、経済、教育の機構において、悪の問題があらわれます。組織の歯車になっている現代人は解放される必要があります。
以上の四つの次元で悪の問題を捉えたうえで、イエスの福音が現代人に対して果たしうる役割があります。一つは建設的な役割で、もう一つは批判的な役割です。建設的な役割とは、個人と社会に意味と希望を与え、兄弟姉妹の人類共同体を作っていくための力を養い、不安と孤独を癒すことです。さらに、批判的な役割とは、個人に対しても、共同体に対しても、エゴイズムと悪の根を告発し、考え方の片寄りやイデオロギーを批判し、かたよった価値基準の偶像を破壊し、あらゆる社会機構と制度の欺瞞を暴露し、組織よりも一人ひとりの人間の尊厳を大事にすることです。
要するに現代人にとっての真の福音が伝えるのは「命・慈悲・真実・正義と平和の国」、「神の国」、「神の場」の建設です。人類が失いつつある大切な「つながり」、つまり、神とのつながり、人と人とのつながり、自然とのつながり、自分自身の心とのつながりを取り戻すようにということです。 (J. マシア)
<分かち合い ・ 全体会>
<マシア神父のコメント>
皆さんの話し合いを伺って次の点について考えさせられました。
1. 現代人に真の福音を道案内したい私たちがその道の途中におり、その道の到達点まで把握しておりません。
2. 現代における社会変化の激しい速度に追われています。新しい疑問に対して従来どおりの表現で答えるわけにはいきません。
3. 私たちは福音について二つの不安を持っています。
1)どのように伝えたらよいでしょうか。
2)伝えようとしている福音はわたしたちが果たして生き方として実感と実践しているのでしょうか。
4. 最後に現代の教会の基本姿勢について一言をもうしあげたいのです。
『現代世界憲章』の33項にあるように、教会は現代の諸問題について出来合いのすべての解決を持ち合わせいるのではなく、聖書から導き出すのは、解決を他の人々と共に捜し求めていくための光と力であるということです。
以上の文責は学び合いの会」にあります。