真の十字架の科学を受け入れる

聖金曜日の福音黙想  トマス・ロシカ師

 

 

トロント , 2009/4/6 (Zenit.org)

毎年、聖金曜日にはヨハネ福音書の受難の物語が読まれます。 忘れ難く、心動かされる物語を通して、死してなお世を統べるイエスが強調されています。

 

イエスの十字架の神秘を黙想するとき、わたしたちは、その受難と死により、イエスがわたしたちにとって如何に大きな存在であったかを学ぶのです。 わたしたちは、自分自身の試練、悲しみ、そして死を味わうのと同じように、イエスの死の痛ましさを味わうよう招かれています。 イエスの十字架は、わたしたちへのメッセージ、語りかけであり、不条理のしるし、そして勝利のしるしでもあります。 わたしたちは十字架を仰ぎ見、そこから溢れ出るいのちのメッセージ、癒しと和解をもたらすメッセージに、忠実に応答するのです。

 

普段とはちがう神秘的な仕草で高々と掲げられる十字架を囲み、それを仰ぎ見て、わたしたちは、自らの闘いの只中に力と希望を見出します。

 

「この人を見よ」

 

イエスを十字架につけたことは、人類が「善」に反して行っている行為の象徴です・・・我々は善を踏みにじっているのです。 ヨハネ福音書の受難の物語で、ポンティオ・ピラトはイエスを群集に示し、「この人を見よ」(見よ、この男だ=新共同訳  19 5 節)と言います。 イエスという逆説的人物と、神の子としてのミッションを示す言葉としては、驚くべき表現ではありませんか!

 

「この人を見よ」・・・素晴らしい人間性の統合による完全な存在。 わたしたちが真に聖とされるために、完全な人間をめざす上で、模範とすべき御方。

 

「この人を見よ」・・・人々のために生き、癒し、回復し、死に至るまで愛した御方。

 

「この人を見よ」・・・女性を弟子とし、生涯の友とする勇気を備えた御方。

 

「この人を見よ」・・・イスラエルの神との、類のない親密な交わりにふさわしく、その神を「お父さん」と呼んだ御方。

 

「この人を見よ」・・・罪の汚れなく、完全な御者として、唯一の、聖なる御者として、この世に来られ、友とする人間に殺された御方。 わたしたちが、かくも待ち焦がれ、愛をささげた、完全な人間なのに、ついには、わたしたちによって傷つけ殺された御方。

 

わたしたちは、生まれたときから、このような自滅的な力、すなわち人間の善を見えなくする根源的な罪によって、闇の中にいます。 わたしたちが原罪について話すとき、このことを念頭においているのではないでしょうか? それは、肉の思いに潜む、底知れぬ自己破壊と自己嫌悪への傾きです。

 

死によって、イエスはわたしたちを解き放

 

共観福音書の記述によれば、イエスは、(早いうちに)家族や弟子、友人たちから引き離され、人々は、イエスが死者の中から復活するまで、その姿を見ることが出来ません。 しかし、ヨハネ福音書では事情が違い、イエスは、少なくとも十字架のもとに来た母と、弟子の一人に別れを告げることが出来ました。 十字架の死の前に、イエスは、愛する弟子に母を、また母には弟子のことを託します。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」 「見なさい。あなたの母です。」 

イエスは、わたしたちの心を、自分の周囲から、もっと広い範囲に解き放ち、すべての人々を自分の霊的な母、父、姉妹・兄弟と自覚させてくれます。

 

その死を通して、イエスは人間同士を隔てる障壁を打ち壊し、その死から溢れ出る人間回復の力によって、新しい家族を生み出します。 死の瞬間に頭を垂れたイエスの姿は、わたしたちの進む道を肯定して頷いた姿と見ることが出来ます。 イエスに従う者にとって、死はいのちに変るのです。

 

十字架の科学

 

この日、イエスの死はわたしたち皆を、とりわけキリスト者とユダヤ人を、互いの心の交わりを感じとり、また、恐るべき分裂状態にある世界をも認識するように招いています。 何事も、何者も、最早このような交わりからわたしたちを引き離すことはできません。 神がイスラエルを、そして分裂した世界を救われた御業に、わたしたちも加えられており、その仲間であり、その恵みを受けている、という思いをわたしたちから取り去ることはできません。 その思いは、わたしたちキリスト者がイスラエルの子、神の御子と信じるイエスの十字架によって喚起されたものです。

 

聖金曜日にあたり、ユダヤ人女性のエディット・シュタインを思い起こしましょう。 彼女は十字架を愛し、それが持つ相克と神秘を、生涯を通じて受け入れた人です。 ドイツ・ケルンの中心部、管区神学校のすぐ近くに、エディット・シュタインの素晴らしい等身大ブロンズ像があります。 その像は、彼女の生涯の、3つの重要な時期におけるそれぞれのエディット・シュタインを表しています

最初の時期は、エドムント・フッサールの弟子であり、若いユダヤ人の哲学者・教師としてのエディットです。 彼女の姿は、瞑想に沈み、ダビデの星がひざに置かれています。

 

二番目の若い女性像は、二つに引き裂かれたエディットを表現しています。 作者は、彼女の頭と顔とを、ほとんど別のもののように創りました。彼女は、ユダヤ教から不可知論へ、さらに無神論へと傾斜していました。それは、苦しみに満ちた真理の探究でした。

 

三番目の像は、テレサ・ベネディクタ修道女としてのエディットを表しています。 そして、「十字架に祝福されたテレサ」の名のとおり、磔刑のキリストを手にしています。 彼女はユダヤ教から無神論を経てキリスト教へと向かったのです。

 

彼女の伝記を読むと、その生涯の重要な時期に、つらい体験をしていることを知ります。 それは、ブレスラウでユダヤ教を捨てようとしていた時のことです。 ケルンのカルメル会への正式入会を控えて、彼女は、母親と向き合わねばなりませんでした。 母は娘に言いました。「エディット、あなたはユダヤ教徒のままでも信仰深くいられると思いませんか?」

 

エディットを答えました。「たしかにそうです。 それしか知らなければね。」

 

母はあきらめかねて言いました。「でも、あなたはどうして彼を知ったの? 彼を悪く言うつもりはないのです。 確かに彼は善い人でした。 でもどうして彼は神になったのですか?」

 

家で過す最後の数週間、そして別れの瞬間はたいへんつらいものでした。 母に、ほんの僅かでも理解してもらうことは不可能でした。 エディットはこう書いています。「けれどもわたしは、こころの深い平和のうちに、神の家の門をくぐりました。」

 

エデイット・シュタインと同じように、わたしたちはイエスとその十字架に出会います。そして、わたしたちは別なことを知っています。 わたしたちは別の「十字架の人」に出会っているのです。 わたしたちは、その方のもとへ行くしかないのです。

 

ケルンのカルメル会に入会した後、彼女は名著「十字架の科学」( Kreuzwissenschaft  −十字架の聖ヨハネについて書かれた。)の執筆を続けました。 その後、妹のローザとともに、ケルンからオランダのエフトへ強制移動させられ、そこから、他のユダヤ人と一緒にアウシュビッツへ移されました。 そして、 1942 10 9 日、ナチの手によってガス室に送られたのです。

 

わたしたちキリストを信じる仲間は、聖金曜日に集って、「この人を見よ」( Ecce Homo )の言葉に従い、キリストを仰ぎ見ます。 その御方は、わたしたちの罪と過ちをすべて背負い、わたしたちに平和をもたらすとともに、ご自分を世に遣わした方(神)と和解させてくださいます。 わたしたちが、十字架のイエスと真の出会いを果たし、受け入れていなければ、どんな努力も空しいのです。 すべての努力の成果は、わたしたちが、如何に、日々イエスとその十字架を受け入れ、過越の神秘によって自分の生活を清めていくかにかかっているのです。

 

イエスの十字架が教えるのは、恐ろしくて思い出したくもない出来事が、美しく、希望に満ちた、新しい生へと変えられたことです。 聖金曜日にあたり、主が天の住まいに迎えてくださる時まで、十字架がわたしたちの真の科学であり、苦しむときの慰め、危険を避ける隠れ家、そして、人生の旅路の守護者であるように祈ります。 日々、十字架のしるしを心に刻み、常に十字架において行動し、宣言するよう心掛けましょう。

 

「父の御名によって」

わたしのこころに触れます

なぜなら、わたしたちは

正義と希望と平和に満ちた世界を創るすべを知らないから

 

「子の御名によって」

身体の中心に触れます

死を通して生に至る道程にある、恐れと苦しみを

受け入れることが出来ますように

 

「聖霊の御名によって」

わたしのこころを抱きます

イエスの十字架の中心を通って、神のやさしいこころが

わたしのこころに、癒しと救いをもたらすということを忘れないように

 

 

◇◇◇


Embracing the True Science of the Cross

Biblical Reflection for Good Friday By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO , APRIL 6, 2009 (Zenit.org).- Each year on Good Friday we read the Passion according to St. John . Throughout this hauntingly moving narrative, there is an emphasis on Jesus' sovereignty even in death.

 

As we contemplate the mystery of Jesus crucified, we learn in his suffering and dying how vast a person he was among us. We are invited to realize the tragedy of Jesus' death in the context of our own trials, sorrows, and deaths. Jesus' cross is a message, a word for us, a sign of contradiction, a sign of victory, and we gaze upon the cross and respond in faith to the message of life which flows from it, a message which brings us healing and reconciliation.

 

As the cross is held high in our midst, in some strange and mysterious way, we look upon it and find strength and hope in the midst of our own struggles.

 

"Ecce Homo"

 

Jesus crucified is the symbol of what humankind does to goodness -- we kill it. It is not evil that we are afraid of but goodness. In John's Passion story, Pontius Pilate presents Jesus to the people with the words: "Ecce Homo" -- Behold the Man (19:5). What an incredible expression to describe the paradoxical person and mission of God's own son!

 

"Ecce Homo" -- in whom humanity was so well integrated that he was fully human and is truly a model for each of how we must be fully human in order to be authentically holy.

 

"Ecce Homo" -- who lived for others, healing them, restoring them and loving them to life.

 

"Ecce Homo" -- who had the courage to choose women as disciples and close friends in his day.

 

"Ecce Homo" -- who claimed to have a unique, personal relationship with the God of Israel whom he called "Abba".

 

"Ecce Homo" -- who came into the world as the sinless one, the perfect one, the just one, the holy one, and his fellow human beings killed him. In the end, we destroy and kill the perfect human being, the very one that we have so longed for and loved.

 

From the very beginning of our lives, we are darkened with this self-destructive force, this primordial sin of being blind to human goodness. Is that not part of what we mean when we speak of original sin: the endless capacity within the human flesh for self-destruction and self-hatred?

 

In his death, Jesus turns us outward

 

In the Synoptic Gospels, Jesus is torn from the midst of his family, disciples and friends, and they don't ever get a chance to see him again until he is raised from the dead. But things are different in John's Gospel where Jesus does get a chance to say good-bye, at least to his mother and one of his male disciples, who are gathered at the foot of his cross. Before he dies on the cross, Jesus commits his beloved disciple to his mother's care and his mother to that disciple's care. "Behold your son! Behold your mother!" Jesus turns us outward toward people to whom we are not physically related, identifying these people as our spiritual mothers, fathers, sisters or brothers.

 

Through his death, Jesus breaks down the barriers between people and creates a new family by the power that flows from his death for humanity. Even the bowing of his head at the moment of death can be interpreted as a nod in their direction. Out of Jesus' death comes life for his followers.

 

The Science of the cross

 

On this day, the death of Jesus invites us all, especially Christians and Jews, into a knowledge of our communion with one another and, a recognition of the terrible brokenness of the world. Nothing and no one can ever wrench us away any longer from that communion. Nothing can remove our sense of belonging to, participating in, and being the beneficiaries of God's saving encounter with Israel and with the broken world, which occurred in the crucifixion of Jesus, who we Christians believe to be son of Israel and Son of God.

 

On Good Friday, let us remember a Jewish woman, Edith Stein, who loved the cross and embraced its contradiction and mystery throughout her own life. There is a marvelous, life-size, bronze sculpture Edith Stein in the center of the German city of Cologne , close to the archdiocesan seminary. The sculpture depicts three Edith Steins at the three critical moments of her life. The first moment presents Edith as the young, Jewish philosopher and professor, a student of Edmund Husserl. Edith is presented deep in meditation and a Star of David leans against her knee.

 

The second depiction of the young woman shows Edith split in two. The artist shows her face and head almost divided. She moved from Judaism to agnosticism and even atheism. Hers was a painful search for the truth.

 

The third representation is Edith as Sister Teresa Benedicta of the Cross, and she holds in her arms the crucified Christ: "Teresa blessed by the Cross" as her name indicates. She moved from Judaism, through atheism, to Christianity.

 

In her biography, we find a poignant moment from the critical period in her life, in Breslau , when she was moving beyond Judaism. Before her official entrance into the Carmel of Cologne, she had to face her Jewish mother. Her mother said to her daughter: "Edith, You can be religious also in the Jewish faith, don't you think?"

 

Edith responded: "Sure, when you have never known anything else."

 

Then her mother desperately replied: "And you, why did you know him? I don't want to say anything against him; certainly he was a very good man; but why did he become God?"

 

The last weeks at home and the moment of separation were very painful. It was impossible to make her mother understand even a little. Edith wrote: "And yet I crossed the threshold of the Lord's house in profound peace."

 

Like Edith Stein, we encounter Jesus and his cross, and we have known something else. We have met Someone else: the Man of the cross. We have no alternative but to go to him.

 

After Edith had entered the Cologne Carmel, she continued to write her great work on the cross: "Kreuzwissenschaft" -- the science of the cross. From Cologne she and her sister Rosa were deported to Echt in Holland and then rounded up with other Jews only to be sent to Auschwitz where she and sister were burned to death by the evil Nazi regime on Aug. 9, 1942.

 

On Good Friday we gather together as the Christian community to "behold the man" -- "Ecce Homo" -- and to gaze upon Jesus, who took upon himself all of our sins and failings so that we could experience peace and reconciliation with the One who sent him. If we have not truly encountered and embraced the Man of the cross our efforts are in vain. The validity of all of our efforts is determined by our embracing Jesus and his cross each day, by allowing the Paschal mystery to transfigure our lives.

 

The cross of Jesus teaches us that what could have remained hideous and beyond remembrance is transformed into beauty, hope and new life. On Good Friday, may the cross be our true science, our comfort in time of trouble, our refuge in the face of danger, our safeguard on life's journey, until the Lord welcomes us to our heavenly home. Let us continue to mark ourselves daily with the sign of the cross, and be ever mindful of what we are truly doing and professing with this sign:

 

"In the Name of the Father"

We touch our minds because we know

So little how to create a world of justice, peace and hope.

 

"In the Name of the Son"

We touch the center of our body

To bring acceptance to the fears and pain

Stemming from our own passage through death to life.

 

"In the Name of the Spirit"

We embrace our heart

To remember that from the center of the Cross of Jesus,

God's vulnerable heart

Can bring healing and salvation to our own.

 

 

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聖金曜日・聖書朗読個所

   *第一朗読   イザヤ 52 : 13 ? 53:12

   *第二朗読   ヘブライ 4 : 14-16 、 5 : 7-9

   *受難の朗読   ヨハネ 18 : 1 − 19:42

全文掲載は省かせていただきます。

 

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