モリア、タボル、カルワリオ: 暗闇を輝かすもの                                     四旬節第 2 主日( 2009/3/8 ) 福音黙想  トマス・ロシカ師

モリア、シナイ、ネボ、カルメル、ホレブ、ギルボア、ゲリジム、祝福の山(山上の垂訓の山)、タボル、ヘルモン、シオン、オリーブ山、カルワリオ、ゴルゴタ。 これらの山々は、神とその民との重要な出会いの場として、聖書の中でしばしば使われます。 聖書の地を訪れることがなくても、これら聖書に出てくる山々と、そこで起こった救いの歴史の偉大な出来事は、よく知っています。

今日の旧約聖書と福音書の朗読は、聖書にある二つの重要な山が舞台です。 それはモリア山と、タボル山です。 この朗読は両方とも、神と、救い主である御子イエスにについて深い洞察を与えます。 まず、創世記 22 1 19 節のアブラハムによるイサクの犠牲の物語について考えましょ う 。 この物語は、ヘブライ語で Akedah ( アケダー: アラム語の「結ぶ、きずな」のローマ字表記)と呼ばれます。 そして、現代的な考え方からすれば問題になる話かも知れません。 すなわち、父親に自分の息子を殺せと命じる神とは一体どのよ う な神なのか?

このとき、どれほど多くの異教徒がアブラハムを批判したことでしょ う か? 神が自分のひとり息子を犠牲にささげるよ う に命じたら、今の時代の父親はどうするでしょ う か? 父親がそのよ う なことを考えるだけでも、精神異常と思われるか、あるいは神に背いていると思われるでしょ う 。 実に悲惨な物語です。                                                           (神は命じます:) 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、・・・ 彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。 そこでアブラハムは朝早く起きた。」 (神が命じられた場所に着き、息子を屠ろ う としたとき、) アブラハムは主の御使いの声を聞き、それに聞き従ったので、彼の独り息子は助かりました。 ですから、「イサクの燔祭」は、死ではなく生のシンボルなのです。 すなわち、アブラハムは息子を犠牲に捧げてはならない、と命じられたからです。

モリア山で起こったことは、新約聖書の、タボル山とカルワリオの丘の上で起こったことと共鳴します。 これら三つの山々は、聖書におけるビジョンの重要な場所です。 なぜなら、これらの山の上で、わたしたちは神を見るからです。 その神は、絶望、恐怖の最中でも、死に直面しても、決してわたしたちを見捨てません。 神はどんな時でも、昼となく、夜となく、わたしたちと共に居られます。

これらの山々は、自分のもっとも大切なものを、喜んで手放し、それを与えてくださった神にささげるときに初めて、自分が期待も想像もしない方法で、戻ってくることをわたしたちに教えます。 そのときに初めて、わたしたちは復活、癒し、慰めの光と、新しいいのちを体験するのです。

福音のなかでも最も神秘的で畏れ多い光景である、ご変容の物語(マルコ 9 2-8  マタイ 17 1-8  ルカ 9 28-36 )の背後にあるものは憶測の域をでません -- ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、タボル山の上で、主イエスと共に驚くべき経験をしたのです。 誘惑の夜の後、ゴルゴタの暗黒に先立って、栄光に満ちたご変容の光が輝きわたったのです。 彼らの目の前で、自分たちが知っている、そして共に歩いてきたイエスが変容したのです。 イエスの顔は光を放ち、服は真っ白に輝いていました。 栄光に包まれるイエスの両側に、イスラエルの民を奴隷の地から導き出した、力ある解放者・モーセと、イスラエルの最大の預言者・エリヤが立っていました。

イエスは、ご自身の生涯の中で、山上での体験による、光と確約を必要とされました。 ご受難の予感の只中で、イエスはタボル山を必要とされました。 それはヨルダンの峡谷を南下し、エルサレムに向かうイエスを強めるためでした。 その後の弟子たちにとっても、それは同様でした。 イエスに従う人々は、この世の中の、人生の中の「神の現存の神秘」を一目見るために、その山に登らねばなりません。 そしてマルコ福音書のご変容の物語は、黙想の中でそれを見つめるだけでは不十分なことを悟らせてくれます。 弟子たちは、神の愛する子・イエスに聞き従うように命じられますが、その後は、峡谷に降り、普段の生活に戻ったのでした。

ご変容についての畏敬すべき福音書の物語は、わたしたち自身の「山上の経験」に目を向けさせてくれます。 その経験が、どれほど、人生の不幸と暗闇に光を注いでくれたことでしょうか。 この山上の経験がなければ、わたしたちの生活はどのようなものになるでしょうか。 この、めったに無い大切な経験が、幾度か、力と、勇気と、洞察の糧になっているではありませんか。 この山上の経験によって、わたしたちは、どれほど神の声に注意深くなったでしょうか ― その声は、わたしたちの信仰の忠実と真正さを求めます。 峡谷の低地にいるとき、わたしたちはしばしばキリストの栄光を見ることができません。

ご変容のメッセージで最大のなぐさめを受けるのは、たぶん苦しむ人々であり、自分や愛する人々の身体の障害を目にする人々でしょう。 イエスも、ご受難の中で身体が傷められますが、栄光に満ちた身体で復活され、その姿で永遠に生きておられます。そして信仰は、わたしたちが死後、そのイエスに出会うであろうと告げるのです。

多くの声に妨げられて、神の声に耳を傾けることがむつかしいのです。 光に包まれる前に、わたしたちは暗闇を通らねばなりません。 天国が開ける前に、わたしたちは汚泥の道を歩まなければなりません。 神の栄光を見るためには、わたしたちは、タボルの山とゴルゴタの丘の両方を体験する必要があります。 ご変容は、神の輝かしいいのちが、死をも含んでいることを教えます。 それを避ける道はなく、必ずそこを通らねばならないのです。

それはまた、恐ろしい暗黒が、輝かしく、まぶしいものでもあり得ることを気づかせます。 ご変容のさなかに、神は、わたしたちの内にある頑なで、疑い深く、平静を失いがちな心の領域を貫き通します。 わたしたちは自分の心をどう扱えばよいのかわからないのです。 神はそこに、ご自身の御顔の刻印( imprint )をお残しになります。 それは栄光と美しさとがまぶしく輝く刻印です。

 

◇◇◇


Moriah, Tabor, Calvary: Darkness Can Be Radiant Biblical Reflection for 2nd Sunday of Lent 2009
By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO , MARCH 4, 2009 ( Zenit.org ).- Moriah. Sinai. Nebo. Carmel . Horeb. Gilboa. Gerizim. Mount of Beatitudes. Tabor. Hermon. Zion . Mount of Olives . Calvary . Golgotha . Mountains are often used in the Bible as the stages of important encounters between God and his people. Though we may have never visited the lands of the Bible, we are all familiar with these biblical mountains and the great events of our salvation history that took place there.

Today's Old Testament and Gospel reading take place on two important biblical mountains-- Mount Moriah and Mount Tabor . Both readings give us profound insights into our God and his Son, Jesus, who is our Savior. First let us consider the story of the sacrifice of Isaac by his father Abraham as portrayed in Genesis 22:1-19. The story is called the Akedah in Hebrew (Anglicization of the Aramaic word for "binding") and it easily provokes scandal for the modern mind: What sort of God is this who can command a father to kill his own son?

How many pagan voices were assailing Abraham at this moment? What would a contemporary father do if he were to be called on to sacrifice his only son to God? He would be thought mad if he even considered it -- and unfaithful to God as well. What a poignant story indeed!

"Take your son, your only son Isaac whom you love ... and offer him as a burnt offering. ... So Abraham rose early in the morning." Because Abraham listened to the Lord's messenger, his only son's life was spared. The binding of Isaac, then, is a symbol of life, not death, for Abraham is forbidden to sacrifice his son.

What happens on Mount Moriah finds an echo in what happens atop Mount Tabor and Mount Calvary in the New Testament: The mounts Moriah, Tabor and Calvary are significant places of vision in the Bible. For on these peaks, we see a God who never abandons us in our deepest despair, terror and death. God is with us through thick and thin, through day and night.

 

These mountains teach us that it is only when we are willing to let go of what we love most and cherish most in this life, to offer it back to God, the giver of all good gifts, that we can ever hope to receive it back in ways we never dreamed of or imagined. Only then will we experience resurrection, healing, consoling light and new life.

We can only speculate on what lies behind the story of the Transfiguratione of the Gospel's most mysterious and awesome visions (Mark 9:2-8; Matthew 17:1-8; Luke 9:28-36). Peter, James and John had an overwhelming experience with the Lord on Mount Tabor . Following the night of temptation and preceding the blackness of Golgotha , the glorious rays of the Transfiguration burst forth. Before their eyes, the Jesus they had known and with whom they walked became transfigured. His countenance was radiant; his garments streaming with white light. At his side, enveloped in glory, stood Moses, the mighty liberator, who had led Israel out of slavery, and Elijah, the greatest of Israel 's prophets.

Jesus needed the light and affirmation of the mountaintop experience in his own life. In the midst of his passion predictions, he needed Mount Tabor , to strengthen him as he descended into the Jordan Valley and made his way up to Jerusalem . For every disciple since, it is the same. Those who follow Jesus must ascend the mountain to catch a glimpse of the mystery of God's presence in our world and in our lives. And yet Mark's story of Jesus transfigured reminds us that gazing in contemplation is not enough. The disciples are told to listen to Jesus, the Beloved of God, and then return to their daily routine down in the valley.

The awesome Gospel story of the Transfiguration gives us an opportunity to look at some of our own mountaintop experiences. How have such experiences shed light on the shadows and darkness of life? What would our lives be without some of these peak experiences? How often do we turn to those few but significant experiences for strength, courage and perspective? How has the mountaintop experience enabled us to listen more attentively to God's voice -- a calling us to fidelity and authenticity in our belief? When we're down in the valley we often can't see Christ's glory.

The most consoling message of the Transfiguration is perhaps for those who suffer, and those who witness the deformation of their own bodies and the bodies of their loved ones. Even Jesus will be disfigured in the passion, but will rise with a glorious body with which he will live for eternity and, faith tells us, with which he will meet us after death.

So many voices assail us that we find it difficult to listen to God's voice. Before light envelops us, we need to go through darkness. Before the heavens open up, we need to go through the mud and dirt. We must experience both mountains -- Tabor and Golgotha -- in order to see the glory of God. The Transfiguration teaches us that God's brilliant life included death, and there is no way around it -- only through it.

It also reminds us that the terrifying darkness can be radiant and dazzling. During moments of transfiguration, God penetrates the hardened, incredulous, even disquieting regions within us, about which we really do not know what to do, and he leaves upon them the imprint of his own face, in all its radiant and dazzling glory and beauty.

Basilian Father Thomas Rosica is a consultor to the Pontifical Council for Social Communications and the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada. He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org .

 

 


朗読:

 

創世記 22:1-2, 9a, 10-13, 15-18; 22:1 : これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

ロマ 8:31b-34 : では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 

マルコ 9:2-10 : 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 

home page

聖書の味読ロシカ師説教集