(訳注:今週の第一朗読は、日本では創世記 (3 : 16-19 )ですが、カナダではレビ記( 13 : 1-2, 44-46 )
が読まれます。従ってカナダのロシカ師のコメンタリーは分かりにくいところがあるかもしれません。 )
この世の墓場を恐れずに
2009/2/15 年間第 6 主日の福音黙想 トマス・ロシカ師
この日曜の朗読は、その正否はともかく、通常ハンセン病と表示される症状の重い皮膚病の人に課される厳しい律法の要点を述べます。 ( レビ記 13:1-2; 44-46)
歴史を通して、ハンセン病として知られる苦しみほど、恐れられ、忌避された病気はありません。それは古代の人々の間で共通して厳しかったので、レビ記
13 章・
14 章の記述にあるように、ハンセン病の対処の指示を神がモーセに与えたほどでした。 神だけがハンセン病を癒せるという信仰が
( 神の子である
) イエスのアイデンティティ(真性)を証明する、今日の福音の奇跡を理解する鍵なのです。
聖書に現れるハンセン病は、二つの原則的なフォームをとります。 どちらも、「皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて」退色する症状で始まります。 この病気は全身におよび、皮膚と同じく内臓が侵されます。 骨の間の組織が劣化して、失われると、手足の変形が起こります。
イエスの時代には、患者は、家族と友人から分けられ、共同体の外に追出されたので、人と人とのふれあいを知らない生活を送りました。 レビ記 13 章45 - 46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」という記述があります。
これら住む家の無い人たちは、健康な人が近づくと、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ 13:45 )と呼ばわらねばならなかったのです。 患者たちは、病気と村八分に苦しみました。 結局は、この両方の現実が、犠牲者たちの生活を破壊したのです。わたしたちには、社会的な追放か、皮膚の傷害のどちらがより悪いのか、分かりかねます。
マルコ 1 章40節は、突然に「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い」出た、と語ります。 このような病気でさえ、叱り付けて追出してくださる、イエスの奇跡的な力のうわさが広まっていました。 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と病人はイエスに言います。 イエスに近づくことで、この病人はレビ記の規定を犯していました。 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言うことで、病人はイエスのいやしの力を全く信頼すると共に、イエスに、実際にそうして下さるように願っているのです。
古代の地中海世界では、ハンセン病患者にふれることは、過激な行いでした。 あざけり罵られる追放者にふれることで、イエスは、レビ記に定められた規則を公然と無視しました。 この皮膚病の完治宣言は祭司だけに許されていました。 古代の律法定めに従って、イエスはその男を確認のために祭司のもとに送りました。 イエスが黙っているようにと求めたにも拘らず、この男は、この大きな奇跡を皆に言いふらしました。
わたしロシカのハンセン病患者との出会い:
わたしは、聖地で聖書研究過程を卒業しようとしていたときまで、ハンセン病患者に出会ったことはありませんでした。 エルサレムに居た 1992 年に、聖心女子修道会から、聖書の教えと説教のためにエジプトで数週間過すように招かれました。 最初はカイロで、それからナイル河上流の上部エジプトで過ごしました。
多くの非常に貧しいキリスト教徒の村々を訪れましたが、そこでは修道女たちが、貧困者中の最貧者の中で働いていました。 この旅行はわたしにとって忘れ得ぬものとなりました。 その理由は、その途上で出会った一人の信仰のあつい女性と、そこで見た恐るべき人間の苦しみの状態のためです。
ナイル河沿いのエジプトの村々の一つに着いたとき、一人の修道女が、その中心地からわたしを連れ出し、ハンセン病と重症の身体障害者が隔離されている地域に連れて行きました。 彼らは、鎖でつながれ、文明とは隔絶した地下の地域に隔離されていました。 それはあたかも生ける屍の墓場に入ったかのようでした。 彼らの住処は、動物のそれよりも悪く、悪臭が立ちこめ、それはひどい、信じがたい悲惨な状態でした。 わたしは何軒かの掘立小屋に降りて入り、つたないアラビヤ語で祝福し、一人ひとりに祈りを唱えました。 一緒に来た修道女は、「ただ、彼らにふれてごらんなさい。あの人たちが動物やモンスターのように扱われているとき、『ふれる」ということが何を意味するか、あなたには分からないでしょう。」
これらの病人男女の多くにわたしは手を置き、彼らのゆがんだ顔や身体にふれました。 その男や女と、そして何人かの子供たちが、初めは金切り声をあげて、それから手を拡げて泣き出しとき、涙がわたしの顔を流れ落ちました。 彼らは近寄って 、 わたしを抱きしめました。 それからわたしたちは、コカコラを一緒に飲んだのです。 あのエジプトの奥地での忘れられない数日は、イエスの時代のハンセン病患者が、社会的に、肉体的に置かれていた状態を教えました。 現在でも、当時との大きな違いはありませんでした。 社会から放逐された人々の中のイエスの物語を聞くとき、どうぞカトリック教会の伝統の中で際立つ三人の人たちの生活を思い出してください。 彼らはハンセン病患者と共に働き、この衰弱する病に悩む人々に触れ、抱きしめて暮らしたのです。
第一は、モロカイのダミアン神父として知られるベルギー人の Joseph De Veuster 神父です。 彼は 1840 年にベルギーに生まれ、 20 歳で聖心会に入り、ハワイ諸島の宣教に送られました。 9 年間の司祭職の仕事の後に、 1873 年にモロカイ島に放逐されたハンセン病患者の中で共に働く許可を得ました。 ダミアン神父と共に、わたしたちがこの世の墓場を恐れないように祈りましょう。 ダミアン神父は、モロカイのハンセン病患者の住居に ― 当時、「墓場であり、生きる者の地獄」と考えられていた場所 ― 降りて行きました。 その最初の説教から、彼はその不幸な人々を抱きしめて、「わたしたちハンセン病患者は」 と淡々と語りました。 「神父、お気をつけなさい。 あなたに病気がうつるかもしれませんから。」と言った患者に、彼は答えました。 「わたしの身体はわたしのものです。病気がわたしの身体を奪っても、神は、もう一つくださるでしょう。」 彼は、1 885 年にハンセン病に罹り、 1889 年 4 月に亡くなりました。 他者への愛の犠牲者です。 1 99 4 年に教皇ヨハネ・パウロ U 世はダミアン神父を列福しました。
第二は、モロカイのハンセン病患者の母、 Marianne
Cope 修道女
(1838?1918) です。 彼女は、 1880
年代に、米国シラキュース市のフランシスコ女子修道会の責任者として、ハワイ、モロカイ島のハンセン病患者の援助の召命に応えました。 彼女は、ダミアン神父や、社会から放逐され家族のもとに帰ることのない人々と共に働きました。
19 世終わりから 20 世紀初め、モロカイ島とカラウパパ半島のハンセン病患者の 10 %は、仏教徒でした。 多くの人は、ポリネシア諸島の土着宗教を実践していました。 一部は、プロテスタントで他の一部はカトリックでした。 マリアンヌ修道女は、彼ら全てを愛し、ハンセン病患者に心からの同情を寄せました。 この諸島の信仰をもつ人々は、どの宗教の人でも、全て今でも、心身のいやしをもたらしたダミアン神父とマリアンヌ修道女を尊敬しています。
恐れるな: 最後に、カルカッタのマザー・テレサ (1910-1997) を思い起こしましょう。 彼女は、貧困者中の最貧者の苦悩の中に、イエスの顔を見、それにふれることを恐れませんでした。 マザー・テレサはこう書いています: 「心の満ち足りは、わたしたちの行いの中で見えるものとなります。 このハンセン病患者とどうふるまい、この死にかかっている人にどうふるまうか、このホームレスにどうふるまうのか。 わたしたちのホスピスで死にかかっている人よりも、失意の人と共に働くことの方がむつかしいことが時々あります。 どうしてかというと、前者には平和があり、間もなく神の御元にゆくのを待っているからです。」
「わたしたちは、病気の人やハンセン病患者に近寄り、キリストの身体にふれていると確信することが出来ます。 でも、それが、泥酔して、叫び声を挙げている人のときは、その人のうちに隠れているイエスと顔を向き合わせていると考えるのは困難なことです。 これらの人々への同情(共感)を示すために、わたしたちの手は、どれほど清く、美しくあらねばならないことでしょう!」
「霊的に失われた人の中のイエスを見るには、きよい心が必要です。 イエスの顔を探し求め、愛の奉仕をするとき、相手の人の中の神のイメージが崩れれば崩れるほど、わたしたちの信仰と崇敬は一層大きくなければなりません。」
ほとんどの人はハンセン病患者に出会うことはないでしょう。 社会から完全に排斥されることの意味を知ることもないでしょう。 しかし、今日、別の形のハンセン病が存在します。それは人類を破滅し、彼らの希望と精神を殺し、彼らを社会から隔離する病です。 他者を非難し、隔離し、回避し、生活の場から他者を締め出す病に冒された、わたしたちの生活の中にある新たなハンセン病とはだれのことでしょうか? 今日、人々を、生ける屍同然にし、深い恥辱の墓場や牢獄に追いやるもの。 あるいは、絶望、孤独、暴力、悲哀、抑圧、放浪、麻薬、心の病に追いやる社会的条件とは、いったい何でしょうか?
さあ、この世の墓場を恐れないようにしましょう。 その掘立て小屋に入りましょう。 そして慰めの言葉、いやしの姿勢を運びましょう。 カルカタのマザー・テレサの言葉です: 「深い感謝の念を以って、そして敬虔なこころを以ってそのように行いましょう。 奉仕の中でのわたしたちの愛と喜びとは、自分の仕事が嫌なものである度合いに比例して大きくなるものです。」
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バシル会のトマス・ロシカ神父は、カナダの「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の
最高責任者。 メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org
Let Us Not Fear the Sepulchers of This Earth
Biblical Reflection for the 6th Sunday in Ordinary Time Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO
, FEB. 11, 2009 ( Zenit.org
).- The first reading for this Sunday outlines the harsh laws for people
with skin diseases usually labeled correctly or incorrectly as a form of leprosy
(Leviticus 13:1-2; 44-46).
Throughout history, few diseases have been as dreaded as the horrible affliction known as leprosy. It was so common and severe among ancient peoples that God gave Moses extensive instructions to deal with it as evidenced in chapters 13 and 14 from Leviticus. The belief that only God could heal leprosy is key to understanding today's miracle that proves Jesus' identity. Leprosy in the Bible appears in two principle forms. Both start with discoloration of a patch of skin. The disease becomes systemic and involves the internal organs as well as the skin. Marked deformity of the hands and feet occur when the tissues between the bones deteriorate and disappear.
In Jesus' time, lepers were forced to exist outside the community, separated from family and friends and thus deprived of the experience of any form of human interaction. We read in Leviticus 13:45-46 that lepers were to wear torn clothes, let their hair be disheveled, and live outside the camp.
These
homeless individuals were to cry "Unclean, unclean!" when a person
without leprosy approached them. Lepers suffered both the disease and ostracism
from society. In the end, both realities destroy their victims' lives. One may
indeed wonder which was worse: the social ostracism experienced or the devastating
skin lesions.
Mark 1:40 tells us that the leper appears abruptly in front of Jesus: "begging him and kneeling before him." The news about Jesus' miraculous powers has gotten around, even to the reviled and outcast leper. "If you choose, you can make me clean," the leper tells Jesus. In even approaching Jesus, the leper has violated the Levitical code. By saying, "If you choose, you can make me clean," the leper not only indicates his absolute faith in Jesus' ability to cleanse him of his disease, but also actually challenges Jesus to act.
In the ancient Mediterranean world, touching a leper was a radical act. By touching the reviled outcast, Jesus openly defied Levitical law. Only a priest could declare that someone was cured of the skin disease. As required by ancient law, Jesus sent the man to a priest for verification. Even though Jesus asked him not to, the man went about telling everyone of this great miracle.
My
encounter with lepers :
I had never encountered leprosy until I was pursuing my graduate studies in
Scripture in the Holy Land. In 1992, I was invited by the Religious Sisters
of the Sacred Heart to come down to Egypt from Jerusalem and spend several weeks
teaching and preaching Scripture -- first in Cairo, then down (or up!) the Nile
River into Upper Egypt.
When we arrived in one of the Egyptian villages along the Nile , one of the sisters took me outside the central part of town, to an area where lepers and severely handicapped people were kept, in chains, in underground areas hidden away from civilization. It was like entering tombs of the living dead. Their lot was worse than animals. The stench was overpowering, the misery shocking, the suffering incredible. I descended into several hovels, blessed the people with my best Arabic and said some prayers with each person. The sister accompanying me said: "Simply touch them. You have no idea what the touch means, when they are kept as animals and monsters."
We visited many of the very poor Christian villages where the sisters and other religious worked among the poorest of the poor. That journey remains engraved in my memory, for the remarkable women religious encountered along the way, and for the horrible human situations of suffering that we witnessed.
I laid hands on many of these women and men and touched their disfigured faces and bodies. Tears streamed down my face as the women and men and several children shrieked at first then wept openly. They reached out to hug and embrace me. Then we all shared bottles of Coca Cola! Those unforgettable days, deep in the heart of Egypt , taught me what the social and physical condition of lepers must have been at the time of Jesus. There was not much difference between then and now. As we read the story of Jesus among the outcasts, let us recall with gratitude the lives of three remarkable people in our Catholic tradition who worked with lepers and dared to touch and embrace those who were afflicted with that debilitating disease.
First, Blessed Joseph DeVeuster, (known as Father Damian of Molokai) who was born in Belgium in 1840, entered the Congregation of the Sacred Hearts at the age of 20 and was sent as a missionary to the Hawaiian Islands . After nine years of priestly work, he obtained permission in 1873 to labor among the abandoned lepers on Molokai . With Blessed Father Damien, let us pray that we not fear the sepulchers of this earth. He descended into the lepers' colony of Molokai -- then considered "the cemetery and hell of the living" -- and from the first sermon embraced all those unfortunate people saying simply: "We lepers." And to the first sick person who said, "Be careful, Father, you might get my disease" he replied, "I am my own, if the sickness takes my body away God will give me another one." Becoming a leper himself in 1885, he died in April 1889, a victim of his charity for others. In 1994, Pope John Paul II beatified Father Damien.
Second, Blessed Sister Marianne Cope (1838?1918), mother to Molokai lepers. In the 1880s, Sister Marianne, as superior of her congregation of the Sisters of St. Francis in Syracuse , responded to a call to assist with the care of lepers on the island of Molokai , Hawaii . She worked with Father Damien and with the outcasts of society as they were abandoned on the shores of the island, never to return to their families.
In the late 19th and early 20th century, about 10% of the Hansenites (people with leprosy) on Molokai and the Peninsula of Kalaupapa were Buddhists. Many practiced the native, indigenous religions of the Polynesian Islands . Some were Protestant and some were Catholic. Sister Marianne loved them all and showed her selfless compassion to those suffering from Hansen's disease. People of all religions of the islands still honor and revere Father Damien and Mother Marianne who brought healing to body and soul.
Be not afraid : Finally, let us recall with gratitude Blessed Teresa of Calcutta (1910-1997), who was never afraid to see and touch the face of Jesus in the distressing disguise of the poorest of the poor. Mother Teresa wrote: "The fullness of our heart becomes visible in our actions: how I behave with this leper, how I behave with this dying person, how I behave with this homeless person. Sometimes, it is more difficult to work with down-and-outs than with the people who are dying in our hospices, for the latter are at peace, waiting to go to God soon.
"You
can draw near to the sick person, to the leper, and be convinced that you are
touching the body of Christ. But when it is a drunk person yelling, it is more
difficult to think that you are face-to-face with Jesus hidden in him. How pure
and loving must our hands be in order to show compassion for those beings!
"To see Jesus in the spiritually most deprived person requires a pure heart. The more disfigured the image of God is in a person, the greater must our faith and our veneration be in our search for the face of Jesus and in our ministry of love for him."
Most people will never encounter lepers. Nor will we know what it means to be completely ostracized by society. But there are other forms of leprosy today, which destroy human beings, kill their hope and spirit, and isolate them from society. Who are the modern lepers in our lives, suffering with physical diseases that stigmatize, isolate and shun, and cut others off from the land of the living? What are the social conditions today that force people to become the living dead, relegating them to cemeteries and dungeons of profound indignity, poverty, despair, isolation, violence, sadness, depression, homelessness, addiction and mental illness?
Let us not fear the sepulchers of this earth. Let us enter those hovels and bring a word of consolation and a gesture of healing to others. In the words of Blessed Teresa of Calcutta: "Let us do so with a sense of profound gratitude and with piety. Our love and our joy in serving must be in proportion to the degree to which our task is repugnant."
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Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org.
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朗読
レビ 13:1-2, 44-46; 主はモーセとアロンに仰せになった。 もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。その人は重い皮膚病にかかっており、汚れている。祭司はその人に「あなたは確かに汚れている」と言い渡す。頭部にこの症状が出ているからである。 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
1 Corinthians 10:31-11:1; だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
Mark 1:40-45 : さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。