権威を持ってみ言葉を述べる       年間第4主日の福音の黙想  トマス・ロシカ師

 

トロント、 2009/1/29 ( Zenit.org )

マルコ福音書の神の子の物語の始めにある、弟子たちの最初の召命について読みましょう。

   「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ   ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師   にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその   兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。     この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」 ( マルコ 1:16-20)

また、悪との対決の箇所も読みましょう。

   「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教え   に非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのときこ   の会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼ   しに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』 イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱り   になると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ   合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、そ   の言うことを聴く。』 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(マルコ 1:21-28 ) 

この召命は、旧約の預言者たちの駆り立てるような預言 ( 即ち、イザヤ 6:1-13; エレミヤ 1:14-19) の影響を受け、弟子としてのモデルとなっています。 イエスは、孤独な預言者ではなく、「イエスとともにある」仲間を呼びます。 イエスは、ふつうの職業をもつ4人の生活の場に立ち入り、単に「わたしについて来なさい」と言い、彼らは、直ぐに全てを擲って従ったのです。

カファルナウムにおけるイエスの物語は、悪魔祓いと癒しからなるイエスの司牧の最初の日となります。 この物語は、同時代のユダヤ人の考え方、神の国の到来は、悪の敗北のときであるとの考え方を示し、一群の悪魔( demons )と不潔な霊の姿を擬人化しています。 イエスの言葉は、非常に力があるので、人々は職を棄てて、イエスに従います。 悪魔の力でさえイエスの前では無力です。 イエスは、人々に、心を変えて自分の生活を新しい目で見、よい知らせに信頼を置くよう求めます。

 

今日の年間第4の主日には、第一朗読(申命記 18:15-20) と福音(マルコ 1:21-28) とが、神の御言葉を語る者の権威の問題を提起します。 本物の預言者は、神が、ご自身の御言葉を彼らの口に与えたので、権威を以って教えました。 第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」(申命記 18: 15 )と民に語ります。神は民の一人ひとりに、「あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と命じます。 この預言者が、すなわちイエスなのだと、わたしたちは知るようになります。

 

イエスは、その教えと権威を以って、カファルナウムの会堂の人々を驚かせます。 イエスは、権威を以って教えます。 その理由は、彼が生ける神の御言葉だからです。 わたしたちは全員、イエスであるこの生ける御言葉を証しするのです。 わたしたち自身には権威はありません。 わたしたちは、ただイエスの言葉を宣言するのです。 教会のメンバーは誰でも、洗礼と堅信によって預言者の役割を持ち、言葉と模範の両方によって、神の御言葉であるイエスに倣うのです。 わたしたちは歩み、そして語らねばなりません!


今日、誤用され、誤解されがちな二つの言葉に、「預言者」と「預言(者)的」とがあります。 ふつう、預言者は、いつも外側に立ち、制度に抵抗するものという固定観念によって理解されます。 預言者の服装は貧しく、叫び声をあげ、エリートたちを困らせる。 そのような預言者たちの多くにとって、怒りは、預言者の特徴となる感情と見做されます。

 

しかし、聖書の中での預言は、しばしば非常に異なった姿で現れます。 エリアや洗礼者ヨハネのような孤独な預言者たちも勿論いますが、多くの場合、預言者たちは、それぞれの時代の「制度」や「構造」に組み込まれています。 エレミアを考えてください。 彼は、エリの堕落した祭司の家から出たのです。 そしてエゼキエル、ゼカリア、イザヤも、王宮の祭司であり、預言者でした。 預言者たちは、イスラエルの王の宮殿にいました。 ダビデ王の感動的な物語の中で、預言者ナタンは、ダビデ王の姦淫と殺人を非難しましたが、彼は、(その子の)ソロモンを王位に就ける方策では巧みな能力を示しました。

 

ほんとうの預言者たちは、現状維持に対しては強烈な反対者でした。 彼らは、王や祭司やにせ預言者が問題を糊塗する不正を見つけ、感じとりました。 彼らは、抑圧された貧困者、寡婦、孤児、追出された人のうめきを分かち合い、それらのうめきを悲痛な叫びで表現したのです。 彼らは、システムを非難しましたが、それは、彼らが属しているシステムそのものです。 彼らはそのシステムで不具合なことを体験し、そのシステムの中で、彼らが変えられることは何でもしたのです。

 

遠くから非難するのはたやすいことです。 拒絶や激しい非難の「そぶり」に、コストはほとんどかかりません、そして、預言者的な言葉を添えることは、その人の評判や業績に、敬虔さ、重み、知恵のオーラを与えることになるでしょう。 しかし、そうした行為は、回心、変容、刷新を起こすという預言者の役割を果たすことにはなりません。

聖書の中の預言者たちには、「そぶり」だけで済ます余裕はありません。 預言者たちは、宮廷の中で、主の言葉を語るために召命を受け、その過程の中で、激しく荒れることもしばしばでした。 ほんとうの預言者たちは、自分がよく知る男女の権力者に面と向かって、頻繁に彼ら自身の権力の立場から、力を以って真理を語りました。 そして多くの場合、預言者たちは、彼らが挑戦する相手に雇われていたのです。

 

最後に、教会の変化を起こすわたしたち自身の「預言者的」努力についての言葉です。 わたしは、こうした考え方をわたしの心に植えつけてくれたイエズス会の故ダレス( Avery Dulles )枢機卿に感謝しています。 当時のダレス枢機卿は、改革者は預言者的に話すべきであると語りました。 これは多分に真実です。 ただし、預言の本質が正しく理解されていることが条件です。 ダレス師は、「トマス・アクイナスは、旧約聖書の中で機能した預言と、教会の中で機能する預言の間に、本質的な区別をした。」と語りました。 古い時代の預言者は、二つの目的のために送られました。 それは「信仰を確立することと、行動を矯正すること」の二つです。 「わたしたちの時代の信仰は、既に基礎が出来ている。 なぜなら、旧約で約束された事柄はキリストにおいて実現しているからである。 しかし、行動を矯正する目的の預言は、止(や)まず、決して止むことはない。」とダレス師は言います。

 

今日、わたしたちは、どのようにして神の御言葉を、権威を以って語るのでしょうか? さらに進んで、神の国のために、わたしたちはどのように自分の権威を使うのでしょうか? わたしたちの言葉、行動、メッセージ、そして生き方は、教会の中で、社会の中で、どのように預言的であるでしょうか?


 ◇◇◇
朗読

 

申命記 18:15-20 : あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」

 

1 コリント 7:32-35 : 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

 

マルコ 1:21-28 : 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 

 

 

【訳者付記】 典礼について:

2008 6 月に教皇庁典礼秘跡省は、典礼における「神の名」の指針を出しました。旧約聖書の中の神の名の表し方の一つは「 YHWH 」であり、イスラエルでは「神聖四字」として発音せず、「アドナイ」に置き換えて読みます。キリスト教では、諸説ありますが、「ヤーウェ」、「ヤハウェ」などと読まれることがありますが、教皇庁は、「アドナイ」に準ずる言葉で読むことを指示し、日本では、この箇所は「主」と置き換えることになりました。

 

拝領するホスチアについて:ミサでは「神の子羊」の「平和の挨拶」が終わると司祭が聖変化された「パンの分割」があります。ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)321は、ミサで用いるパンについて、「司祭がパンを幾つかの部分に実際に割って、少なくとも幾人かの信者にそれを授与できるようなものであることが望ましい」と述べます。それは、一つのパンを分けて、それを与えることが、キリストのからだにおける一致を表すしるしになるからです。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(1コリント  10:17

 


Speaking the Word of God with Authority Biblical Reflection for 4th Sunday in Ordinary Time By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, JAN. 29, 2009 ( Zenit.org ).- At the beginning of Mark's story of the Son of God, we read of the calling of the first disciples (1:16-20) and the confrontation with evil (1:21-28). The calling, influenced by the compelling calls of the prophets (e.g., Isaiah 6:1-13; Jeremiah 1:14-19), is a model of discipleship. Jesus is not a solitary prophet but one who calls companions "to be with him;" he enters the lives of four people engaged in their ordinary occupations, simply says, "Follow me," and they immediately leave everything to follow him.

The story of Jesus in the Capernaum synagogue inaugurates the first day of his ministry that consists of exorcisms and healings. The story reflects contemporary Jewish thought that the coming of God's kingdom would mark the defeat of evil, which is personified in an array of demons and unclean spirits. Jesus' word is so powerful that people abandon their occupations and follow him, and even demonic powers are powerless before it. Jesus summons people to a change of heart, to take a new look at their lives and put their trust in the good news. This is not simply a story from the past, but one that continues to speak powerfully and prophetically to people today.

 

On this Fourth Sunday of Ordinary time, both the first reading (Deuteronomy 18:15-20) and the Gospel (Mark 1:21-28) raise the issue of the authority of those who speak the Word of God. Authentic prophets taught with authority because God put his own words into their mouths. In the first reading, Moses tells the people that God will send a prophet from the line of the Israelites. God commands everyone to listen to this prophet, who we come to recognize as Jesus.

Jesus astonishes the people in the Capernaum synagogue with his teaching and authority. He taught with authority because he is the living Word of God. We are all witnesses to this living Word who is Jesus. We have no authority of our own; we simply proclaim his Word. Each member of the Church, by virtue of baptism and confirmation, has a prophetic role, and echoes the Word of God himself, both by words and example. We must walk our talk!

 

Two of the most misused and misunderstood words in our day are "prophet" and "prophetic." In the popular mind, prophets fall into some well-worn stereotypes, always standing outside, protesting the system. They might be dressed poorly, shouting out and embarrassing the polite and the elite! For many such prophets, anger seems to be a signature emotion.

 

Yet in the Bible, prophecy often looks very different. There were certainly those lone prophets like Elijah and John the Baptist, but more often prophets were fully integrated into the "systems" and "structures" of their times. Think of Jeremiah, who came from the fallen priestly house of Eli; and Ezekiel, Zechariah and Isaiah were also priests and prophets of the court. Prophets appeared in the courts of the kings of Israel .

In the moving story of King David, the prophet Nathan rebuked the king for adultery and murder but he was also capable of some rather discrete maneuvering in his efforts to put Solomon on the throne!

 

Authentic prophets were strident opponents of the status quo. They recognized and felt the injustice that kings and priests and false prophets wanted to whitewash. They shared the groans of the oppressed poor, of widows, orphans and the dispossessed, and articulated those groans in cries of woe. They denounced the system, but denounced a system in which they were often enmeshed. They experienced deeply what was wrong with that system, and did everything they could to bring about change from within the system.

 

It's far too easy to denounce from a distance. Gestures of repudiation and condemnation cost so little, and adding the term prophetic may lend an aura of piety, importance and savvy to one's reputations and works.

But they don't accomplish their goal of bringing about conversion, transformation and renewal.

 

Prophets in the Bible cannot afford gestures. They are called to speak the word of the Lord from within the court, often wreaking havoc in the process!

 

Finally, a word on our own "prophetic" efforts to bring about change in the Church. I will be forever grateful to the late Jesuit Cardinal Avery Dulles for having instilled these ideas in my mind and heart years ago. The then Father Dulles said that reformers ought to speak prophetically. This may well be true, provided that the nature of prophecy be correctly understood. Father said that St. Thomas Aquinas made an essential distinction between prophecy as it functioned in the Old Testament and as it functions within the Church. The ancient prophets were sent for two purposes: "To establish the faith and to rectify behavior." In our day, Father Dulles continued, "the faith is already founded, because the things promised of old have been fulfilled in Christ. But prophecy which has as its goal to rectify behavior neither ceases nor will ever cease."

 

How do we speak the Word of God with authority today? How do we use our authority to further the Kingdom of God ? How are our words, gestures, messages and lives prophetic today, in the Church and in the world?

 

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