大魚、大漁、究極のミッション

年間第3主日の福音黙想   トマス・ロシカ師

 

トロント、 2009/1/25( Zenit.org ).- ヨナの物語 ヨナ 3:1-5, 10 について、想像力の乏しい人々は、いろいろな質問をすることでしょう。 大きな魚? 大都市ニネベの規模は? 人口は? アッシリア人の回心とは?

他方、この物語を信仰の耳と目で、よく聞き、見ようとする人々は、こうした無益な質問をしようとは思わないでしょう。 大切なことは、海の怪物や都市ニネベの大きさ、回心した人々の数ではありません。 むしろ、信仰の人にとっては、この驚くべきヨナの物語の中にもっと大きなメッセージが含まれているのです。 ニネベの人々がヨナの呼びかけによって回心し、悪の道から立ち直ったので、神は、彼らに与えようとしていた恐るべき災害を思い留まったのです。 どのような人でも、場所でも、状況でも、神の憐れみと癒しが及ばないところは無いのです。

キリスト教が、ヨナを、キリストとその普遍的な福音メッセージの善き前触れとして見るのは、不思議ではありません。 神は、旧約聖書の期待と希望をすべて満たすために、キリストを通して、新しい、決定的な方法で、キリストの世界(この世)に来られます。

 

都市とイエス: 今日の福音朗読(マルコ 1:14-20 )の中で、神の国に身を投じた弟子たちが、漁網を捨て、仕事を離れるとき、後ろに残すものと、この先に求めるものの意味が浮き彫りにされます。 どうすれば、神についての、そしてイエスについての、このよい知らせを、自分の住む都市にもたらすことができるのでしょうか。 都市は、しばしばあまりにも広大で、あまりにも非人間的で、忙しく、喧噪に満ちているのです。

時折、わたしは、湖へと向かう別の道を選んではいないでしょうか? そして、わたしたちの良い知らせが、よりスムースに、好意をもって受け入れられる、静かな、平穏な場所へと、わたしたちを拾ってくれるモーターボートや巡航船を待っていないでしょうか? わたしたちキリスト者は、どのようにして自分の都市の人々の魂となることができるのでしょうか?

わたしたちは、献身と愛により、聖体の祝祭をもって、それを始めます。 わたしたちは絶えず祈らねばなりません。 多くの隠れた、ひそかな犠牲を、愛と平和と喜びを以って、毎日、捧げ続けます。 日々の生活の中で、自分の洗礼をまじめに受取り、真福八端の教えを生かします。 わたしたちは、倦むことなく、御言葉を生き、それを、言葉と行いを以って他の人々に伝えなければなりません。


いつも忠実であること:  ヨナの物語を読むたびに、わたしは、聖地での4年間の大学院生活の折に、エルサレムで聞いた物語を思い起こします。 ある日、イスラム教の隣人が、彼らのイマームに会うようにとわたしを招いてくれました。 エルサレムの古い市街で、座って茶をすすりながら、我が家の近くの小さなモスクの指導者は、アラーの憐れみについて語りました。

 

彼は、 917 年に亡くなったユーセフ・ベン・アル・フセインというムスリムについて、詳しく語りました。 ユーセフは、自分の主人から、絶え間なく伝道をするようにと命令を受けました。 しかし、彼は、ひどく誤解され、相手にされなくなってしまいました。 そして遂には、彼の話を聞こうとする人は誰もいなくなりました。

ある日、ユーセフは、伝道のためにモスクに入りましたが、そこには誰も居ませんでした。 彼が、そこを出ようとしたとき、一人の老女が泣きながら彼に言いました。 「ユーセフ、だれも居なくても、全能の神が、あの方が必ずここにいらっしゃる。 誰も居なくても、ここでアラーの御言葉を教えなさい!」

そこで、ユーセフは 50 年間、聞く人が居ようが居まいが、御言葉を語り続けました。 人々が無関心であろうと、冷笑しようと、だれも居なくとも、また意地悪をしようとも、彼は、諦めませんでした。 彼は、ひたすら忠実に、アラーの御言葉を宣べ伝える使命に尽くしました。


おそらく、ユーセフ・ベン・アル・フセインとヨナとは、彼らの時代の預言者の苦労を少し体験したことでしょう。 彼らは、神の御言葉を、時を選ぶことなく語りつづけました。 ヨナの根気のよさと忠実さのために何が起きたかは、ご存知の通りです。

イエスも、同じようなことを何度も感じられたと思います。 イエスのメッセージを本当に聞いた人はいたのでしょうか? きょう、 1 25 日のパウロの回心の祝日にあたり、偉大な異教徒への使徒のこと、福音を語るパウロが忍んだ労苦と試練を思い起こさずにはいられません。

使徒言行録 18:8-10 の中で、パウロはコリントに着き、「コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」と記されています。 「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』」


パウロ年:  今年をパウロ年と宣言した、教皇ベネディクト 16 世の希望と目標の一つは、カトリック信者の一人ひとりが、「わたしはカトリックの信仰を広めようと、パウロのように決心し、力を尽くしているだろうか?」 と、自分の生き方を省みることです。

わたしたちカトリックの信仰は、それを他の人々と、意識的に、そして良心を以って分かち合うときにのみ、成長するのです。 キリストは、そのやさしい眼差しで、わたしたち一人ひとりをご覧になって、あなたが生涯にわたって、他の人々をイエス・キリストとその教会との一致へ招くのに、どのような努力をしたかをお訊ねになるでしょう。 最後に、主はお訊ねになるでしょう: 「あなたはわたしを愛するか? この良い知らせをあなたはだれに伝えたか? あなたはどれだけ多くの人々を伴っているか?」


究極の任務 今日、イエス・キリストは、何をわたしたちに求められるでしょうか  悔い改め、回心、自我からの脱却・・・、神の国のあるべき姿を自分の考えで決めるのではなく、今ここに、わたしたちの間に存在する神の国についての、キリストの教えと模範に従うことが必要です。 わたしたちの究極の任務は、時を選ばずに、神の御言葉を語り伝えることです。

 

タルソスのパウロの心に注がれた聖霊の炎が、わたしたちの心を燃え立たせ、パウロ年とわたしたちの生涯をとおして、活気に満ち、実りある宣教の役割を果たせますように。 聖霊の炎が、決して諦めないように、とりわけ、誰もが耳を傾けないように思えるときにも、どうぞわたしたちを強めてくださいますように。 なぜなら、そのような時こそ、まさに主がわたしたちに再び語りかける時だからです。 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 (使徒 18:9-10

 

バシル会のトマス・ロシカ神父は、カナダの「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の最高責任者。 メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org


The Big Fish, the Great Catch, the Ultimate Commission

Biblical Reflection for 3rd Sunday in Ordinary Time
By Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, JAN. 25, 2009 ( Zenit.org ).- Those with literal minds will question many things about the Jonah story [Jonah 3:1-5, 10]: the great fish, the size and population of this immense city, and the conversion of the Assyrians.
On the other hand, those who really listen to and view this story with ears and eyes of faith will take all of these other factors in stride. What is essential is not the size of God's sea monsters, nor the distances to be covered within cities, nor the large numbers of those converted. For people of faith, the rather amazing Jonah story contains a far greater message: Because the people of Nineveh repented at the preaching of Jonah and turned from their evil ways, God repented of the evil that he had threatened to do to them. No person, place or situation is beyond God's mercy and healing reach!
It is no wonder, then, that Christianity saw Jonah as a positive figure prefiguring Christ and his universal Gospel message. Through Christ, God approaches his world in a new, decisive way in order to fulfill all the expectations and hopes of the Old Testament.

 

Jesus to the city When the disciples in today's Gospel [Mark 1:14-20] leave their nets and present occupations in order to submit to God's Kingdom, they model what this turning from and turning toward means. How can we bring the Good News of God and of Jesus to our cities that are often so vast, so impersonal, so busy and filled with noise?
At times do we not often run the other way to the lake and wait for some speedboat or cruise ship to pick us up and take us to a quiet, peaceful place that is much less complicated and less hostile to our message? How can we Christians be the souls of our cities?

We begin by celebrating the Eucharist with devotion and love. We must pray incessantly. We continue to do many hidden, quiet sacrifices each day of our lives with love, peace and joy. We take our baptism seriously and activate the Beatitudes in daily living. We must never give up in living God's Word and preaching it to others in words and deeds.

Remaining faithful: Whenever I read the story of Jonah, I am reminded of a story I heard in Jerusalem during the four years of my graduate studies in the Holy Land . One day my Muslim neighbors had invited me to meet their Imam. As we sat and sipped tea in the Old City of Jerusaelm, the religious leader of the small mosque near my house spoke about the mercy of Allah.

He recounted a story about a certain Muslim -- Youssef ben-al-Husayn -- who died in the year 917. Youssef had received from his master the order to preach incessantly. He had however been very misunderstood and ostracized, and the time came when he had no more people who would listen to his words and messages.

 

One day Youssef entered the mosque to preach and not a soul was present. He was leaving the mosque when an old woman cried out to him: "Youssef, if the people are absent, the Almighty, he is surely present. Even though no one is here, teach the Word of Allah!"

Thus Youssef preached the word for 50 years, whether or not anyone was present to hear it. He didn't give up because of people's indifference, cynicism, absence or wickedness. He simply remained faithful to his vocation of preaching the word of Allah.

I am sure that Jesus must have felt the same way on many occasions. Was anyone really listening to his message? And with Jan. 25 marking the feast of the Conversion of St. Paul, how could we not think of the great Apostle to the Gentiles, and his trials and tribulations endured as he preached the Gospel?

Youssef ben-al Husayn and Jonah probably experienced a bit of prophetic fatigue in their day. They continued to preach the Word of God in season and out of season. We know what happened because of Jonah's persistence and fidelity to that word.

In the Acts of the Apostles [18:8-10], Paul arrives in Corinth , and we are told that "many of the Corinthians who heard Paul became believers and were baptized." One night the Lord said to Paul in a vision, "Do not be afraid, but speak and do not be silent; for I am with you, and no one will lay a hand on you to harm you, for there are many in this city who are my people."

 

The Year of St. Paul
One of the great hopes and goals of Benedict XVI in proclaiming this Year of St. Paul is to have every Catholic hold up a mirror to his or her life and to ask, “Am I as determined and as energetic about spreading the Catholic faith as St. Paul was?”

Our Catholic faith only grows when we consciously and conscientiously share it with others. Christ will look at each one of us with his merciful eyes at our individual judgment and ask what efforts we made during the course of our lifetime to invite people into communion with Jesus Christ and his Church. In the end, the Lord will ask us: “Did you love me? To whom did you preach the Good News? How many people did you bring with you?”

 

The Ultimate Commission What does Jesus Christ demand of us today? Repentance, conversion, a turning away from our own ideas about how God's Kingdom should operate and a turning toward belief in Christ's teaching and example about God's Kingdom that is among us here and now. Our ultimate commission is to preach the word of God in season and out of season.

 

May the fire that the Holy Spirit poured into the heart of St. Paul of Tarsus, inflame our hearts to be vibrant and effective missionaries in the Year of St. Paul and throughout our lives. May it strengthen us never to give up, especially when it seems like no one is listening any more. For it is precisely at such moments that the Lord will say again to us: "Do not be afraid, but speak and do not be silent; for I am with you, and no one will lay a hand on you to harm you, for there are many in this city who are my people."

 

Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada. He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org .

 

 

 

朗読

 

ヨナ 3:1-5, 10 :  主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

 

1 コリント 7:29-31 :  兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

 

マルコ 1:14-20 :  ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

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