弟子であることのコスト
年間第2主日の福音 トマス・ロシカ師
今日の朗読、とくにサムエおよびアンデレとその兄弟の召命を思い起こすとき、わたしは、ドイツのルーテル教会のボンホッファー牧師( Pastor Dietrich Bonhoeffer ) が、ナチの収容所からこう書いたのを思い出します。 「この収容所生活のいろいろな決まり、問題、成功と失敗、経験そして困惑などの中で無条件に生きることだけが、人を一人前の人間、一人前のクリスチャンとするのです。」 ボンホッファーは経験したのは、彼が「弟子のコスト」と痛切に呼んだものです。 預言者サムエルおよびアンデレとシモン・ペトロは、それぞれの人生の中で、このコストを体験しました。
先ず、サムエルの召命の物語を考えてみましょう。これは、神の召命のダイナミックさを例証する一つの劇的な物語であり、わたしたちに自分の生活の中で従うべきモデルを示しています。 エリは、年老いて、ほとんど目が見えず、彼の息子たちは神殿の祭司たちでしたが、神に忠実ではありませんでした。 彼らの時代は、終わりに近づいていて、神は、新しい時代を開くためにサムエルを召し出したのです。
サムエルは、自分の召命を識別する助けを必要としました。 そして、ほんとうに主の御声を聞くためには、サムエルにはエリの知恵と友愛が必要でした。 ひとたび彼を呼ぶ声が主であると分かると、サムエルは、イスラエルの民の宗教上、社会上、政治上の諸問題に関して、神の御旨を識別する偉大な預言者になりました。
わたしたちが、主の御言葉を聞くために主の前に出るとき、その深い祈りと心からの叫びは、「どうぞお話しください。 僕は聞いております。」となるべきでしょう。 しかし、実際には、わたしたちの叫びは「主よ、どうぞ聞いてください。 あなたの僕が語っているのです!」となっていませんか。
昨年10月の「教会の生活と使命における神の御言葉」の世界司教会議で、フィリピンのタグル司教( Bishop Luis Antonio Tagle of the Diocese of Imus ) は、最も重要な参加発言( interventions )の一つをなさいました。 人々を真の生き方に導く神の御言葉を聞く環境( disposition )についてです。 彼は語りました。 「聞くことは真剣な問題です。 教会は、世界の聞き手となるべきですが、聞くことのために必要なのは、教育ばかりではなく、もっと聞く環境 (a milieu of listening) を整えることにあるのです。
タグル司教は、聞く環境の開発について3点を提案しました。
1.信仰における傾聴とは、神の御言葉に自分の心を開くことを意味します。 神の御言葉が自分に浸透して、自分を変えるように心を開くことです。それは、信仰における従順に等しいことです。聞く姿勢を整えることは、信仰全体を形造ることなのです。
2 . この世の出来事は、聞く姿勢の欠如を示し、それは悲劇的なことです。 それは家族の中の争い、世代間の違い、諸国間の違い、そして暴力を生みます。 人々は、独り言、無頓着、ノイズ、自己陶酔の世界に陥ります。 教会は、対話、敬意、相互の、また個人の超越の環境を提供できるのです。
3 . 神は語り、奉仕者として教会はその声を世界に導きます。 しかし神は単に語るだけではなく、神も耳を傾け、とりわけ、公平な人、寡婦、孤児、迫害を受ける人、そして声をもたに貧しい人に耳を傾けます。
この年間第二の主日の福音の物語の中で、イニシャチブをとる、または最初の一歩を踏み出すのはイエスです。 彼の弟子たちへの質問は興味をそそります : それは、単純なというよりも、深く、宗教的な、そして神学的な質問です。 「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。 彼らが、『ラビ ―― (先生)という意味 ―― どこに泊まっておられるのですか』」 ( ヨハネ 1:38) と訊ねます。 この動詞の「住む」とか「泊る」に類する言葉は、ヨハネ福音書には、 40 回も出てきます。 これは、「(神の)内在する現存」についてのヨハネの神学を簡潔に表現する動詞です。
弟子たちは、その夜イエスがどこで泊るのか、ばかりではなく、イエスが何処で生活しているのか、を訊ねています。 イエスは「来なさい。そうすれば分かる。」 ( ヨハネ 1:38) と答えます。 ヨハネ福音書全体を通して見られる二つの含みのある言葉 「来て、見る」( "Come and see" )は、イエスへの信仰を表すのに用いられます。 (cf ヨハネ 5:40; 6:35. 37.45; 7:37). ヨハネにとって、現実の知覚を以ってイエスを「見る」ことは、イエスを信じることなのです。
弟子たちがイエスの弟子になったのは、彼らがついて行ってイエスの泊っている場所を見たときでした。 そして彼らは「その日は、イエスのもとに泊った。」 ( ヨハネ 1:39) のでした。
彼らは、信じるように招かれ、それに応え、イエスの生活の有様を見て、「従う」ことになったのでした;彼らはイエスを信じ始め、イエスも彼らを信じました。 アンドレは、イエスが誰かを知るようになって、「自分の兄弟」ペトロに「会って」彼をイエスのもとにつれて行きました。 ( ヨハネ 41,42) この経験全体が、この弟子たちがイエスの十字架上の栄光を見るときに完成するのです。 今日の朗読のこの召命の物語から何を学ぶことができるでしょうか? 召命を受けるのは、自分自身のためではなく、他の人のためです。 イスラエルが神の召命を受けたのは、その周辺の神のない人々のためでした。 わたしが今生きてい居る世界のために、神はキリスト者を招くのです。
召命を受けるには、自分が完全である必要はなく、ひたすら忠実さと正しく聞く姿勢が求められるだけなのです。 サムエルを初め、イスラエルの預言者たち、ガリラヤ湖の漁師たち、イエスが呼ばれた徴税人さえ、その召命は、本人の資質や業績のためではありませんでした。 イエスが「ばか者」と呼ばれたのは、賢い者が恥を受けるためである、とパウロは言います。 わたしたちの全面的応答を必要とする召命は、ダイナミックな召命です。 イエスがわたしたちを呼び、愛し、変え、イエスの姿になさろうとするのですから、わたしたちは同じで居ることはできません。 イエスが呼ばれているのですから、わたしたちも他の人々にイエスに従うように呼びかけるほかありません。
ふだんの生活から離れ、日常の暮らしと仕事の不満から離れ、あなたはどのように呼ばれているでしょうか? だれを通して、あなたは人生の中で、主の召命に出会いましたか? あなたは最近、だれかに、主に従うように呼びかけましたか?
バシル会のトマス・ロシカ神父は、カナダの「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の
最高責任者。 メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org
The Cost of Our Discipleship
Biblical Reflection for 2nd Sunday in Ordinary Time By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JAN. 15, 2009 ( Zenit.org ).- Reflecting on today's readings, especially the call of Samuel and of Andrew and his brother, I remembered something that the German Lutheran Pastor Dietrich Bonhoeffer wrote from his prison in Nazi Germany, that "only by living unreservedly in this life's duties, problems, successes and failures, experiences and perplexities ... does one become a man and a Christian." Bonhoeffer experienced what he called so poignantly "the cost of discipleship." The Prophet Samuel and Andrew and Simon Peter experienced this cost in their own lives.
First let us consider the story of Samuel's call -- a dramatic story exemplifying the dynamics of God's call, and offering to us a model to follow in our own lives. Eli was old and nearly blind. His sons, who were the priests of the temple, had been unfaithful to God. Their time was nearing an end, so God called Samuel to begin a new era.
Samuel needed help in discerning his call, and Eli's wisdom and friendship with the young man were necessary so that Samuel could really hear the Lord's voice. Once Samuel recognized that it was truly the Lord who was calling him, he became the great prophet who would discern God's will regarding religious, social and political matters for the people. When we come before the Lord to listen to his Word, our deepest prayer and cry of the heart should be: "Speak Lord, your servant is listening." But is it not true that that cry often turns out to be: "Listen Lord, your servant is speaking!"
At the recent world Synod of Bishops on "The Word of God in the Life and Mission of the Church," Bishop Luis Antonio Tagle of the Diocese of Imus in the Philippines , made one of the most significant interventions. Bishop Tagle spoke about the disposition of listening to God's Word that leads people to true life. He said: "Listening is a serious matter. The Church must form hearers of the Word. But listening is not transmitted only by teaching but more by a milieu of listening."
Bishop Tagle proposed three points to develop a disposition of listening:
Listening in faith means opening one's heart to God's Word, allowing it to penetrate and transform us, and practicing it. It is equivalent to obedience in faith. Formation in listening is integral faith formation.
2. Events in our world show the tragic effects of the lack of listening: conflicts in families, gaps between generations and nations, and violence. People are trapped in a milieu of monologues, inattentiveness, noise, intolerance and self-absorption. The Church can provide a milieu of dialogue, respect, mutuality and self-transcendence.
3. God speaks and the Church, as servant, lends its voice to the Word. But God does not only speak. God also listens, especially to the just, widows, orphans, persecuted, and the poor who have no voice. The Church must learn to listen the way God listens and must lend its voice to the voiceless. "What are you looking for?" (1:38).
In the Gospel story for the Second Sunday in Ordinary Time, it is Jesus who takes the initiative or the first step. His question to the disciples is intriguing: Far from any simple interrogation, these words are deeply religious and theological questions. "Why" Jesus asks, "are you turning to me for answers?" They ask him, "Teacher, where do you live? Where do you stay?" (verse 38). The verb "live," "stay," "remain," "abide," "dwell," "lodge," occurs 40 times in the Fourth Gospel. It is a verb that expresses concisely John's theology of the indwelling presence.
The disciples are not only concerned about where Jesus might sleep that night, but they are really asking where he has his life. Jesus responds to them: "Come and see" (verse 39). Two loaded words throughout John's Gospel -- to "come" to Jesus is used to describe faith in him (cf John 5:40; 6:35. 37.45; 7:37). For John, to "see" Jesus with real perception is to believe in him. The disciples began their discipleship when they went to see where he was staying and "they stayed on with him that day" (John 1:39).
They responded to his invitation to believe, discovered what his life was like, and they "stayed on"; they began to live in him, and he in them. After Andrew had grown in his knowledge of who Jesus was, he "found his brother" Peter and "brought him to Jesus (verses 41,42). This whole experience will be fulfilled when the disciples see his glory on the cross. What can we learn from the call stories in today's readings? We are never called for our own sake, but for the sake of others. Israel was called by God for the benefit of the godless around it. God calls all Christians for the sake of the world in which we live.
To be called does not require perfection on our behalf, only fidelity and holy listening. Samuel and the prophets of Israel , the fishermen of Galilee and even the tax collectors that Jesus called were certainly not called because of their
qualifications or achievements. Paul says that Jesus calls "the foolish," so that the wise will be shamed. It is a dynamic call that involves a total response on our part. We will never be the same because he has called us, loved us, changed us and made us into his image. Because he has called us, we have no choice but to call others to follow him. How have you been called away from the routine of your life, away from the frustrations of daily life and work? What new purpose do you find emerging in your life because of the ways that God has called you? Through whom have you encountered the call of the Lord in your life? Have you called anyone to follow the Lord recently?
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Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org.
朗読:
1 Samuel 3:3b-10, 19; サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
1 Corinthians 6:13c-15a, 17-20; 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
John 1:35-42 : その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ ―― 『先生』という意味 ―― どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア ―― 『油を注がれた者』という意味 ―― に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ ―― 『岩』という意味 ―― と呼ぶことにする」と言われた。
注:訳文は「学び合いの会」有志による試訳です。