「学び合いの会」例会記録

2007年12月15日(土)

年間テーマ:「信仰者の真の自立と真の対話を求めて」

本日のテーマ:「信仰者としての自立と対話の拠り所は何か−森司教発題」

 

参加者: 27名 

本日の進行: 

1) 10:30−10:45  今年のテーマについての振り返り

2) 10:45−12:00  本日のテーマ「信仰者としての自立と対話の拠り所は何か」−森司教発題

3) 12:00−12 : 40  全体会(参加者のひとことコメント)

4) 連絡事項  

 

1)今年のテーマの振り返り

今年のテーマについての振り返りのお話をさせていただきます。

 

1. 今年の年間テーマは、「信仰者の真の自立と真の対話を求めて」ということで、4回の例会のうち、最初の4月と6月は、「教会の中での自立と対話」 - 妨げているものは何かを見極めながら、パートIとパートU、そして3回目10月は「社会生活における信仰者の自立と対話を探る」ということでした。求めるもの、探るものとして学びあっていこうとして取り上げられました。

 

2. 準備会のときに「学習テーマ提案」で、“子どもが成長して一人前の大人の責任を果たしていくように、信仰者が成熟して社会の中での役割を果たしていくためには、「自立と対話」の精神が不可欠です”と言われました。皆んなそうだなあと賛同いたしました。一方で、現実の生活の中では、誰しも、自己主張よりも体制順応であり、長いものに巻かれるということも多くある、対話よりも強いものの押し付け、優しい言葉であっても実質的には命令が多いのではないかと感じているとも話されました。

 

3. 同じ準備会で、昨年、この学習センターで行われた司教の講演「日本の教会の危機」を聞いた人が話しました。どんなことを危機と意識され、どのように対応したいのかを聞きたかったのに、司教が日本の教会の大きな課題としておっしゃたことは、「信徒は自立していない、真剣さが足りない」ということばだったとのこと。片や、今年、1月の「学び合い合宿」で学び合いの意義を学んだ後で、信徒の方から出たことばは、「小教区の神父さんは、よろいを着ていて、あれを脱がしてあげないと対話にならないよね」というものでした。また、他の人の口からは、「うちの旦那は自立が足りなくて」とつぶやいていました。

 

4. このように当たり前のように語られている「自立」という言葉の前で立ち止まり、借り物でない自分の思考で吟味してみようというものでした。参考資料として配布されたベルンハルト・ヘーリング「教会への私の希望」第 13 章の抜粋は、過去の歴史に学ぶ視点から、「ヒトラーの時代に当時のカトリック教会内部に、大人の判断や、権力に反対する勇気の生まれる余地が全くなかった」と書いています。信仰者として今の時代に日本の状況はどうなのかも考えるポイントになりました。自立を求める精神は、既成の価値観、常識、断定、権威などをその都度吟味する必要があるとも言われました。自立と対話は対で考える必要があるとも云われてそのようなテーマになりました。

これらを受けて――

4月例会は参加者25名でした。かなりばらばらに多くの意見が聞かれ、意見の多様さと受け止められながらも、テーマ理解のばらつき、このようなテーマで語ることの不慣れから、「これは難しいテーマだ」と多くの人が語りました。その中で、自立や対話が成り立つためには、「他人を異文化の人と考えることである」というものがありました。これは外国人とのつきあいで、そのように考えることでスムーズに行った実感からの発言で、云わんとするところは、「人はそれぞれ、生い立ちも異なるし、別々の意見、考えを持っていて当たり前」ということを認め合うことだという気づきでした。

 

6月例会は、テーマの切り口を変えて、キリストの時代に戻って、つまり、教会も教義もなかった2000年前のイエスの時代に自分をおいてみて話し合ってみようという試みでした。福音に戻る、神の民の時代です。多くの気づきが語られましたが一つは、「ありとあらゆることに絶望し、生きることすべてに絶望してそのどん底に立った人が、キリストに出会う。そのどん底に立つことが、自立することの出発点にある。」、「本当の対話というのは、相手の話をよく聞いて、相手に寄り添って、相手との調和をもたらしていくもの」ではないかと話されました。

 

10月例会では、「社会生活における信仰者の自立と対話を探る」でしたが、政治や社会問題に、職場や家庭で私はどう対応しているだろうかというような個々のスタンスを語り合うのではなく、問題に向き合う時、自立して考えるとはどういうことか、真の対話をするとはどういうことかという視点でとらえてみようとしました。対話(ダイアローグ)は、会話(カンバセーション)とは異なること、ホアン・カレラ著「対話の倫理」の抜粋を参考にして、 “相手に寄り添う”、“知る力と見抜く力”、“自分の生き方(主観性)”、“良心”などのことばが「自立」、「対話」につながっており、心の内奥を表現するものであると語られました。つまり、人の働きの場、フィールドはその人の置かれた状況の中で別々であるし表れ方も異なる。心の態度、姿勢というような内奥のところでは、「自立―良心―識別―聖霊―愛―対話」などの言葉の源泉は同じところになるのではないかとの話でした。また、祈りながら何年も待ってあることが成し遂げられたとの体験も語られました。これらはそれぞれの人の心の深いところの話であり、その判断基準や行動基準は、社会規範や仕来たりや常識のように外からのものではなく、自分の内奥にあるものということでした。こんなところが探ってきたところです。人間理解を少し深め合ってきたというところでしょうか。

 

2) 本日のテーマ「信仰者としての自立と対話の拠り所は何か」−森司教発題:

(記録の文責は記録者です)

僕の感覚では「人間は自立なんて出来ない」というところがありますね。そのような感じ方に沿って話を進めます。「じりつ」には「自立」と「自律」がありますね。対話という事を考えるときにはこの二つを区別して考えないといけない。「自律」の方は「共同責任の問題」に関係してくる。「自立」は人間には本質的に無理で、「支えられている」存在でしょう。支えられて始めて立っていられる。ローマ人への手紙でパウロも言っていることですが、自ら立っていると思っている人は気を付けなさいよといっていますね。人間は立たされていることが前提だとおもいます。立たされているという前提はなんだろうか?心理学と聖書から考えてその後で、「自律」について話す事にします。

 

 聖書からいえば、人間はもともと立っていない。創世記2章でも人間は「土の塵」から作られている。「土の塵」の意味は、横になっているということで、自らは立っていない。それが人間存在の基本なのです。神が息を吹きかけられ、頭を上げて立つようになった。神の支えがなければ立てない。他者から支えられて始めて生きていける存在なのに、他者を拒み排除するとき、人間の内側にある欲望とエゴイズムを満たそうとする。それが自立にみえるのですが、そのとき人は弱い存在になり孤立した存在になる。他者からの支えがないとき、内側は絶えず緊張する。神のほかの支え、われわれを支えているのはさまざまな出会いによります。

 

テキスト ボックス:

心理学者のエリクソンは・・・左図参照・・・(月の形は親を意味し、一番左は母親の胎内ですね。丸が自分自身で左から右へ発達段階をイメージしています。思春期の自立への葛藤を経て、自立し責任を負う自律を経て、老熟に至り感謝のうちに他者に支えられて人生を終わる。)

人間の基本存在は母親の子宮の中にあるのが大前提。それがなければ人間は存在し続けるのはおそらく無理だろう。一人で存在するのは無理で、無条件に自分を受け入れてくれる他者がいないときには 倒れてしまう存在なんですね。しかし、成長とともに「自律」のプロセスがはじまる。子供は母親の態度や顔を確認しながら育つのですが、思春期が難しい。そのときから「自ら立つ」意識が生まれてくる。親も子供の自立を促すようになる。それでも社会の現実が重く感じ始めますが、それを突き抜けなければならない。自分に力を蓄える時期になります。この時期が一番むずかしい。今の世の中は特に難しいのです。思春期がうまく行かなかった人たちをみると、完全に受容された時期がない人が多い。確かな眼差しとか確かな受容の体験がないと、思春期をうまく突き抜けられないで、非行に走ったりする。不安定さの原因はその前の受容が不十分であることが多い。背後で受容してくれることが必要です、それがあって初めて自立へと、進んでゆかれる。

自分の体験を話せば、家庭では自由にさせてもらって育ったので、何をやっても大丈夫だと安心して育った。ですから思春期の不安はなかったのですが、日本の社会はつまらないなと思って日本の社会に飛び出すむなしさは感じていました。土台があって自分ができる。教会にくる人で家庭がうまくいってない人は、その土台がない人が多い。土台がないと自分で立てないのです。生かされ支えられているものがないとだめなのです。

 

そして次に、エリクソンの言う、「自律」が来ますが、それは自分の責任で他者を背負う他者を立たせ生かせるところにある。自分を生かせ、老親を支え、やがて老熟するのですが、老熟の段階では自ら立つのは無理です。其の時期には、心理学的に落ち着くのは、人間性の内面性が生かされてきたことに目覚め、自分は支えられ生かされて来た、それ以外の何者でもないことが明確になると、自ら立つことも出来るかもしれない。そこに自分の人生そのものへの感謝があれば落ち着いた老後がおくれるのではないか。其の様な時期に自ら立とうなどと考えるともがいて哀れになる。エリクソンの成長段階で言えば、人間が社会に貢献ができる時期は短いのですから、あまり自立などと考えないほうがよいと思う。自立などと考えるよりも、生かされている存在の質を考えることが大切です。効率主義的に物事を見るのではなく、「 TO BE 」の質が問題です。質を考えることが大切です。

 

次に、他者の存在とのかかわり、他者と競争して生きていかなければなりませんね。其のとき自律の問題が起きてくる。自律の反対の極にあるのが従順ですね。それは他者の意思に律せられることを意味しています。自律とは自らの判断で自ら律するということです。この区別をしておかないと対話ということは見えてこないのではないか。

 

教会の中での対話と自立・自律のレベルはどこなのか

教会の中では、明確でない話し合いのいらいらが出ていると思われる。どのようなレベルが自律で、どのようなレベルが従順で、どのようなレベルが対話なのかを明確にする必要があるのです。そうでないといらいらが生じてくる。自律と従順をいろいろな角度からとらえ直す必要がある。

 

共同体の意思決定に際しては、教会も含めて考えてよいでしょう、連帯責任とか、一緒に生きるという実感がないとむなしいものになる。それは情報公開が前提にないとそれは生まれない。聖職者に情報が集まりすぎている。情報がある方が強いのは当たり前です。権力者に情報が集まる。江戸時代などは隠密を放って権力者に情報を集めて権力者が情報を検討して判断するということであった。つまり、共同体の連帯責任の前提は情報開示ですが、そのような意思決定を行うための前提が教会法のなかにはないのです。

司教の会議や教区長と司祭との会議でも信徒と司祭の会議であろうが、すべて会議は諮問にしかすぎない、決議機関になっていない。教会の意思というのがそこではなされていないから、信徒の自律と言ってもそうならない。教会自体が信徒の共同責任を担うとすれば、教会の意識を変える必要がある。そのままいけば、教会はいずれ世界に取り残されてしまう。問題を共有して、それぞれが情報をもってそれぞれの経験と立場で良心的に議論し、意見交換をすれば、対話になる。其のときには、司教も教皇も信徒も同じ問題意識を共有していないといけないことになります。良心的に話し合うことが前提になる。その点に関しては、教会法は欠陥があるでしょう。いずれ明確にしなくてはいけないところだと思います。そこには、カトリック教会のアイデンティティーの問題とも絡みますが、使徒継承の問題が出てくるでしょう。使徒継承とは何かということになります。キリストが任命した使徒の継承とこのような事柄がどのように関係しているのかということになるでしょう。

問題は、問題を共有して話し合って、多数で決めるとしますが、多数で決めたことを受諾し受容する、其のときに、最高責任者が共同体の意思としてそれを決定する。多数決で決めたのだから、みなでその結果を守りましょうとなった場合にも、従順の問題が出てくる。みなで決めたのだからそれに従いましょうということになる。

ある教会での話だが、祭壇の花の置き場所のことで、主任司祭が委員会で話し合ってきめたが。その決定を面白くないと感じていた一人の信者が、長年我慢できなくて、司祭が交代したときに、あまり細かいことにこだわらない新任司祭にだけ話して、勝手に場所を変えてしまったことが起きた。多くの似たようなケースがあるでしょう。みなの決定でも、不満不平我慢が鬱積して、消化しないでいると、面従腹背になって、内側と表が違うことになってしまう。本人が自分の良心に照らして、みなで決めたことに従えないのは、本人の責任だとはいいきれない。良心は強制されない、しかし、人格としては、未熟だということになりますね。

 自分が納得できないことが多数できまったときに、決まったことはみなの経験を出し合ってみんなで決めたので、みんなの後ろにはそれぞれの良心があるのだから、みなを信頼して、自分と合わない結論にも、自分が身を引いて従うという、従順もある。これは自律と従順の問題ですね。また、良心の問題だから、自分ひとりでやればよいということもある。勇気の問題でしょう。一匹狼でもよいのだろう。預言者もそうしている。キリストも同じだったと思う。合わなければ自分の良心に従って生きる選択もある。ともかく不平不満を根に持つのはよくない。

組織としての共同体には土台がないとやれない。司教と司祭の話し合いでも、何を話してもよいですが、ここは諮問機関で最終決定は私がします、ということではみなはやる気がおきない。そのような場で、何かしようとすると、すごく時間がかかり大変なことになる。

 

次に、伝承と伝統の問題がある。教会は2000年の伝承と伝統を持っている。修道会は修道会の伝統と伝承があります。そのようなものを受け継いでゆくということは、理屈ではないということです。落語などでもそうでしょうが、肌から肌に伝える。それは師匠の前に頭を下げることになります。其のときには伝統伝承を伝える家長なり指導者は、其の伝統をしっかり生きていなければならないでしょう。大前提は指導者がしっかり伝統に生きているということです。教会でも同じことが言える。

 

典礼もそうである。過去から受け継がれてきたいのちが伝わっているものがあります。  新しい人が理屈で言ってもだめで、知らないうちに形で受け継いで行く面があります。多くの修道会で伝統伝承の問題がおきています。志願者に修道者たちが生活の中で感じさせる。たとえばとマシア神父さんがここに入ってくるときと、シェガレ神父さんが入ってくるときの違いがそこに出てくる。イエズス会とパリミッション会の違いが出る。それがないと困るでしょう。時には知性とか理性は邪魔になることがある。心からの従順がないと伝統と伝承は受け継がれないのです。

 

ただし、伝承の問題には識別が必要です。例えば、女性司祭の問題への歴代の教皇の答えは、それは伝統じゃないというところにある。それだけですが、それは、信仰伝承なのか、あるいは、表面的な次元のことなのか識別することが大切ですね。教会の伝統であると説明されている事柄には次元の問題がある。それが信仰伝承で教会のいのちなのか、教会の定めなのか、伝承の中身を識別する必要がある。ヨハネパウロ2世は過去の教会の誤りについて識別しましたが、教理聖省の責任者は、普遍の教会は誤りを犯さないと、教会の責任とはいわないで、一・聖・公で普遍の教会であるから誤りを犯すはずがない、誤りを犯したのは教会の子等であると表現しましたね。聖・公・使徒継承の教会であるという、この信仰箇条は福音の本質にあるのかどうか。これは公会議の中で確立されてきたものです。教会の伝承を、われわれはその中に生かされてきているのだから、受け継がなければいけないし、伝承を尊ばないといけないのですが、本質的なものとそうでないものとの識別をしないといけない。そうでないと現代には通じない。それが難しい。

 

今の小教区制度に、家長的な面がありますね。パテナリズムというのでしょう。教皇様、神父様というような、家族の長のようなところがある。といったところがありますね。そのような中での対話をしようとしてもぶつかることになる。この中で自律といっても難しい。「神父」の呼び方も「・・さん」でよいのではないか。しかし、呼び方の問題も状況判断をしたほうがよいこともありますね。人を見て合わせる必要もあります。社会常識との関係も配慮しないとならない現実もあります。

ともかく、問題が、真に信仰伝承を受け継いでないと思ったときは、問題を起こすよりも距離を置いたほうがよいでしょう。小教区で司祭と触れなければならないときには別ですが、それでも少し距離を置いたほうがよいでしょうね。言われている信仰伝承に司祭がそのいのちを生きていないようなときには、ミサだけで帰るほうが健全なこともあるでしょう。

 

次に、従順と自律の関係ですが、経験豊かな尊敬するリーダーやオピニオンリーダのもとに集まるとき、それは合議制とも、家長制ともまったく違う。日本にもそんな人が出てきているのです、例えば、小泉さん的な人は、はっきりぱっといってしまう、なんて理性に欠けると感じるときもありますが、それが頼もしいと受け取られる。ワーッとみながついていく。石原慎太郎も同じようですね。オピニオンリーダとして、今の時代に魅力があるのかもしれない。今の日本の社会が平均化されていて、そこから抜け出すために何かいっているリーダーに魅力を感じてしまう。深く豊かな価値観、人生観、世界観、人柄に照らされて、其の指導者に信頼し其の中で自らを育てる。これは教会の中にもいつもあったと思います。 

 

地域の共同体が地域の中にいると、埋没しがちですね。そこで信仰を生かそうとする。ですが、地域を越えて投げかけてゆくと、地域の中に閉じこもっていては見えないことも見えてくることもある。そして地域の枠をこえてムーブメントとなる事が、教会の豊かさを生み出してきた。地域の教会だけに閉ざされる必要はないと思います。もっと大きなこともありますね、これは教会にとっても必要なことだと思います。50年以上の長期に主任司祭が代わらないような場合には新しい空気は入らない。オピニオンリーダのもとに従い自らを育ててゆくという場合、時として主体性を失うことになります。其の欠陥が「オウム真理教」の場合にはあった。

 

特に80年代以降に新宗教の問題が起きた。「オウム真理教」、「幸福の科学」などもそうです。創立者が絶対化されている。それに盲目的に従うことが求められる。現代社会の反面教師で、周りの人は操り人形になり、媚びへつらい、本人と周りの問題しか目に入らないこともあり得る。リーダーの責任であるし取り巻く人の責任でもあります。聞いたところでは石原慎太郎には何も云えないといった状況があるといわれていますが、これも同じだろう。教会の場合はどうか、そのような状態になれば思考停止になる。教皇、司祭は正しいというだけになってしまう。ただ肯定するだけになり、それがさらに進めば、妄信、狂信、ということになることは十分ありえるでしょう。どの宗教、どの指導者につこうが、健全な批判精神は必要である。

 

大来佐武郎(昭和期の官庁エコノミスト。元外務大臣。戦後日本を代表する国際派エコノミストとして活躍し、 1993 年逝去されました。 http://www.nira.or.jp/index.html  総合研究開発機構 (NIRA) )は非常に優れた人間観人生観を持った方です。将来の日本の人材を育てなければと、企業や財界に若手の養成を20年間以上続けている。毎週一回一年コース。資金は企業が出している。30−40代の人を対象にしている。そこに呼ばれて「カトリックと国際社会」というテーマで話しをしました。参加者の中には自民党の秘書や自衛隊の人がいました。話しを終えて質問の時間になって、防衛大学の人が「前の教皇は全世界を回られ多くの外の人とあっていましたが、今の教皇はどちらかというと大学教授のようで海外にはあまり出かけない、姿勢が違うようですね。上が変わればそれに合わせないとならないでしょう。企業も同じでトップにあわせますが、カトリック教会はどうなのですか?あわせるのですか?」との質問があった。「教皇のことよりも、聖書をもっと大事にしているのです」と答えました。わかったような、わからないような答えになりましたが、ともかく、健全な批判精神は非常に大切ですね。

 

最後に、キリストの従順と自律についてお話します。キリストの場合を見てみると、謀略で裁判にかけられ十字架につけられてゆく、考えてみれば本当に不条理なことですね。キリストは、遠ざけて下さいと叫びながらも、それを神のみむねと受け取り、人生を終えてゆかれますね。そこには自律がある。従順によって自らを律する。すべての出来事を神のみむねと受け取る。すべての出来事を神のみむねとして受け取ってゆく自律、それが、自らの人生を完成させていく。自律と従順を踏まえながら、社会の悪に対してはいけないものはいけないと言う。

 

ナチスによって殺されたプロテスタントの神学者が言ったことですが、「罪を罪として認めない教会は教会の存在理由がない」と。彼はそれを云って殺されたのです。彼もそれを云うことを神のみむねと受け取り死んでいった。(ディートリッヒ・ボンヘッファー( Dietrich Bonhoeffer, 1906 年 2 月 4 日 -1945 年 4 月 9 日)、ドイツのルター派(福音ルーテル派)の牧師。 20 世紀を代表するキリスト教神学者の一人。第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担の嫌疑で別件逮捕され、ドイツ降伏直前の 1945 年 4 月 9 日ナチスにより刑死。)

 

従順と自律ということを考えるとき今の教会の特に聖職者、司教・司祭のどの辺に問題があると考えるのか。状況をどのように考えるか。信徒がいくら考えても構造上の問題がある。柔軟な人は、自分はわからないからみなで考えてよ、教えてよ、最終的には責任を持つから、といったような姿勢で皆さんの考えを生かすことは出来る。其のやり方は今でも問題はないのです。だから今でもやろうと思えばできるのです。民主主義を議論しないでもありかたを変えてしまうことは出来るのです。構造上のことを詮議しないでも内容を変えてしまうことは出来る。いまは、言わせてガス抜きみたいなことがあって、結局は自分たちで決めてしまうようなことがある。そうなるとまじめな人はやりきれない気持ちになる。自律と従順の問題は、これまで述べてきた四つの視点でそれぞれに考えてみていただきたい。

 

最終的には一人ひとりがキリストをしっかり見つめていないと信者として生ききれない、やりきれない。

 

最後に、使徒継承は何のためなのか、教会法上のすべての問題が其の上にあるように思い込みがあるのではないか、教皇司教司祭の意味付けをあらためて考えて見てほしいと思います。

 

3) 全体会での各人のコメント:

今回は、久しぶりに参加された方もあり、また、全体会の意見交換では、多くの人の意見を聞くことが出来るようにとの配慮から、司会者の判断で、各人の1分間スピーチとなりました。参加者の一人ひとりから貴重な多面的にいろいろなご意見が話されてすごく有意義だったように思われます。 (記録は残念ながら割愛させていただきました。)

 

4) 連絡事項:

   マシア師(イエズス会司祭)が「学び合いの会」の同伴司祭として今回から参加してく

   ださいました。「学び合いの会」は、これからの活動をマシアさんに報告・連絡・相談しながら

   進めさせていただくことになります。森司教のお口添えで実現の運びとなりました。

   よろしくお願いします。

   従来、ニコラス師(2008年1月19日イエズス会総長に就任)、

   増田師が担ってくださっていましたが、今年は不在でした。

マシアさんからひとことごあいさつがありました。
内容: いま、皆さんの多くのお話を伺って、ご一緒に歩めばいろいろ学び合えるのではないかと思います。今日は久しぶりに司教さんのお話を伺って、最初から「立たされる」というところから始められたのが印象深かったですね。というのは、自立の話をしますとよくいつの間にか、自己主張に陥ってしまうことになりかねないのですが、そうではなかったということは、自分自身の“吟味”、私自身の経験で言えば、自分とは違う、多くの人の意見とか多くの人に接して始めて吟味させられるというか、出来るようになるのではないかと思います。私は昭和16年生まれですから、自立か横たわっているか中途半端なままに皆様とつきあいさせていただいて学び合って行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 

以上

 

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