「学び合いの会」例会記録
2007年4月21日(土)
年間テーマ:「信仰者の真の自立と真の対話を求めて」
本日のテーマ:「教会の中での自立と対話、パートT」
参加者: 25名
本日の進行:
1) 10:30−11:00 「初めに」 および 「本年度の学びとテーマ説明」
2) 11:00−12:00 グループによる学び合い
(数分の休憩)
3) 12:10−12 :55 全体会
4) 12:55−13:00 連絡事項
例会は、上述のスケジュールで進められました。4グループによる学び合いののちに、全体会が行われたのですが、その記録が作成出来ませんでしたので、今回の記録は「本年度の学びとテーマ説明」だけにしぼらせていただきます。これは、裏・表1枚の紙にまとめられた骨子をベースに小笠原さんにご説明いただいたものです。
「本年の学びとテーマ説明」
テーマ説明の資料が裏表の紙 1枚にまとめてあります。これは3月、昨年度の学び合いの会が終わったあと、皆が合議の結果、こういうテーマにたどりついたわけです。
このテーマでさっそく今日から始めるわけですが、その前に、1年間のテーマについて、互いのコンセンサスといいますか、認識をある程度、近づけておくために、ご説明する次第です。
メインテーマは、太い字で書いた「 信仰者の真の自立と真の対話を求めて 」です。その下に趣旨が書いてあります。私たちは教会の中で、社会の中で本当に自立しているかという問いかけ、そして、 自立すると共に、お互いに調和していけるか 、いるか、ということです。これが学び合いの趣旨と考えていいと思います。
私たちがここ数年学んできたのは、ミッションとか、交わりとか、ある程度普遍性のある、誰もが素直に話し合えるテーマでしたが、今回はちょっと、ざらっとしたというか、自立という言葉は、まだ本当に皆の中で、私たちの中で、 イメージがまったく同じものではない ように思います。それぞれの方々が別のイメージを持っている。
このテーマが決まる過程で、個人的に、またグループの話し合いで出たのですが、自立は押し付けるものではないだろう、或いは、人間というのは本来自立しているものではないか、というご意見がありました。或いは、ある人は、使徒たちがペンテコステで、聖霊を受けたときに自立した、それまでは自立していなかった、そこが違うのではないかと言います。いろいろなイメージが自立にはあります。それをそのままにして、この学びあいに突っ込んでいくわけですが、 少なくとも自立という言葉が学びあいに値する ということだけは、皆さんに認めていただいたと思うので、そこから始めていったらどうかと思います。
今期の学び合いは4回予定されているので「項目」として1から4までテーマを上げてあります。
で、その下に、「テーマ説明」とありますが、それは全体のテーマに関する能書きというか、説明が書いてあります。つまり、自立ということについて縷々書いてあるわけですが、皆さんの考え方はいろいろおありだろうと思います。ただ今回「自立」というテーマを投げかけた一つの理由として、ここに書いてあるように、 わたしたちはいつの間にか自分の考えでなく、他人の考えにあわせているのではないか、ということを、ひとつの考え方の出発点としてあげてあります。もちろん、他のアプローチもあると思います 。
その下に書いてあるのは、例えば、一人の自立した存在を考えた場合に、そういう人は、どう行動し、どう考えるのだろうか? たぶん、既成の価値観であるとか、いろんな常識、今まで通用している常識とか、あるいは、権威というものを、盲目的に受け入れてしまうのではなく、 自分なりの判断を持って、そういうものを一度自分の中で吟味する のではなかろうか、ということです。
そして、吟味する対象の例として、そこに◇で5つほど書いてあります。 これも例にすぎませんが、例えば「共同体の中では一致しなければいけない。」という言葉をそのままに受け取っていいのか? とか、「多様性の中にこそ豊かさがある。」と言うけれど、本当にその言葉通りでいいのか、それで自分が本当に行動できるのかという考え方もあるかも知れません。それから、「あなたは神の道具ですよ」と言いますが、「私は道具かい?」という人もいるかも知れません。或いは、「政教分離」に関しても、たぶん、この中の皆さんの考え方はそれぞれ違うと思うのです。さらにもうひとつ、私はサラリーマンですが、「労働は神聖である。」と言われると、「本当なの?じゃ、労働しない人は、怠け者なの?」とか、いろんな考え方があると思うのですね。
それらをひっくるめて、非常に 多様な考え方のある自立というものを、皆で学んでいった らどうかというのが趣旨です。
次に項目ひとつひとつの説明がそこに書いてありますが、1回目と2回目は同じテーマでやることになっています。まず、信仰者としての身近な環境は、自分の属する共同体、教会ということなのですが、これまでに私たちが学んできた中で、 本当に自立した存在であろうとする自分を妨げるものが、今の教会の中にはあるのではなかろうかという問題意識が出てきています。それがいったい何なのかを、もう一度考えると共に、それはどうやったら取り除けるかという話を、とっかかりにしたらどうか。
ただ、司祭や信徒の不完全さをあげつらって、話し合うということは、実はこれまで毎回のようにやってきたことです。たぶん、今度はそういうことが目的ではない。むしろ、 構造的な問題とか、そういう面から、 学び合いの会の趣旨から言っても、アプローチすべきであろうと思います。
そして3回目は、身近な共同体から、もっと広いところへ、つまり社会とか、家庭とかの問題に広げていくことになります。ここに書いてあるように、今の社会の中に信仰者としての自分を置いてみて、自分のスタンド・ポイントはいったいどこにあるのかということを、お互いに分かち合ってみたらどうか。
これは、申し上げたように、いろんな立場の方がおられるので、かなり話し合いが白熱するのではないかという気もするのですが、やっぱり一度そこを通ってみないと、私たちの話し合いはきれいごとに終わってしまうのではないかと思うのです。
最後の4回目では、もういちど「自立」という中心テーマに立ち戻って考えてみたいという皆さんのご要望がありました。九重さんのお手紙の中にもあったのですが、いろいろなものを知的に理解するだけでなくて、もっと体験的というか、自分のこころにわかるような学びをしたいというご意見がありました。確かに、単に教会の構造や、社会構造の矛盾を話し合うだけでなくて、やはり、信仰者としての真の自立ということを考える時に、例えば、「みことば」に戻って考えてみるという学び方もあるのではなかろうか。
実は、「自立」というテーマ案を私たちの顧問である森司教にお持ちして、どんなものでしょうかという話をした時に、「どういうことなの?」と問い返されました。つまり自立ということばの次元をお尋ねになったのです。例えば、一般的な、いわゆる信仰と関係のない立場でいろんな人が考える自立というのは、例えば、教会でも、職場の中でも、非常に優等生的な方がいらっしゃるわけですね、人格も円満で、皆さんから信頼されて、うまく、社会的に自分の立場を保っている方がいます。それは、客観的に見ても自立しているように見えます。私たちは、そういう自立を社会的には欲していると思うのです。
そういうことなの?そういうことではないのでしょう? と森さんはおっしゃったのです。私たちも、そういう次元で言っているのではないのです。 自立ということばのイメージは、もっと厳しいというか、自立することによって、時には血を流すような状況も覚悟するという次元で考えたいのです。 そしてこの時点で、テーマに「真」が付き、「真の自立と真の対話」ということになったのです。なぜ真? 真なんていらないのではないか? たしかに、なくてもいいかもしれませんが、常に予定調和的な、円満な「自立」ではないという意味で、自立にあえて「真」ということばを付けて提示したつもりなのです。
繰り返しになりますが、「自立」も「対話」も皆それぞれイメージは違うでしょうが、「真」の意味をいつもお互いに確かめ合いながら勉強していけたらいいと思っております。
非常に抽象的な説明になりましたが、ご質問がありましたら、グループの分かち合いの後で、全体会がありますので、その中でも出してください。
連絡事項:
全国合宿につき、日程と場所だけが決まりました。具体化のために積極的にご参加ください。(森司教、シェガレ師にはご参加いただける日程です。)
時期: 2008年1月12(土)〜14(月) 場所:富士箱根ランド
以上
(文責:記録作成者)