「教会憲章、信徒の召命とその意義」
2006-5-13 学び合いV期 増田祐志師講話から
文責:記録作成者
イエズス会の増田です。上智大学で教会論その他を教えています。
今日のテーマは「信徒の召命と教会憲章」です。教会憲章は最近行われた第二バチカン公会議のもっともの大事な公文書の一つです。
皆さんは、教会の発言や文書に区分があるのをご存知でしょうか。簡単に説明します。第二バチカン公会議にはいくつかの種類の文書があります。典礼憲章、教会憲章、司祭の養成に関する教令、或いはキリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言などです。憲章、教令、宣言という三つの文書に区分されています。もっとも格が高く拘束力の強いものは憲章です。ドグマ、教義に関する重要な文書です。(典礼憲章、啓示憲章、教会憲章、現代世界憲章=司牧憲章とも言われます。教会が現代世界においてどういう働きを果たすかについて書かれています。第二バチカン公会議では16の公的な決定がなされました。そのうちの4つが憲章です。)
教会憲章は、教会をどう理解するのか、教会はこれからどうあるべきなのかを示唆します。私たちの生活にも直接影響がある。信仰生活において指針にすべき文書です。
今日は教会憲章を中心にしてそのほかにも触れながら「信徒の召命とその意義」について話します。
まず、「信徒」という言葉はさまざまな問題提起を含みます。たぶん、信徒というのは、聖職者とか司祭という言葉があって初めて成立する言葉かも知れません。実は、信徒、何々教徒、キリストを信じるキリスト教徒、すべてキリスト教の信徒であると言った場合には、司祭とか司教とかそういう者も全部含めて信徒ということが可能なわけです。ですから、まず最初に、「信徒」ということばをどのように理解するかということを話します。
聖書に見られる信徒:
旧約聖書では「信徒」ということばでなく「民」という言葉です。「イスラエルの民」という言葉と「異邦の民」の「民」を別の言葉で区別して用いられています。
イスラエルの民、ヘブライ語ではアール。ギリシャ語でラオスです。そして異邦の民にはゴイというヘブライ語が当てられ、ギリシャ語訳ではエトナスです。(エスニックの語源になる言葉) つまり、イスラエルの民は、自分達のことを他の国民と区別して理解しているわけです。それはイスラエルの民が神の救いの業を担っている、つまり、神の救いの業こそが自分達の民族の起源だと、そういう理解を持っているからです。
イスラエルの民の神の選びは、イスラエルの民のためだけでなく、イスラエルを通じて、その救いがすべての民に及ぶためであるという、そういう理解もあるわけです。
では、この「イスラエルの民の選び」というのはどういうことなのか説明します。申命記の7章7〜8節に、次のような言葉が出てきます。
「主が心を引かれてあなた達を選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(参考:これに先立つ6節: あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。)
このように、イスラエルが選ばれたのは、イスラエルが他のどの民よりも数が多かったというからではなく、どの民よりも賢かったからとか、強かったからということでもなく、神の選びの理由は、イスラエルの民がどの民よりも貧弱であったからですと、はっきり書いてあります。つまり、神の選び、自分達自身が貧弱であったからこそ選ばれた、貧弱な民にこそ、神が救いの業をもたらした、そのことが他のすべての民に対する証になるのだということです。その意味で、イスラエルの民が、自分達と異邦の民を分けて考えている。こういう発想は大変重要だと思います。
一方、新約聖書は、新しい「神の民」という発想が出てきます。例えば、ヘブライ書の2章の17節: 「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
ガラチア書3章 7節: 「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
つまり、イスラエルの民は、自分達のことをラオス(ギリシャ語でラオス)と呼んでいたのですが、このラオスという概念は、新約聖書ではこんどは、“エクレジア”=選ばれた者、聖徒、弟子、兄弟・姉妹、こういう集い、共同体に集まる人々、信じる人々の共同体、そこには、ユダヤ人であるとかギリシャ人であるとか、或いは自由人であるとか奴隷であるとか、男であるとか女であるとか、そういう区別がないわけです。信仰によって生きる人々こそアブラハムの子、こういう発想が出てきます。
ラオスからエクレジア(ラテン語のエクレジアは、チャーチ=教会ということばです)、つまり教会という発想が新約聖書に出てきます。これは、第二バチカン公会議でも復権します。後で説明しますが、この後長い歴史を経て、この教会という発想、つまり、信じるものの民、信じるものの集団という発想が教会というところから、歴史ではどんどん離れていった。しかし第二バチカン公会議では、教会を「神の民」、つまり、信じるものの民というふうに再定義します。
第一義的に新約聖書の教会理解が大切です。教会とは何か。いろいろあります。「教会とは何か?」と聞かれて、皆さんは何と答えるでしょうか。「司祭とその周りにいる人々」をいうのでしょうか。或いは、古代教会で言われた、「司教のいるところ」が教会だと言う発想もあります。
その表現が悪いというのではなく、その時代のコンテキストではある意味では正しいのです。しかし、言ったことばのコンテキストがまったく変わってしまっても、「司教のいるところが教会だ」という言葉だけが独り歩きして、司教が教会を代表するかのような理解が生まれてきました。
しかし、第二バチカン公会議の教会憲章は、「教会とは何か?」について、二つのことを言います。
その一つは、教会は「世界の救いのための普遍的秘蹟」である。つまり、教会の存在目的は、自分達自身にあるのではなく、教会を含めた全世界の救いのためである、そのための秘蹟である。「教会そのものが救いではなく、教会は救いを全世界に仲介する存在なのだ」いう発想です。
もう一つの、教会憲章の教会定義は、「教会は神の民」である。誰が「神の民」なのか教会憲章は説明しています。第一義的には、キリストを信じるすべての者です。神の民は、英語では、 People of God です。キリストを信じるすべての者は「神の民」です。 教会をそのように定義するのです。位階制による司教、司祭、教皇或いは修道者、そういうところから定義するのではない。“信じるすべての者”が “神の民”でありこれが教会です。
それでは、キリストを信じない人はどうなるか。教会憲章は歴史上画期的な文言を付け加えます。「神の民だ」とは言いませんが、例えば、同じアブラハムの神を信じているユダヤ人たち、或いはイスラム教、或いは神の像を探し求めている仏教徒とか、こういう人々も神の民に秩序付けられている、と表現しています。「彼等は我々とは無関係ではない。神の民に秩序付けられている。」という言い方をします。
さらに、本人の落ち度はないままに、キリストとその神を知らないが、良心の声に従って生きている無神論者まで、神の民に秩序づけられていると、はっきり書いてあります。
この“本人の側に落ち度がない”という、この表現はちょっと難しい。ある授業で私は学生に時々尋ねるのですが、「本人の側に落ち度がなく、キリストとその神を知らない状況」というのはどういうことか?まあ、例えば、キリスト教に生涯一度も触れたことがない人は、はっきりとこのケースに当てはまります。
日本のカトリックのミッションスクールでは、イエス・キリストとか神に関する講義とか、5月の聖母月には聖母の集い等をやっている。このようなミッションスクールで6年間生活して卒業して洗礼を受けなかった人々は、本人の側に落ち度があって信じないので救いに達することが出来ないということであれば、ミッションスクールの卒業生は、殆ど洗礼を受けないで卒業していきますので、ミッションスクールは地獄に落ちる人々をたくさん輩出しているという発想になる。 厳しく考えれば、その様な解釈も成立すると思います。しかし、本人の側に落ち度がないとしても、たまたま出会った司祭が悪かったとか、そのほかにも色々あると思いま。その場合は、本人の側に落ち度がないといえるでしょう。
ともかく、教会憲章は「神の民」を非常に幅広く定義しています。それに秩序付けられている人々を、ほとんど全世界の人々に広げて考えています。そこには第一義的に位階制という発想はないのです。位階制以前に「神の民」なのです。位階制は、教皇を頂点としたピラミッドみたいなものです。
第二バチカン公会議の「神の民」という理解は、まさに新約聖書の発想に基づいているのです。では、どうしてそういうことが言えるのか考えて見ます。
はじめに「信徒」という名称のことから見ていきます。
先ほどイスラエルの民は、自分達をヘブライ語ではアール(ギリシャ語ではラオス)と定義づけていると言いました。ラオスは広い意味で洗礼を受けたもの全員のことです。狭い意味では一般信徒、つまり聖職者と云われる人々とは区別された、一般信徒という意味です。ただ、新約聖書は、司祭という発想がまだないので、洗礼を受けてキリストに従うすべての人を聖なる者と看做す伝統があります。
ですから、新約聖書でラオスといった場合には、広い意味です。洗礼を受けた者、全員です。結婚している信徒も、固有の任務を持っている人も、皆共に、キリスト者、神の民、エクレジアを構成するラオスです。
一方で、ギリシャ語では、ライコスという単語があります。これは、ラオスに発音としては、近いのですが、ライコスということばは、専門分野を持たない人、或いは、俗なる者という意味があります。このライコスということば、新約聖書の中には使われてはおりません。すべてラオスです。ラオスという言葉は、旧約聖書においても新約聖書においても、後期の文書になるとある程度、祭司職と言った、民の区別がある程度出てきます。ラオスはその区別を表現する言葉ではなく、祭司も民もすべてラオスだという発想で語られているわけです。
ラオスという言葉が示している民という言葉は、祭司も民もいろんな役割分担を担っている人々すべて、信じる者すべてを単一の共同体に属する民として表現する言葉だということです。
このラオスが、ライコスと発言が似ているところがあり、また歴史の変遷の中で、俗なる者と聖なる者という区別が、聖職者と一般信徒という区分に当てはめられて、だんだん聖職者と信徒という区別が教会の中に入り込むようになったということです。
それでは、信徒概念の変遷ということについて話します。
新約聖書にはラオスという言葉があって、それはすべて信じる民という、すべての信じる者を指すのだと説明しました。一方で「信じる者と、信じない世」という区別も新約聖書の中にあります。つまり、キリストを信じるラオスとその外の世界、「世」、神の民に属していない者、或いは異教徒、こういう区別があります。この区別がだんだんに教会の中に入り込んできて、もともとは「信じる民」と「それ以外の民」という区別だったのが、教会の中で、世に在る者つまり俗世間で生きる信徒と、聖職者、こういう発想、つまり、こういう区分が徐々に古代教会の中に現れてきます。
さらに、コンスタンチヌス大帝の時代、キリスト教がローマ帝国の中で公認されて、教会がいわゆる世俗権力を持つようになります。それまでキリスト教の司教は迫害下にあっては、殉教者になるしかなかったわけですが、一夜にして今度は皇帝の宮廷に出入りを許される存在になり、出入りを許されるどころか、教会が裁判所になったり市役所のような任務を担ったり、つまり、公権力を担うようになっていくわけです。そうなると司教とか司祭というのは、信徒に対してある種、強い権限を持っていくようになる。そこで、聖職者と信徒という明確な区分がさらに強められ、教会の中に、いわゆる二つの階層が出来上がっていくということになったのです。
さらに、中世になると教会は、その当時の文化の継承、および教育の担い手となっていきます。先ほど言った市役所のような任務も続けていくわけですが、文化継承、教育の担い手という機能も持ちます。当時、識字率は非常に低いですから、その中で、文字が読める人というのはごく限られていて、聖職者というのはその限られた人々の一部だったわけですね。聖職者は学問した者、或いは賢い者、学識者ですね。賢者。そして信徒は無学な者、そして無学な者は愚か者、こういう信徒イコール無学な者、愚者という理解が出てきます。
12世紀の教会法学者は、こう書いています。「教会の中には、二種類の人間、二つの階級があり、聖職者と一般信徒、霊的生命と肉体的生命、そして二つの権力があります。聖職と王国、神の法の管轄権と人間の法の管轄権です。」
そして、ボニファチウス8世という教皇は次のように書いています。「信徒は常に聖職者に対して敵対的であった。古代国家の状態がこのことを我々に教えてくれるし、それは現在ではあまりにも明らかに知られていることである。」
“信徒は常に聖職者に対して敵対的であった”、ある意味ではそうであったかも知れないが、これはボニファチウス8世という教皇の時代は、周辺のいろんな国家が台頭してきて世俗権力が強くなってきたのですね。そして、いわゆる教会の叙任権の問題とか、教会財産の管理の問題とか、国家の王様とかそういう人々が管理したがったのです。そこで教皇権と対立するのです。実際に、この教皇はフランス王のフィリップ4世に捕らえられて、牢獄に入れられてしまいます。こういう教会と国家の関係があったので、こういう発言になるわけです。いくら王でも、まあつまり、ボニファチウス8世の立場は明らかです。自分達が霊的な権威を握っているのですから、そして剣の権威、つまり世俗権力というのは、霊的権威に仕えるためにあるのだと。だから、ボニファチウス8世は、フィリップ4世を破門するのですけど、この時の国家は、もう破門など怖くないわけです。破門どころか勝手に破門を解かして力づくで教皇を捕まえて牢獄に入れるのです。実際に、このボニファチウス8世は牢獄の中で憤死したのです。因みにこのボニファチウス8世というのは、「教皇に服従しない者は救われない」と書いているのです。教皇に従順でない者は救いを得ることが出来ないと大勅諭に書いているのですが、このようなことを書くということは、教皇に従順でない人がたくさんいたということですね。
近年になって、いわゆる教会は啓蒙主義とかフランス革命を体験して、ますます世俗に対して敵対的になってきます。啓蒙主義は、つまり理性、ガリレオ裁判のようにそれまでの天動説を唱えていた教会に対して、自然科学の発達から教会の言っていることは間違っていると、地動説が出てきたり、ダーウインの進化論が出てきたり、教会のそれまでの権威、権威的な教えというものがどんどんと理性によって覆されていく。或いは聖書学者の中にも出てきます。モーセ5書は、モーセが書いたものでないということを証明してしまうわけです。教会はそれらをとにかく権威を持って否定しようとするのですけれども、人々はもちろん、もうそういう権威を認めないのですね。そこで教会はどんどんと内に籠ってくるわけです。「教会の外の世界は悪魔の勢力だ、教会の内にしか恵みと真理はない」という発想になっていくのです。そしてさらに、恵みと真理の管理、そして分配者は聖職者だ、一般信徒はそれにあずかるだけだ、とそういう発想になっていきます。どの教皇でしたかね、蒸気機関車を初めて見た教皇が「あれは悪魔の乗り物だ」と言った人がいますね。
そして近代の教会は、教会こそが完全なる社会、恵みと真理が充満している完全なる社会であり、その完全なる社会を統治している者こそ聖職者だと、信徒はこの完全なる社会に日曜日に、1週間に一度来て、それで残りの6日間の世俗での汚れを洗い落とすことによって救われるのだと。つまり世俗は悪の巣食うとんでもないところですから、そういう発想がでてきます。
ただし、近代の後半になると、だんだんに世俗にある信徒、信徒使徒職という考え方が出てきますね。そして世に在る信徒というものが教会にとって非常に重要な、重大な貢献をなすのだという考え方が徐々に徐々に出てきます。そこで、第二バチカン公会議ということになります。 (第一バチカン公会議は100年ぐらい前にありました。)
第一バチカン公会議は戦争などの制約があったので、最初に意図したことが十分に討議できなかったのですが、それでも二つの公文書を出しています。ひとつは啓示に関する文書、もうひとつは、いわゆる教皇の首位権と不可謬性に関する文書です。面白いことに、この教皇の首位権と不可謬性を表現しようとしたのは、教会とは何かということを、この第一バチカン公会議は教皇権から表現しようとしたのです。教皇とは何かということを定義することによって、教会とは何かということを説明しようとしたわけです。教皇、教会の頭である教皇は、首位権を持っており、つまり、他の司教に優る首位権を持っており、それは単に名誉上だけではなく、裁治権上の首位権をもっている。それは同時に教皇の不可謬性、教皇は聖座から、信仰と道徳に関して宣言することにおいて間違うことはあり得ない。ですから、第一バチカン公会議の「永遠なる牧者」という文書は、1から10まで教皇について、それによって教会を定義しようとしているわけです。
ところが、第二バチカン公会議は、教会憲章の目次を見ると非常に面白いです。
第一章は教会の秘儀について、第二章に「神の民」が来るのです。先ほど言ったように新約聖書の発想に戻っているわけです。ラオスという発想、そこでは祭司も民も区分されない、或いは祭司も民も同じ単一の共同体に入っているという発想のラオスという考え方に戻ってきます。
それから初めて第三章で「教会の聖職位階制度、特に司教職について」語ります。そして第四章では、こんどは、これは画期的ですが、「信徒」を特別に取り扱います。そして第五章「教会における聖性への普遍的召命について」、これも非常に画期的な発想、考えです。
つまり、聖性、ホーリネスへすべての人がどの身分の人であろうと召されているのだ、司祭とか修道者とか関係なく、世にあって独身である人、結婚生活を送っている人、どのような身分の人であってもそれぞれの仕方でこの聖性へ召されている。そういうボケーション、召命を持っているのだということです。そこに優劣はないということです。司祭の召命と修道者の召命の方が、信徒の召命より、より聖なるものであるとか、より重要なものであるということは言いません。皆同じです。同じだというのは画一的に同じということではなく、それぞれの固有の場で、固有の召命があるのだということです。
第六章で「修道者」を取り上げます。第七章旅する教会の終末的性格及び天上の教会との一致について、これも面白いですね。「旅する教会」、それまで教会は「完全なる社会だ」と言っていました。「完全なる社会」は旅する必要がないのですね。“旅する”というのは、“変わっていく”ということなんですね。そして自ら浄化を必要とするということわけです。旅ですから、まだ目標点に到達していないのです。目標点はどこかと言えば、終末の救いの完成の時以外あり得ない。しかし、旅する教会は、その終末の完成に向かっているという意味で「終末的性格」、そういうものを持っているのだということです。第八章はこの教会のモデルとしての神の母マリアということになります。
では、この教会憲章における信徒理解について述べていきます。
まず、教会憲章の31番(信徒の定義): 「信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会の中に認可された修道身分に属する者以外の、すべてのキリスト信者のことである。すなわち、洗礼によってキリストに合体され、神の民に加えられ、自分達の様式においてキリストの司祭職、預言職、王職に参与する者となり、教会と世界の中で自分の本分に応じてキリストを信ずる民全体の使命を果たすキリスト者のことである。」
ここで重要なのは、キリストの司祭職、預言職、王職に参与する者だということです。いわゆる3職と言いますね。3職に与るから神の民です。
さらに次、「ある人々はキリストの意思によって他の人々のための教師、秘儀の分配者、牧者に定められているが、キリストのからだの建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある。」つまり、ここで言いたいのは、平等性の確認です。キリストのからだの建設に関しては、叙階を受けた者とそうでないすべての信者とは真実の平等性があるということです。
平等というのは、差異がないということではないのです。差別的な差ではなく、区分はある、固有の役割は当然あるということです。別に信者と叙階を受けたものがまったく同じだと言っているわけではなく、キリストのからだの建設に関して、両者が共に協力しあう、平等性を持って協力しあっていくんだ、こういうことを言っているわけです。32番です。32番(神の民の成員である信徒の尊厳)
教会憲章の信徒理解で特徴的なことは、いくつかあるのですが、今日ここで特に申し上げたいことは、「キリストの3職、祭司職、預言職、王職にあずかる信徒」という発想です。これは何か?といいますと、旧約聖書の時代から、いわゆる、祭司とか預言者とか王と言うのは、神から特別な力、恵みを注がれ、或いはその神の言葉を伝えるという、そういう役目を担っているわけです。祭司ですね。メルキゼデク、有名な祭司がいます。或いは預言者、たくさんいます。神の言葉を預かり民に伝える。そして王として、神の民を治める。こういう旧約聖書に見られる3職がもうすでにあるわけですが、この旧約聖書において表された3職は新約聖書においてキリストによって完成させられます。つまり、キリストこそ、イエス・キリストこそ救いの歴史における、究極の祭司、預言者、王である、という理解です。
祭司であるイエス・キリスト、例えばヘブライ書の3章1節にこのような文書があります。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、私たちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」、大祭司イエス、ヘブライ書では、この大祭司イエスという考え方が何度も何度も出てきます。或いは預言者であるイエス・キリスト、マタイの21章11節にははっきりと出てきます。群集が告白するわけですが、「この方はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
或いは王であるイエス・キリスト、ピラトとの尋問のところで、ピラトがイエスに訊きます。「それでは、やはり王なのか?イエスは次のように答えます。「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証をするために呼ばれ、そのためにこの世に来た。」イエスは自分が王であるとはいいませんけれども、その後、4つの福音書とも、イエスが茨の冠をかぶせられることを記します。冠というのは、王です。そして十字架上のイエスの頭上には、「ユダヤの王」という文字が掲げられるわけですね。逆説的な意味で、イエスは王として死んでいく。このイエス・キリストの3職にあずかるのが、信徒はこの3職全部にあずかっているのだと、教会憲章は言っているのです。
それでは、キリストの3職にあずかる神の民ということで、ちょっと見てみたいのですが、まず、神と民の仲介者である祭司、祭司というのは、神と民の仲介者です。
洗礼によってすべての人が、「共通祭司職」にあずかっているのだと、第二バチカン公会議は言います。つまり、洗礼によって聖なる祭司職にあずかった神の民は共通の祭司職を有しているということです。
最も根本なのは、この共通祭司職です。それで、祭司職といったら何かと言えば、先ほど言ったとおり、「神と民の仲介」、具体的に言えばいのちを祝う、まあ、祭司というのは何をするかというと、今の司祭職をみればわかりますが、ミサを司式しますね。
つまり、セレブレーション、祝うわけです。秘蹟というのは「祝い」です。
ですから、共通祭司職にあずかっている信徒は「すべてのいのちを祝う、慈しみ祝う」、そういう祭司職を持っている。或いは祭司は奉献します。犠牲を、或いは自分自身をです。教会憲章の34番には次のように書いています。「キリストは自分の生命と使命に密接に結ばれた人々が、神の賛美と人々の救いのために霊的礼拝を行うように、かれらに自分の祭司職の一部をも与えた。彼等のすべての仕事、祈り、使徒的努力、結婚および家庭生活、日々の労苦、心身の休養を霊において行い、なお生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらのすべては、イエス・キリストを通して神に喜ばれる霊的供え物となり、聖体祭儀の挙行において、主のからだの奉献と共に父に敬虔にささげられる。」
これは非常に面白い文章ですね。彼等のすべての仕事、祈り、使徒的努力、結婚および家庭生活、日々の労苦、身心の休養、=夏休みや春休みや、或いはバケーションも霊において行っているならば、神の前にふさわしい捧げ物になるということです。それは“いのちを祝う”ことだからです。勿論誰かから搾取して、それでどこかで左団扇で遊んでいたら、霊において祝われているかどうかわかりませんけれども、人間としてふさわしい身心の休養さえも、それはいのちを本当に祝い、尊ぶことという意味において神の御前にかぐわしい捧げ物になるのだと言っているのです。そして生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらすべては霊的供え物になるし、それらがミサに与るときにキリストのからだと共に聖別されるのだ、と言っているのです。
そして聖別されたものをいただくことによって、また、派遣後、ミサが終わって「行きましょう、主の平和のうちに、神に感謝」と派遣され、戻っていく時に、自分達の日々の生活、祈り、仕事、それがさらに聖化されたものとして、自分達は受け止めることが出来る。家庭のわずらわしさもです。皿洗いのわずらわしさも、掃除のわずらわしさも、職場での人間関係のわずらわしさもすべてこれは、共通祭司職があるからこそ、その人々にとっては、霊において行うなら、神の御前にふさわしい捧げ物になるのだと言っているわけです。
預言者、ことばと生き方で神のことばを伝える預言者、イエスに召しだされた弟子としての生き方、この世への挑戦、終末論的生き方、・・・・ どういうことか?
「イエスに召しだされた弟子としての生き方」、これは皆さん、何となくイメージしやすいことと思いますが、「この世への挑戦」、預言者というのは常に民にとって心地よい言葉を語るばかりではありません。ときおり、非常に厳しい言葉も語りますね。神の御旨からそれている民に対して、非常に厳しいことを言う。当然、我々も社会の中で、福音的な価値観から明らかにはずれているあり方、社会構造、それに対してチャレンジしていく、もちろん賢くですよ。ドンキホーテのように風車に向かって行って、すぐに跳ね飛ばされるようなことは賢明なことではありませんね。しかしやっぱりチャレンジしていく、挑戦して行く生き方、或いはそれに取り込まれそうになる自分に対してチャレンジする生き方、これは預言職にあずかる信徒の生き方だと、そして『終末論的な生き方』というのは、この世ですべてが終わるわけではなく、常に復活の希望、終末の完成という視点から今の自分を振り返る。それがなければ、結局は近視眼的に目の前にあるものを、ただ右から左へ処理していくだけの生き方になっていく。そうではない、常に終末の完成された救いの観点というものを忘れない預言者の生き方。
そして預言者は、神の言葉に従って生きていない人々にチャレンジすることもあると同時に“励ます”のです。人々を神の生き方へと立ち戻るように鼓舞するのです。
教会憲章は、次のように書いています。
「生活のあかしと、ことばの力とをもって、父の国を布告した偉大な預言者キリストは、栄光を完全に表すときが来るまで、自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、信徒を通しても、自分の預言職を果たすのである。このためにキリストは信徒を証人に定め、信仰の感覚とことばの恩恵を授けて、福音の力が家庭と社会の日常生活の中に輝き渡るようにした。」
これは洗礼によって、洗礼を受けたすべての人は、このキリストの預言職にあずかる。弟子としての生き方、そして反福音的な構造やあり方に対するチャレンジ、或いはそれに取り込まれそうになる自分へのチャレンジ、取り込まれそうになる社会へのチャレンジですね。たとえそれがうまくいかなくても、終末の完成という視点から常にそれを眺め希望を持ち続ける生き方、そして自分を、さらに人々を、社会をそこに向けて励ましていく生き方ということですね。
そして最後、王職です。王職について教会憲章は、はっきりと書いておりません。書いてませんが、キリストの王職というものは何かということを考えれば、自ずと信徒の王職的な生き方もわかってくると思います。イエスは決して人を支配したりコントロールするような王職ではなかったですね。むしろ自分のいのちを捧げて人々に与え尽す、捧げ尽すという仕方で王になったのです。ですから、このキリストに倣う、洗礼を受けたすべての人は、徹底的な奉仕、許しの力、この世に隷属しない生き方、希望を与える役務、ある意味では現代の殉教者、こういう生き方へ招かれているのだということです。
決していわゆる一般的な王のイメージ、人の上に君臨して支配していくということではないのですね。イエスの王としてのあり方はまったく逆です。もっともシンボリックなイエスの王職の姿は、十字架上のイエスです。茨の冠をかぶせられて、十字架上で息絶えていく姿です。
現代のキリスト者の姿、まとめてみます。
「神によって派遣された者として生きる」、自分が主体的に生きるということですね。神父に何か言われたからするとか、教会に何か言われたからとかいうのではなく、勿論聞くことも大事ですよ、自分が何か一方的に自己主張しても始まりませんけれども、その教会内でのいろんなレベルでの対話、信徒同士、或いは社会との対話、或いは司祭の話でもいいですし、もちろん教会のいろんな教えを聞くことによって、しかし、それに従って生きるのではなく、すべては一人ひとりが神から社会に、世に使わされた者として主体的に生きるために必要だからなのです。こうしなさい、ああしなさいといわれるのではなく、派遣されているというのはどういうことかといえば、それぞれ固有の使命があるということです。聖成の普遍的召命がすべての人にある、その使命を果たしていくうちにこそ聖成へと招かれて行く、或いは聖成へと進んでいくのだということです。
結婚生活においても、独身生活において、或いはもちろん仕事という場、家庭生活において父であれ、母であれ、いろいろあると思います。このような生き方こそが根本的に福音宣教なのだ。信徒ひとりひとりが「イエス・キリストを信じなさい」というようなことをあちこち個別訪問して言って歩くことではなく、そうではなく、信徒がひとりひとり与えられた固有の召命を生き抜くことこそが、福音のもっとも力強い証になるのだということです。それは別に、司祭とか修道者とか宣教者とかとどっちの方が質が高いとか低いとか、そういう問題ではないのです。どちらも重要なキリストのからだを建設するために必要不可欠なあり方ということですね。そしてそのことがわかっていさえすれば、教会の役割分担を健全に認識できるでしょう。
質問に対する回答:
教会の役務の健全な認識とは ?
司祭も、もしかしたら司教も教皇もそうかも知れませんが、そして信徒全体に言えることだと思うのですが、例えば、現実問題として何をするにも、まず、神父様、シスター或いはブラザーにお席をどうぞ、なんてやりますよね。これって、平等なのでしょうか?
小教区で司祭は一番偉い、端的に言えば“偉い”、これはやっぱり不健全ではないのでしょうか。別に見下したり、軽蔑したりする必要はまったくないのですが、それはそれとして役割分担として尊重すべきことだとは思いますね。しかし、健全な認識があれば、それぞれが固有の召命を持っているのです。ある人は司祭の召命が与えられており、ある人はこういう修道会の生き方の召命が与えられているのであり、ある人はこの人と結婚して具体的にこういうこの場で家庭生活をする、或いは社会生活を営むという召命が与えられているのです。この召命の間に優劣はないのです。お互いがお互いを尊重しあって、お互いがお互いの召命の尊厳を認め合う。これは別に、信徒が司祭に対して持っている偏見だけでなく、むしろ逆で司祭が自分自身や信徒に持っている偏見の方が強いのかも知れませんけれども、まあなかなか司祭を変えるのは難しいですね。そういう意味での健全な認識があれば、教会共同体は神の民として生きる。
勿論、リーダーは必要です。指導者のいない共同体というのはないのです。指導者は、特にキリストの共同体の指導者は、仕えるための指導者なのです。奉仕のための指導者であって、誰かを支配したりコントロールするための指導者ではないのです。自分のために何かを奪い取るための指導者ではないのです。あくまでも神の民がキリストへと向かって、その共同体がキリストのからだとして成長するために奉仕するための指導者なのです。それをするための権限、与えられているはそのための権限です。
だから、その点が間違ってしまうと不健全な役務の不健全な認識ということになる。そういうこと言いたかったのです。
参加者の意見発表を聞いた後の増田師コメント:
気づいた点というか、ああそうだなと思ったことは、ここは「学び合いの会」なので、皆さん参加されている方は、学びたいという意識があるとおもうのですね。それで参加されているわけですが、学ぶということは非常に重要なことだと思うのです。これは別に信徒だけではなく、司祭も司教も、世界的には枢機卿も教皇もみんな「学ぶこと」は死ぬまで必要なことであり、続けていくことが必要なことだと思います。
勿論、いろいろな学びのレベルはあると思うのですが、特にある意味で“鵜呑みにしない”ということですね。言われていることを鵜呑みにしない。そのために何が必要かというと、「教会の中の常識は世間の非常識」ということがあると思いますが、やっぱり世間で非常識なことは、教会の中でも非常識な筈なのです。もし、教会の中の常識が、世間の非常識だったら、そういう教会が全世界の救いのための普遍的秘蹟になり得る筈がない。そういう非常識のかたまりの神の民に誰も入りたくないのです。
よくありますね。神学生、特に修道会、修道会の養成というのは、修練がありまして、それが終わって誓願を立てて、司祭になる人は哲学を勉強して、そして神学を勉強するのです。神学が終わると司祭になるのです。これが司祭の養成ですね。
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教会の中で純粋培養された場合には、人は世間の常識とはそうとうかけ離れていてもそれに気づかないで生きてしまうこともあり、そのことの中に居心地よくなっている人には通じ難いものがあるということであろう。それは、どこの世界でも起こりうることだろうけれども、そのままでは神の民のアンバランスが生じるし、世の中に背を向けた古い時代の教会は教会の役割を果たすことも出来ないわけですから、世間に住む信徒がきっちりとそれぞれの召命と役割をしっかりと認識してチャレンジしていく必要があるということだと思われる。
以上