「学び合いの会」例会記録

2006年10月21日(土)

本日のテーマ:「いま、福音をどう伝えるか(宣教)」

 

参加者:総数17名 

 

(記録作成に関して:この記録の文責は記録作成者にあります。今回はよく聞き取れないところが多くて発言された方の主旨から離れたところや省かざるを得なかったところが沢山あります。重大な誤認がありましたら、事後になりますが訂正させていただきますのでお申し出ください。)

 

本日の進行: 

1) 10:30       初めに 本日の学びとテーマについて

2) 10:45−11:30 グループによる学び合い

    (10分休憩)

3) 11 :40−12:40  全体会

4) 12:40−13:00 まとめ 連絡事項

 

1. 初めに 「本日の学びとテーマについて」

年間のテーマは「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」ですが、信仰者とかミッションとか言う言葉は以前から議論の多い言葉です。信仰者という言葉は、信徒だとか神父だけとか言ういい方よりは、このテーマにとってよいのではないのかというので使うことになりました。ミッションという言葉もいろいろ議論されたのですが、従来の福音宣教とかその他の言葉よりは、よりよくわれわれの言いたいことを示せるのではないかと言うので選ばれました。ミッションの持つ言葉の意味内容の広さがむしろ豊かな話し合いの結果をもたらすのではないかと考えたわけです。ミッションの中味を「福音化」、「使命」、「宣教」、「派遣」の四つに分け、それを四回のテーマにしました。

今日はその第三回目になります。「宣教」と言う言葉そのものをテーマにしてしまうと、「宣教とはなにか」といったような論理的というか頭だけで考えるような話し合いになってしまう可能性があるので、「学び合いの会」の趣旨に反するということで、テーマを“いま、どのように福音を伝えるのか”という表現にしました。

そういう意図の下に考えられたテーマですから、今日はできるだけ自分たちの生活の状況にあった考え方を掘り下げていただきたいと願っています。信仰者という言葉の意味は信者一人ひとりの立場からという意味で考えてください。つまり自分自身がどうしたいのかというところから発言してください。

進め方については毎回工夫を重ねてきましたが、今日はこれからすぐに、「グループでの話し合い」をします。そこで互いの意見を少し確認しあってから、全体で話を深めていきたいと考えています。最後の「まとめ」ですが、参加者のどなたかに役割を引き受けていただきたいのです。その中で少し感想なども含めて述べていただいたらと願っています。そのあとで参加してくださった司祭のコメントをいただくことにしたいと思います。

 

2. 「グループでの学びあい」は、3グループに分かれて行われました。

3. 「グループでの学び合い」の後の全体会

司会: グループで話しあった内容の報告は省きまして、各グループのなかで発言されたキーワードだけをこの黒板に書きます。それを参考にしながら各自のご自分の考えを発言してください。そしてこのキーワードのなかでこれは重要と思われるものに関してはそれを発言された方から改めて説明いただくことにします。

 

キーワード一覧

体験、立場、表明、資質、場、生き方、良心、誠実、感性、伝える、伝わる、自立(自律)、祈り、道具、弱さ、無力、神の業、神の協力者、意識、コミュニケーション、価値観、行動、共同体、目線、原理主義、言葉、生活、もてなし、誤解、・・・

 

われわれが「福音をどのように伝えるのか」を考えるときに、ここに挙げたような言葉が関連してくるのではないかということです。特にこのなかで強調しておきたいということがあればこの言葉を使った方は発言してください。

 

* 私の属する教会は建物の建て直しという時期にあって、建物としての祈りの場がしばらくなくなるという状況にあります。先日、共同祈願で、自分たちの生活の中で働いてくださっておられる神様を、改めて認識しあっていきましょうという祈りをしたところです。その祈りの主旨は、この機会に、信仰者は信仰を家庭や社会で生きているのだということをより深く意識しましょうということです。福音を伝えるというときに、考えるのは小教区ではなく、信仰者の生活の場をもとに考えたいと思っています。

 

* 自立という言葉から感じていることですが、組織の中ではなくて、個人と神と対峙して、一人の個人として自立しているなら、自分のスタンスといったものが決まってくるのではないかと思っているのですが。同じ感じて発言されたのでしょうか。

 

* 実はその反対の意味で自立を考えているのです。教会の中で宣教していく上では、個人主義が邪魔になることもあるのではないか。個人よりも共同体のほうが大切ではないかということです。この場合、共同体といっても、小教区を前提にしなくとも、今日のこのような共同体を考えてもよいのです。つまり教会の中にある集まりですが、そのような共同体をよいものにし、その共同体のなかに心地よいメロディーが流れているようなものであれば、宣教の作戦としては大きな影響を持つことができるのではないかといった意味で使いました。

 

* 自分たちは、自立はそのような使い方と違う使い方で使ったのです。道具としての対比として使った言葉です。教会では、神様の道具として働きなさいという教えられ方をしてきましたが、私はそれには抵抗がある。一方、社会では、自立した人間になれと教えられてきた。学校時代から今でもそういわれています。自分が金槌みたいになってしまうのか。そのような意味の言葉として「道具」に抵抗感があると話したのです。キリスト者としても、自立した一人の人間として生きたいという気持ちがあるという意味で自立と言う言葉を言ったのです。

福音といってもイエスキリストが書いたものではない。その言葉を聴いた人が書いた。最近は福音書もあらたに沢山発見されている。神父から言われたから・・・というのではない。神父も人間であるのだから、自分が納得できたらするということではないか。神父さんとしても道具と考えてはいない、協力者と考えているとの話がありました。最終的には神の思いではあっても、道具といわれてしまうと自分としては抵抗があるという意味です。

 

* 自立と関連しますが、現実という言葉も使われました。自分の現実を認めることが神の思いを知ることではないかという話が出ました。自分がダメならダメである自分を認めることの大切さは自立とつながるのではないでしょうか。ごまかさない。神の道具になるということはごまかしになるような気もします。

 

* 道具という言葉を軽く使ったのは私ですので、すこし補足させていただきます。福音を伝えるとかいわれても現実の日常ではほとんどできない、自分自身の信仰も自信がもてるようなものではないので、信仰でも悩みながら生きている現実がありますが。そうだからといって、全く福音宣教をしていないのかというとそうではないだろうとおもう。福音が伝わるかどうかということは、直ぐ効く薬のようなものではない。10年20年後ある場合には死ぬ間際に伝わるかもしれない。そのような意味では人間の意識を超えて神様の働きがあり、その意味では道具的なところがあるのではないかという文脈でこの言葉を使いました。

単に道具であること自体がよいわけではないでしょうね。われわれは神様の協力者であり、自立したものでしょう。今日の福音にもあるように、「人の子の悪口を言うものはみな許される。」という箇所がありますね。イエスの言葉に賛成できずに、自分は違う意見ですよといってもかまわないとい言うことですね。そのような意味では人間はあくまで自立して自分で判断して自分で実行することが大切ではないでしょうかということを言いたかったのです。

 

* 親の葬儀のときに自分は信者だから・・・・、会社でもお前は信者だから・・・といったような話を聞くことがあります。福音を伝えるということを考えるとき、信仰者として生きるという生き方があり、自分はそれをそれなりに実行しているという表明というのは、意味を持っていると思います。福音をどう生きるか、イエスはどう教えているか、細部にわたるときりがないところがありますが、ふだんの生活の中で信仰者として生きるということを実践しているのです。

下町ではお祭りが重要な行事です。神社などチョット躊躇するところは ありますが、自分がカトリック信者であることを知っていながら、お祭りの打ち合わせにさそわれ突っ込んだ問題にも参加させてもらうことがあります。キリスト者としての宗教的なセンスみたいなものがあって、彼らの宗教的な考え方が分かるときもあります。宗教的な面が出てきても、一般の人は日常宗教にあまり縁がないわけです。

最終的には信仰を持って生きる生き方があるのだということを自ら表明することは、福音を伝えることであると意識してもよいのではないかと思います。

 

* 教会の建物の中だけが信仰の場であるような誤解があるような気がします。一人ひとりの暮らしの中に福音が存在していて、それで生きている。その生きる中にいろいろな機会が与えられているとおもいます。

 

* 信じている人が信じていない人にカトリックになりなさいよといったやり方には抵抗があります。創価学会などに入りなさいといわれれば拒否反応がおきるのと同じです。自然に入れるなら問題はない。

 

* 入門の人初期の人にカトリックが一番であるとは言わない。それぞれの宗教が大事なので、互いに敬意を持って認め合わなくてはならない。言わなくてはならないと思っている

 

* 自分でもそうだろうと思いますが、現実にカトリック教会の指導者が言われているところとはかなり隔たりがあるように思うのですね。どちらかといえばイエスご自身をストレートに述べて行く宣教イメージが強いように思います。

教会の中で言われている原理主義的な傾向のあるあり方に対しては、自分としては、それはできないなといった気持ちにさせられることが沢山あるように思うのです。教会に関心のある人に対して、このずれをどのように処理したらよいのか苦しむのです。自分の中の矛盾を無視して教会の教えていることを伝えればそれでよいのか、または自分の納得できていないことをそのまま伝えてよいのか分からない。ですから、現在入門講座を教えている人はその辺をどのようにされているのだろうか、結婚講座を教えている人は性的な問題をどのように説明しているのかと気になったりしています。

入門講座を担当してみてはという誘いもありますが、自分には悩みや疑問は一杯ありますし、少しずつ調べてはいますが、自分としての結論があるわけではないし、とても教えられないですと答えているのです。自分で納得できていないことを教えることは難しいですよね。それだからといって自分に信仰がないとは思っていません。生き方の核心にはある。僕の理解する信仰を生き、思い悩み、誤りを犯したり、迷ったりしながら歩んで行くのが信仰ではないかと思っています。

 

* 原理主義については司祭によっても差がありますね。自分たちの考えも、ほかの文化を認めた中で、互いに認めるような考え方でないとだめではないかと思います。これが社会一般にある感覚ではないでしょうか。自分たちだけが絶対であるようなやり方で話してもダメではないかと思う。謙虚に話したほうがよいのではないか。これ以上の話は難しい問題になるのでいえるのはこの辺までかなと思います。 (注:この部分はほとんど聞き取れなかったので記録は不正確です)

 

* 福音をどう伝えるかというとき、私にとっては、若いころの話ですが、宗教に入るのは自分がなにか現実に解決できない問題を抱えていて、自分の挫折を支え、すがるものとして得た宗教であって、自分が選択して入った宗教ではないのです。

年を経て死の問題を考えるいまとなっては、死をどのように受け止めたらよいのかは、すべての人の共通した問題であると感じます。宗教を持っている人はその点では幸せではないだろうか。カトリックとしてはカトリックの考え方はありますが、キリスト教と言うより広いところで考えるとき、その中には原理主義的に考えるのもあるし、その他にもさまざまな考え方がある。その中でどれを選択するのか、政党で言えば自民と民主のあまり差がない政党を選ぶ場合のようなところもあります。

宣教の問題としては「出会い」ではないかと思います。出会った人を通して選択することになるのではないでしょうか。昔は自分の方に出会った人を招くような宣教であったように思います。しかし、自分としてはその人がどのような祝福に招かれているのかといったようなことを考えます。道具とか一人の信仰者としての自由とかいったことを感じています。

 

* 福音をつたえなければならないと思っても、できないので、ごめんなさい、つまずきの種にしかなれない、といった気持ちになります。自分自身が伝えるべきものを生き切っていないから伝えることはできない。十字架を喜んで受け入れられないのですが、それこそが福音的なことであるのでしょう。自分としては、人々の中にあるよいもの、そして、善意ある人を評価して行こうとしています。生活の中で、“これこそ”そこに福音が生きているなといった出来事を大切にしたい。カトリックになってもならなくても、人間は根源にはとても大事なものがあって、それを大事にしたいと思います。そのような人の振る舞いに接すると、目に見えない教会といった感じを受けるのです。NHKのシルクロードで、文化の違いを超えて異文化交流の中で、みなで音楽を作り上げていった番組がありましたが、そんなイメージが、福音が生きている真のコンミュニオンではないかと感じるのです。 (注:この部分も記録がほとんど取れませんでした)

 

* 二年間の「学び合いの会」で発表することになったのは「家庭」というテーマでした。そのときも家族の大切さについて話しました。また教会では結婚講座を担当しています。家庭が一番大事であるということは福音の中にも生きています。離婚率の点からみてみますと1990年の調査では日本で17%ぐらいでした。最近では40%になっています。激しい傾向は50代になって、定年近くになって奥さんの方から離婚を言われる定年離婚が増えていることです。アメリカでは学校で結婚について教えている。日本では結婚の重要性については教えていません。教育基本法でも家族が崩壊しては大変だということでしょう。福音で大切にしていることのひとつは家庭です。ナイス2でもこのことは取り上げられています。

「学び合い」で取り上げた、もうひとつは社会で働く人の悩みです。「働く意味を考える」というテーマで話し合いました。具体例として、セブンイレブンの労働環境がとりあげられました。7時出勤23時退社です。そこで働いている人は文系の卒業者ばかりでした。情報技術教育を受けていない人が研修もなく送り込まれている。ノイローゼになる人が多い、毎日のように自殺がでて山手線と中央線を止めています。殆どがいわゆるニートやフリーターと言われる人たちです。そこで相談相手にならなくてはいけないと支援活動をはじめました。相談窓口として「愛と希望 NPO」を昨年立ち上げました。少しでも出来ることはして行こう、当たり前ですが、できることしかできない、でもやろうということです。

自分は理想的結婚生活をしてきたわけではない、失敗は沢山あります、それを分かち合いながら、若い人が失敗しないように、信仰を中心にして、離婚率を減らす活動をしているのも、福音を伝える方法のひとつではないかと思うのです。若者の悩みを聞くこと、特に3Kといわれる職業についている若者たちの悩みを聞くことも具体的な福音を伝えることだと思います。そのためには自分の出来ることと出来ないことをはっきりさせておくことが大切でしょう。結婚生活から来る体験や仕事の体験から来る失敗談は沢山持っているのでそれらは伝えられると考えています。同じ失敗を繰り返させないようにさせたい。

自立していることが肝心でしょう。教会の活動グループが沢山あってもその中で自分の出来るものをすればよいのではないでしょうか。沢山のグループに属していて内ばかりに閉じこもっている人もいますがそれは良くないと思います。グループのリーダーも2年で辞めたほうがよいのです。

 

(この後に、数人の方の発言がありましたが、記録が取れませんでした。申し訳ありません。最後にまとめの役割をしてくださった方の発言も記録が取れなかったので、改めて書いていただきました。)

 

•  まとめと連絡事項:
•   一信仰者としての感想とまとめ:

会の始まる前に指名されてしまったので、断ることも出来ずに、感想と若干のまとめを述べました。次の通りです。(記録作成に際して少し補足しましたので、ご了承ください。)

感想: 全体会では、それぞれの人がご自身の置かれた立場や状況の中で、「自分は福音をどのようにとらえており、どのように伝えようとしているか」をベースにして、他人の事ではなく自分の課題として、すごく真摯に語られたと思いました。だから、コメントはとても出来ないなあと感じて、“参加者の皆さんに、それぞれに受けとめてください。”と申しました。私としては、多くは共感できるものでしたが、このテーマを、他人にわかるように話すことは、慣れてもいませんしとても難しいと感じておられるように思いました。私も難しさを感じています。それだけ多様であるということでしょう。今までの教会生活の中で教えられたのか、雰囲気の中で受け取ってしまったのか、何らかの既成の概念、イメージがあって、それについては、”どうも信徒向きではないな ”とか、”自分には疑問だ、抵抗がある“という気持ちが表明されていました。だから、何とか自分のスタンスを明確にし、他人にもわかってもらえるようなことば、表現を持ちたい、さらに確信を深めて行きたいというのが「学び中」のところだろうと感じました。

 

まとめ: 自分の体験をもとに4つのポイントを取り上げました。

(後で考えて見ますと、「福音をどのように伝えるか」ということではなく、「福音はこのような事柄、このような人とのふれあいによって伝わるというか、気づかされることがあるのではないか」ということを述べたようです。)

1. 教会の存在があること、そこに信仰者の集まりがあること:

私は友達に誘われてカトリック教会に行き、暖かな気持ちの良い人たちに出会ったことがキリスト教会に行くキッカケになりました。だから、そのような気持ちの良い人たちが教会にいることが必要だと思います。教会に出会うキッカケはそれぞれの人で異なるでしょう。

2. 生活の中に神の愛を示している信仰者の姿があること:

私の青年の頃、蟻の街のマリア(北原聡子さん)は大きな話題となっていました。そういった生き方に感動し、知り合いになった司祭たちの人柄に憧れたりして、「司祭になりたいなあ」などと思ったりもしたのです。そのように信仰の光を輝かしている人に出会い魅力を感じることが人を動かすものだと思います。今でも、多くの事柄や人々の中にすばらしい人間のいのちの輝きを見て、すごいなあと感じています。

3. キリスト教系の幼稚園や学校が子ども達やその両親、家族、日本の社会に与えている影響は大きいと思います。日本にはキリスト教系の学校や病院はたくさんあります。それに映画や講演会、小説や雑誌、新聞記事やテレビのニュースからの気づき、この頃はインターネットのホームページを見て多くの人が教会を訪れます。また、多くの人が各種のボランティア活動を行っており、貧しさや他人の痛みに共感する体験などの中から福音に気づく人は多いのではないでしょうか。ことさらにキリストの福音とは言わなくても、人間の根源、深いところで人間のたましいに呼びかけるものがあって、あらゆるところで福音は気づかされているように思います。

4. そして、信仰者はそれぞれの暮らし、生活の中で、信仰者として生きている。自分の家族、家族の中で親から子に伝わるものは大きいと思います。信仰者は、その家族や職場、地域の人との交わりの場で、病や老齢、人間関係等々、社会生活に伴う諸々の問題に直面しながら生きています。一人ひとりがそれぞれの生い立ちと生活環境の中で、主婦は主婦として、会社員は会社員として、病人は病人として、天職を持つ人も、ライフワークを持つ人も、目立つことは何もしない人も、それぞれが日々の生活の課題にとりくみ、泣いたり笑ったり、むなしさを感じたり、やる気いっぱいだったり、紆余曲折の中に生きている。

日本社会の人々は効率や時間に追われ、他人に対するおもいやりや優しさが乏しくなっており、人が普通に生きることだけでも並大抵のことではありません。少しでもよりよい社会を目指して優しさや誠実さを持って、慰め主、慈しみの神と共に生きる。“私たちの神は「何かをしなければいけない」と条件をつけたりはしない”と信じることは幸せなことと思います。

「福音を伝える」ということに関して、あえて言えば、「福音を何とか伝えるべく何事かをしなければならない」というように誰かから、教会当局?あるいは他の信仰者から追い立てられたくないなあと感じています。「福音は既に誰にでも伝えられているもの」であり、気づく人もいるし、気づかない人もいる。その気づきの表れは、人間の目には一様ではないような気がします。どうでしょうか。

もし、心に「何か活動をしたい」とか、或いは友達や知り合いから誘いがあって、「やってみようか」と心が動くなら正直に取り組むのは面白いかも知れない。それぞれの立場で、すでに取り組んでいる人は、自分の得意わざを磨いて多くの人とのふれ合いの場を持ち、“その人らしく振舞って生きる”、そのような人はラッキーなことであろうと、私は思っている。                                 

(2) 司祭コメント(シェガレ師):

最近の教会の中には宣教に関して二つの立場があるようでなかなか一致できていません。ごく最近の考え方では、宣教することはキリスト者としてのアイデンティティーを示すことである。「宣教とは」、証といってもよいでしょうが、私はクリスチャンであるということを「表明する」「教える」「発信する」「主張する」ということであると考える立場です。マスメデイアも含めてコミュニケーションの技術が重要となる。皆とアイデンテイテイーを分かち合いたい。「伝える」よい手段を工夫する必要があるでしょう。

 

数年前に宣教は種まきか収穫かという議論が盛んに行われた。アイデンテイテイーの強調に立っている人の考えは「種まき論」につながる。宣教するということは信者の言葉と善行を種としてまくということの意味になる。しかしこの考えには少し危険があるかもしれない。いわゆる原理主義というものになるおそれがある。宣教はキリスト者である自分の正しさを種として蒔くという考え方になりがち。はたして宣教はそのようなものでしょうか。この立場は完全に否定していないが強調しすぎに注意する必要があるでしょう。

 

もうひとつの立場は第二バチカン公会議から生まれた考え方です。この考え方も極端になりすぎたら危険でしょう。宣教することはアイデンティティーではなくて、自分がキリスト者であることを強調するのではなく、むしろ生活の場に溶け込んで,人々の現実に入いり連帯していく姿勢が、宣教であると考える。この宣教理解によると自分が伝えるのではなく、神の業が人と共に歩む自分を通して伝わってくるというところに重点がおかれてしまいます。そこは前の立場とは違いがあります。わたしはこの立場にずっとたったが35年の宣教人生を振り返ってみると、この考え方も行き過ぎると危険ではないかと思います。溶け込みすぎて、自分がキリスト者あるいは神父であると言うのが必要ないと思った時期がある。はたしてそれでよかったのか反省しています。このやり方ではキリスト者の色が完全に消えてしまい,何も伝わらないということになる。

第二の立場は種まき論と違って「収穫論」と通じるでしょう。「種まき」の業は教会共同体の役割であるより、神様の業であると考える方だ。そして種が蒔かれたところは、教会だけではなく、諸宗教も含まれます。信者の役割は神の蒔かれた種,その実りを収穫することにあるとなります。種が蒔かれた場は全世界にある。教会の信者は種が成長して,人々の心にもたらした実りを評価して神様にささげてゆくこと。それは宣教ということになる。本田哲郎神父はこの立場であると思います。そして福音を読むと,この考え方は正しいと思います。宣教はキリスト者としての私たちの示した善行や思い,アイデンテイテイーの表明だけによるものではありません、神様の業です。だからといって、先ほど出てきた言葉で言えば、私たちは神の手にある単なる道具ではないのです。神様の奴隷ではありません。一人ひとりが自立して自分の思い自分の望みを尽くして神様の宣教の業に与り,種まきや収穫の作業に与るのです。よいバランスが必要ではないでしょうか。

私は表明と溶け込み,種蒔き論と収穫論,宣教に二つの考え方を対立させないことが大切だと思うようになりました。二つとも必要です。確かに今の教皇は現実への「溶け込みの宣教」に対して「キリストが唯一の救い主であること」をはっきり示す方の宣教を強調しています。しかしそれよりも人間の普遍的な現実,救いへの飢え渇きに宣教の原点を求めた公会議の強調も大事です。二つの立場を和解させる道があるのではないかと思うのです。

 

(3) 連絡事項:

次の例会は、12月16日ではなく、来年1月13日(土)、14日(日)に1泊合宿が行われます。今日の午後、準備会を行い、合宿のスケジュールなど詳細は追って連絡される予定です。なお、場所は、小金井の聖霊修道院マリア館です。森司教、シェガレ師、増田師が参加される予定です。

以上

 

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