日々の熱病の癒し 年間第5主日 ( 2009/2/8 ) 福音の黙想 トマス・ロシカ師
ガリラヤ北西湖畔のカペルナウム村の石造りの遺跡の中央にあるのは、いのちのパン( the Panis Vitae )の黒い八角形の教会です。 それは、今日の福音の物語(マルコ 1:29-39 )の舞台となる、シモン・ペトロの家があったとされる場所の真上に立っています。 わたしの恩師のひとり、御受難会修道士スツールミュラー( Carroll Stuhlmueller )は、カペルナウムのほんとうの中心はこの世界の義母(しゅうとめ)たちに献げられる大きな記念碑であるべきだと語ったことがあります。
イエスの時代における、この日の情景を少し想像してみましょう。 主に従うために網、舟、雇い人、父親さえも残して新しい仲間になった弟子たち(マルコ 1:16-20 )は、イエスが共にいてくださることを喜んでいます。 イエスの御言葉と行いとは、完全に悪を陵駕します。 イエスの人格はそれほど人をひきつけ、魅力的です。 汚れた霊が打ち負かされた会堂を出て、ほんの数歩の場所で、イエスと弟子たちは人間の病気、偏見、タブーといった、さらなる悪霊と出会います。 「町中の人が、戸口に集まった。 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」(マルコ 1:33-34 ) 大変な騒ぎです!
マルコ福音書の中での、イエスの最初の癒しは女性に関するものです。 イエスは熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめに近づいて、手をとって起こされます。(マルコ
1 :
31 ) そのような行いは、男たちにとって受け入れられないものです。 まして、宗教者や指導者を自認する人々にはとても受け入れられないものでした。 イエスは、病気の女性にふれただけではなく、彼女がイエスとその弟子たちをもてなすのを許したのです。 当時は、儀礼・作法の純潔性について厳格な掟がありましたが、このときイエスは、熱で寝ていた女の手をとり、その熱を癒し、一同をもてなすことを許して、このタブーを破ったのです。
ペトロのしゅうとめの、イエスの癒しに対する応答は、イエスの弟子のつつましい奉仕を示すモデルです。 それは、福音書の中でイエスが、従う者たちに繰り返し奨め、ご自分の生き方の中で示されたモデルなのです。 今日の福音の物語の目的は、この女性の場所は家庭にあると気づかせることだと、一部の人は言うでしょう。 が、それはこの物語の目的ではありません。 しゅうとめの行いは、その義理の息子シモンのそれとは極めて対照的です。 シモンは、イエスの注目を、もっと癒しをと叫ぶ群集に招きますが(マルコ 1 : 37 ) 、彼自身は群集になにもしません。
貧しい寡婦(マルコ
12:41-44 )、ナルドの香油を塗る女性(マルコ
14 :
3-9 )、十字架上のイエスを見守った女性たち(マルコ
15 :
40-41 )、そして墓での女性たち(マルコ
16 :
1 )など、マルコ福音書のいろいろな物語の中で、女性たちは、弟子であることへのイエスの招きに正しい応え方を示しています。 女性たちは、男性の弟子たちが思いやりに欠け、無理解であったのに対して、大きな対照を見せています。 イエスの現存は、女性に完全、聖性、威厳をもたらします。 他人を傷つけてしまう、わたしたちの人間的な習慣が、完全さ、聖性、威厳を真に体験する機会を、どれほど奪っていることでしょうか?
ヨブのテスト: ヨブ記(ヨブ 7 : 1-7 )の朗読の中で、ヨブは、そうと知らないまま、サタンと神との間に交わされる「テスト」の一部になっています。 今日の朗読箇所の前の部分で、ヨブは、大きな苦難と喪失を耐えます。 ヨブは、彼の友人たちの浅薄な神学的説明が神の道ではないことを知っています。しかしそれでも、自分自身の苦しみをどう理解してよいか分からずに途方にくれます。 ヨブは、重労働、眠れぬ夜、怖しい病気、そして希望の無いいのちのはかなさを嘆きます。 ヨブにとって生活の全ては、怖しい熱病なのです。 わたしたちの熱病が燃えきったときに、わたしたちは「ヨブ」の体験をどれほどしばしば自分自身の生活の中で体験することでしょうか?
シモンのしゅうとめの癒しは、あらゆる熱病をいやすイエスの力を示しています。
400 年頃に、聖ヒエロニムスはベツレヘムで、今日の福音の箇所について説教しました。 「願わくは、イエスがわたしたちの家に来てくださり、その御力でわたしたちの罪の熱病をいやしてくださいますように。 なぜなら、だれもが熱病で苦しんでいますから。 怒りが起こるとき、わたしは熱にうかされています。 多くの悪行と多くの熱病。 しかしわたしたちは、イエスが来て、わたしたちの手に触れてくださるよう、使徒たちに取次ぎを願おうではありませんか。 イエスが触れてくだされば、すぐに熱病は去るからです。」 イエスにおける心身のいやしは、神の国が既に現存することの明らかなしるしとなります。 イエスの力あるいやしの御言葉は、その人全体に及びます。 それは、その人の身体を癒し、それ以上に、苦しむ人を癒し、神、および教会共同体との間の健全な関係を回復してくれます。
知恵と純潔についての、ニューマン( John Henry Newman )枢機卿の説教の言葉を、確信を以って祈りましょう。 「主がわたしたちを、今日一日を支えてくださいますように。 日陰が延びて、夕べが来て、多忙な世界は静まり、生活の熱病が過ぎ去り、仕事を終えるときまで。 そのとき、主の憐れみの中で、主が安全な寝屋と、聖なる休息、そして最後には平和を与えてくださいますように。」
終わりに、今日の物語の中で、女性をいやした後にイエスが何をなさったかを認識することは重要です。 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ 1 : 35 ) イエスは、祈りを通してご自分を強めるための時間を作られました。 わたしたちは、忙しい現世の生活の中で同じことをしているでしょうか? 人生の熱病の最中に、そして日々の仕事の重荷の中で、祈りを通して自分を強めるための時間をとりますか?
どうぞ、このマルコ福音書に記されたイエスの初めの教えによって、 神がこの世にもたらされた 「善いもの」に、そしてその「善いもの」はわたしたちの力では得られないことに、気付かせてくださいますように。 イエスのいやしの力は今日も有効です。 わたしたちに手を差し伸べて、わたしたちをいやし、生きる力をとり戻してくださいます。
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Healing
the Fevers of Life Biblical
Reflection for the 5th Sunday in Ordinary Time Father
Thomas Rosica, CSB
TORONTO,
FEB. 4, 2009 ( Zenit.org ).- The centerpiece
of the stone ruins of the village of Capernaum on the Sea of Galilee's northwest
shore is the black octagonal Church of the Panis Vitae (Bread of Life), built
directly above what is believed to be Simon Peter's house, the setting for today's
Gospel story [Mark 1:29-39]. One of my mentors and teachers, the late Passionist
Father Carroll Stuhlmueller, once told me that the real centerpiece of Capernaum
should be a huge memorial statue dedicated to the mothers-in-law of the world!
Try
for a moment just to imagine the setting of this day in the life of Jesus. The
newly constituted group of disciples who had left their nets, boats, hired servants,
and even their father, to follow the Lord [1:16-20] are delighted in his presence.
Jesus' words and actions completely overpower evil. His personality is so compelling
and attractive. Leaving the synagogue where an evil spirit has been overcome,
Jesus and his disciples walk only a few feet before encountering further evils
of human sickness, prejudice and taboo. We read: "The whole city gathered
together about the door" [1:33-34]. What a commotion!
In Mark's Gospel, the very first healing by Jesus involves a woman. He approaches Simon's mother-in-law as she lay in bed with fever. He takes her by the hand and raises her to health [1:31]. Such actions were unacceptable for any man -- let alone someone who claimed to be a religious figure or leader. Not only does he touch the sick woman, but also he then allows her to serve him and his disciples. Because of the strict laws of ritual purity at that time, Jesus broke this taboo by taking her by the hand, raising her to health, and allowing her to serve him at table.
Peter's mother-in-law's response to the healing of Jesus is the discipleship of lowly service, a model to which Jesus will repeatedly invite his followers to embrace throughout the Gospel and which he models through his own life. Some will say that the purpose of today's Gospel story is to remind us that this woman's place is in the home. That is not the purpose of the story. The mother-in-law's action is in sharp contrast to that of her son-in-law, Simon, who calls to Jesus' attention the crowd that is clamoring for more healings [1:37] but does nothing, himself, about them.
In Mark's Gospel stories of the poor widow [12:41-44], the woman with the ointment [14:3-9], the women at the cross [15:40-41], and the women at the tomb [16:1], women represent the correct response to Jesus' invitation to discipleship. They stand in sharp contrast to the great insensitivity and misunderstanding of the male disciples. The presence of Jesus brings wholeness, holiness and dignity to women. How often do our hurtful, human customs prevent people from truly experiencing wholeness, holiness and dignity?
Job's test : In the Old Testament reading from Job [7:1-7], Job doesn't know it yet, but he is part of a “test” designed between Satan and God. Prior to today's verses, Job has endured immense suffering and loss. He knows that the shallow theological explanations of his friends are not God's ways; but still, he is at a loss to understand his own suffering. Job complains of hard labor, sleepless nights, a dreadful disease and the brevity of his hopeless life. For Job, all of life is a terrible fever! How often do we experience “Job” moments in our own life as our fevers burn away?
The healing of Simon's mother-in-law proclaims Jesus' power to heal all sorts of fevers. Around the year 400 A.D., St. Jerome preached on today's Gospel text in Bethlehem : "O that he would come to our house and enter and heal the fever of our sins by his command. For each and every one of us suffers from fever.
When I grow angry, I am feverish. So many vices, so many fevers. But let us ask the apostles to call upon Jesus to come to us and touch our hand, for if he touches our hand, at once the fever flees" ["Corpus Christianorum," LXXVIII 468]. With Jesus, healing of mind and body becomes a clear sign that the Kingdom of God is already present. Jesus' healing Word of power reaches the whole person: it heals the body and even more important, it restores those who suffer to a healthy relationship with God and with the community.
May we pray with confidence the words of Cardinal John Henry Newman's Sermon on Wisdom and Innocence: "May he support us all the day long, till the shades lengthen, and the evening comes, and the busy world is hushed, and the fever of life is over, and our work is done. Then in his mercy may he give us a safe lodging, and a holy rest, and peace at the last."
Finally,
it is important to recognize what Jesus did after he healed the woman in today's
story. He took time away to strengthen himself through prayer. Do we do the
same in the midst of our busy worlds in which we live, in the midst of the burning
fevers of life and the burdens of our daily work?
May these first moments of Jesus' ministry in Mark's Gospel teach us to recognize
the goodness which God brings into our lives, but also that this goodness is
not ours to horde for ourselves. The healing power of Jesus is still effective
today -- reaching out to us to heal us and restore us to life.
朗読:
ヨブ 7 : 1?4, 6?7 :この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む。 そうだ/わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。労苦の夜々が定められた報酬。 横たわればいつ起き上がれるのかと思い/夜の長さに倦み/いらだって夜明けを待つ。わたしの一生は機の梭よりも速く/望みもないままに過ぎ去る。忘れないでください/わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。
1コリント 9:16-19, 22-23 :わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
マルコ 1:29-39 : シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。