あなたの大いなる栄光のゆえに感謝をささげます

三位一体の主日 聖書黙想 2010/5/30 トマス・ロシカ師

 

 

聖霊降臨の主日の次の日曜日は、聖なる三位一体の荘厳さを祝います。イエスのみ言葉を理解させ、真理をことごとく悟らせてくれる聖霊の働きによって、信じる者は、神ご自身との親しい交わりを個人的に体験し、自分が底知れぬ孤独な存在でなく、光と愛の交わりの中に居ることを知ることができます。その交わりの生活は、父と子と聖霊の間で交わされる永遠の対話によって与えられ、受け取ることができるのです。

 

神の知恵、それは伝達者

今日の第1朗読の、箴言 8 22 節― 31 節は、女性形で人格化された「知恵」について語ります。それはわたしたちに神の愛を伝え、平和な生活へ導くために、天地創造に先立って生み出されたものです。「知恵」は、多くの点で新約聖書の「聖霊」と似ています。わたしたちは、三位一体を理論的に説明することはできなくても、神の三位一体性を行為によって証しするよう求められているのです。

 

箴言は聖書全巻の中でも最も「世俗的」な内容を持った書です。この書は、その大半が短くて実用的な格言ばかりですが、この第 8 章には、美しく神秘的な省察が記されています。

Lady Wisdom (知恵の淑女)」は、神がその聖性を顕す際にとる方法を述べるために、人格化されて(人間的な性質を与えられて)います。 訳注:箴言 8 章の「わたし」は女性形の名詞が使われている。

 

知恵は、神と非常に親密な関わりを持つものとして示され、後の文では、知恵は、この世における神の活動を識別するために、人間が必要とする素質として理解されています。知恵がすべてのものに優るのは、知恵がそれら以前に生みだされたからです。知恵は神の神秘の住まいから発せられるものですが、わたしたちの目には、「天に備えられ」、「海と、その境界を越え」、「神の大地の表に」明らかに見えるものでもあります。知恵は、初めに神によって生み出され、注がれ、神の御許にあって創造を導き、人類のうちに楽しみを見出しました。

 

経験と識別

箴言の詩は、わたしたちに美と永遠の感覚を与えるように書かれています。それこそまさに、知恵の持つ永遠の特質なのです。あらゆる特質のうちでも、知恵は神的なものです。そしてまた、神からの人間への贈り物でもあります。それは人間に、この世の出来事について、見かけの意味を越えた、より深い意味を覚れるようにしてくれます。「知恵」は、多くの点で新約聖書の「聖霊」と似ています。知恵は、決して知的な卓越とか情報の集積、単なるデータのようなものではありません。それどころか、知恵は、経験や識別により近い関係にあります。何よりも知恵は、霊的な存在であり、思考や論理から離れたものではありませんが、それらよりもはるかに優れた存在です。

 

信仰によって義とされる効果

パウロは、ローマの信徒への手紙( 5:1-5 )で、キリスト者のキリスト・イエスへの信仰について論じ始めます。そしてキリスト者としての体験を示し、如何にして義とされた者に救いが保証されるのかを説明します。今日朗読される個所で、聖なる三位一体の神秘は神学的な公式から離れ、日常生活の中の生きた要素、パン種になります。キリスト者としての体験を義とする第一の効果は平和であり、和解が不和に取って代わります。第二の効果は、確信に満ちた希望です。

 

キリスト者は、一度義とされれば神と和解し、困難や苦悩がくつがえすことのできない平和、失望を知らない希望、イエスにおける救いの確信を体験します。希望についての声明は、例によって、パウロ流の逆説になっています。誇りを持つキリスト者は、普通の人間の力を全く越えるもの、すなわち希望を誇りにします。 5 章第 5 節には、(そのような)希望は、わたしたちを裏切らないという力強い確信が述べられています。キリスト者は、希望に裏切られて戸惑うことはありません。ここに暗示されているのは、単なる人間的な希望との比較です。それは裏切ることもあるからです。神の霊はわたしたちの生き方を導き、イエスの生涯と御言葉によってそれを型どり、形成するに違いありません。

 

希望とキリスト教的楽観主義

5 節にはまた、「神の愛」という表現が出てきます。これを、神へのわたしたちの愛と理解してはいけません。そうではなく、わたしたちへの神の愛のことです。パウロは、神からわたしたちの方へ向かう愛について語ります。この愛は、イエスを通して表現され、神の愛へとわたしたちを引き戻す聖霊の内在によって永遠のものとされました。パウロは、わたしたちの模範であるイエスと共にあれば、苦難の時でさえも、それに耐え、品性を養い、勝利を望むことができると確信させてくれます。聖霊の賜物は、溢れる神の愛の証明であり、その運び手でもあります。聖霊は、義とされた人たちに神の現存を知らせます。

 

より深い理解へ

ヨハネ福音書( 16:12-15 )には、弟子たちは、イエスが彼らに言っておきたいことのすべてを理解することはできないと書かれています。最初に弟子たちに必要だったのは、イエスの、死への勝利だけがもたらすことができる確信でした。真理の霊は、三度、教会に約束したと書かれています。真理の霊は、これから起こることをわたしたちに告げます( 13 節)。 真理の霊は、キリストから受けたものをわたしたちに「告げ」ます。( 14 節) 真理の霊は、キリストのものを受けて、わたしたちに「告げ」ます。( 15 節)

 

同じ行為を述べるのに、同じ動詞が三回用いられています。この Anaggellein という動詞は、何かを繰り返して告げる、あるいは宣言するという意味です。それは、キリストにおいて実現されたことを、真理の霊が引き継ぐということを意味します。しかし、聖霊は(更に)わたしたちにそれを理解させ、より深い意味を解き明かし、様々な文化や状況の中でその意味が伝えられるようにするのです。この「これから起こることの啓示」( 13 章)という考え方は、聖霊( Paraclete )が未来に関して何らかの預言的啓示ができるという意味ではありませんでした。そうではなく、聖霊は共同体を導いて、「イエスは、聖書に約束されたすべてのことの実現である。」ということを理解させるという意味でした。

 

宣教の使命と召命

聖霊は、この止むことのない活動を通して、また「キリストのもの」についての教示を通して、教会を真理へと導きます。それは、信仰の体験が、「キリストのうちにあるのもの」のより深い理解へと向うためです。これは、真の牧者であり聖職者にふさわしい人の召命と使命をみごとに表現する、豊かで深い考え方です。すなわち、わたしたちは、あらゆる人々の人生とこの世の生活の中に、より深い神への理解と知識をもたらすために、(自らの)信仰体験を伝えるよう呼ばれているのです。

 

わたしたちの真の使命は、「キリストのものを受けて、それを告げる」ことであり、それを伝え、それを証しし、それを繰り返し世に告げることです。「キリストのものを受ける」ということは、祈り、黙想、学びを通してキリストと深く個人的に交わることです。聖霊において、わたしたちは、キリストのものを現世的な秩序の中で新しく理解し、新たに実現することができるのです。わたしたちは、イエス・キリストを知り、イエス・キリストと交わることによって、正義と愛と平和の文化を築くよう召されているのです。

 

栄光を体験する

三位一体の啓示の深まりは、神の栄光を更に高めます。わたしたちにとって、栄光の体験とは何でしょうか? それは、幸福や喜びや恍惚の感情ではありません。もっとも、これらの感情は、生活の中で神の現存を深く体験している人たちの中に、実際に存在するかも知れません。神の現存と認識がわたしたちの意識と愛を支配するとき、また神の現存と認識がより深い意味と愛の激しさで、ほとんど触れんばかりの存在となるとき、それこそが栄光の体験です。

 

痛みや苦しみ、心の暗闇や空しさ、危機や混乱にさいなまれている最中に神の体験がわたしたちを支える時、わたしたちは神の栄光の前兆を味わいます。何が起ころうともわたしたちは、神が共に居てわたしたちを包み、護り、その手に抱いて下さることをよくよく知っています。聖パウロは、これが栄光への希望であり、人間は大いなる喜びを味わうためにそこに招かれるのだと言います。これは神からのあまりに大きな賜物なので、教会は日曜日毎にこう祈ります。「あなたの大いなる栄光の故に感謝をささげます。」

 

交流

三位一体は、父と子と聖霊の間の交流です。これは今日、三位一体の祝日の典礼が思い起こさせてくれる深い神秘です。その神秘とは、言葉では表現できない神の実在を指し、また、この神秘がわたしたちに示されてきたやり方をも指しています。わたしたちは聖なる三位一体と格闘するかも知れませんが、その一方で、十字を切るたびにわたしたちは手の中に三位一体を受け入れているのです。

 

結びとして、シエナの聖カタリナが著した対話集「神の摂理についての対話」( 167 Gratiarum actio ad Trinitatem から、三位一体の神秘についての個所を引用しましょう。この個所は、毎年 4 29 日に祝われる、この偉大な聖人の祝日の聖務日課の中で、聖人を記念する祈りとして用いられているものです。それは、わたしたちが日々祈ることのできる、三位一体に向けた優れた祈りです。

 

「永遠の神、永遠の三位一体、あなたはキリストの血を、あなたの聖なる性質の分かちによって高貴なものになさいました。 あなたは海よりも深い神秘です。求めれば求めるほど一層あなたを見出し、多く見出すほどに、一層あなたを求めます。 それでもわたしは満足することがありません。 受取るほどに、ますます望むのです。 あなたがわたしの魂を満たすとき、わたしはいままでになかったほどの飢え渇きを覚えます。 そしてあなたの光をさらに求めて飢え渇くのです。 わたしは何よりもあなたに、真の光であるほんとうのあなたに、会いたいと願います・・・。」 

 

「わたしの理解の光の中で、わたしは、あなたの創造の御業の神秘と美しさの深みを味わい、眺めて参りました。わたしはあなたの似姿を身にまとい、その結果を見て参りました。永遠なる父よ、あなたはキリストが自分のものとしたあなたの力と知恵とを、わたしに分かち与え、あなたの聖なる霊は、あなたを愛する願望を与えて下さいました。永遠なる三位一体、あなたはわたしを創造し、わたしはあなたの被造物です。あなたは御子の御血によってわたしを新たに創造されました。そしてわたしは、あなたに照らされて覚るのです。あなたは、ご自分の創造物の美しさへの愛によって心動かされるということを。」

 

聖書朗読

 

箴言 [ 神の知恵は語る。]  8 : 22 主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。
:23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。
:24 わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
:25 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
わたしは生み出されていた。
:26 大地も野も、地上の最初の塵も
まだ造られていなかった。
:27 わたしはそこにいた
主が天をその位置に備え
深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
:28 主が上から雲に力をもたせ
深淵の源に勢いを与えられたとき
:29 この原始の海に境界を定め 水が岸を越えないようにし
大地の基を定められたとき。
:30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって
絶えず主の御前で楽を奏し
:31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ。

 

ローマの教会への手紙 5 :01 [ 皆さん、 ] このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、:02 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 :03 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 04 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

:05 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

ヨハネによる福音 [ そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]  16:12   言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 :13   しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 :14   その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 :15   父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 

 

 

We Give You Thanks for Your Great Glory

Biblical Reflection for Solemnity of Most Holy Trinity C By Father Thomas Rosica, CSB    

 

 

TORONTO, MAY 25, 2010 Zenit.org .- On the Sunday that follows Pentecost, we celebrate the solemnity of the Most Holy Trinity. Thanks to the Holy Spirit, who helps us understand Jesus' words and guides us to the whole truth, believers can have a personal experience of the intimacy of God himself, discovering that he is not infinite solitude but communion of light and love, life given and received in an eternal dialogue between the Father and the Son in the Holy Spirit.

 

Lady Wisdom, the communicator

Today's first reading from Proverbs 8:22-31 speaks about Lady Wisdom, the person created by God before the creation of the world to communicate God's love and to guide us in peaceful living. Wisdom in many ways parallels the New Testament Holy Spirit. Even if we are unable to rationally explain the Trinity, we still are required to manifest the triune God by our actions.

 

The Book of Proverbs is the most "earthy" of all the books of the Bible. Within this collection of short, pragmatic sayings, which fill most of the book, there is a beautiful, mystical reflection in Chapter 8. "Lady Wisdom" is personified given human traits in an attempt to describe the ways in which God chooses to reveal divine nature.

 

Wisdom is presented as something very intimately involved with God, and in later writings wisdom is perceived as the quality human beings need to discern God's activity in the world. Wisdom's superiority over all things is due to her origin before them. While wisdom is seen to emanate from God's mysterious abode, still it is most visible to us, "established in the sky," across "the sea [and] its limit," over the "surface of God's earth." Wisdom was poured forth, begotten by God at the beginning, and as God's co-worker wisdom directed creation and found delight in the human race.

 

Experience and discernment

The poetry of Proverbs is meant to give us a sense of the beauty and permanence -- indeed, the eternal quality -- of wisdom. In all those attributes, wisdom is Godlike. It is also God's gift to human beings, the gift that enables them to see beyond the literal and into the deeper significance of life's events. Wisdom in many ways parallels the New Testament Holy Spirit. Wisdom is in no way equated with intellectual prowess or an accumulation of information or mere data. Instead, it is more closely associated with experience and discernment. Above all, it is a spiritual entity, not independent of thought and logic but far superior to it.

 

The effects of justification

In his letter to the Romans 5:1-5 , Paul begins to discuss the Christian faith in Christ Jesus, and he presents the Christian experience in itself and explains how salvation is assured for the upright. In today's passage, the mystery of the Holy Trinity moves out of theological formulation and becomes an active ingredient, a leaven, in daily life. The first effect of justification the Christian experiences is peace; reconciliation replaces estrangement. The second effect of justification is confident hope.

 

Once justified, the Christian is reconciled to God and experiences a peace that distressing troubles and sufferings cannot upset, a hope that knows no disappointments, and a confidence of salvation in Jesus. The statement about hope is a typically Pauline paradox: The Christian who boasts puts the boast in something that is wholly beyond ordinary human powers -- in hope. Verse 5 contains the powerful assurance that such hope does not disappoint us. The Christian will never be embarrassed by a disappointed hope; implicit is a comparison with merely human hope, which can deceive. God's Spirit must direct our lives, modeling them and fashioning them on the life and words of Jesus.

 

Hope and Christian optimism

Verse 5 also contains the expression "God's love" -- not to be understood as our love of God, but God's love of us. Paul speaks of the love with which God moves toward us. This love is expressed through Jesus and is perpetuated by the indwelling of the Holy Spirit to draw us back to the love of God. Paul assures us that even suffering can enable us to endure, to develop character and to hope for victory, with Jesus as our model. The gift of the Spirit is not only the proof but also the medium of the outpouring of God's love. It signifies the divine presence to the justified.

 

Toward a deeper understanding

In John's Gospel 16:12-15 , the disciples could not bear all that Jesus had to tell them. First they needed the assurance that only his triumph over death could bring. Three times the Spirit of truth is said to engage the Church. The Spirit will "declare" to us what is to come v 13 . The Spirit will "declare" to us what the Spirit has taken from Christ v 14 . The Spirit will take what is of Christ and "declare" it to us v 15 .

 

Three times the same verb is used to describe the same activity, anaggellein: to announce or to proclaim something again. It means that the Spirit will continue what has been realized in Christ. But the Holy Spirit will interpret it for us, will probe its deeper meaning, will make it understood in different cultures and contexts. This idea of the "revelation of the things to come" did not mean that the Paraclete could make any sort of prophetic revelations about the future, but that the Paraclete guided the community in its understanding of Jesus as the fulfillment of everything that had been promised in Scripture.

 

Mission and vocation

The Spirit leads the Church into truth through this ceaseless activity, through the declarative interpretation of what is of Christ, so that the experience of faith might move toward a deeper understanding of what is in Christ. This is a rich and profound concept that describes beautifully the vocation and mission of the true shepherd and priestly person: We are called to interpret the experience of faith that allows for deeper understanding and knowledge of God in the life of every person and in the life of the world.

 

Our mission is truly "to take what is of Christ and to declare it," to interpret it, to profess it, to tell it over and over again to the world. "To take what is of Christ" indicates a profoundly personal contact with Christ through prayer, contemplation, and study. In the Spirit, we are to bring what is of Christ to a new understanding, to a new realization in the temporal order. We are called to build a civilization of justice, love and peace based on our knowledge of and relationship to Jesus Christ.

 

Experiencing glory

The increasing glory of God is this progressive revelation of the Trinity. What is the experience of glory for us? It is not euphoria, bliss or ecstasy, although those elements may indeed be present in those who have profound experiences of God's presence in their lives. When the presence and idea of God comes to dominate our consciousness and our loves, when it becomes almost palpably present with the intensity of deeper meaning and love, this is glory.

 

When the experience of God sustains us in the midst of excruciating pain and suffering, spiritual darkness and emptiness, crisis and confusion, we have a foretaste of God's glory. No matter what befalls us, we have a profound awareness that God is with us, that God surrounds us, protects us and holds us in the palm of his hand. St. Paul says that this is the hope for the glory in which human beings are called to exult. So great a gift of God is this that every Sunday the Church prays: "We give you thanks for your great glory."

 

Communication

The Trinity is communication between the Father, the Son, and the Holy Spirit. This is the profound mystery which today's liturgy for the feast of the Holy Trinity recalls: both the unspeakable reality of God and the manner in which this mystery has been given to us. Though we may struggle with the Holy Trinity, we nevertheless take it into our very hands each time that we mark ourselves with the sign of the cross.

 

I conclude with this excerpt on the Trinity as Mystery from the dialogue "On Divine Providence" by St. Catherine of Siena Cap 167, Gratiarum actio ad Trinitatem . It is used in the Roman Office of Readings for the liturgical memorial of this great saint of the Church, whose feast is celebrated each year on April 29. It is a magnificent prayer to the Trinity that we could pray each day.

 

"Eternal God, eternal Trinity, you have made the blood of Christ so precious through his sharing in your divine nature. You are a mystery as deep as the sea; the more I search, the more I find, and the more I find the more I search for you. But I can never be satisfied; what I receive will ever leave me desiring more. When you fill my soul I have an even greater hunger, and I grow more famished for your light. I desire above all to see you, the true light, as you really are.

 

"I have tasted and seen the depth of your mystery and the beauty of your creation with the light of my understanding. I have clothed myself with your likeness and have seen what I shall be. Eternal Father, you have given me a share in your power and the wisdom that Christ claims as his own, and your Holy Spirit has given me the desire to love you. You are my Creator, eternal Trinity, and I am your creature. You have made of me a new creation in the blood of your Son, and I know that you are moved with love at the beauty of your creation, for you have enlightened me."

 

 

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