教皇フランシスコの教会改革の二つの鍵 SynodalityとCollegiality
2013年8月28日付Catholic Voices Comments掲載
教皇庁と教会統治一般に関し、教皇に助言する目的で、教皇フランシスコの創設した「枢機卿評議会(G-8)」(The council of cardinals)は、10月の教皇との会見に先立って、この夏に文書による意見交換を活発に行った。10月の三日間の会合では、たぶん人事と構造の具体的変化が提示されよう。その目的は、バチカンの官庁機関を、教皇の普遍的聖職者職務(the
universal ministry of the Pope) を補佐する、という目的に適合させることにある。
しかし、Francisの改革は、彼の官庁機関(官僚機構)を作るという提案よりもさらに意慾的である。彼は普遍教会の統治方法の変化を望んでいる。
そこでは地方教会(教区や司教協議会)が教会の決定に影響を及ぼすように、従来よりも大きな役割(部分)を演じる形をとる一方で、ローマ(バチカン:教皇のペトロ使徒座の官僚機構を含む)が世界全体のカトリック教会によりよく奉仕することを確実にする。
要すれば、教皇フランシスコは、ローマと地方教会の間の距離を短縮し、彼らが相互によりよい行動をとることを確実にすることを望んでいる。
このことが、次の数ヶ月に明らかになる時、メディアは現世的統治、世界になじみのある―「民主化」とか 「分権化」の用語による変化を報道することになろう。
しかし、これらの概念とこれからの改革の間の類推があるかもしれないが、それらの概念は、解明するというよりもいっそう不鮮明にする。この変化は、教会自身の用語で理解される必要がある?
それは、鍵となる難解な概念の把握を意味する。
‘Collegiality’(「司教協働性」、あるいは「司教協働主義」) と ‘Synodality’(「司教会議性」、あるいは「司教会議主義」)という、かなり教会法や神学的な意味を帯びた2語がある。
これからの数ヶ月は、この2語を頻繁に聞くことになろう。これら2語は、第2バチカン公会議よりも古いが、それに強く連鎖する用語である。
Collegiality(司教協働性): 教皇の教会統治において、地方教会の司教たちの固有の自治権を尊重しつつ、教皇と司教たちが協働(collaboration)
すること。
Synodality(司教会議性): 地方教会が、普遍教会の統治に、司教会議を通して参画することの実際的表現。
この2語は過去数十年に議論の多い、時に激しい意見の相違のある用語領域である。
教会統治における交わり:
第2バチカン公会議の教会憲章 “Lumen Gentium” は “perfect society” としてカトリック教会の反宗教改革モデルを覆そうと試み、「交わり」(communio)
の方向にそれを動かそうとした。「交わり」は「キリストの神秘体」についての神学的考察から導かれる隠喩である。
ピオ12世の1943年回勅 “Mystici Corporis Christi” (キリストの神秘体)は、聖書、初代教父、中世哲学などの出典からの教会論の再構成の場を設けた。なぜならば、信者個人一人ひとりと個別教会集会のそれぞれは、同じ頭(キリスト)、同じ霊(聖霊)を一つにして分かち合い、同じ聖典、秘跡、教義と位階制権威において、聖霊による一致に導かれ、すべてを一つの全体として表現することができるとされたからである。
これによって、公会議は、地方教会の(重要性の)強調点を改変することになった。
1917年教会法に見られる地方教会は、いやしくも教会法が述べる限り、普遍教会の周辺に集められた存在(gravitating around the universal
Church)でしかない。
(公会議後の)1983年教会法において、強調点は変更され、普遍教会は、それに限定されないものの、個々の地方教会に内在している(‘subsists in’)、とされた。それはキリストが、それに限定されないものの、個々の教会のミサ聖祭のうちに完全に現存する、という考え方に類似している。1983年教会法368条が規定するように、普遍教会は個別の教会の「内と、外に」(‘in
and out of’)存在するのだ。
このことの意味は明らかである。司教は、教皇の代弁者でもなければ、教皇庁(官僚)の手先でもない ; 教皇庁は司教団に仕えるものである。教皇が司教団の頭である一方で、彼は司教たちを離れては統治せず、常に司教たちと共にある。古典的規範では、教会は、“cum
et sub Petro”(ペトロと共に、かつ、その下にある)司教たちによって統治される。この意味において、カトリック教会の統治は、実りある緊張の内に、司教たちの権威と教皇の特別権威を保持する。彼らは互いを必要とする。「11使徒なしにはペトロはなく、ペトロなしには11使徒はない」のである。
しかしながら、この考え方の構造的表現を見出すことは問題が多い。Lumen Gentium (教会憲章)に教皇パウロ6世が付したA Nota Praevia(予備ノート)は、こう指示している。 「collegiality
または the Synod of Bishopsについての教理を述べるどのような文書も、教皇および聖座の諸権利と特権を害することがあってはならない。」と。その一方で、Lumen
Gentium 22項によれば、「聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体」を構成する」が、Nota Praeviaによれば、この“collegium”の用語は「厳密に、その法的意味において理解されるべきではない」と記されている。
“The College of Bishops” について、Lumen Gentiumは「普遍教会に対して、十全の最高権力の保持者である」と述べる一方で、Nota
Praeviaは、そのことは、この集団がその頭である教皇と共に行為するときのみ真実であり、教皇なしには実際、何ら行為できるものではない、という。
c. 336項は、このゆえに、the College of Bishopsは、その頭と共にあって最高、十全の権力の主体であり、その頭を欠くときにはその限りでないと述べる。
実際問題として、司教団の普遍的権力は、具体的には教皇が召集する公会議(ecumenical council)に制限され、教会法c. 333によって、司教たちの
「個人として、又は団体としての任務遂行の方法を定める」権利と最終的発言権を有する、教皇の同意を得て行為するときだけ、有効なのである。教会法には、教皇権威の乱用に対する法律上の安全規定(safeguard)はないが、教会法の精神(が期待するところ)では、司教と教会共同体(ecclesial
community)の確信に同意しない教皇の決定と行為はほとんど考えにくいとの仮定の上に「交わり」communioを反映する。(教皇Benedictは、教義上の問題に関しては、先ず広く諮問することなしに発言することはなく常に注意深かった。そして自分の発言が教会全体の心と一致すると確信するときにのみ公言した。)
しかし、司教と教会共同体の確信は、実際にはどのように表現されるのであろうか?Lumen Gentiumは、特定の会議‘particular councils’又は、管区の司教会議provincial
synodsの場を奨励した。そして第バチカン公会議の教父たちは、それらは、初代教会に発揮されたように、「新しい力を以って開花する」であろうことを希望した。しかしそのような活発な会議は少なかった。
それよりも成功したのは、各国の司教協議会である。それは19世紀に教皇レオ 13世の奨励により始まっていたが、それらは現代の教会内では標準的存在となっていて、通常年2回の集会の形をとっている。しかし、それら会議は教理の権威は有しない。このことは示唆はされるが、教会法では決定はしていない。
それから、国を超えた司教会議がある : ヨーロッパのCCEE(ヨーロッパ司教評議会)、アジアのFABC(アジア司教協議会連盟)、そして最大で最古のCELAM(ラテンアメリカ司教会議)がある。
これは1955年にラテン・アメリカおよびカリブ海の司教たちを最初に集めた司教会議である。
Lumen Gentiumは、これらを奨励するが、これら諸会議の権威は曖昧である。collegiality(司教の協働主義)を深める上で、それらの重要性を疑う者はだれもいない。しかし、流行の表現(buzz-words)を使えば、これは‘affective’
(ピンと来る.)、あるいは ‘effective’ (効き目十分)なcollegialityであろうか?言い換えれば、そのような会議(bodies)は、どの程度まで法的な力をもつのだろうか?
同じ質問が、第2バチカン公会議後の中心的なキーワードとなったcollegiality(司教の協働主義)とthe Synods of Bishops(司教会議)という表現の上に投げかけられている。そしてそれは、初代教会の特色でもあった。1965年教皇パウロ6世が再開して以来、ざっと2〜3年ごとに25回のsynod(司教会議)が開催されている。これらには2つの種類がある
: @「通常」(“ordinary”)集会は、普遍教会の重要課題を考える。(最近では、2012年10月に、「新しい福音宣教」の主題の下に開催された。)A「特別」(“special”)集会は、特定の地理的領域に焦点を合わせる。(最近の集会は、中近東問題に焦点を合わせ2010年に開催された。)
約300人の代表者が出席する世界代表司教会議Synodは、「協議的」(“consultative)および「諮問的」(“advisory”)会議である。これらの会議は、教皇が招集し、バチカン(教皇庁)が運営し、「教会に関する多様な主題の真正な協議」の提議が意図されている。Synodがこれまでに直接発行した唯一の教理文書は、1971年の「世界における平和」(“Justice
in the World”)である。それ以来、集会の結果としての決定は、教皇の名による文書の形式で、集会一年後に発行される「Synod後の使徒的勧告」に記される。
Synod(司教会議)は、とりわけ地方教会の声をローマの中枢にもたらすなど、多くの好ましい側面をもつが、参加者からは、それが現実に即さず、過重に管理されているとの不満の声がしばしば聞かれる。たとえば、ウィーンのSchonborn枢機卿は、2004年以来、Synod諸機能の「再考」を提案していた。そこでは、一層十分な論議、真の議論を行える雰囲気の中での協議、実際的な意見交換、そして過去10年に醸成された狭苦しい枠組みからの解放などを求めている。
教皇フランシスコによる “collegiality” と “synodality” への呼びかけ:
教皇フランシスコは、国単位の司教協議会の議長を務めた最初の教皇である ? 彼はアルゼンチン司教協議会の議長に2度選出されている。さらに彼は、国を超えた司教会議に関与したことのある最初の教皇でもある
: 彼は、2007年にブラジルのAparecidaで開催されたCELAM(ラテンアメリカ・カリブ司教協議会)の最近の集会で、その結論文書の草案作成の議長を務めた。さらにまた彼は、Synodの議長経験のある最初の教皇でもある。2001年9月に、(911テロ事件で)急遽帰国するニューヨークのEgan枢機卿に代わって、当時のベルゴリオ枢機卿は、ローマでの世界代表司教会議のrelator(提案者)に指名された。
これらの司教会議の役割(‘collegial’ roles)での、ベルゴリオ枢機卿の傑出したパーフォーマンスが、世界の教会関係者の注目を集め、本年3月のコンクラーベで教皇に選出する際、同僚の枢機卿たちを納得させる材料となった。
教皇としての彼の最初の公的発言の中で、フランシスコは自分を「ローマの司教」(“Bishop of Rome”)と表現した。(「周知のようにコンクラーベの作業は、ローマの司教を生み出すことにある。」)それに続けて、「ローマの教区共同体のから皆さんの、教区司教に対する歓迎に感謝します。」
と述べた。
彼は、ローマの教会について(彼自身、その司教として)語り続けた。彼によれば、ローマの教会は全ての教会に対し、友として、愛において、人々の信頼のうちに、憐れみを持って旅路を“先導する”存在なのである。彼のこの言葉は、近代教会におけるcollegialityをめぐる議論に関心を抱いてきた人びとにとって、すぐに納得できるだろう。なぜならば、(司教会議の)平等な合議制の考え方からすれば(in
the collegial formula)、ローマの教会は、地方教会を「愛において」統括(統治)するからである。
このメッセージは、明快そのものであった。この教皇はcollegialなやり方での教会統治を意図している。それは、一方では、彼が用意周到なやり方で教皇の権威を執行しようとしていることを意味する
; また、一方では、普遍教会の統治において、地方教会の声を強める具体的な歩みを進めていることを意味するのである。
これまでの、教皇フランシスコによるcollegialなアプローチの事例:
先ず、二つのcollegialなアプローチの明らかな事例がある。教皇ヨハネ・パウロ2世および教皇ベネディクト16世と比べ、教皇フランシスコは、毎週水曜日の恒例の一般謁見で、最初から(イタリア語以外の)他の言語を用いることを避けている。一部の人々はこのことを、彼がスペインとイタリア語以外は得意でないしるしと受け取っていたが、次第にそうではないことが分かってきた。すなわち、イタリア語にこだわることによって、ローマに居るときには、普遍教会の統治者であるよりもローマ司教であるという彼の考えを強めたい意図があったのである。そして、教皇フランシスコが、教皇権の改革に反対する勢力の陥穽を避けるためにしてきたことは、何ごとも、?教皇の、衣服や交通機関に関する簡素、謙遜志向については、しばしば話題になるが?
他の司教とのprimus inter pares(同輩中の首位者)関係を除き、自分の立場が、愛によって統治するローマの司教である、という考え方を明らかにするように配慮されている。
第二の事例(兆候)は、英国およびフランスにおいて合法化された同性婚のような問題に干渉することを、教皇が拒んでいることである。一部の人たちがこの教皇の沈黙を、そのような課題への関心が前任者たちよりも薄いからだと見做すのは間違っている。そうではなくて、教皇の沈黙は、「そのような課題に対する声明は、最初に、そして本来的に、関係する地方教会の司教から出されるべきである」という、彼の教会論上の(ecclesiological)
信念を反映している。そのような課題については、ローマが最初に文書を出して地方教会がそれを解釈し実施するよりも、むしろ、地方教会の司教たちが先ず意見書を出すべきであると、教皇フランシスコは考える。教会全体のためのガイダンスが必要な場合には、それはローマで開かれる司教と枢機卿の集いが出すべき者である。言い換えれば、synodality(司教会議性、司教会議主義)の問題であるというのである。
全ての兆候は、教皇フランシスコがSynodalityの概念の推進を意図していること、そして、様々な審議機関が教会統治のためにより大きな機能を持つことを意味している。これまで、彼はその方向で幾つかの具体的な措置をとっている。教会統治と教皇庁改革に助言をうけるため、各大陸から枢機卿を集めた評議会(G-8)、および、バチカン銀行に関する助言のため、在俗信者グループの指名などである。教皇は、枢機卿評議会(G-8)が、将来Synodが選出する評議会に移行するであろうと示唆している。
G-8 のメンバー
Synod(司教会議)の強化:
6月中旬に、次回のThe Synod of Bishopsの集会(世界代表司教会議)を企画して司教たちと面談したとき、教皇はSynodの強化について語った。The
Synod of Bishopsは「第2バチカン公会議の実りの一つである。」と彼は述べ、「神さまのお陰で、過去50年間、わたしたちはこの組織のさまざまな利益を感じることができてきている。それは恒久的な方法でcollegialityの表現として、教会の使命と一致の役にたっている。」と語った。
彼は、Synodが「新しい進路をとらねばならない。それはペトロの司牧権と一つになるとき、そのユニークさを発揮する。」と述べ、「これは大きな挑戦である。」と付け加えた。彼は、「教会、母なる教会、synodalityのそれを含めて、その全てのニュアンスと共に」そこにはより大きな教会についてのreflection
(省察、内省、熟考) の必要がある、と語った。彼はまた、枢機卿会議の挑戦の一つは、「synodality (司教会議主義)とローマ司教の共同作業への道筋を見出すことにある。」と述べた。
その他の教皇フランシスコの発言: (教皇フランシスコの他の重要な発言から:)
6月30日の使徒聖ペトロと聖パウロの祝日に、教皇フランシスコは、34人の新大司教のpallium(着衣式)を行い、次のように述べた。「わたしたちは、世界代表司教会議を、(教皇の)首位権との調和の下に発展させ、synodalityにおいて、首位権との調和の内に成長する必要があります。」
この祝祭には、正教会の主教たちも出席していた。フランシスコは彼らに語りかけ、「司教の協働性(episcopal collegiality)、および司教会議性(synodality)の伝統が、正教会において典型的であること」に言及した。(このコメントは、印象的である。なぜならば、司教会議が教会統治の主要な役割を果たしている正教会にとって、君主制的教皇制は、主要なsticking-point(膠着点:受け入れ難い限界点)であるからである。)
・ 教皇は、Rio de JaneiroにおけるCELAM(ラテンアメリカ司教会議)の代表者たちに向けた講話で、「地方の、地域的な要素について、一層大きな認識が必要なのです。中央集権的官僚主義は、(教会統治にとって)十分ではありません。そこでは、collegiality
と solidarityを更に発展させる必要があるのです。必要なことは全員一致ではなく、豊な多様性の中での真の一致なのです。」と述べた。
・教皇専用機内でのインタービューの中でフランシスコは、「司教会議主義と教皇首位権との関係の成熟」にふれて、彼の枢機卿評議会(G-8)は「“司教会議主義”を支持する立場をとり、枢機卿たちは世界の多様なepiscopates(司教、司教の集合体、司教の管轄する区域)が、まさに教会統治の場において自分たちを表現するのを助けるでしょう。」と特に言及した。彼はまた、G-8では将来に向けての多くの提案がなされたことを示唆した。その中には、「Synod事務局の改革とその方法論について」や、「Synod後の恒久的諮問機関となる委員会」、さらには、「列聖その他の項目のような比較的フォーマルではない協議事項を扱う枢機卿会議(consistory)」などがある。この最後の考え方はローマにおける枢機卿の定期集会を意味している。(一方)3~4年毎に開催される枢機卿会議は、通常は枢機卿の任命の目的のみのために召集される。フランシスコは、これら枢機卿会議が普遍教会の統治機構の一部、たとえば、誰を聖人にすべきかについて同意することにより、その一部になり得ると示唆している。
このことが指し示す方向性:
このパイプライン(改革の方向付け)を流れてくるものが、教会に途方もない衝撃をもたらすことは疑いの余地がない。より優れたsynodalityとcollegialityが、地方教会の、普遍教会の決定への参加を増大させることになろう。しかし、それら決定が投票によるとは限らない。(たとえば、英国聖公会のモデルに見る司教会議の教会統治のように) そして、この改革がローマと司教会議の間の隔たりの克服を目的とする一方で、
?後者(司教会議)はバチカンがしばしば草の根の現実に触れないことに不満を表しているが? そのことは、教会の指導が、自動的にローマよりも地方教会で多くなされるようになることを意味するものではない。事実、地方教会の代表による討議の結果がそこに反映されることを保証しつつも、結局はローマから出るもの(文書)が増えることを意味するのかもしれない。これが、この改革の意味を「民主化」や「分権化」の言葉のままに捉える事が出来ない理由である。
ここで必要に迫られるのは、再調整(rebalancing)の実行である。 ?失われたものの復活の試みである。それは、教会統治におけるペトロの役割と、他の使徒たちの役割との間のバランスを回復する行為である。それは間違いなく改革であり、中には過激なものもあろう。しかし、それは教会を近代化しようとする試みでもなければ、教会を現代社会のようにしようとするものでもない。それは、イエスが意図された、あるべき教会の姿に近づけようとするものだ。それこそが、この改革を進めなければならない、ただ一つの理由である。
<英文> Catholic Voices Comment
Synodality, collegiality: two keys to the coming Francis reform
Posted on August 28, 2013 by catholicvoicesmedia
http://cvcomment.org/2013/08/28/synodality-collegiality-two-keys-to-the-coming-francis-reform/
The council of cardinals created by Pope Francis to advise on curial reform and
church governance in general has been active over the summer, exchanging papers
in advance of their meeting with the Pope in October, when a three-day meeting
is likely to produce concrete changes to personnel and structure. The purpose
is to make the Vatican civil service fit for purpose ? that is, to serve the universal
ministry of the Pope.
But Francis’s reforms are more ambitious than those he proposes to make to his
civil service. He wants to change the way the universal Church is governed, in
such a way that the local Church ? dioceses, bishops’ conferences ? plays a much
larger part in the decisions that affect it, while ensuring that Rome (the Vatican,
including his own Petrine ministry) better serves the Church worldwide. In short,
Francis wishes to shorten the distance between Rome and the local Church, to ensure
that they act better together.
As this becomes clear in the next few months, the media are likely to report the
changes in terms familiar to the world of secular governance ? ‘democratisation’
or ‘decentralisation’. But while there might be analogies between these concepts
and the coming reform, they obscure more than they illuminate. The changes will
need to be understood in the Church’s own terms ? and that means grasping the
key concepts involved.
There are two words, heavily laden with canonical and theological significance,
which you can expect to hear often in the coming months: ‘collegiality’ and ‘synodality’.
Although they are older than the Second Vatican Council, they are strongly linked
to it.
Collegiality refers to the Pope governing the Church in collaboration with the
bishops of the local Churches, respecting their proper autonomy. Synodality is
the practical expression of the participation of the local Church in the governance
of the universal Church, through deliberative bodies.
Both have been arenas of sometimes intense disagreement in the past decades.
Communion in church governance
Vatican IIThe Vatican II dogmatic constititution on the Church, Lumen Gentium,
sought to overturn the Counter-Reformation model of the Church as a “perfect society”
and to move it in the direction of communio, a metaphor derived from theological
reflection on the Mystical Body of Christ. Pius XII’s 1943 encyclical Mystici
Corporis Christi set the stage for a re-casting of ecclesiology from biblical,
patristic and medieval sources: because every individual member, and each distinct
ecclesial community, shares in the same head (Christ), the same Soul (the Holy
Spirit), and in the same scriptures, sacraments, doctrine and hierarchical authority,
all can be described as single whole, brought into unity by the Holy Spirit.
This led, at the Council, to a renewed emphasis on the local Church. In the 1917
Code of Canon Law, the local Church ? in so far as it is mentioned at all ? is
seen as gravitating around the universal Church; in the 1983 Code, the emphasis
shifts: the universal Church ‘subsists in’, but is not limited to, each particular
Church in a way that is analagous to the way in which Christ is entirely present
in, but not limited to, each eucharistic celebration. The universal Church exists
‘in and out of’ the particular Churches, as c. 368 of the Code puts it.
The significance of this is clear. Bishops are not agents of the Pope or servants
of the Curia; the Curia is at the service of the College of Bishops. And while
the Pope is the head of the College, he does not govern apart from the bishops
but with them. In the classic formula, the Church is governed by the bishops cum
et sub Petro ? “with and under Peter”. In this sense, the governance of the Catholic
Church holds in fruitful tension the authority of the bishops and the special
authority of the Pope. They need each other. “Never Peter without the Eleven,
never the Eleven without Peter”, as the expression has it.
Finding the structural expression of this idea has been, however, problematic.
A Nota Praevia, a preliminary note, attached to Lumen Gentium by Pope Paul VI,
directed that none of the document’s teaching on collegiality or the Synod of
Bishops should prejudice the rights and privileges of the pope and the Holy See.
On the one hand, according to Lumen Gentium 22, Peter and the other apostles form
‘a unique apostolic college’, yet ? according to the Nota Praevia ? the term collegium
‘was not to be understood in its strict, juridical sense.’ While the College of
Bishops is the ‘bearer of full and supreme power over the universal Church’, as
Lumen Gentium states, this is only true, says the Nota, when the college acts
with the pope as its head; and indeed cannot act in any way without the pope.
Hence c. 336, which says the College of Bishops is the subject of supreme and
full power ‘together with its head and never without its head.’
In effect, the universal power of the episcopal college is restricted in practice
to an ecumenical council called by the pope and then only when it acts with the
consent of the pope, who in c. 333 of the Code determines ‘the manner, whether
personal or collegial, of exercising this office’, and has the final say. There
are no juridical safeguards in the Code against abuses of papal authority; yet
the spirit of the Code reflects communio in its assumption that papal decisions
and actions which do not agree with the convictions of the bishops and the ecclesial
community are pretty much unthinkable. (Pope Benedict was always careful not to
pronounce on doctrinal matters without first consulting widely, and only when
he was confident he was speaking with the mind of the Church.)
But how are those convictions to be expressed in practice? Lumen Gentium encouraged
‘particular councils’, or provincial synods, which the council fathers hoped would
‘flourish with new vigour’ as they did in the early Church; but there have been
few of these.
More successful are national bishops’ conferences ? which began in the nineteenth
century, were encouraged by Pope Leo XIII ? which have become standard in the
contemporary Church, usually in the form of twice-yearly assemblies. But do they
possess teaching authority? This is suggested but not resolved in the Code.
Then there are the supra-national assemblies of bishops such as the European CCEE,
the Asian FABC and the largest and oldest of all, CELAM, which first brought together
the Latin-American & Caribbean bishops in 1955. Lumen Gentium encourages them;
but again, their authority is ambiguous. No one doubts their importance in deepening
the collegiality of the bishops; but ? to use more buzz-words ? is this ‘affective’
or ‘effective’ collegiality? In other words, to what extent do such bodies have
legislative teeth?
That same question has hovered over the main expression of post-conciliar collegiality,
the Synods of Bishops, which used to be a feature of the early Church. There have
been 25 such synods since 1965, roughly one every 2-3 years, when they were re-established
by Paul VI. They are of two kinds: “ordinary” assemblies consider matters of importance
to the universal Church (the last one was in October last year, on the ‘new evangelisation’
) while “special” assemblies focus on particular geographical areas (the last
one, in 2010, focussed on the Middle East).
Synods, attended by about 300 representatives of the world’s bishops’ conferences,
are “consultative” and “advisory”. They are called by the pope, managed by the
Vatican, and intended to offer “genuine counsel on various topics related to the
Church”. The only teaching document ever issued directly by a Synod was “Justice
in the World” in 1971. Ever since then, any decisions taken as result of the gatherings
are the Pope’s, issued in the form of a document (a post-synodal apostolic exhortation)
by him a year after the gathering.
Although the synods have many positive aspects ? not least in bringing the voice
of the local Church into the heart of Rome ? participants have often complained
that it is unwieldy and over-controlled. As far back as 2004, for example, Cardinal
Schonborn of Vienna was calling for “a rethinking” of its functions to allow “more
plenary discussion, more consultation on issues developing an atmosphere of a
real debate, a real exchange, and to be liberated a little bit from that narrow
framework that has developed in the last decades.”
Francis’ call for collegiality and synodality
Francis is the first Pope to have been president of a national body of bishops
? he was twice elected head of the Argentine bishops’ conference ? and the first
pope to be involved in a supra-national bishops’ body: he chaired the drafting
of the concluding document at CELAM’s last gathering, at Aparecida, Brazil, in
2007. He is also the first pope to have experience in chairing a synod. In September
2001, the then Cardinal Bergoglio was named relator of the Synod of Bishops meeting
in Rome, to replace Cardinal Egan of New York who had to hurry back to his city
following the attack on the Twin Towers.
It was Cardinal Bergoglio’s outstanding performance in these ‘collegial’ roles
that brought him to the attention of the world Church, and helped to persuade
his fellow cardinals to elect him in the conclave in March.
In his first public words as Pope, Francis referred to himself as “Bishop of Rome”
(“You know the work of the conclave is to give a bishop to Rome”) before adding:
”I thank you for this welcome by the diocesan community of Rome to its bishop.”
He went on to speak of the Church of Rome (and himself as its Bishop) as [leading]
all the churches in charity, a journey of fraternity, of love, of trust among
us”. To those aware of the debates over collegiality in the modern Church, the
words were immediately recognisable; for in the collegial formula, the Church
of Rome “presides” over the local Church “in love.”
The message could not have been clearer. The Pope intends to govern in a collegial
fashion. On the one hand, this means the Pope exercising his authority in a more
circumspect fashion; on the other, it means taking concrete steps to increase
the voice of the local Churches in the governance of the universal Church.
Examples so far of Francis’s collegial approach
There are two obvious examples of the first. Pope Francis, in contrast to John
Paul II and Benedict XVI, has from the very beginning been reluctant to use other
languages in his weekly Wednesday addresses. Although some saw this as a sign
that he is not at ease in tongues other than Spanish and Italian, it has become
clearer that sticking to Italian when in Rome reinforces this idea of himself
as Bishop of Rome rather than a universal monarch. And everything else Pope Francis
has done to shed the trappings of the Counter-Reformation model of papacy ? his
much-commented-on preference for simplicity and humility in dress and transport
? is designed to make clear this idea of himself as Bishop of Rome presiding in
charity over but always with the other bishops, a primus inter pares.
The second indication is his refusal to wade in on issues such as same-sex marriage
following the legalisation of these in the UK and France. It is wrong to assume,
as some have, that his silence on these indicates he cares less about them than
his predecessors; instead, it reflects his ecclesiological belief that such statements
should be made firstly and primarily by the local bishops. Rather than Rome issuing
documents which then need to be interpreted and implemented by the local Church,
Pope Francis would rather bishops make their own statements on such matters. Where
guidance is needed for the whole Church, this should come from gatherings of bishops
and cardinals in Rome ? examples, in other words, of synodality.
All the indications are that Francis intends to develop the concept of synodality,
meaning that various deliberative bodies might have an increased role in church
governance. So far he has taken a number of concrete steps in that direction,
such as appointing a council of cardinals from each of the continents to advise
him on church governance and curial reform and naming a group of lay people to
advise on the Vatican Bank. The council of cardinals, he has indicated, may well
be replaced in future years by a council elected by the Synod.
Strengthening the Synod
In mid-June, when he met with bishops planning the next meeting of the Synod of
Bishops, he spoke of strengthening the Synod’s role.
The Synod of Bishops “has been one of the fruits of the Second Vatican Council,”
he said. “Thanks to God that, in these almost fifty years, we have been able to
feel the benefits of this institution that, in a permanent way, is at the service
of the Church’s mission and communion as an expression of collegiality.”
He said the Synod ”has to take a new path that expresses its uniqueness when united
with the Petrine ministry,” adding: “This is a big challenge.” He said there needs
to be greater reflection on “the church, the mother church, with all its nuances,
including that of synodality.” And he said that one of the challenges of the cardinals’
council will be to “find a path for coordination between synodality and the bishop
of Rome.”
Other statements by Pope Francis (Among other important statements made by Pope
Francis:)
On the Feast of St Peter and Paul (30 June), when Pope Francis imposed the pallium
on 34 new archbishops, he said: “We need to develop the Synod of Bishops in harmony
with the primacy and grow in synodality, in harmony with the primacy.” The ceremony
was attended by Orthodox bishops; speaking to them, Francis referred to “episcopal
collegiality, and the tradition of synodality, so typical of the Orthodox churches.”
(The comment is striking because the monarchical papacy has been a major sticking-point
with the Orthodox Churches, where Synods play a key role in governance.)
・ In his address to CELAM delegates in Rio de Janeiro, Francis said: “There is
need, for a greater appreciation of local and regional elements. Central bureaucracy
is not sufficient; there is also a need for increased collegiality and solidarity.”
What is needed is “not unanimity, but true unity in the richness of diversity.”
・ In his interview aboard the papal plane, Francis referred to “the maturing of
the relationship between synodality and primacy”, noting that his council of cardinals
“will favour synodality, they will help the various episcopates of the world to
express themselves in the very government of the Church.” He also suggested that
there had been many proposals for future reforms, such as “the reform of the Secretariat
of the Synod and its methodology” and “the Post-Synodal commission, which would
have a permanent consultative character” and “the consistories of Cardinals with
less formal agendas ? canonisation, for example, but also other items”. This last
idea refers to the regular gatherings of cardinals in Rome. Consistories, held
every three or four years, are usually called only for the purpose of appointing
cardinals. Francis is suggesting they could become a part of the governance of
the universal Church ? agreeing on who, for example, is to be made a saint.
What this points to
There is no doubt that what is coming down the pipeline will have a tremendous
impact on the Church. Greater synodality and collegiality will increase the participation
of the local Church in the decisions of the universal Church, but it won’t subject
those decisions to votes (as, for example, in the Anglican model of synodal government).
And while the reforms aim to overcome the distance between Rome and the bishops’
conferences ? the latter have often complained that the Vatican is often out of
touch with the reality on the ground ? that doesn’t automatically mean more teaching
will be done locally rather than from Rome. In fact, it might increase what comes
out of Rome ? while ensuring that what does is the result of deliberation by representatives
of the local Church. That is why the terms ‘democratisation’ or ‘decentralisation’
fail to capture the meaning of these shifts.
What is at stake here is a rebalancing act ? an attempt to recover something of
what has been lost: the balancing-act between Peter and the other apostles in
the governance of the Church. It is reform, certainly; and some of it will be
radical. But it is not designed to modernise the Church or make it more like the
modern world, but to bring it closer to what Jesus intended it to be. And that
is the only reason for needing to carry it out.