洗礼による変化

主の洗礼についての黙想  トマス・ロシカ師   2009/1/11

 

2009/1/7 ( Zenit.org ).- 降誕祭が来て、去り、マギたちも別の道を通って、はるか彼方の故郷に帰りました。 きょうの「主の洗礼」の祭日で、降誕節は終わるように思われます。 しかし、実際に、クリスマスの季節を締めくくるのは、 2 2 日の「主の奉献」の祭日です。 とはいえ、キリスト降誕祭の中で体験したものを、ここで厳しく自問するのも良いでしょう。

 

降誕祭の大きな悲劇は、それがどれほど愛らしく輝いても、多くの人々にとっては一晩限りの宗教的行事で終わることです。 イエスの受肉は、単なる感傷的、伝統的、文化的な祝日に過ぎなくなっています。 しかし、イエスは流れ星ではありません。 飼葉桶の前に来て、そこで立ち止まるだけでは充分ではありません。 そこからわたしたちは、向きを変えねばなりません。 そして、飼葉桶におられる方が象徴するものを受止め、その意味するものを生き始めるのです。 新たな方向を選びとり、古い方法やこだわりに挑戦し、何かが変わったという意識を持って、人生の旅を続けるのです。 一人の人が、わたしたちの生き方を大きく変え、文字通りに歴史を変えてきたのです。

 

キリストの公現( イエスが この世で神の使命に就くこと)のテーマは、今日の主の洗礼の祭日の中で実現されます。 主の公現の夜の美しい祈り 「三つの神秘がこの聖なる日を印す。 この日、星は幼きイエスへとマギたちを導き、この日、水は婚礼のためのぶどう酒と変えられる。 この日、キリストは、わたしたちに救いをもたらすためにヨルダン川の中でヨハネによってバプテスマを受けられる。」

それぞれの出来事は、神の顕現と、神の介入の驚くべき証しを伴います。 星、ぶどう酒に変わる水、天の声、そして鳩。 今日、わたしたちは、主のバプテスマを証しします。 その方こそ、わたしたちにバプテスマを授ける方です。

 

今日の福音の中で、洗礼者ヨハネの出現は、わたしたちを待降節に呼び戻すように見えます・・・洗礼者とイエスの証を注意深く見つめて、そして自分の生活と将来への決意をするために。 イエスの洗礼についてのマルコの記述は、聖典の中にある最も古い記事です。 洗礼者の説教は、荒々しく、魅力があります。 彼の始まりの言葉は自分への注目を削ぎ、人々の注意を、「わたしより力に満ちた方」、次に来られる方に向けさせます。 ヨハネの使命の全ては、メシアの到来の準備にありました。 時が満ちて、ヨハネが自分の弟子たちをイエスに導き、メシア、真の光、世の罪を除く神の子羊を彼らに指し示しました。

 

イエスは、ヨハネに引き寄せられ、洗礼を受けることを承諾されました。 なぜなら、イエスは人間としての状態を完全に受け入れられたからです(人間の姿になりきられたからです)。 イエスは、罪を浄められるようとするわたしたちのあがきや必要を感じとられました。 ヨハネによる、ヨルダン川での洗礼を通して、イエスは、わたしたちが人間としての状態を受け入れ、御旨に従って神と結ばれる可能性を開いたのです。 わたしたちは、キリストの死と復活の内でバプテスマを受けます。 天は、秘跡を通して、わたしたちの上に開きます。 わたしたちが、自分のバプテスマの現実の中でイエスと強く結ばれるほど、天はますますわたしたちの上に大きく開けるのです。

 

わたしがローマで学んでいたとき、主の洗礼の祭日にとてもふさわしい、初期教会の物語に出会いました。 三世紀の頃、カルタゴのキプロリアヌスは彼の友人ドナトゥスにこう書き送りました。

「ドナトゥス、われわれが暮らしているこの世は悪い世だ。 しかし、その最中にあって、静謐さと清らかさを保っているグループを見つけた。 その人たちは、我々の罪深い生活の楽しみよりも、数千倍も大きな喜びにあふれる幸福を見出した人々だ。 この人たちは、侮蔑され、迫害を受けている。  しかし、彼らは気にしない。 ドナトゥス、それはキリスト教徒だ。 そして、わたしも彼らの仲間なのだ。」

 

ヨルダン川でのイエスの洗礼を思い起こすように、わたしたちは、恐れずに、キプリアヌスの言葉を繰り返しましょう ; 「わたしたちも、その一員なのです」と。 わたしたち自身の洗礼は、過去を感謝の心で思い起し、将来を希望を以って受け入れ、今のこの瞬間を感嘆と畏敬の念で過すように招いています。 ミサの度に、わたしたちは、豊かに繰り広げられる主の宴会に招かれます。 ミサにおける分かち合いは、洗礼の水を通してキリストの命に浸るわたしたち兄弟姉妹を結び合わせます。 

さあ、自分の洗礼の恵みが、他の人々と世の光となりますように。 そして、自分の生き方を変える力と勇気を与えられますように、祈りましょう。

 

バシル会のトマス・ロシカ神父は、カナダの「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の

最高責任者。 メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org

 

 

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The Baptismal Difference Biblical Reflection for the Baptism of the Lord

By Father Thomas Rosica, CSB


TORONTO, JAN. 7, 2008 ( Zenit.org ).- Christmas has come and gone, and the Magi are now off on the distant horizon, having returned to their native lands by another road. The feast of the Baptism of the Lord seemingly brings an end to the Christmas season, although, in reality, it is the feast of the Presentation of the Lord on Feb. 2 that marks the great conclusion of the Christmas season. Nonetheless, it is useful to ask ourselves some hard questions today of what we have just experienced in the Nativity celebrations.


A great tragedy of Christmas is that for many, it is a religion of one night, however lovely and shining it may be. The Incarnation of Jesus is reduced to mere sentimentality, tradition or a cultural feast. But Jesus is not a meteor. It is not enough to come to the manger and get stuck there; we must turn from it. And then, accepting what the occupant of the manger means, we must begin to live out that meaning, choosing what may be new directions, challenging previous ways and assumptions, continuing the journey of our life with the knowledge that something has changed. One person has made a huge difference in our life and has literally changed history.

The theme of Christ's epiphany -- of Jesus inaugurating his divine mission on earth -- reaches its fulfillment in today's feast of the Baptism of the Lord. The beautiful text from Evening Prayer on the feast of the Epiphany reads:

 

"Three mysteries mark this holy day: today the star leads the Magi to the infant Christ; today water is changed into wine for the wedding feast; today Christ wills to be baptized by John in the river Jordan to bring us salvation." Each event is accompanied by a theophany, by startling evidence of divine intervention: the star, the water into wine, the voice from heaven and the dove. Today we witness the baptism of the Lord, the one into whom we ourselves are baptized.

 

In today's Gospel, the appearance of John the Baptist seems to send us back to Advent...to look carefully at the evidence of the Baptizer and of Jesus, and to make some decisions about our lives and our future. Mark's account of the Baptism of Jesus is the earliest account we have in the Scriptures. The Baptizer's preaching is both abrasive and attractive. His very opening statement detracts the attention from himself and places it on the one who is coming, the "one mightier than I" [v. 7]. John's whole mission was a preparation for the Messiah's coming. When the time had come, John led his own disciples to Jesus and indicated to them the Messiah, the True Light, and the Lamb of God who takes away the sins of the world.

 

Jesus was attracted to John and he accepted to be baptized because he identified totally with the human condition. He felt our struggle and our need to be washed from the guilt of our sins. Through his own baptism by John in the waters of the Jordan , Jesus opens the possibility to us of accepting our human condition and of connecting with God the way we were intended to. We are baptized into Christ's death and resurrection. Heaven opens above us in the sacrament. The more we live in contact with Jesus in the reality of our baptism, the more heaven will open above us.

 

While I was studying in Rome , I came across a story from the early Church that is very fitting for us on the feast of the Baptism of the Lord. During the third century, Cyprian of Carthage wrote to his friend Donatus: "It's a bad world, Donatus, in which we live. But right in the middle of it I have discovered a quiet and holy group of people. They are people who have found a happiness that is a thousand times more joyful than all the pleasures of our sinful lives. These people are despised and persecuted, but it doesn't matter to them. They are Christians, Donatus, and I am one of them."

 

As we remember Jesus' baptism in the Jordan , let us echo Cyprian's words without fear: "We too are one of them." Our own baptism invites us to recall the past with gratitude, to accept the future with hope and the present moment with wonder and awe. Each time we celebrate the Eucharist, we are invited to the banquet of the Lord, so lavishly spread out before us. Our sharing in the Eucharist bonds us together with our brothers and sisters who have been immersed into the life of Christ through the waters of baptism. Let us pray that the grace of our own baptism will help us to be light to others and to the world, and give us the strength and courage to make a difference.

 

 

Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org .

 

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朗読

 

イザヤ 55:1-11; 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。 見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

1 John 5:1-9; ( 愛する皆さん ,) イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、 “ 霊 ” はこのことを証しする方です。 “ 霊 ” は真理だからです。 証しするのは三者で、 “ 霊 ” と水と血です。この三者は一致しています。 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

 

マルコ 1:7-11: ( そのとき、洗礼者ヨハネは )  こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて “ 霊 ” が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

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