国々の民はあなたの光の下に来る
主の公現 2009/1/4 トマス・ロシカ 師の福音コメンタリー
主の公現の典礼の朗読は、たいへん「心を揺すぶる」内容です! イザヤの預言 (60:1-6) からその光景を想像してみましょう。 異邦人は遠くから、エルサレムの輝きに惹かれて、贈り物を携え、息子や娘たちを連れて聖なる都にやって来る! 人々は暗闇に包まれていたが、主の栄光が、輝き出で、新しい夜明けのように輝く。 これは、クリスマスにわたしたちが祝ったものを表すのに何とふさわしい方法ではありませんか!
マタイ福音書( 2:1-12 )の東方の3博士の物語は、キリストにおける神の顕現が暗示する避けられない戦いのことを教えてくれます。 この物語を注意深く読むならば、それは子供向けの話ではなく、悲劇的な大人の物語であることに気づくでしょう。 戦線が敷かれ、軍勢は整列しています。 一人の赤子が生まれ、同時にそれは死をもたらす力が支配する時でもあります。 イエスは、ヘロデとエルサレムの住民にとって脅威でした。 ヘロデの王座にとって、また他の人々の宗教的な支配にとって脅威でした。
遠く、異国に在って、マギ(占星術の学者たち:東方の3博士)たちは、何不自由ない豊かな生活をしていましたが、何かが足りないと感じていました。 彼らは落ち着かず、心は満ち足りませんでした。
彼らは、自分たちのビジョンが約束する実体を見つけるのに、どのようなリスクも冒そうと決めました。 貧しい羊飼いたちと違い、マギたちは長い道のりを旅しなければならず、目的地に着くまでに難儀にも遭うことになりました。 羊飼いたちも、難儀を知っていました。 そして、それは天使のメッセージを受け入れる準備となりました。 ひとたびこの恐怖を克服したとき、彼らは、御子キリストに会うために「まっすぐにベツレヘム」を目指したのです。
他方、マギたちにとって、ベツレヘムへの旅路はもっと困難なものでした。 それは、わたしたちが思い描く馬小屋の光景のような、空想的で感傷的な聖地詣での様子とは全く違うものでした! マギたちは、単なる聖なる幻を見る人や奇抜な宗教家ではなく、真の平和をもたらす人を探し出すために、自分の財産、時間、そしてたぶん命さえも、賭けてもよいとした人々でした。
マギたちは、エルサレムに着いたとき、全く道に迷っていた訳ではありません。エルサレムは彼らの巡礼旅行を妨げませんでした。 事実、彼らはエルサレムで、ベツレヘムに行くように再び指示されました。 あらゆる意味での外国人である、これら東方の人たちは、自分の知恵や星の導きによるばかりでなく、現在は旧約聖書と呼ばれる、ヘブライ語の聖典の助けを借りました。
このことは重要な意味を持っています。 ―― キリストは、全ての国の人々を、ユダヤ人も異邦人も、自分に従うように呼びかけます。 エルサレムと旧約聖書とは、この異邦の巡礼者たちにとって、イエスにおける信仰への旅路の新しい出発点と言えるでしょう。 大都市エルサレムの人々も、実にヘロデ自身さえも、マギたちをキリストに導く道具だったのです。
このことは、今日、真理を求めて巡礼を続けるわたしたちにとって、何を意味するのでしょうか? 旧約聖書がキリストへの道の中核であるというのは明らかな事実ですが、このこと以上に、わたしたちが住む「都会」も、その混沌と曖昧さを抱えたままで、わたしたちの真理への巡礼の出発点となること意味していないでしょうか?
驚くほどのコントラストを示すこの福音の物語全体の中心に、一人の幼子、ベツレヘムのイエス、喜びの御子が横たわっています。 ヘロデは、この「全ての人々の偉大な喜び」を恐れるのです。 マタイ福音書からは、マギたちが自分たちの国に帰ったとき何が起きたのかを知ることは出来ませんが、彼らが別の人間に変わったことは確かでしょう。 彼らが、エルサレムで、そしてベツレヘムで見出したもの : この国とか、あの国とかの神、もしくは、遠い場所で語られる神託などは、もはや無いこと。 そして全ての人間のために、肉となり血となった救い主である神を見出したのです。
そして、この救い主は、喜びの存在です。
結局、マギたちは彼ら自身の道を進み、疑いへの誘惑を退け、この大きな喜びの驚きに身を任せたので、彼らが自分を託した星が、再び現れたのでした。 これは、イエスが生まれた時代ばかりではなく、現在のわたしたちの時代にもかかわる記述です。 深い悲しみ、冷淡、絶望、無関心、無意味さの最中に、永続する喜びを見出したとき、わたしたちが為すべきことは、ひざまずいて、あがめることしかありません。
ガスパール、メルキオール、 バルタザール(東方の三博士)、どうか、わたしたちの心と家庭をあなたの平和と謙遜を以って祝福してください!
死と、恐れと、疑いという古き支配者たちの声を聞くとき、どうか、自分の道を歩む勇気を持つことが出来ますように・・・喜びを以って! それは、主が来られる栄光を、わたしたちも見、体験しているからです。
わたしは、クリスマスの神秘を美しく書いた、カルメル会の十字架の聖テレサ・ベネディクタ(イーデス・シュタイン)の言葉を以って結びます。
「飼葉桶のまわりにひざまずく人々は、光の姿です : いたいけな、無垢の子供たち、信頼する羊飼いたち、謙虚な王たち、熱心な弟子、ステファノ、そして愛の使徒ヨハネ、主の召命に従った全ての人々。 これらの人々と対照的なのは、理解を超える頑迷さと無知の闇です : 律法学者たちは、救い主がいつ、どこで生まれるかを知っていますが、しかし、「さあ、ベツレヘムに行こう」という結論には達しません。 この命の主を殺そうとするヘロデ王。 飼葉桶の御子の前で、道はいくつにも分かれます。」
「ある者はいのちへの道を選び、他の者は、死の道を選ぶことになります。 今日、わたしたちが、新しく生まれた王、主の飼葉桶から去るとき、クリスマスの中心であり喜びである、いのちの源(みなもと)に、わたしたち自身を委ねましょう。」
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Biblical Reflection for the Feast of the Epiphany Father Thomas Rosica, CSB
Nations Will Come to Your Light
TORONTO, JAN. 1, 2009 (Zenit.org).- What "stirring" readings we hear in the Epiphany liturgy! Consider the scene from Isaiah's prophecy (60:1-6). Gentiles come from distant places, attracted by the splendor of Jerusalem , bringing gifts and tenderly carrying the sons and daughters of the Holy City ! Though darkness may have surrounded the people, the glory of the Lord allows the light to burst forth and shine like a bright new dawn. What a fitting way to describe what we have just celebrated at Christmas!
Matthew's Gospel story of the magi [2:1-12] reveals to us the inevitable struggle that God's manifestation in Christ implies for the world. If we read the story carefully, we realize that far from being a children's tale, it is a tragic adult story. The battle lines are drawn and the forces are being marshaled. A child is born at the same time as a death-dealing power rules. Jesus was a threat to Herod and to them: to the throne of one, to the religious empire of the others.
At home in their distant, foreign lands, the magi had all the comfort of princely living, but something was missing -- they were restless and unsatisfied.
They were willing to risk everything to find the reality their vision promised. Unlike the poor shepherds, the magi had to travel a long road; they had to face adversity to reach their goal. The shepherds also knew adversity, and it had prepared them to accept the angels' message. But once they overcame their fright, they simply "crossed over to Bethlehem " to meet the Christ Child. The magi, on the other hand, had a much more difficult journey to Bethlehem . It was anything but a romantic, sentimental pilgrimage that we often see in our manger scenes! The magi were not just holy visionaries or whimsical religious figures; they were willing to wager their money, their time and their energy, and perhaps even their lives to seek out someone who would bring true peace.
The magi were not completely lost upon their arrival in Jerusalem -- the city did not stop their pilgrimage. In fact, in Jerusalem , they were redirected to Bethlehem . These men of the East, foreigners in every sense of the word, were guided not only by their own wisdom and knowledge of the stars, but were aided by the Hebrew Scriptures that now form the Old Testament. The meaning of this is important -- Christ calls all peoples of all nations, Gentiles as well as Jews, to follow him. We could say that Jerusalem and the Old Testament serve as a new starting point for these Gentile pilgrims on their road to faith in Jesus. The people of the big city, indeed even Herod himself, were instrumental in leading the magi to Christ.
What could this mean for our own pilgrimages to the truth today? More than the obvious fact that the Old Testament must be a central part of our path to Christ, might it not also mean that our own cities, with all of their confusion and ambiguity, might also serve as a starting point for our journey of faith?
At the center of this whole Gospel story of striking contrasts lies a Baby, Jesus of Bethlehem, who is joy. Herod is afraid of this "great joy for all the people “ . From Matthew's Gospel, we do not know what happened to the magi when they returned to their native lands, but we can be sure that they were changed men. They discovered in Jerusalem and in Bethlehem that there is no longer a God of this or that country, nor an oracle uttered in some distant place, but a God and Savior who has become flesh and blood for of all humanity.
And the Savior is joy.
In the end, the magi went their own way, and because they refused to be seduced by cynicism, because they allowed themselves to be surprised by this great joy, the star to which they had committed themselves appeared again. This is not only the description of the times into which Jesus was born, but also our times. When we have found our lasting joy in the midst of the encircling gloom, cynicism, despair, indifference and meaninglessness, the only thing to do is to kneel and adore.
Gaspar, Melchior and Balthasar, bless our hearts and our homes with your peace and humility!
When we hear the voices of old kings of death and fear and cynicism, may we have the courage to go our own way ... rejoicing, because we, too, have seen and experienced the glory of the coming of the Lord.
I conclude with the words of St. Teresa Benedicta of the Cross (Edith Stein), that great Carmelite mystic and lover of the cross, who wrote so beautifully about the Christmas mysteries:
"Those kneeling around the crib are figures of light: the tender innocent children, the trustful shepherds, the humble kings, Stephen, the enthusiastic disciple, and John the apostle of love, all those who have followed the call of the Lord. They are opposed by the night of incomprehensible obstinacy and blindness: the scribes, who know indeed when and where the Savior of the world is to be born, but who will not draw the conclusion: "Let us go to Bethlehem ." King Herod, who would kill the Lord of Life. Ways part before the Child in the manger ...
" Some will choose the path of life, others will choose the path of death. Today as we move away from the manger of our newborn King and Lord, let us recommit ourselves to the cause of life that is the heart and the joy of Christmas. “
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* Edith Stein (October 12, 1891 ? August 9, 1942) was a German-Jewish philosopher, a Carmelite nun, martyr, and saint of the Catholic Church, who died at Auschwitz. In 1942, she converted to Christianity, was baptized into the Roman Catholic Church and was received into the Discalced Carmelite Order in 1934. She was canonized as Saint Teresa Benedicta of the Cross (her Carmelite monastic name) by Pope John Paul II in 1998; however, she is still often referred to, and churches named for her as, "Saint Edith Stein".
Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org.
朗読 :
イザヤ 60:1-6; ( エルサレムよ、 ) 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
エフェソ 3:2-3a, 5-6 ; (皆さん)あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
マタイ 2:1-12 : イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
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