真福八端 : 聖性の青写真
諸聖人聖書黙想 2009/11/1 トマス・ロシカ師
諸聖人の祝日に当たり、 2008 年の「神の言葉」のシノドス司教会議で、列聖省長官 アンジェロ・アマト 大司教(サレジオ会)が話された言葉が、わたしの心の内に響いています。
「イエスは言います: 『わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。』
( マタイ 11 : 29).
2000 年以上もの間、男も女も、老いも若きも、賢い人も無知な人も、東の人も西の人も、主なるイエスの教えを学んできました。そしてそれは、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 ( マタイ 5:48) という、心の内に響く崇高な掟をもたらしました。
彼らが学ぶ書棚は、イエスの生き方と言葉で占められています。・・・心の貧しい人々は、幸いである。悲しむ人々は、幸いである。柔和な人々は、幸いである。義に飢え渇く人々は、幸いである。憐れみ深い人々は、幸いである。心の清い人々は、幸いである。平和を実現する人々は、幸いである。義のために迫害される人々は、幸いである。
聖人たちは、この真福八端が福音のエッセンスであり、またキリストご自身の姿を表していると考えて、それに倣う者となりました。」
新しいレシピ:
山上の垂訓の中の真福八端 ( マタイ 5:1-12) は、並外れた聖性のレシピです。真福八端の山は海面から数十フィートの高さしか無いにも関わらず、これまで、しばしば語られてきたように、それは地球上で最も高い峯です!
このガリラヤの聖なる山で、イエスは、キリストの聖性を表現する新しい掟を宣言されたのです。
その掟は、抽象的な行動規範ではありません。イエスは霊において貧しく、従順で、迫害され、平和をもたらす方です。イエスは「聖性の典範」です。それは心に刻まれ、聖霊の働きを通して識別されるべきものです。イエスの受難と死は、その聖性を表す冠です。
聖性は一つの生き方であり、コミットメントと行動を伴います。それは受け身の努力ではなく、むしろ、日々神との関係を深め、その関係がこの世でのすべての行動の指針となるための継続的な努力です。聖性に近づくためには、心の持ち方や態度を根本的に変えなければなりません。
イエスを見つめることによって、心が貧しいこと、柔和で憐れみ深いこと、さらには、悲しむこと、正義を心にとめること、心を清く保つこと、平和を築くこと、迫害されること・・・それらの意味を覚るのです。それこそ、イエスが、「来て、わたしに従いなさい」という権利を持っておられる理由です。イエスは、単に「わたしの言う通りにしなさい。」とは言いません。「来て。わたしに従いなさい。」と言います。
再評価すること:
聖人と福者は、わたしたちの生きる道、喜びや苦しみの旅路を共に歩む仲間です。彼ら(男女)は、自分の生涯に新しいページを書き入れ、また多くの人々の生涯にも新しいページを加えた人々です。これは教皇ヨハネ・パウロ 2 世の、「聖性は少数の人間だけの賜物ではない」という、人間性へのメッセージの核心となるものです。
わたしたちはそれを強く望むことができます。なぜなら、それは私たちの力で到達できる目標だからです。・・・第二バチカン公会議で再確認された偉大な「学び」と、普遍的な聖性への召命です。
( 「教会憲章」 ).
全教会にとって、今日の諸聖人の祝日は、神の僕ヨハネ・パウロ 2 世が、聖人と福者に対するわたしたちの見方を変えたやり方を再評価する、すばらしい機会です。ヨハネ・パウロ 2 世は、 27 年間の在職中に 1,338 人を列福し、 482 人を列聖しました。
このポーランド人の教皇は、今日の世界で若者の前に現れる男女のヒーローたちが、恐ろしく不完全な人々であることを思い出させました。わたしたちにとって彼らは空しい存在です。
彼の教皇職における、真の「スター」は、英雄として認められようとか、衝撃的、刺激的であろうなどと努めなかった、聖人と福者たちです。
偉大さを信じることは可能ですが、そのためには、見倣うべき成功例の模範が必要です。信仰と美徳の証しとなり、模範となる真の英雄(男女)が是非とも必要です。スポーツ、映画、科学、音楽の世界からは、そのような模範は生まれません。
原理的中心に立つ
多くの人々は、聖人とはごく少数の人に限られた特権だと考えます。
実際には、聖人になることは全てのクリスチャンの務めです。さらに言えば、それは人間一人ひとりの務めなのです! わたしたちは兎角、聖人とは、教会が信者の模範にするために持ち上げている「特殊な人々」に過ぎない、とか、わたしたちとは縁のない、人間生活の手触りを欠いた人々だ、などと考えていないでしょうか?
聖人とされる男女が皆、文字通り「特殊な人々」であることは、確かな事実です。彼らは中心から外れた存在で、普段の生活も、日常的な振る舞いも、常識的な基準も(中心から)外れていました。
その聖人たちを別の視点から見れば、彼らは(キリスト教の)「原理的な中心」に立っていたのだ、と言えるでしょう。
新しい千年期の聖人たち:
ヨハネ・パウロ 2 世は、青年たちに度々、聖性への招きと、聖人への召命について語りました。
2000 年のワールド・ユース・デイ、ローマ大会のメッセージの中では、世界中の「親しい若い友だち」に向けて述べています。それは、大記念祭の盛り上がりを結集する叫びとなった忘れがたい言葉でした。
「全ての大陸の若者の皆さん、新しい千年期の聖人になることを恐れてはなりません! 黙想し、祈りを愛するように。あなたの信仰に留まり、兄弟姉妹に尽くし、教会の活動的メンバーとなり、平和を築く人になってください。
この困難な生命のプロジェクトを成功させるために、主のみ言葉に耳を傾け、秘跡、とりわけ聖体と赦しの秘跡から力を得てください。主は、あなた方が、福音のために恐れを知らぬ使徒、新しい人間性を築く人になるようにと望んでおられるのです。」
2 年後の 2002 年、カナダにおけるワールド・ユース・デイで、ヨハネ・パウロ 2 世は再び、「聖性と聖人」のテーマをメッセージに取り上げました。
「塩が食物に味を与え、光が暗闇を照らすように、聖性は、生きることの意味を明らかにし、神の栄光を反映します。」
「教会の歴史の中には、どれほど多くの若い聖人がいることでしょう! 神への愛において、彼らの英雄的な美徳が世界に輝きわたり、そのために、教会が全ての人々の模範として示す生き方のモデルとなりました。」
「偉大な証しの導き手の執り成しによって、わたしの親しい若者たちよ、神があなた方をも第三の千年期の聖人としてくださいますように。」
2002 年 7 月 28 日、トロントの中心街 Downsview Park で行われた、ワールド・ユース・デイのミサの終わりに、ヨハネ・パウロ 2 世は、人々を鼓舞するチャレンジを投げかけました。
「そして、もしあなたの心の奥底で、司祭への、あるいは同様の神にささげる生活への召命を感じるなら、キリストに従って十字架の王道を歩むことを恐れてはなりません。」
「教会生活で困難を覚えるときには、聖性の追求は焦眉の急となります。また、聖性は年齢の問題ではありません。それは、聖霊の中に生きるということです。すなわちここアメリカで Kateri Tekakwitha * (文末に注) がしたように、そして多くの若い人たちがしたように生きることです。
真の改革者:
ドイツのケルンで開かれた 2005 年のワールド・ユース・デイで、ベネディクト 16 世は、ヨハネ・パウロ 2 世の聖性への招きと崇拝の流れを受け継ぎました。 2005 年 8 月 18 日の開会式で、ベネディクト 16 世は、世界中から集まった若者たちに語りかけました。
「親愛なる若者たちよ、教会は新しい福音宣教のために真の証し人(びと)を必要としています。それは、イエスと出会って生活が一変した人たち(男性・女性)、そして、その体験を他者と分かち合える人たちのことです。教会には、聖人が必要です。
すべての人が聖性に呼ばれています。そして、聖性を持つ人だけが、人間性を刷新できるのです。福音の英雄がたどった小道に沿って、わたしたち以前に、多くの人々が通り過ぎて行きました。
あなたがたがいつもその人たちに目を向け、とりなしを祈り求めるよう勧めます。」
ベネディクト 16 世は、 マリエンフェルド での 2005 年 8 月 20 日の夕の祈りの中で、引き続きこのテーマについて語りました。
「それは大勢の偉大な聖人の群です。有名な聖人も無名の聖人も・・・主は、彼らの生き方の中に福音を示し、ページをめくられます。主はこれを、歴史を通してお示しになり、今日でもそのようになさっています。」
「彼らの生き方の中に、あたかも偉大な絵本のように、福音の豊かさが啓示されます。彼らは、光り輝く道です。それは神ご自身が歴史を通してたどり、今日もたどっておられる道なのです。」
ベネディクト 16 世は、ケルンのマリエンフェルドの祈りに集まった 100 万人を超える若者たちの大集会で、声を大にして語りました。「聖人たちは・・・真の改革者です。今わたしは、より徹底的な表現方法を用いたい: 聖人からのみ、神からのみ、真の革命はやって来る。それは世界を変える決定的な方法なのだ、と。」
核心にあって
教会が直面するあらゆる危機、そして世界が直面するあらゆる危機は、聖性の危機であり、聖人たちの危機です。聖性は欠くことのできないものです。それこそが教会の本当の顔であるからです。
聖人と福者の宣言の核心は、常に「希望」です。歴史の真っ暗闇の中にあってさえ、それは「希望」です。それはあたかも、これらの暗闇の時代にこそ、キリストの光が一層輝きを増すかのようです。
わたしたちは、そのような時代を生きており、主は今もなお、その聖性と神聖さの究極の形を求め続けているのです。
イエスとそのメッセージを信じる者は、イエスの生き方と真福八端に含まれるメッセージに惹きつけられ、魅せられるようでありたいものです。
今日、わたしたちは、自分自身の生き方と良心を確かめる鏡として真福八端を掲げねばなりません。「自分の心は貧しいだろうか? 謙遜で憐れみ深いだろうか? 心は清いだろうか? 平和を実現しているだろうか? 自分は「祝福」されているだろうか? 言い替えれば、自分は幸せだろうか?」と。
イエスは、ご自分が持っている物だけでなく、ご自分の存在をもお与えになります。イエスは聖なる方であり、わたしたちを聖なる者にして下さいます。
◇◇◇
* 注: 福者カテリ・テカクウィタ ( 1656~1680 )は、北米の原住民モホーク族の戦士の娘で、カトリック信者となったアルゴンキン部族の女性。現在の New York 州 Auriesville の近郊にあったモホークの Ossernenon 砦で生まれた。彼女が 4 歳のとき、天然痘が Ossernenon に流行り、カテリは、見苦しい疱瘡のあばたが顔に残り、視力が弱くなった。この伝染病の発生で、彼女は両親と弟を失い、 Turtle-clan (亀一族)の酋長である彼女の伯父の養女となった。酋長の養女として多くの戦士に結婚を言い寄られたが、彼女は母から教わったキリスト教にこの頃から興味をもつようになった。
1666 年に、フランスの Alexandre de Prouville が Ossernenon に攻め入り、 Ossernenon 砦を焼いた。カタリの亀一族は、そこでモホーク川の北側(現在の Fonda, New York. )に移り住んだ。その地に在って、 20 歳のとき、彼女は、イエズス会士の Jacques de Lamberville 師により洗礼を受けた。それは 1676 年 4 月 18 日の復活祭の日であった。その時、彼女は「カテリ(キャサリンのモホーク音)」という洗礼名を受けた。彼女の姓、テカクウィタは、「彼女はものごとを動かす」の意である。
彼女はキリスト教に熱心であったが、それを理解しない一族は、彼女を苦しめた。彼女は自分の信仰の証しとしてそれを受けとめた。彼女は聖性への路程として苦境を忍んだ。時々、とげを床のマットに撒いて、その上に座り、同族の男性たちの回心と赦しのために祈った。彼女は、親友のマリー・テレーゼ( Marie Therese )と告解の聴罪司祭がそれを止めるまで、続けていた。自分の一族から迫害を受け、命の危険さえあったので、彼女はケベックのカーナワケ( Kahnawake )にあるアメリカ原住民のクリスチャン共同体に逃げ込んだ。そこで彼女は、祈り、告解と、病者・老人の世話をする生活に入った。 1679 年に純潔の誓願を立て、1年後の 1680 年 4 月 17 日、カタリは 24 歳で亡くなった。最後の言葉は「イエスさま、あなたを愛します」であった。
彼女は、「モホークの白百合」、「純潔の、やさしい白百合」、「真の男性の間の公正な花」と呼ばれ、また「純潔の白百合」、「新世界の新しい星」と詠われた。 Lawrence G. Lovasik 師の著作「モホークのカタリ」によると、彼女の一族は、「赤い人(=アメリカ原住民)の間に咲いた最も公正な花」と呼んだそうである。
それを見た証人によると、カタリの疱瘡のあばたは彼女が死んだとき顔から消え、とても美しい顔になったという。彼女の葬儀に参列した中の病者の多くが、その日にいやされた、といわれている。彼女は、死後数週の間に、二人の人に現われた、といわれる。
彼女の列福の手続は 1884 年に始まった。彼女は 1943 年 1 月 3 日に教皇ピオ 12 聖によって尊者 (Venerable) と宣言される。 1980 年 6 月 22 日、ヨハネ・パウロ 2 世により列福され、以来、彼女は、ローマ・カトリック教会内で、福者カテリ・テカウィザと呼ばれる。彼女はアメリカ原住民最初の福者の名誉を得、北米原住民カトリックの間で特別の場をもつようになる。米国にある彼女の名前のついた 3 聖堂で、福者カテリのへの崇敬は少なくとも明らかであり、同様に、ケベックの聖アンナ聖堂の外には彼女の立像が置かれている。南カルフォルニアの San Juan Capistrano 大聖堂には他の聖人の像と共に高さ 10m 以上の彼女の像がある。 2008 年にはウィスコンシン州のグアダルペの聖マリア聖堂に彼女の祈る姿の像が設けられた。(訳注:ケベックの聖アンナ聖堂は、奇跡で知られるカナダ 3 聖堂の一つです。)
列聖の最終段階では、奇跡の証明が待たれ、米国では彼女の死後、相当期間を経て、カナダ・モントリオールおよび原住民の守護者と考えて、非公式ながら 7 月 14 日を福者カテリの祝日としている。彼女の死後 50 年を経て、原住民の女子修道院がメキシコに開設され、彼女の列聖のために祈りをささげている。彼女の名前をもつ教会はアメリカに7教会ある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kateri_Tekakwitha (翻訳グループ訳)
The Beatitudes: Blueprint for Holiness
Biblical Reflection for Solemnity of All Saints By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, OCT. 28, 2009 (Zenit.org).- The words of Salesian Archbishop Angelo Amato, prefect of the Congregation for Saints' Causes, spoken during last year's Synod of Bishops on the Word of God, still resound in my mind and heart today on the solemnity of All Saints:
"Jesus says: 'Learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls" (Matthew 11:29).
For more than 2,000 years, men and women, old and young, wise and ignorant, in the East as in the West, applied themselves to the school of the Lord Jesus, which caused this sublime commandment to echo in their hearts and minds: 'You must therefore be perfect, just as your heavenly Father is perfect' (Matthew 5:48).
"Their library was largely composed of the life and the words of Jesus: blessed are the poor, blessed are those who mourn, blessed are the gentle, blessed are those who hunger and thirst for uprightness, blessed are the merciful, blessed are the pure in heart, blessed are the peacemakers, blessed are those who are persecuted. The saints, understanding that the beatitudes are the essence of the Gospel and the portrait of Christ Himself, became their imitators."
A new recipe
The beatitudes in Christ's Sermon on the Mount (Matthew 5:1-12) are a recipe for extreme holiness. As has been pointed out by many others in the past, though the Mount of the Beatitudes is a few dozen feet above sea level, it is the really the highest peak on earth!
On this holy mountain in Galilee, Jesus proclaimed the new law that was expression of Christ's holiness.
They are not an abstract code of behavior. Jesus is the poor in spirit, the meek, the persecuted, the peacemaker. He is the new "code of holiness" that must be imprinted on hearts, and that must be contemplated through the action of the Holy Spirit.
His Passion and Death are the crowning of his holiness.
Holiness is a way of life that involves commitment and activity. It is not a passive endeavor, but rather a continuous choice to deepen one's relationship with God and to then allow this relationship to guide all of one's actions in the world. Holiness requires a radical change in mindset and attitude. The acceptance of the call to holiness places God as our final goal in every aspect of our lives.
Looking at Jesus, we see what it means to be poor in spirit, gentle and merciful, to mourn, to care for what is right, to be pure in heart, to make peace, to be persecuted. This is why he has the right to say to each of us, "Come, follow me!"
Jesus does not say simply, "Do what I say." He says, "Come, follow me!"
Taking stock
The saints and blesseds are travel companions along our journey, in joy and suffering. They are men and women who wrote a new page in their lives and in the lives of so many people. This was the core of Pope John Paul III's message to humanity: Holiness is not a gift reserved for a few.
We can all aspire to it, because it is a goal within our capacity -- a great lesson reaffirmed by the Second Vatican Council and its call to universal holiness ("Lumen Gentium").
Today's solemnity of All Saints is a wonderful opportunity for the whole Church to take stock once again of the way that the Servant of God, John Paul II, changed our way of viewing the saints and blessed. In nearly 27 years of his pontificate, John Paul II gave the Church 1,338 blessed and 482 saints.
The Polish Pontiff reminded us that the heroes and heroines the world offers to young people today are terribly flawed.
They leave us so empty. The real "stars" of his pontificate are the saints and blessed who did not try to be regarded as heroes, or to shock or provoke.
To believe greatness is attainable, we need successful role models to emulate. There is a desperate need for real heroes and heroines, models and witnesses of faith and virtue that the world of sports, cinema, science and music cannot provide.
Standing at the radical center
Many think that sainthood is a privilege reserved only for the chosen few.
Actually, to become a saint is the task of every Christian, and what's more, we could even say it's the task of everyone! How many times have we thought that the saints are merely "eccentrics" that the Church exalts for our imitation; people who were so unrepresentative of and out of touch with the human scene?
It is certainly true of all those men and women who were "eccentric" in its literal sense: they deviated from the center, from usual practice, the ordinary ways of doing things, the established methods. Another way of looking at the saints is that they stood at the "radical centre."
Saints of the new millennium
John Paul II spoke much to young people about the call to holiness and the vocation to be saints. In his message for World Youth Day 2000 in Rome, he wrote to his "dear young friends" throughout the world unforgettable words that became the rallying cry for the Jubilee's greatest celebration:
"Young people of every continent, do not be afraid to be the saints of the new millennium! Be contemplative, love prayer; be coherent with your faith and generous in the service of your brothers and sisters, be active members of the Church and builders of peace.
"To succeed in this demanding project of life, continue to listen to his word, draw strength from the sacraments, especially the Eucharist and penance. The Lord wants you to be intrepid apostles of his Gospel and builders of a new humanity."
Two years later for our World Youth Day 2002 in Canada, John Paul II took up once again the theme of holiness and saints in his message to us:
"Just as salt gives flavor to food and light illumines the darkness, so too holiness gives full meaning to life and makes it reflect God's glory.
"How many saints, especially young saints, can we count in the Church's history! In their love for God their heroic virtues shone before the world, and so they became models of life which the Church has held up for imitation by all. [...]
"Through the intercession of this great host of witnesses, may God make you too, dear young people, the saints of the third millennium!"
At the concluding World Youth Day Mass at Downsview Park in Toronto on July 28, 2002, John Paul II issued a stirring challenge:
"And if, in the depths of your hearts, you feel the same call to the priesthood or consecrated life, do not be afraid to follow Christ on the royal road of the Cross!
"At difficult moments in the Church's life, the pursuit of holiness becomes even more urgent. And holiness is not a question of age; it is a matter of living in the Holy Spirit, just as Kateri Tekakwitha did here in America and so many other young people have done."
True reformers
Benedict XVI continued the momentum of John Paul II's invitations and exhortations to holiness at World Youth Day 2005 in Cologne, Germany. At the opening ceremony on Aug. 18, 2005, Benedict XVI addressed the throng of young people from the entire world:
"Dear young people, the Church needs genuine witnesses for the new evangelization: men and women whose lives have been transformed by meeting with Jesus, men and women who are capable of communicating this experience to others. The Church needs saints.
"All are called to holiness, and holy people alone can renew humanity. Many have gone before us along this path of Gospel heroism, and I urge you to turn often to them to pray for their intercession."
Benedict XVI continued this theme at the great vigil on Saturday evening Aug. 20, 2005 at Marienfeld:
"It is the great multitude of the saints -- both known and unknown -- in whose lives the Lord has opened up the Gospel before us and turned over the pages; he has done this throughout history and he still does so today.
"In their lives, as if in a great picture book, the riches of the Gospel are revealed. They are the shining path which God himself has traced throughout history and is still tracing today."
Then Benedict XVI cried out in that great assembly of over one million young people gathered in prayer at Marienfeld in Cologne: "The saints [...] are the true reformers. Now I want to express this in an even more radical way: Only from the saints, only from God does true revolution come, the definitive way to change the world."
At the core
Every crisis that the Church faces, every crisis that the world faces, is a crisis of holiness and a crisis of saints. Holiness is crucial because it is the real face of the Church.
The core of the proclamation of the saints and blessed was always hope, even in the midst of the darkest moments of history. It's almost as if in those times of darkness the light of Christ shines ever more brightly. We are living through one of those times, and the Lord is still taking applications for his extreme form of holiness and sanctity.
Believers in Jesus and his message must allow themselves to be enticed and enchanted by his life and message contained in the beatitudes.
Today we must hold up the beatitudes as a mirror in which we examine our own lives and consciences. "Am I poor in spirit? Am I humble and merciful? Am I pure of heart? Do I bring peace? Am I 'blessed,' in other words, happy?"
Jesus not only gives us what he has, but also what he is. He is holy and makes us holy.
朗読
黙示録 7:2-4, 9-14:わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 7:3 こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 7:4 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
1ヨハネ 3:1-3; 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
マタイ 5:1-12:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
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