ヨセフにズームイン

聖家族の祭日の聖書の黙想  トマス・ロシカ師

 

トロント、 2008/12/25  −  

クリスマスの余韻の中で、教会は「聖家族」の祭日を迎えます。 わたしたちは、いのちの恵みと神秘、とりわけ、家族生活の祝福に思いをめぐらすように招かれています。 ルカ福音書の、エルサレムの神殿に御子を献げるために出かける場面の中に、イエスの新しい生活にかかわる4人の人物が登場します。 年老いた信仰あついシメオン、これも老齢の女預言者アンナ、そして敬虔に御子を主に献げるマリアとヨゼフの若夫婦です。 シメオンの美しい祈りは、古代イスラエルの祈りの究極の表現です。 「 ( シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 ) 『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。』」(ルカ 2:29-32) 

 

この奉献の光景、そしてシメオンの祈りに注意深く選ばれた言葉は、次のような幾つかの問い投げかけます。 わたしは自分の生活の中に神の栄光を見るだろうか? わたしは正義と平和に渇いているだろうか? 何が新しい状況だろうか、そして最近、わたしの生活に加わった新しい人々とはだれだろうか? わたしは他の人々にとってどのような光と救いになっているのだろうか?


今日、わたしは、新しい仕事であるテレビの手法を借りて、この奉献の感動的光景の登場人物の一人、ヨセフにズームインしたいと思います。 主イエスの養父に「ズームイン」することは、わたしたちの救い主の家族的背景に深い洞察を与えてくれます。 ヨセフは、キリストの栄光とマリアの純粋さの前にしばしば影が薄くなります。 しかし、ヨセフもまた、神の呼びかけを待ち、従順にそれに応えました。 ルカとマタイとは、共に、ヨセフが、イスラエルの最も偉大な王ダビデの末裔であることを記します。(マタイ 1 1-16 、ルカ 3 23-38)  聖書には、「夫ヨセフは正しい人であった」(マタイ 1:19 )と、ヨセフについての最も大切な理解が記されています。

 

ヨセフは、憐れみ深い、思いやりのある人でした。 婚約後に、マリアが懐胎したとき、その子が自分の子供でないことを知りましたが、マリアが神の子を宿したことには気づきませんでした。 彼は、律法に従って縁を切ろうと決心しましたが、マリアの苦しみと安全を気遣いました。 ヨセフは信仰の人で、神の求めには、その結果に関わらず、何事についても従順でした。 天使が夢の中でヨセフに現れ、マリアの宿した子についての真実を語ったとき、ヨセフはただちに、尋ねもせず、噂も恐れず、マリアを自分の妻に迎えました。 天使が再び来て、彼の家族が危機にあることを告げたとき、彼はただちに、自分の財産、家族、友人の全てをなげうって、若い妻と赤子を連れて見知らぬ国に逃げました。 ヨセフはエジプトで、天使が、帰国しても安全だと告げるまで待ちました。 ( マタイ 2 13-23)


ヨセフは、大工(建築業者)で、家族のために稼いで働く人であった、とわたしたちは教わりました。 ヨセフは金持ちではありませんでした。 というのは、イエスの割礼とマリアの清めのために神殿に連れて行くときに、子羊を献げることのできない貧しい人に許される、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるために」(ルカ 2:24 )ヨセフは出かけた、と書かれているからです。 ヨセフは、彼の人間性のうちに、言葉と行いで神の真理を公言する父親のユニークな役割を、謙虚に示したのです。 「イエスの養父」という矛盾した状況は、生物学上の親という以上に、父であることの真実へとわたしたちの注意を引きます。 人は、自分の子供の霊的、倫理的成長に力を尽くすときに最も父親的なのです。 そのときヨセフは、全ての父親が、そうあるべきように、父である神の代理として仕えることを鋭く意識していました。

 

ヨセフは、イエスとマリアを保護し、養いました。 彼は、イエスに名を付け、祈り方、働き方、男性としてのあり方を教えました。 ヨセフに帰せられる言葉や文章はないのですが、ヨセフが、彼がその息子を「イエス」と名付け、「エマヌエル」と呼んだとき、いつまでも語り継がれる最も大切な二つの言葉を公言したことは確かです。 「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」 ( ルカ 2:43-48)   そのときヨセフはマリアと共に非常に心配してイエスを探しました。 ヨセフの生涯は、家庭や共同体は権力や所有物ではなく、善性により築かれることを思い起こさせます。 それは、金銭や冨ではなく、信仰、誠実さ、純粋さ、互いの愛の上に築かれるのです。 父親であること、父権性への現在の課題は、わたしたちの生活する文化を離れて理解することは出来ません。 父親が、子供に対して父親らしくないことが、大きな警報を呼んでいます。 今日、どれだけ多くの若者が、父性および父としての義務の危機によって影響を受けていることでしょうか。 どれだけ多くの若者が、父親や祖父なしの生活になっていることでしょうか?

 

聖ヨセフが、普遍教会のパトロン(守護の聖人)であり、カナダの中心的なパトロンであることは、無意味なことではありません。 もしも、父親として、強く、聖人的な男性の模範を必要とする時代があるとするなら、それは今の時代です。 そして、聖家族の祭日は、ヨセフのもとへ行き、家族を導く良き父親を送ってくれるようにと願う大切な日です。 ヨセフとマリアとは、誰よりも先に、天の父のもとから来られた独り子の栄光を最初に見たお二人なのです。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」 ( ヨハネ 1:14)


聖ヨセフよ、どうか、わたしたちを良い司祭、修道者、信徒にしてくださいますように。 そして、ナザレの謙虚な働き手ヨセフに倣う者となりますように。 主の御声に耳を傾け、神から与えられた恵みを大切にし、御言葉が肉となって、わたしたちの間に宿られたイエスをいつも見習う者となりますように。

 

 

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Zooming in on Joseph

Biblical Reflection for the Feast of Holy Family Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO , DEC. 25, 2008 ( Zenit.org ).- In the afterglow of Christmas, the Church celebrates the feast of the Holy Family. This weekend we are invited to reflect on the gift and mystery of life and the blessing of family life in particular. In Luke's Gospel scene of the Presentation of the Child Jesus in the Temple in Jerusalem , we encounter four individuals who embrace the new life of Jesus held in their arms: the elderly and faithful Simeon, the old, wise prophetess Anna, and the young couple, Mary and Joseph, who in faithful obedience offer their child to the Lord. Simeon's beautiful prayer is nothing more than an anthology of the prayer of ancient Israel: “Master, now you are dismissing your servant in peace, according to your word; for my eyes have seen your salvation, which you have prepared in the presence of all peoples, a light for revelation to the Gentiles and for glory to your people Israel” (Luke 2:29-32).

The whole scene of the Presentation, and the carefully chosen words of Simeon's prayer raise several questions for us: How do I see God's glory in my life? Do I thirst for justice and peace? What are the new situations and who are the new people who have entered my life in the last little while? How am I light and salvation for other people?

 

Today I would like to borrow from my new profession of television production and zoom in on Joseph, one of the characters found in this most touching Gospel scene of the Presentation. To “zoom” in on the foster father of the Lord gives us some profound insights into the family background of our Savior. Joseph is often overshadowed by the glory of Christ and the purity of Mary. But he, too, waited for God to speak to him and then responded with obedience. Luke and Matthew both mark Joseph's descent from David, the greatest king of Israel (Matthew 1:1-16 and Luke 3:23-38). Scripture has left us with the most important knowledge about him: he was "a righteous man" (Matthew 1:18).

 

Joseph was a compassionate, caring man. When he discovered Mary was pregnant after they had been engaged, he knew the child was not his but was as yet unaware that she was carrying the Son of God. He planned to divorce Mary according to the law but he was concerned for her suffering and safety. Joseph was also a man of faith, obedient to whatever God asked of him without knowing the outcome. When the angel came to Joseph in a dream and told him the truth about the child Mary was carrying, Joseph immediately and without question or concern for gossip, took Mary as his wife. When the angel came again to tell him that his family was in danger, he immediately left everything he owned, all his family and friends, and fled to a strange country with his young wife and the baby. He waited in Egypt until the angel told him it was safe to go back (Matthew 2:13-23).

 

We are told that Joseph was a carpenter, (more likely a builder), a man who worked to provide for his family. Joseph wasn't a wealthy man, for when he took Jesus to the Temple to be circumcised and Mary to be purified he offered the sacrifice of two turtledoves or a pair of pigeons, allowed only for those who could not afford a lamb. Joseph revealed in his humanity the unique role of fathers to proclaim God's truth by word and deed. His paradoxical situation of "foster father to Jesus" draws attention to the truth about fatherhood, which is more than a mere fact of biological generation. A man is a father most when he invests himself in the spiritual and moral formation of his children. He was keenly aware, as every father should be, that he served as the representative of God the Father.

 

Joseph protected and provided for Jesus and Mary. He named Jesus, taught him how to pray, how to work, how to be a man. While no words or texts are attributed to him, we can be sure that Joseph pronounced two of the most important words that could ever be spoken when he named his son "Jesus" and called him "Emmanuel." When the child stayed behind in the Temple we are told Joseph (along with Mary) searched with great anxiety for three days for him (Luke 2:48). Joseph's life reminds us that a home or community is not built on power and possessions but goodness; not on riches and wealth, but on faith, fidelity, purity and mutual love. The present challenges to fatherhood and masculinity cannot be understood in isolation from the culture in which we live. The effect of fatherlessness on children is deeply alarming. How many young people today have been affected by the crisis of fatherhood and paternity! How many have been deprived of a father or grandfather in their life?

 

It is not for naught that St. Joseph is patron of the Universal Church and principal patron of Canada . If there was ever a time when we needed a strong, saintly male role model who is a father, it is our time. And the feast of the Holy Family is a very significant day to go to Joseph and beg him to send us good fathers who will head families. Joseph and Mary, more than anyone else, were the first to behold the glory of their One and Only who came from the Father, full of grace and truth (John 1:14).

May St. Joseph make of us good priests, religious and laymen who will imitate the humble worker from Nazareth, who listened to the Lord, treasured a gift that was not his, all the while modeling to Jesus how the Word becomes flesh and lives among us.

 

Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org .

 

 

Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada . He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org .

 

 


朗読:

 

創 15 : 1-6, 21:1-3 = 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付けた。

 

ヘブライ 11 : 8 、 11-12 、 17-19 =  信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

 

ルカ 2:22-40 :  モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが “ 霊 ” に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ―― あなた自身も剣で心を刺し貫かれます ―― 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

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