発題 「 13 章危機の時代のキリスト教倫理」 RESUME
この文章(ヘーリンク)が期待している読者は倫理神学者と教会指導者だとおもわれる。論理的に整理された論文ではない。この書物が書かれたのは 1997 年頃でヘーリングさんはその翌年に亡くなられている。自分が生涯を捧げた教会からの冷たい扱いをうけ、病の中、最期に残された力で書かれたのだと思われる。その意味では遺書と考えられる。 13 章は第一部「危機は何処に?倫理神学の新しい方向と古い秩序の復活」の最後の章である。
この13章は、「前書き」に続いて、「教会の指導者が反省すべき点が 6 項目」あげられ、最後に「希望の源泉」がのべられている構成になっている。簡単に要点と思われるところを記してみる:
「まえ書き」
マスメディアが世論操作をし、無神論が宗教批判を強めている。この危機の時代にあって、キリスト教倫理を語るには、聞き手の生活実態を良く知らなければならない。トリエント公会議の時代とことなり、一般信徒の神学知識も向上しているのだから現代では カテキズムも批判的に読まれるべき なのだ。
1) 教会を離れている人 の数が日常的に教会に来ている人の数をこえているが、その原因を単純に彼らが「悪に支配された・・」「世俗化されて・・」と説明するのはむりである。高位聖職者は彼らと謙虚に向き合わなくてはダメだ。
2) 無神論 も教会側の 不健全な教会構造 に起因しているかもしれない。高位聖職者の 誤った教義の説明 にもかかわっているかもしれない。 検証すべきである。
3) 教会に 賞罰主義 が持ち込まれ人々は神を疑うようになった。教会には 保守回帰の流れがある 。 前代未聞の権力行使 が続いており、神学者は保守回帰主義と対峙しなくてはならない。
4) 教会内でキリスト者は責任ある 大人 として扱われてこなかった。 教会の言いなりになっている体制順応者が世俗で大人として振る舞う事は期待できない 。
5) 教会は 疑問を持つ権利 を認めてこなかった、真理への愛と豊かな知識を求めるから疑問がわくのだ。真理は押しつけるものではなく、そこへ導くものである。今まで教えられてきた 倫理規範を学問的に疑ってみる ことは倫理神学者の務めである。
6) 手荒な統制や監視体制 が行われているが、敬虔な信者仲間や同僚との率直な話、神学者同士と議論を交わす。批判に感謝する心が必要だ。神学者がローマや司教から危険視され、制裁の脅しを受けるなら、自分の言動を控えることになる。
7) 以上のような危機的状況にかかわらず教会には希望がある、その希望の源泉は、恵みと癒しの解放をもたらす 非暴力の道徳 を持つ教会、 真理の賛美 に満たされた教会、主のみ聖なり、 主のみ王 なり、・・・・と歌う教会、思いと心とエネルギーの全てを尽くして 主の贖いの業を賛美する教会 であるから、(であるならば)、希望がある。主への賛美を捧げる共同体は決して悲しみや批判のうちにとどまらない。
以上 13 章の要点
さて、何を話し合えばよいのだろうか?
今回は議論や理論的な話しをしたくない。それぞれの参加者が自分の感想を話すのが良いような気がする。司会者にお任せします。
わたくしの感想 を少しだけのべておきたい;
残念ながらヘーリングさんのあげられた 希望の源泉 は 希望の条件 のようである。
教会は希望の条件が満たされているように外見には、見える。
主のみ聖なり、主のみ王なりと毎週高らかに歌っている、主の購いの賛美を捧げる儀式としてはそう見える。
しかし、この文章の 6 項目の反省点をみると、教会の指導者が秩序維持のために行使する権限の実態から賛美の歌が流れ出ているのだろうか、
自己検証がもとめられるということだろう。
“恵みと癒しの解放をもたらす非暴力の道徳”の実践がなされているのかどうか?
教会の執行機関のなかに “真理の賛美” がみちているのだろうか?と。
倫理神学 は公会議以降大きな変化の兆しが見える。
へーリングさんに続く神学者の語る倫理規範の中心にイエスキリストが顕現し め はじめていると感じますが、秩序制度としての教会のあり方に関しては、
ほとんど無力ではないか。
さて教会内では大人として扱われていない一般信仰者であるわれわれは、教会の制度あり方に対して、 何ができるのか?
制度的に何がゆるされているのだろうか?
不満を仲間内で愚痴って居るうちは、問題はないのだが、それをムーブメントにしたらどうなるのか。
信頼できそうな立場の神学者の資料をさがしてみた。
そのこたえが参考資料 「ドイツにおけるカトリック教会の現状」 抜粋 W ベッケンフェルデ(神学ダイジェスト 88 号)」なのです。
要点を手短に言えば:
交わりの神学がどれほど期待に満ちて提唱されようとも、 教会法では 「不平等の社会」 としての教会という古い理解が支配している。
教会は聖なるものによって根拠づけられた 「支配の場」 である。
法秩序の現実では、一般信徒は「聞く教会」である。また、この法が現実に適用されるのは、 教会に経済的に依存している人々 にかぎられる。
それに、現実には、多くの聖職者や多くの一般信徒が、 ローマの命令を実行しない事が良心上の義務と感じている。 教区司教の多くも、新聞に出ない限り、あるいは文句がこない限り、それをおおめにみているところがある。これは普遍教会の権威の明らかな失墜である。教皇や側近に対しても権威失墜は隠しようがない状態である。
だからといって、 事態を寛大にみて待つ忍耐を勧めるような言い方は うさんくさい ものである。
信徒にできることは 、 教会の構造に 目をむけ 、厳しい 警戒の目を注ぐ こと。
教会法は教会組織との対立を沈着に処理するためにも知っておく必要である。
教区で教皇のように振る舞うことがないか 教区司祭に目を向けなくてはならない 。
教区司教は位階制の直接の代表者である。
司教を無視するのではなく、 司教を助け司教に結ばれる 事で、司教が問題に手を触れるのを恐れる不安を取り除く事ができる。
教会を敵視するグループではなく、信仰を伝達し教会を存続させる事に関心を持っている信徒が活動しているのだということが伝わることが重要である。
我々もこの忠告をわきまえ「学び合いの会」を実りあるものにしたいものです!
以上