つつましくも力溢れる新たな時代の始まり

聖霊降臨の主日 聖書黙想 2010/5/23  トマス・ロシカ師

 

わたしたちは使徒言行録 2 1-10 の物語をよく知っています。それは五旬祭の夜明けのことで、イエスの弟子たちが集まり、(聖霊を)待ちながら祈っていました。この新たな日は、天からの突然の大音響と激しい風で始まります。この物語は、創世記の天地創造の物語に出てくる、水の面を動いていた力強い風(神の霊)をしのばせます。最初に聞こえ、そして見えたものは、炎のような舌でした。聖霊から最初にいただくのは、様々な言語で話すという賜物です。

 

場面は、弟子たちが集う家の二階の部屋から、突然、屋外のエルサレムの街へ移ります。そこでは、既に福音が大勢の群衆を引き寄せています。街では、「エルサレムには、天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたが」 (2:5) 、彼らは教会を攻撃しており、その最初の反応は当惑です (2:6) 。話されている「ことば」は、明らかに「天下のあらゆる国」の様々な言語です。異邦人のだれもかれもが驚きの声を上げます。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」 (2:8)

 

ルカが数えあげる国名は以下のようです。パルティア、メディア、エムラからの者たち、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに属するリビア地方などに住む者もあり、またローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もいました (2:9-10) 。これで「よい知らせ」の宣言から閉め出される国は一つもないということが大変明確にされます。この数行の中に、ルカは使徒言行録のスト−リー全体を細密画のように描き出しています。

 

キリスト者の真の霊性

パウロのローマの信徒への手紙 8 章は、真の霊性の要素について語っています。(ローマ 8 8-17 ) 神を喜ばせることは、ユダヤ人にもキリスト教徒にも共通した人生の最終目標ですが、自我の支配下(「肉の支配下」)にある者は、この目標に到達することはできません。神を喜ばせるためには、「霊に属して」、すなわち「霊に従って」歩まなければなりません。 (8:5)

 

パウロによれば、洗礼を受けたキリスト者は「霊に属して」いるだけではなく、今や霊がその人に宿っているのです。人間は「霊化(霊に属すること)」によってのみ、キリストにつながることができるのだと、パウロは力説します。このつながりは、キリストの大義に表面的に帰依することでもなく、さらに、キリストがかつて人間のためになさった業に感謝することでもありません。そうではなくて、キリストに属するキリスト者とは、いのちに溢れたキリストの霊によって、「神のために生きる」力を与えられた者のことです。

 

キリスト者の生命力の源泉である霊がなければ、人間の「身体」は罪の影響を受けて、さながら死骸のようです。しかし、キリストに結ばれた人間の「霊」は生きています。なぜなら、聖霊がその死者をよみがえらせるからです。聖霊は新たないのちを与えるだけでなく、人間のために(神との間に)養子、養女、相続人としての関係を築きます。キリスト者に生命を吹き込み、生かし、神の子とするのは聖霊です。ローマの信徒への手紙にある「神の子どもであること」というテーマで、パウロは、神との関係におけるキリスト者の新しい身分を説明しようとしています。キリスト者は(キリスト、あるいは神の)霊を受けています。しかしこれは、奴隷にありがちな性分とか心情といった意味での「霊」ではありません。

キリスト者は、神の霊によって生命を吹き込まれたのですから、奴隷のように行動することはありえません。神の霊によって解放されるのです。神の霊によってキリスト者は、「神は父である」と宣言するのです。

                  

ヨハネ福音書における聖霊降臨

今日の福音の場面は、最初のイースターの夜の出来事です。弟子たちへのイエスのご出現については、トマスが居るか居ないか(ヨハネ 11:16 14:5 )は別として、ヨハネ 20:19-23 の部分だけが他の福音書と共通しています。ルカ 24:26-29 とマルコ 16:14-18 を参照しましょう。ヨハネ福音書による、復活されたイエスの弟子たちへの最初のご出現は、強烈であり、焦点がはっきりしています( 20:19-23 )。

それは夕方の出来事で、家の戸には鍵がかけられていました。不安な弟子たちは家に閉じこもっていました。家の外では、疑惑と敵意に満ちた世界がひしひしと迫っています。イエスはどこにいるのでしょうか。その時突然、復活した御方が、鍵の掛けられた戸、閉ざされた心、歪められた視野をものともせずに、易々と姿を現します。

 

ヨハネが記した復活のイエスとの出会いは、新しい時代の、つつましいけれど力強い始まりです。

恐れは喜びに変わり、痛みは平和と信頼に、逃げ隠れた日々は勇気と宣教の日々に変わります。

そして、分裂と憎しみは、聖霊の賜物によって打ち負かされ、イエスにおいて示された神の愛によって、また、悪と罪深さを取り除くイエスの力を通して、消え去ります。

 

イエスが「彼らに息を吹きかけ」た、と言う記述は、創世記 2 47 を思い起こさせます。そこでは、神が最初の人間に息を吹きかけて命を与えました。アダムの命が神から生まれたように、今、弟子たちの新しい霊的な命がイエスから生まれます。この行為は、エゼキエル 37 章の、おびただしい枯れた骨の復活を思い出させます。これが、福音記者ヨハネ版の聖霊降臨の次第です。

 

「あなたがたに平和があるように」というのが、復活したイエスの挨拶の言葉であり、贈り物です。シャローム "shalom" というヘブライ語は、物事の完全な意味を再び確立するという意味を持っています。聖書の中の平和とは、単に平和な生活や、戦いの無い時を約束することだけではありません。むしろ、日々の生活の中での幸福を意味し、人が、自然や自分自身や神と調和して生きている状態を指しています。具体的に言うなら、この平和は、恵み、休息、名誉、富、健康、いのちを意味します。平和という賜物は、イエスが最初の弟子たちに預け、キリスト者の共同体と分かち合う、約束と祈りになるのです。

 

イエスの使命と力とは、使徒たちの貧しく、乏しく、もろい手に託されます。聖霊の働きを通して、その同じ使命が、弟子たちによって継続され、罪を許す力、和解の可能性、御父との親しい交わりが授けられます。

 

勇気ある福音の告げ手

聖霊は、使徒たちを内部から刷新して力で満たし、彼らが出かけて行って、「キリストは死に、復活させられた!」と大胆に宣言する勇気を与えました。おびえていた漁師たちは、勇気ある福音の告げ手となりました。彼らの敵でさえも、どうして「無学な普通の人」(使徒言行録 4:13 )が、そのような勇気を示し、困難や苦しみや迫害を喜んで耐えることが出来るのか理解できませんでした。何をもってしても、彼らを止めることは出来ませんでした。彼らを黙らそうとした人たちには、こう答えました。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録 4:20 ) 

これが、教会の誕生に至る、ことの次第です。そして、聖霊降臨の日以来、教会は、「善い知らせ」を「地の果てに至るまで」(使徒言行録 1:8 )広め続けてきたのです。

 

聖霊降臨に際して、キリストの生涯とメッセージの完全な意味が、共同体に生きる霊によってわたしたちの心に注ぎ込まれます。人々の内に働く聖霊は、天賦の才と能力をもたらします。この動きは、個人の段階では完結しません。むしろその動きは、わたしたちの独自な能力が共通善を促進するという波及効果を持っているようです。聖霊の賜物はたくさんあります。たとえば、教えること、指導すること、癒すこと、慰めること、許すこと、励ますことなどがそれです。聖霊はわたしたちへの賜物を大きく膨らませ、わたしたちがイエスや兄弟姉妹を愛し、掟に従い、受けたものを惜しみなく分かち合えるまでにしてくれます。

 

キリスト者の希望:聖霊の賜物

希望は、聖霊降臨のときに示された、真の霊の表れの一つです。物事をすべて単純に分かりやすく捉える世界では、 希望とは、何事も良い結果に終わるに違いないと自分に信じ込ませることを意味します。わたしたちは希望という言葉を軽々と安易に使いますが、これはキリスト者の考える希望とは違います。わたしたちは、希望のシンボル、新しいビジョンを持つ民、そしてキリスト・聖霊・教会というレンズを通して世界を見ることを学ぶ民にならなければなりません。

 

2 バチカン公会議は、キリスト者に時のしるしを読み取るよう勧めましました。それは、ヨハネ 23 世にとっての希望のしるしであり、わたしたちの中に現存する神の国を垣間見ることでもありました。

神の国は、聖霊の賜物を通して現れます。それは例えば、知恵、理解、助言、勇気、知識、信心、主への畏れなどです。そして、聖霊の実りは、神の国を分かりやすく受け容れやすいものにします。たとえば、愛、喜び、平和、忍耐、親切、善良さ、長い苦しみ、優しさ、信頼、謙遜、節制、貞節などがそれです。

 

"via negativa" (弁証法の一つの様式、否定神学)に従って、神の国は存在しないと言うことも可能です。正義のないところ、平和のないところ、分かち合いのないところ、相互の信頼のないところ、許しのないところに、神の国は存在しません。怨恨、ねたみ、不信、憎しみ、無関心、不純、嘲りのあるところに、神の国はありません。そして、いのちも存在しないに違いありません。

 

神ご自身において、すべては喜び

聖霊降臨のときに示された、真の霊の表れの二番目は、喜びです。教皇パウロ 6 世が 1975 年に出されたキリスト者の喜びについての使徒的書簡 "Gaudete in Domino" には、喜びがこのように描かれています。「従って、様々なグループの揺れ動いているメンバーに、行き過ぎた組織的かつ破壊的な批判を受け入れないようにさせましょう! 現実的な観点から逸れることなしに、キリスト者の共同体を楽観主義の中心(センター)にしましょう。そこではメンバー全員が、断固として、人々や出来事のプラスの側面を認めるように努めるのです。『愛は間違っていることを喜ばず、真実を喜びます。愛の寛容、愛の信頼、愛の希望、愛の耐える力には限界がありません。』」

 

「そのような境地に到達するということは、単に心理学の問題だけではありません。それは、聖霊がもたらす実りでもあります。この霊は、すべてイエスのペルソナに属しており、イエスがこの世で生活する間、日常生活の喜びに対してあれほど警戒し、罪人を、心と精神の新たな若さを取り戻す道へと立ち帰らせるために、あれほど巧みで、説得力を持つことが出来たのも、この霊の働きでした。

聖なるおとめマリアと、聖人たちの一人ひとりにいのちを吹き込んだのもこの同じ霊です。今日、多くのキリスト者に対して、失敗や苦しみにまさる平和と希望のうちに、日々個有の召命を生きる喜びを与えるのも、この同じ霊です。今日、キリストに従って歩む多くの人たちを、子どもの賛美のような快活な祈りの道に導き、無視された人々や片隅に追いやられた人々への、謙遜で喜びあふれる奉仕に導くのは、聖霊降臨の霊です。

『喜び』と『与える』こととは、別々のものではありません。神ご自身の内では、すべてが喜びです。

なぜなら、神はすべてを与えるからです。」

 

 

聖書朗読

 

使徒言行録:  2:01   五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、02   突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。03   そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。04   すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

05   さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 06   この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 07   人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 08   どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

ACT02:09   わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10   フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、:11   ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 

ローマの教会への手紙:  8:08 [皆さん] 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

09   神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10   キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。 11   もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

12   それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13   肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。:14   神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15   あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16   この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17   もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

ヨハネによる福音:  14:15   [そのとき、イエスは弟子たちに言われた]「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16   わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

23b   わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24   わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

25   わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26   しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

The Humble, Yet Powerful Beginning of a New Age

Biblical Reflection for Solemnity of Pentecost C, By Father Thomas Rosica, CSB

         

TORONTO, MAY 18, 2010 (Zenit.org).- We know the story well (Acts 2:1-10) -- it is the dawn of the day of Pentecost and the followers of Jesus are gathered to wait and pray. This new day begins with an explosion of sounds from heaven, and a violent wind. The story is reminiscent of the mighty wind that hovered over the waters in the Genesis creation story. What was first heard was then seen -- tongues like fire (2:3). The first gift of the Holy Spirit is the gift of speech in different languages.

 

The scene quickly shifts from the inside upper room, where the disciples are gathered, to the Jerusalem streets outside the house. There the Gospel is already drawing crowds together. Out in the streets, "devout Jews from every nation under heaven living in Jerusalem (2:5)" confront the church, and their initial response is bewilderment (2:6). The "tongues" spoken of are obviously various languages of "every nation under heaven," since each foreigner exclaims: "We hear, each of us, in our own native language" (2:8).

 

Luke's roll call of the nations -- Parthians, Medes, Elamites, and residents of Mesopotamia, Judea and Cappadocia, Pontus and Asia, Phrygia and Pamphylia, Egypt and the parts of Libya belonging to Cyrene, and visitors from Rome, both Jews and proselytes (2:9-10) -- makes it very clear that no nationality is excluded from the proclamation of the Good News. In these few lines, Luke gives us a story in miniature, of the whole plot of the Acts of the Apostles.

 

Authentic Christian spirituality

Chapter 8 of Paul's letter to the Romans addresses the elements of authentic spirituality (vv 8-17). To please God is the goal of human life aimed at by both Jew and Christian, yet this goal cannot be attained by those who are dominated by self ("in the flesh"). In order to please God, one must be "in the Spirit," i.e., living "according to the Spirit" (8:5).  

 

According to Paul, the baptized Christian is not only "in the Spirit," but the Spirit is now said to dwell in him or her. Paul insists that attachment to Christ is only possible by the "spiritualization" of human beings. This attachment is no mere external identification with the cause of Christ, or even a grateful recognition of what he once did for humanity. Rather, the Christian who belongs to Christ is the one empowered to "live for God" through the vitalizing influence of his Spirit.

 

Without the Spirit, the source of Christian vitality, the human "body" is like a corpse because of the influence of sin, but in union with Christ the human "spirit" lives, for the Holy Spirit raises the dead to life. The Spirit not only gives new life, but also establishes for human beings the relationship of an adopted son and daughter and heir. It is the Spirit that animates and activates the Christian and makes one a child of God. The theme of sonship in Romans is Paul's attempt to describe the new status of the Christian in relation to God. Christians have received the Spirit (of Christ or God), but this is not a "spirit" in the sense of a disposition or mentality that a slave would have. Animated by God's Spirit, the Christian cannot have the attitude of a slave, for the Spirit sets free. Through the Spirit the Christian proclaims that God is Father.

 

Pentecost in the Gospel of John

Today's Gospel scene takes place on the night of the first Easter. Jesus' appearances to the disciples, without or with Thomas (John 11:16; 14:5), have parallels in the other gospels only for John 20:19-23; cf Luke 24:36-39; Mark 16:14-18. John's first appearance of the Risen Lord to the disciples is both intense and focused (20:19-23). It is evening and the doors were bolted shut. Anxious disciples are sealed inside. A suspicious, hostile world is forced tightly outside. Jesus is missing. Suddenly, the Risen One defies locked doors, blocked hearts, and distorted vision and simply appears.

 

The meeting with the risen Lord in John's account is the humble yet powerful beginning of a new age: Fear is transformed into joy; pain is changed to peace and trust; flight and hiding become courage and mission. Division and hatred are vanquished by the gift of the Holy Spirit -- by God's love revealed in Jesus and through his power to remove evil and sinfulness.

 

Jesus "breathing on them" recalls Genesis 2:7, where God breathed on the first man and gave him life; just as Adam's life came from God, so now the disciples' new spiritual life comes from Jesus. This action is also reminiscent of the revivification of the dry bones in Ezekiel 37. This is the evangelist John's version of Pentecost.

 

"Peace be with you" is the greeting and gift of the Risen Lord. The Hebrew word "shalom" means re-establishing the full meaning of things. Biblical peace is not only a pact that allows a peaceful life, or indicates the opposite of a time of war. Rather, peace refers to the well being of daily existence, to one's state of living in harmony with nature, with oneself and with God. Concretely, this peace means blessing, rest, honor, richness, health and life. The gift of peace, that Jesus entrusted to his first disciples, becomes a promise and a prayer shared with the Christian community.

 

The mission and the power of Jesus are entrusted into the poor, limited and fragile hands of his apostles. Through the work of the Holy Spirit, that same mission continues in them, granting the power to forgive sins and the possibility of reconciliation and intimacy with the Father.

 

Courageous heralds of the Gospel

The Holy Spirit renewed the Apostles from within, filling them with a power that would give them courage to go out and boldly proclaim that "Christ has died and is risen!" Frightened fishermen had become courageous heralds of the Gospel. Even their enemies could not understand how "uneducated and ordinary men" (Acts 4:13) could show such courage and endure difficulties, suffering and persecution with joy. Nothing could stop them. To those who tried to silence them they replied: "We cannot keep from speaking about what we have seen and heard" (Acts 4:20).

This is how the Church was born, and from the day of Pentecost she has not ceased to spread the Good News "to the ends of the earth" (Acts 1:8).

 

At Pentecost, the full meaning of Jesus' life and message is poured into our hearts by the Spirit alive in the community. The movement of the Spirit in people results in gifts and talents. This movement does not reach its end in individuals. Rather, it is supposed to have a ripple effect so that our unique abilities promote the common good. The Spirit's gifts are many: teaching, instructing, healing, consoling, forgiving, and encouraging. The Spirit will increase our gifts to the extent that we love Jesus and our brothers and sisters, obey the commandments, and share what we have received so lavishly and freely with others.

 

Christian hope: a gift of the Spirit

Hope is one of the true manifestations of the Spirit at Pentecost. For the world of sound bites, hope usually means that we make ourselves believe that everything is going to turn out all right. We use the word hope lightly and cheaply. This is not the hope of Christians. We must be icons of hope, a people with a new vision, a people that learn to see the world through the lenses of Christ, the Spirit, and the Church.

 

The Second Vatican Council encouraged Christians to read the signs of the times, and for Pope John XXIII these were signs of hope and glimpses of the Kingdom's presence in our midst.

The Kingdom manifests itself through the gifts of the Holy Spirit: wisdom, understanding, counsel, courage, knowledge, piety, and fear of the Lord. And the Spirit's fruits make the Kingdom palpable and palatable: love, joy, peace, patience, kindness, goodness, long suffering, mildness, faith, modesty, continency, and chastity.

 

It is also possible to follow a "via negativa" and to say where the Kingdom is not. Where there is no justice, no peace, no sharing, no mutual trust, no forgiveness, there is no Kingdom. Where there is rancor, envy, distrust, hatred, ignorance, indifference, unchastity, cynicism, there is no Kingdom and certainly no life.

 

In God himself, all is joy

A second manifestation of the Spirit at Pentecost is joy. Pope Paul VI's 1975 Apostolic Letter on Christian Joy -- "Gaudete in Domino" -- describes this joy:

"Let the agitated members of various groups therefore reject the excesses of systematic and destructive criticism! Without departing from a realistic viewpoint, let Christian communities become centers of optimism where all the members resolutely endeavor to perceive the positive aspect of people and events. 'Love does not rejoice in what is wrong but rejoices with the truth. There is no limit to love's forbearance, to its trust, its hope, its power to endure.'

 

"The attainment of such an outlook is not just a matter of psychology. It is also a fruit of the Holy Spirit. This Spirit, who dwells fully in the person of Jesus, made Him during His earthly life so alert to the joys of daily life, so tactful and persuasive for putting sinners back on the road to a new youth of heart and mind! It is this same Spirit who animated the Blessed Virgin and each of the saints. It is this same Spirit who still today gives to so many Christians the joy of living day by day their particular vocation, in the peace and hope which surpass setbacks and sufferings. It is the Spirit of Pentecost who today leads very many followers of Christ along the paths of prayer, in the cheerfulness of filial praise, towards the humble and joyous service of the disinherited and of those on the margins of society.

For joy cannot be dissociated from sharing. In God Himself, all is joy because all is giving.”

home page