ホサナ!喜んで主を迎えよう!
枝の主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/4/17 トマス・ロシカ師
今年のイースターの準備のため、わたしは、四旬節の初めに聖週間の出来事を黙想する時間を過ごしました。そこでわたしは、ベネディクト 16 世の最新の著書「ナザレのイエス 第 2 部、 聖週間 ― エルサレム入城から復活まで」 ( Ignatius Press, 2011 ) を読み、考える機会に恵まれました。
この本は、すべての司教、聖職者、司牧者、そしてナザレのイエスとの出会いを望み、イエスの真のペルソナと、今週祝う、信仰の核心となる神秘をより深く知りたいと願う真面目なカトリック信者に、是非とも読んでほしいものです。聖週間とイースターの準備のために、この優れた著書を読むこと以上にふさわしい方法を思いつきません。わたしは、今週朗読される聖書の個所が、自分の個人的な祈りや神の御言葉の説教に役立つと思うすべての人々に、この本をお薦めします。
訳注: 2011.3.11 共同配信記事: ローマ法王の著書発売 「ナザレのイエス」第 2 巻。 ローマ法王 ベネディクト 16 世の著書「ナザレのイエス」の第 2 巻が 10 日イタリアなどで発売された。ローマ法王庁 (バチカン)によると、初版はイタリア語や英語、ドイツ語など 7 カ国語で 120 万部という。 法王はこ の中でイエス・キリストの死にユダヤ人全体が責任を負うとの見方を明確に否定し、ユダヤ人団体な どが歓迎している。キリストの生涯を扱った 2007 年に出版された著書の続編で、今後予定される第 3 巻で完結する。AP通信によると、日本語や韓国語、アラビア語の翻訳も計画されているという。
毎年、聖週間の間、わたしたちは、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」と叫ぶ群衆のただ中を、エルサレムに入城するイエスに同行します。異様なほどの賞賛と歓呼に満ちあふれる日ですが、遥か彼方には、憎しみと破滅と死を運ぶ波のうねり見え始めています。
イエスはオリーブ山を降ります。王にふさわしく飾り立てた行列ではなく、荷物を運ぶろばに乗って。そのとき、イエスがメシアであり王であると歓呼の声を挙げる群衆が、わたしたちに追いつきます。イエスが、彼の都へ入城する逆説的なシーンには、王の権威、謙遜、神性の強烈なイメージが詰まっています! 熱狂した群衆は、イエスを平和の王、希望の与え主として、枝の主日に迎えます。そして 5 日後には、憎しみに包まれた人々が、イエスを十字架につけろと要求します。
福音書の受難物語は、イエスの時代の民衆や指導者の或る者たちが、どのように陰謀を企て、キリストの受難と死をもたらしたかを説明し、それによって、わたしたち皆が責めを負うべきであるという根本的な真理を暗示します。彼らの罪とわたしたちの罪がキリストを十字架に架け、イエスはその罪を進んで負います。そして、わたしたちはイエスに起きたことから学び、自らに問わねばなりません。それは、その昔イエスを裁判にかけて有罪とし殺したのはどのような人たちであったか?について問うばかりでなく、何がイエスを死に向かわせたのか?また、イエスの人間家族の兄弟姉妹の中で、どのような暴力、残虐、憎しみの悪循環が、今日もなおイエスを十字架に架け続けているのか?についても問わねばなりません。
マタイの受難物語
今年(の枝の主日に)は、マタイの受難物語(マタイ 26:14-27:66 、日本では 27 : 11-54 )が読まれます。マタイは、マルコからの資料に厳密に従っていますが、省略部分(たとえば、マルコ 14 : 51-52 )もあり、付け加えた部分(たとえばマタイ 27:3-10 、 19 )もあります。付け加えた部分のあるものは、マタイが、どこか別の場所にあった伝承を引用したことを示しています。また、マタイ自身の神学的洞察による付加もあります。(たとえば、マタイ 26:28 「・・罪が許されるように」、マタイ 27:52 )
福音書の編集に際してマタイは、マルコ福音書の細部をいくつか書き換えています。しかし、マタイが、マルコの受難物語以外の事実を知っていたと考えなくてもいいでしょう。
マタイの物語に耳を傾けるわたしたちは、イエスの、神から与えられた使命への強い献身と、死の力の激しい抵抗によって避けがたいものとなった運命との出会いに心を奪われます。「エルサレムへの入城」と題された「ナザレのイエス」の第 1 章で、ベネディクト 16 世は、マタイとヨハネが「枝の主日」を理解するためにはっきり引用している節、ゼカリア 9 章 9 節を考察するよう薦めています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ 21:5 、ゼカリア 9:9 参照、ヨハネ 12:15 )
ィクト 16 世は次のように書いています。「 [ イエス ] は、戦争の武器を破壊する王、平和の王であり、純朴の王、貧しい人々の王です。そしてわたしたちは、ようやく、イエスが、海の果てまで広がり全世界を包含する王国を支配するのを目のあたりにしました。わたしたちは、イエスとの一致のうちにパンを割く共同体において、海から海へと広がるイエスの王国を包み込む新世界を、平和の王国として想起しました。あの頃は、このようなものは何も見えてはいませんでした。」
ホサナの意味
「ホサナ」は元来、 神殿で、祭司たちが巡礼者にかける祝福の言葉でした が、それが(群衆の)歓呼の叫びの後段の「主の名によって来られる方」と結びついたとき、メシアの意味を持つようになりました。それは、神が約束した方の呼び名になったのです。今では、それはイエスを讃える言葉になり、主の名によって来られる方、待ち望まれ、全ての約束によって告げられた方への挨拶の言葉になっています。
「ホサナ」という言葉が、なぜヘブライ語のままで残っているのか、疑問に思うかもしれません。福音記者は何故それをギリシャ語に訳さなかったのでしょうか? 「ホサナ」を完璧に訳すと、「どうか助けて(または、救って)下さい、ダビデの子よ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。どうか助けて(または、救って)下さい、至高なる御方よ。」となります。救いを求めて「ホサナ」と叫び、棕櫚の枝を振る群衆の歓迎は、その形のまま 、 Sukkot の典礼になりました。その典礼形式は、独立を祝う祭である Hanukkah の最初の時に既に使われて、政治的な意味を持っていました。
訳注: Sukkot (スコット): ユダヤ教三大祭の一つの「仮庵祭(かりいおさい)」。一般に太陽暦 10 月 頃に行われる。
Hanukkah (ハヌカー): マカバイ戦争( BC168 - 141 )で、 エルサレムの神殿から 「ゼウス像」を取り 去りユダヤの独立を勝ち取ったことを記念する行事。ユダヤ暦第 9 月の 25 日から 8 日間祝う。
この典礼様式がイエスを歓迎するために利用されたことには、明らかに目的があります。イエスが、エルサレムへ勝利の入城をした後に、神殿の清めが続きます(マタイ 21:12-16 )。これは、明らかにマカバイ戦争の経過を真似たもので、メシアへの期待をかきたてるよう意図されています。群衆が、「ホサナ」と呼んで棕櫚の葉を振ったとき、彼らは自分たちが何をしているか完全に知っていました。
ホサナの歓呼の(表現の)中には、イエスに同行していた巡礼者たちやイエスの弟子たちの複雑な感情が表れています。それは、行列の入城の時の喜びにあふれた神への賛美であり、メシアの時代が既に到来しているという希望であり、同時に、イスラエルを支配するダビデの王権の復活、すなわち、神の王権が再び確立されることへの祈りなのです。(「ナザレのイエス」 pp.8-10 )
「ホサナ」は、助けと救いを急ぎ求める願いの言葉として、普遍的に有効です。それはいつまで経っても人間の状況にふさわしいものです。それは、何処においても、昔も今も、迫害者を不安にさせる政治的インパクトを持った一言の祈りであり、それ故に、分り易く解訳され、理解される必要があります。
ナザレから来た預言者
エルサレムの人々がナザレから来た預言者のことを知ったばかりの頃には、イエスは彼らにとってそれほど重要な人物には見えませんでしたし、地元の住民たちも彼を知りませんでした。エルサレムの城門でイエスを褒め称えた群衆と、後にイエスを十字架につけろと要求した群衆とは、同じ人たちではありません。
ベネディクト 16 世 は、この二つの段階でのイエスに対する誤った認識 … 無関心と恐れの組合せによる … の記述の中に 、終末について語るイエスが最も心を痛めて繰り返した「エルサレムの悲劇」を垣間見ることが出来ると語ります。
ユニークな強調点
マタイにとっての、イエスの歴史における究極の変換点は、その死と復活でした。イエスの死の瞬間、すなわち自らの使命に忠実に従う死の瞬間に、突然新しいいのちが現れます。 地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返って、神の都へと勝利の行進をします。
マタイはこれらの言葉によって、 (先週の第 1 朗読の) エゼキエルの預言 37 章 に記された、乾いた骨の壮大なビジョンを想起させます。神はこれらの骨に霊を吹き込み、骨たちは死から立ち上がって新しい民になります。マタイは、イエスの死によって、この世に新しい命がもたらされたのだと信じていました。ユダヤ人によるイスラエルへのキリスト教宣教が一見死んだように見える中で、地中海世界を包み込み、ユダヤ人と異邦人からなる新しい民を創出する初代教会が生まれたのです。
「死 と 復活」は、イエスの宿命を表すパターンであるだけでなく、教会そのものの、歴史における宿命のパターンでもありました。
マタイの受難物語は今日、わたしたちに何を語るのでしょうか。わたしはその物語が、教会と世界の、歴史における現在の瞬間をはっきり認識するための、聖書のレンズの役割を果たしていると信じます。
わたしたちは、自分が進むべき道や宣教のためのプランを、教会から受け取るばかりではなく、自分が生きているこの世界からも受け取ります。マタイの受難物語に見られる強烈な聖書のドラマは、しばしば「世俗的な出来事」とされるような、破壊し、傷つけ、恐れさせ、目をくらすような事柄でさえも、わたしたちを神の(支配する)将来に向けて前進させ、神がご自分を啓示する舞台になることを教えてくれます。
主を迎える
ベネディクト 16 世 の「ナザレのイエス」の中から、枝の主日の福音の光景に関する言葉をもって結びとします。
「教会は、聖体拝領における主を、今来られる御方、教会の中心に来られる御方として迎えます。同時に教会は、主を、今もいつも来られる御方、主の到来に向けてわたしたちを導く御方として迎えます。巡礼者として、わたしたちは主のもとに登ります。主は、巡礼者の一人としてわたしたちのもとに下りてくださり、十字架と復活へ、そして最終的なエルサレムへの「登攀」へと伴ってくださいます。その登攀は、既にこの世界の只中で、主の身体とわたしたちを一つに結ぶ聖体において始まっているのです。」
◇◇◇
聖書朗読
マタイ 21:1-11 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、驢馬がつないであり、一緒に子驢馬のいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、驢馬に乗り、/荷を負う驢馬の子、子驢馬に乗って。』」 21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 21:7 驢馬と子驢馬を引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
イザヤ 50 : 4-7 ( 略 )
フィリピ 2: : 6-11 ( 略 )
マタイ 27 : 11-54 11 (さて、) [ その時、 ] イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。 27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。 27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。 27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 27:36 そこに座って見張りをしていた。 27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
HOSANNA! LET US WELCOME THE LORD!
Biblical Reflection for Palm Sunday A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, APRIL 12, 2011 ( Zenit.org ) .- In preparation for Easter this year, I had the privilege of an early Lenten retreat on the events of Holy Week as I read and pondered Benedict XVI's latest book: "Jesus of Nazareth Part 2: Holy Week -- From the Entrance into Jerusalem to the Resurrection" ( Ignatius Press, 2011 ) .
This book should be required reading for every bishop, priest, pastoral minister and serious Catholic who would like to meet Jesus of Nazareth and deepen one's knowledge of the very person of Jesus and the central mysteries of our faith that we celebrate this week. I could think of no better way to prepare for Holy Week and Easter than to read this masterful text.
I recommend it to all those who have found these weekly Scripture texts helpful for your personal prayer and preaching of the Word of God.
Each year during Holy Week, we accompany Jesus up to Jerusalem amidst the crowds crying out, "Hosanna, blessed is he who comes in the name of the Lord!" A day filled with exceeding praise and jubilation, but looming on the horizon is a wave of hatred, destruction and death.
We, too, are caught up with the crowd acclaiming their Messiah and King as he descends the Mount of Olives, coming not with the trappings of a royal motorcade but on a beast of burden. What striking images of royalty, humility and divinity all packed into this paradoxical scene of Jesus' entering his city! Full of enthusiasm, they welcome him on Palm Sunday as the King of Peace and the Bearer of Hope. Full of hate, five days later, the people demand his death on the cross.
The Gospel Passion narratives recount how the sins of some of the people and their leaders at the time of Jesus conspired to bring about the Passion and death of Christ, and thereby suggest the fundamental truth that we are all to blame. Their sins and our sins bring Christ to the cross, and He bears them willingly. And we must learn from what happened to Jesus and ask ourselves not only about the identity of those who tried, condemned and killed him long ago, but also what killed Jesus and what vicious circles of violence, brutality, and hatred continue to crucify him today in his brothers and sisters of the human family.
Matthew's Passion narrative
This year we read Matthew's Passion narrative ( Matthew 26:14-27:66 ) . Matthew follows his Marcan source closely but with omissions ( e.g., Mark 14:51-52 ) and additions ( e.g., Matthew 27:3-10, 19 ) . Some of the additions indicate that he utilized traditions that he had received from elsewhere; others are due to his own theological insight ( e.g., Matthew 26:28 "…for the forgiveness of sins"; Matthew 27:52 ) .
In his editing, Matthew also altered Mark in some minor details. But there is no need to suppose that he knew any passion narrative other than Mark's.
As we listen to Matthew's account, we are caught up in Jesus' encounter with destiny made inevitable by the strong commitments of Jesus' mission from God and the fierce resistance of the power of death. In the first chapter of "Jesus of Nazareth," titled "The Entrance into Jerusalem," Benedict XVI invites us to consider Zechariah 9:9, the text that Matthew and John quote explicitly for an understanding of "Palm Sunday": "Tell the daughter of Zion, Behold, your king is coming to you, humble, and mounted on a donkey, and on a colt, the foal of a donkey" ( Matthew 21:5; cf. Zechariah 9:9; John 12:15 ) .
Benedict XVI writes: "[Jesus] is a king who destroys the weapons of war, a king of peace and a king of simplicity, a king of the poor. And finally we saw that he reigns over a kingdom that stretches from sea to sea, embracing the whole world; we were reminded of the new world encompassing kingdom of Jesus that extends from sea to sea in the communities of the breaking of bread in communion with Jesus Christ, as the kingdom of his peace. None of this could be seen at the time" ( p. 4 ) .
Meaning of hosanna
"Hosanna" was originally a pilgrim blessing that priests addressed in the Temple, but when it was joined to the second part of the acclamation "who enters in the name of the Lord" it took on Messianic significance. It had become a designation of the one promised by God. It now became praise of Jesus, a greeting to him as the one who comes in the name of the Lord, the one awaited and proclaimed by all the promises.
We can ask why the word "hosanna" was preserved for us in Hebrew. Why ask didn't the Gospels translate it into Greek? The full translation of "hosanna" could read, "Help [or save], please, O Son of David. Blessed in the name of the Lord is he who comes. Help [or save], please, O Most High." The crowd's welcome of Jesus with cries of "hosanna," for help, and the waving of palm fronds, thereby invoked the liturgical formulas of Sukkot, which had already been politicized by its use in the festival of independence, the first Hanukkah.
注: Hosanna is a liturgical word in Judaism and Christianity. In Judaism, it is always used in its riginal Hebrew form, Hoshana. The word hosanna is etymologically derived from the Hebrew ושיעה־נא, hôšî‘â-nā'. Christian usage has come through the Greek Bible, giving it the form σαννά, hōsanná.From the Bauer lexicon: derived from Aramaic ( הושע נא ) from Hebrew
( הושיעה נא ) ( Psalm 18:25, הוֹשִׁיעָהנָּא ) , meaning "help" or "save, I pray", "an appeal that became
a liturgical formula; s part of the Hallel... familiar to everyone in Israel."
rom the Friberg Lexicon: hosanna, indecl. particle translit. fr. the Heb.; strictly, a cry expressing n appeal for divine help "save! Help, we pray!"; in a liturgical usage, a shout of praise and orship "hosanna, we praise you" ( Matthew 21.9 ) . From the UBS Lexicon: hosanna ( in Aramaic ) , an exclamation of praise literally meaning, "Save, pray".
From the Louw-Nida Lexicon: hosanna ( an Aramaic expression meaning "help, I pray" or save, I pray," but which had become a strictly liturgical formula of praise ) a shout of praise or doration - "hosanna; blessed is the one who comes in the name of the Lord" Mark 11.9; "hosanna the highest" Mark 11.10; "hosanna to the Son of David" Matt 21:9. Mt 21.9 may also beendered as "praise to you, Son of David" or "we praise you who are the Son of David" or "...a escendant of David."
udaism: "Hoshana" ( הושענא ) is a Hebrew word meaning please save or save now. In Jewish iturgy, the word is applied specifically to the Hoshana Service, a cycle of prayers from which a election is sung each morning during Sukkot, the Feast of Booths or Tabernacles. The complete ycle is sung on the seventh day of the festival, which is called Hoshana Rabbah ( הושענא רבא, Great Hosanna" ) .
hristianity: "Hosanna" ( Greek transcription: ὡσαννά, hōsanna ) is the cry of praise or doration shouted in recognition of the Messiahship of Jesus on his entry into Jerusalem, Hosanna! lessed is the one who comes in the name of the Lord! It is used in the same way in Christian raise. Overall, it seems that "Hosanna" is a cry for salvation; while at the same time is a eclaration of praise. Therefore, it may be derived that this plea for help is out of an greeably ositive connotation. The old interpretation "Save, now!" which may be a popular ymology, is ased on Psalm 118:25 ( Hebrew הוֹשִׁיעָה נָּא hOshEeah-nna ) ( Possibly "Savior" ) . his does not f lly explain the occurrence of the word in the Gospels, which has given rise to omplex iscussions.
The use of this liturgical formula to welcome Jesus was clearly purposeful. Jesus' triumphant entry into Jerusalem was followed by his cleansing of the Temple ( Matthew 21:14-16 ) . This was plainly a scenario in emulation of the Maccabean liberation, calculated to stir messianic hopes. When the crowd called "hosanna" and waved palm fronds, they knew full well what they were doing.
In the hosanna acclamation, we find an expression of the complex emotions of the pilgrims accompanying Jesus and of his disciples: joyful praise of God at the moment of the processional entry, hope that the hour of the Messiah had arrived, and at the same time a prayer that the Davidic kingship and hence God's kingship over Israel would be reestablished ( "Jesus of Nazareth," pp. 8-10 )
"Hosanna" as an urgent plea to help and save is universally valid. It is perennially appropriate to the human situation. It is a one-word prayer with potential political impact to unsettle oppressors everywhere, now as in ancient days, and should thus be translated and understood.
Prophet from Nazareth
In the beginning when people had heard of the prophet from Nazareth, he did not appear to have any importance for Jerusalem, and the local inhabitants did not know him. The crowd that paid homage to Jesus at the gateway to the city was not the same crowd that later demanded his crucifixion.
In this two-stage account of the failure to recognize Jesus -- through a combination of indifference and fear -- Benedict XVI says that we see something of the city's tragedy of which Jesus spoke a number of times, most poignantly in his eschatological discourse.
A unique emphasis
For Matthew, the ultimate turning point in Jesus' history was his death and resurrection.
At the very instant of Jesus' death, a death suffered in fidelity to his mission, new life breaks out: The earth quakes, the rocks are split, the tombs are opened and the saints of old are raised from their tombs to march triumphantly into God's city.
In writing these words, Matthew evokes the great vision of the dry bones in Ezekiel 37. God breathes spirit into the bones, and they rise from the dead to become a new people.
Matthew believed that out of the death of Jesus came new life for the world; out of the seeming death of the Jewish Christian mission to Israel, the early community rose to envelop the Mediterranean world and to forge a new people from Jew and gentile.
Death-resurrection was not only the pattern for Jesus' destiny but would also be the pattern for the destiny of the community itself within history.
What does Matthew's passion say to us today? I am convinced that it offers us distinct biblical lenses through which we look upon this current moment of the history of the Church and the world.
We receive our marching orders and pastoral plan for mission, not only from the Church but also from the world in which we live. The tremendous biblical drama found in Matthew's passion teaches us that what we often consider to be "secular events", even those that are destructive, damaging and even terrorizing and blinding, move us forward into God's future for us, and set the stage for God to reveal himself to us.
Greeting the Lord
I conclude with Benedict XVI's words in "Jesus of Nazareth" on this Palm Sunday Gospel scene: "The Church greets the Lord in the Holy Eucharist as the one who is coming now, the one who has entered into her midst. At the same time, she greets him as the one who continues to come, the one who leads us toward his coming. As pilgrims, we go up to him; as a pilgrim, he comes to us and takes us up with him in his 'ascent' to the Cross and Resurrection, to the definitive Jerusalem that is already growing in the midst of this world in the communion that unites us with his body" ( p. 11 ) .