イエスに従い、十字架の王道を行く
受難の主日(枝の主日)(C年) 福音黙想 2010/3/28 トマス・ロシカ師
今年の枝の主日には、ルカ福音書から2カ所が朗読されます。最初(入堂式)は枝の祝福の箇所が、また2回目(福音朗読)は、ルカの受難物語が朗読されます。福音の新たなページは、イエスがエルサレムに王として迎えられる場面( 19:28-21:38 )から始まります。それは、死と復活を前にしたイエスの、エルサレムにおける使命の物語の始まりです。
熱狂のわき起こる中をイエスが子ろばに乗って入城すると、エルサレムの人々は、しゅろの枝を振って歓迎しました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」 ( 38 節 ) という呼びかけは、ルカ福音書だけに見られるものです。意気揚々とエルサレムに入城するとき、イエスは、はっきり「王」と呼ばれています。ルカは、詩編 118:26 の言葉(祝福あれ、主の御名によって来る人に。)の中に、この王という呼び名を挿入しているのです。詩編のこの部分は、聖なる都と神殿を訪れる巡礼者たちの到着を布告する場面です。
このようにイエスは、王として、また来るべき御方として ( マラキ 3:1 :「あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。」、ルカ 7:19 :「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 )、 歓呼で迎えられました。弟子たちが、「天には平和、いと高きところには栄光」と賛美する言葉は、イエス誕生の時の天使たちのお告げ(ルカ 2:14 、「いと高きところには栄光、神にあれ」)のくり返しです。イエスがもたらす平和は、エルサレムで成就される救いに結びついています。ルカ福音書の、イエスの幼年時代とご受難の記述の間には本質的な関連性があります。
ルカの受難物語 ( 22:14-23 : 56 ) の構成はマルコのそれに依存していますが、ルカはその中に、彼独自の伝承を沢山取り入れています。ルカ福音書のイエスの受難物語の中で、ルカに特有の箇所は以下の通りです。
(1) 聖体の制定の伝承 ( 22:15-20 )
(2) イエスの別れの説教 ( 22:21-38 )
(3) イエスの受けた虐待と尋問 ( 22:63-71 )
(4) ヘロデの前のイエスと、二度目のピラトの面前のイエスの様子 ( 23:6-16 )
(5) 十字架刑に向かう途中で、従ってきた女性たちにかけた言葉 ( 23:27-32 )
(6) 悔い改めた犯罪人への言葉 ( 23:39-41 )
(7) イエスの死 ( 23:46, 47b-49 )
勝利の枝
群衆の敵意と怒り、裁判の進行にも関わらず、平和に満ちたイエスの姿はそれらの上にそびえ立っています。イエスの姿は、和解と赦しと平和の真の模範のまま変りません。わたしたちは、その激しい苦痛と試練のただ中における、一致に対するイエスの情熱の深さを悟ります。イエスは、ピラトとヘロデさえも仲良く一致させることが出来ます ( 23:12 ) 。ルカは、十字架上から迫害者たちを許すイエス ( 23:34 ) を示します。さらに、死にゆくイエスは、一人の盗賊に楽園を盗むことさえ許しているのです!( 23:43 )
その記述を通してルカは、イエスの潔白 ( 23:4, 14-15, 22 ) を強調しています。イエスは、悪の力の犠牲者であり ( 22:3, 31, 53 ) 、御父の意思の実現のために死へと向かうのです ( 22:42, 46 ) 。
またルカは、イエスの慈悲や憐みや癒しの力 ( 22:51;23:43 ) を強調します。イエスは、孤独のうちに見捨てられて死へと向かうのではなく、彼に従う人たちと一緒に十字架へと向かうのです。( 3:26-31;49 ) 。
感動的なルカの物語の中で、「勝利の枝」と受難の十字架とは矛盾しません。聖週間において宣言される神秘の核心は、ここにあるのです。イエスは、自由意思でご自分を受難に捧げたのであって、ご自分より大きな力に押しつぶされたのではありません。イエスは、自由意思で十字架刑に向い、死において勝利されたのです。
模範的な人物像
十字架への道の途上で、ルカは、模範的な人物像を示しています。その模範は、復活への旅路であるイエスの受難を、わたしたちが日常生活でどのように生きたら良いか教えてくれます。
処刑までの詳細な物語が進むにつれ、イエスは、総督の館から都の門の外にある石切り場へ向かいます。そこは、公開処刑が行われるところでした。人々は、通りかかったキレネ人のシモンを捕えて、イエスの十字架を背負わせます ( 23:26 ) 。ルカの描き方を見ると、彼はシモンの姿に弟子のあり方の典型を見ていることがはっきりと分かります。
この一節は、弟子のあり方についてのイエスご自身の教えに一致します。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ
14:27 )
イエスの道を歩もうとする人たちは、他人のために自分のいのちを喜んで捧げなければなりません。一番大切なのは、単に十字架を背負うということではありません。この世では大勢の人々が大きな苦しみを受けています。どの人々も、どの家族も、悲しみと重荷を背負っています。十字架が完全な意味を持つためには、イエスに従って十字架を背負うことが必要です。それは、苦悩に満ちた孤独の旅路でも、望みのない放浪の旅でも、離反の旅でもありません。それは、主の現存に支えられ、養われる旅なのです。
ルカ 23:27 には、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群を成して、イエスに従った。」と書かれています。憐れみの言葉だけで語られる分かち合い、あるいは涙の分かち合いでさえも、ここでは充分ではありません。わたしたち一人一人が、苦しみのドラマにおける自分自身の責任、特に正しい人々、罪のない人々の苦しみに対する自分自身の責任に気づかなければなりません。ルカ 23:31 のイエスの言葉「『生の木』さえこうされるなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」は、わたしたちに、個人と社会の歴史を現実的に読み解くことを求めます。たとえば、罪のない人がこのように打ちのめされるのであれば、個人と民族の歴史に害悪を及ぼした人々には、何が起きる(べきな)のでしょうか。
イエスは、地上における自分の存在の意味が、権力の追求、成功やキャリアを求める競争、他者を支配する欲望にあるとは考えませんでした。反対に、今日の第二朗読で読まれた聖パウロのフィリピの共同体への手紙にあるように、キリストは、神と等しい者であるという特権を放棄して、僕の身分となり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで、神のご計画に従順でした。 (フィリピ 2:6-11 )
わたしたちは、聖週間の出来事を記念して、単にキリストの苦しみと栄光を思い起こすこと以上の多くのことをします。わたしたちは、実際にキリストのいのちを祝い、その勝利を分かち合います。キリストの死と復活による救いの力が、わたしたちの生活に入ってきます。そしてイエスは、個人と人類全てのための光と救いになります。
25 周年記念
今年は、「枝の主日のワールド・ユース・デー」の制定 25 周年でもあります。ベネディクト 16 世は、最近次のように語りました。「この偉大な行事は、教皇ヨハネ・パウロ 2 世が熱烈に望まれたもので、豊かな実りをもたらす預言的な手始めとなりました。そこには、新世代のキリスト者たちが共に集い、神の御言葉に耳を傾け、教会の美しさを発見し、信仰の体験を生きることを可能にしました。この信仰の体験によって、多くの人々が、自分の全てをキリストに捧げるよう導かれました。」
ワールド・ユース・デーは、(毎回)計画的に出来る限り多くの参加者を集めることにしており、故ヨハネ・パウロ 2 世を偲ぶ、生きた記念となっています。前教皇は、若い人たちが何故ワールド・ユース・デーを受け入れるかを、直感的に理解していました。
シドニーの枢機卿ジョージ・ペルは、ベネディクト 16 世がオーストラリアで 2008 年に開催されたワールド・ユース・デーに参加したことを感謝して、結びのミサで次のように語りました。
「ワールド・ユース・デーは、論争によって衰え、破壊されたカトリシズムのイメージに対する、解毒剤の役割を果たしています。それは、教会の本当の姿、福音宣教の活力に満ちた姿を見せてくれます。」
ペル枢機卿は教皇への挨拶の言葉を、次のような預言的、肯定的な言葉で結びました。「教皇猊下、ワールド・ユース・デーは偉大な教皇ヨハネ・パウロの考え出されたものです。ケルンでのワールド・ユース・デーは、猊下が選出される前に発表されていました。猊下は、ワールド・ユース・デーを継続すること、そして今回のシドニーでの開催を決定なさいました。私たちは、この決定に深く感謝申し上げます。そして、ワールド・ユース・デーは、一人の教皇のものでも、一つの世代のものでもなく、今や、教会生活の通常の一部となっているということを指摘したいと思います。ヨハネ・パウロ 2 世の世代は、老いも若きも全てが、教皇ベネディクトの忠実な息子、娘であることを誇りに思います。」
トロントを思い起こして
さて、カナダ・トロントでの 2002 年のワールド・ユース・デーで、教皇ヨハネ・パウロ 2 世が最後の説教に語った、深く心を動かす言葉を分かち合いながら結びの言葉とさせてください。私たちは今、これまで以上にこの言葉を聞く必要があります。教皇はこう語りました。「ほんの小さな炎でさえも、夜の暗闇を照らすことができます。あなたたちが皆一緒になったらどれほど多くの光が生まれることでしょう。
もしもあなたたちが、教会の仲間として一つに結ばれるなら! そして、あなたたちがイエスを愛し、教会を愛するなら!」
「教会の中に、罪を犯す者、失敗する者がいても落胆しないで下さい。若く、傷つきやすい人たちに危害を加える聖職者や修道者がいれば、私たちは皆、深い悲しみと羞恥心に満たされます。
しかし、大多数の献身的で思いやりのある聖職者や修道者のことを考えて下さい。その人たちは、奉仕し、善を行うことだけを望んでいるのです!」
「今日ここに、多くの聖職者、神学生、生涯を神に捧げた人たちが居ます。その人たちに近づき、その人たちを支えて下さい。そして、もしもあなたが心の奥に、彼らと同じような司祭職や奉献生活への召命を感じたら、恐れずにキリストに従って十字架の王道を歩んで下さい。」
「教会生活で困難に出会うとき、聖性を追求することが一層緊急に必要となります。そして聖性は、
年を重ねることが問題ではなく、聖霊において生きることが問題なのです。」
どうか、敬愛すべき教皇ヨハネ・パウロ 2 世が、御父の家からいつも私たちを見守り、祝福して下さいますように。
◇◇◇
聖書朗読
イザヤ 50:4-7: (主の僕の忍耐)50:4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。50:7 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
フィリピ 2:6-11: (キリストを模範とせよ)2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
ルカ 19:28-40: (エルサレムに迎えられる)19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」9:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
ルカ 23:1-49: (ピラトから尋問される)23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。23:2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」23:3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。23:4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。23:5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。(ヘロデから尋問される) 23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。23:10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。23:11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。(死刑の判決を受ける)23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:17祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。23:19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。3:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(十字架につけられる)23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(イエスの死)23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
Following Jesus on the Royal Road of the Cross
Biblical Reflection for Palm Sunday C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO,
MARCH 23, 2010 ( Zenit.org
) .-
On Palm Sunday this year we hear two sections of Luke's Gospel -- the first
at the blessing of the palms and the second at the reading of St. Luke's passion
narrative. With the royal entry of Jesus into Jerusalem (
19:28-21:38
) ,
a new section of the Gospel begins -- the ministry of Jesus in Jerusalem before
his death and resurrection.
In
a burst of enthusiasm, the people of Jerusalem waved palm branches and greeted
Jesus as he entered the city riding on an ass. The acclamation: "Blessed
is the king who comes in the name of the Lord" (
v. 38 )
is only found
in Luke's Gospel where Jesus is explicitly given the title king when he enters
Jerusalem in triumph. Luke has inserted this title into the words of Psalm 118:26
that heralded the arrival of the pilgrims coming to the holy city and to the
temple.
Jesus
is thereby acclaimed as king and as the one who comes (
Malachi 3:1;
Luke 7:19 ) .
The disciples' acclamation: "Peace in heaven and glory in the highest"
echoes the announcement of the angels at the birth of Jesus (
Luke 2:14
) .
The peace Jesus brings is associated with the salvation to be accomplished in
Jerusalem. There is an internal unity between the Infancy and Passion Narratives
of Luke's Gospel.
Luke is dependent upon Mark for the composition of his Passion narrative ( 22:14-23:56 ) , but he has incorporated much of his own special tradition into the narrative. Among the distinctive sections in Luke's Passion story of Jesus are:
( 1 ) the tradition of the institution of the Eucharist ( 22:15-20 ) ; ( 2 ) Jesus' farewell discourse ( 22:21-38 ) ; ( 3 ) the mistreatment and interrogation of Jesus ( 22:63-71 ) ; ( 4 ) Jesus before Herod and his second appearance before Pilate ( 23:6-16 ) ; ( 5 ) words addressed to the women followers on the way to the crucifixion ( 23:27-32 ) ; ( 6 ) words to the penitent thief ( 23:39-41 ) ; ( 7 ) the death of Jesus ( 23:46, 47b-49 ) .
Palm of Triumph
The peaceful figure of Jesus rises above the hostility and anger of the crowds and the legal process. Jesus remains a true model of reconciliation, forgiveness and peace. In the midst of his own agony and trial, we realize the depths of Jesus' passion for unity: He is capable of uniting even Pilate and Herod together in friendship ( 23:12 ) . From the cross, Luke presents Jesus forgiving his persecutors ( 23:34 ) and the dying Jesus allows even a thief to steal paradise! ( 23:43 ) .
Throughout his account, Luke stresses the innocence of Jesus ( 23:4, 14-15, 22 ) who is the victim of the powers of evil ( 22:3, 31, 53 ) and who goes to his death in fulfillment of his Father's will ( 22:42, 46 ) .
Luke emphasizes the mercy, compassion, and healing power of Jesus (
22:51; 23:43
)
who does not go to death lonely and deserted, but is accompanied by others who
follow him on the way of the cross (
23:26-31,
49 ) .
In
Luke's moving story, the palm of triumph and the cross of the Passion are not
a contradiction. Herein lies the heart of the mystery proclaimed during Holy
Week. Jesus gave himself up voluntarily to the Passion; he was not crushed by
forces greater than himself. He freely faced crucifixion and in death was triumphant.
Role
Models
Along the way of the cross, Luke offers us role models, who teach us to live
in our daily lives Jesus' Passion as a journey toward a resurrection. As the
execution detail leads Jesus from the governor's palace to the rock quarry outside
the gates of the city where public executions took place, they impound Simon
of Cyrene, a passerby, to carry the cross of Jesus (
23:26 )
. Luke's wording
makes it clear that he sees in the figure of Simon an image of discipleship:
Simon takes up the cross of Jesus and carries it "behind Jesus."
The phrase is identical to Jesus' own teaching on discipleship: "Whoever does not carry his own cross and come after me cannot be my disciple" ( Luke 14:27 ) . Those who would live the way of Jesus must be willing to pour out their life on behalf of others. The mere fact of carrying the cross is not what is most important. Many persons in this world suffer dramatically: Every people, every family has on its shoulders sorrows and burdens to bear. That which gives fullness of meaning to the cross is to carry it behind Jesus, not in a journey of anguished solitude, hopeless wandering or rebellion, but rather in a journey sustained and nourished by the presence of the Lord.
Jesus did not understand his earthly existence as a search for power, as a race for success or a career, as a desire to dominate others. On the contrary, as we read in today's second reading from St. Paul's letter to the community at Philippi, he gave up the privileges of his equality with God, took the form of a servant, became like men and was obedient to the Father's plan unto death on the cross ( Philippians 2:6-11 ) .
In
commemorating the events of Holy Week, we do much more than just recall Christ's
suffering and glorification. We actually celebrate his life and share in his
victory. The saving power of his Death and Resurrection enters our lives. And
Jesus becomes light and salvation for each individual and for all of humanity.
25th
Anniversary
This year we also observe the 25th anniversary of the institution of World Youth
Day on Palm Sunday. Benedict XVI recently said: " This great event, so
ardently desired by the Venerable Pope John Paul II, was a prophetic initiative
that has borne abundant fruits, enabling new generations of Christians to come
together, to listen to the Word of God, to discover the beauty of the Church
and to live experiences of faith that have led many to give themselves totally
to Christ."
World Youth Days, by design, draw in as many participants as possible, and remain a living memorial to the late Pope John Paul II, who understood instinctively why young people would respond to them. In remarks at the concluding Mass thanking Benedict XVI for his participation in Australia's 2008 World Youth Day, Sydney's Cardinal George Pell said that World Youth Day acts as an antidote to images of Catholicism as in decline or wracked by controversy. "It shows the Church as it really is, alive with evangelical energy."
Cardinal Pell concluded his address to the Pope with prophetic and affirming words: "Your Holiness, the World Youth Days were the invention of Pope John Paul the Great. The World Youth Day in Cologne was already announced before your election. You decided to continue the World Youth Days and to hold this one in Sydney. We are profoundly grateful for this decision, indicating that the World Youth Days do not belong to one Pope, or even one generation, but are now an ordinary part of the life of the Church. The John Paul II generation -- young and old alike -- is proud to be faithful sons and daughters of Pope Benedict."
Remembering
Toronto
Let me conclude by sharing the deeply moving words of Pope John Paul II in his
final homily at Canada's 2002 World Youth Day in Toronto. We need to hear these
words, now more than ever. He said: "Even a tiny flame lifts the heavy
lid of night. How much more light will you make, all together, if you bond as
one in the communion of the Church! If you love Jesus, love the Church!
"Do not be discouraged by the sins and failings of some of her members.
The harm done by some priests and religious to the young and vulnerable fills
us all with a deep sense of sadness and shame. But think of the vast majority
of dedicated and generous priests and religious whose only wish is to serve
and do good!
"There are many priests, seminarians and consecrated persons here today; be close to them and support them! And if, in the depths of your hearts, you feel the same call to the priesthood or consecrated life, do not be afraid to follow Christ on the royal road of the Cross!
"At difficult moments in the Church's life, the pursuit of holiness becomes
even more urgent. And holiness is not a question of age; it is a matter of living
in the Holy Spirit."
May the Venerable Pope John Paul II continue to watch over us and bless us from the window of the Father's house.
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