怯むことのない王

王であるキリスト 聖書黙想 2009/11/22 トマス・ロシカ師

 

 

典礼年は、今日の「王であるキリスト」の祝日を以って終わります。ヨハネ福音書の、ピラトとイエスの心痛む裁判の光景の中に 18:33-37) 、権力を持つ者と、無力な者との大きな対照が描かれています。

 

イエスを確実に十字架刑にするためにローマ人のところへ来ることによって、ユダヤ人の指導者たちは、「人の子は上げられることになる」という預言を実現したのです。 ヨハネ 3:14; 12:32-33 .  ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」 ヨハネ 18 33 とイエスに尋ねました。この質問に対してイエスは、ローマの役人を挑発するように答えました。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 ヨハネ 18 34

 

ピラトの傲慢さに怯むことなく、イエスは、よく知られる言葉で前の問いに答えます。「わたしの国は、この世には属していない。」 (v 36)  そして直ぐに続けてその理由を述べます。「わたしの王国は強権を用いず、強権を課さない」 (もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。)  イエスは繰り返して、「わたしの国はこの世には属していない。」と述べます。

 

ピラトは敏感な男です。彼はイエスが、王であることを否定してはいないと受け取ります。実際、ピラトは疑わしげに、「それでは、やはり王なのか」 v 3 7 と問い続けます。イエスはよどみなく答えて、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。そのためにこの世に来た。」と語ります。

 

何のために来たのか? それは、平和と友愛、正義と他者の権利の尊重、神への愛、そして互いの愛を実現する世界を創出するためです。 これこそが、わたしたち人間の歴史を貫き、それを輝かせ、さらに高みへと導く終わりのない王国です。わたしたちは、天の父に祈るとき、この王国がその全き姿で実現するようにと祈るのです。

 

この福音の光景に中で、ピラトは、「真理を語る人物」と出会って深く戸惑う指導者として描かれます。わたしたち自身の中にある「ピラト」とは何でしょうか。自由であることを妨げるものは何でしょうか?

わたしたちの恐れとは何でしょうか? わたしたちは自分をどのように見せようとしているのでしょう?人前でわたしたちはどのような服装と仮面を身につけ、それで不安なしにいられるでしょうか? 

見た目やうわべを取り繕い、職業を誇示し、人に良く思われるために、他人を無視し踏みつけに出来る能力とは一体何でしょうか。

 

第四福音書の焦点はキリストの王職に当てられています。イエスのメッセージの核になっているのは、「神の王国」です。そしてイエス・キリストの神とは、この王国の神のことです。その王は言葉と人間の歴史に関わりを持つ御方で、その歴史から王国のイメージは採られています。イエスの王国の中では、宗教的なものと現世的のものとの隔たりはなく、むしろ支配と奉仕の間の違いがあります。

 

イエスの王国は、ピラトが考えている王国とは違っています。好むと好まざるとに関わらず、ローマ帝国の一部でもあるピラトの王国は、自由裁量、特権、支配と占領の王国でした。

 

一方、イエスの王国は愛と正義と平和の上に建てられています。

 

イエスは、神の王国、聖性と恩寵、正義、愛と平和の王国を宣言します。この王国は、神が始まりからなさってきた全ての事柄の最終的な目標であり目的です。それは、解放と救済のための、神の最終的な業です。

イエスはこの王国を、やがて来る「現実」として語りますが、すでにその現実は、イエスの存在の中に、また、その行い、言葉、そしてイエスの運命の中に、神秘的に現存しているのです。

 

今日の「王であるキリスト」の祭儀がだれかを迷わせるとすれば、イエスの王国というよりも、地上の王やリーダーに対する幻滅によるものではないでしょうか? 御子の王職とリーダーシップは、位階や特権を受け付けず、またこの世の主となる試みを拒絶します。イエスには、欲望、貧欲、野望がありません。

イエスは、だれをも断罪せず、罪の穢れのない王であるにもかかわらず、ご自身を断罪されます。

彼は、究極の奉仕の王職、ご自身の生命を他の人々のために擲つまでに奉仕する王です。

 

ヨハネ福音書の中で、イエスは王として死に赴きます。十字架刑は、イエスが王座に着くこと、すなわち忠実な奉仕の究極的な表明です。キリストによって、苦しみの戴冠はもはや死ではなく、永遠の生命となったのです。

権力者の前で無力な存在のままのイエスの姿からは、その偉大さを測り知ることは困難です。わたしたちは、洗練された手段に訴えるにしても、抵抗には力を以ってします。イエスは暴力に対して、更なる暴力を以って答えることは決してなさいませんでした。

 

二つの王冠:

 

王であるキリストの祭儀はわたしにとって特別な意味があります。それはわたしが、聖書学の修士課程の期間をエルサレムの旧市街、 ヴィア・ドロロサ の「 シオンの娘たちのセンター」 にある Ecce Homo Convent で過ごしたからです。このセンターは、ポンティオ・ピラトの法廷であったと信じられる場所に建てられています。今日の朗読場面で、イエスとピラトが印象的な問答を交わした場所です。

 

エルサレムの中の、イエスの生活、苦難、死の出来事を記念する聖地では、ふつう年間を通して二つの祭儀を祝います。その祭儀はイエスの生涯における喜びと悲しみの両面を記念します。

Ecce Homo Center における「司牧的」祭儀は、典礼年の終わりの、喜びに満ちた王であるキリストの祭儀、および四旬節の最初の金曜日の、いばらの冠をつけたイエスの悲しみの祭儀です。

 

キリスト者のコミュニティーが思い巡らし見習うために、主は、二つの祭儀、二つの王冠、二つのイエスのイメージを用意されました。王であるキリストの祭儀は、王冠をつけたキリストのイメージを示します。初めはいばらの冠、それから勝利者のための月桂樹の冠、常緑の栄光の冠です。洗礼の日、わたしたちの頭には聖油が塗られました。それはわたしたちを、もう一人の Christos 、もう一人の油注がれた者にします。わたしたちは、イエスが生きたように忠実に生き、イエスが愛したように熱烈に愛する力を持っています。キリストだけに与えられた栄光の冠は、(実は)わたしたち一人ひとりにも約束されています。わたしたちの信仰、そしてわたしの宣言の中心にあるのは、どの冠でしょうか?

 

 

罪を宣言された救い主でなければ、誰なのか?

 

イエスは、ローマの総督の質問に対し、自分は王であるが、この世の王ではないと宣言します。

(cf. ヨハネ 18: 36) 彼は、人民や領土を支配するために来たのではありません。人々を罪の奴隷の身から解放し、神と和解させるために来られました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ヨハネ 18: 37 .

 

キリストがそれを証しするためにこの世に来た「真理」 とは何でしょうか? イエスの生涯の全ては、神が愛であることを明らかにします。すなわち、カルワリオでご自身の命を犠牲にすることによって完全に証しした「真理」です。

イエスは、十字架による最終的な犠牲によって神の王国を打ち建てました。この目標に到達する道は長く、近道はありません。本当にだれもが、神の愛の真理を、自由意思で受け入れなければいけません。

 

神は愛であり真理です。愛も真理も、決して無理強いされるものではありません。それは心の扉をやさしく叩き、わたしたちが扉を開けて迎え入れるのを待っています。それなのにわたしたちは、そのような訪問者を、自分の生活や地上の王国に迎え入れようとはしないのです。なぜなら、それらの賜物には、重い意味合いが含まれているからです。多くの人は、力を以って真理に抵抗します。一方、他の人は、巧みな圧力や操作に頼って、真理をはねつけます。

 

十字架につけられたキリストを思い浮かべるとき、わたしたちは、現代に至るまでキリストが王に留まっている理由の何たるかを理解します。彼は不屈でした。真理の体現者である彼は、ご自身を誰にも押し付けたりしませんでした。彼はそこに立って待ち、ノックしました。彼は、暴力に暴力を以って報いることはしませんでした。

 

西暦 2000 年記念の聖金曜の夜、ローマのコロシアムで行われた十字架の道行の結びで、教皇ヨハネ・パウロU世は感動的な話をなさいました。「咎めを受けた救い主の他に、不当に咎められた人々の痛みを十分に理解できる人がいるでしょうか?」 「嘲笑され、辱められたこの王の他に、希望も尊厳も失って生きている無数の男女の願いに応える人がいるでしょうか?」 「十字架につけられた神の子以外に、希望を挫かれ、未来に絶望して生きる多くの生命の悲しみと孤独を知る人がいるでしょうか?」

イエスは彼の傷を天に携えて行き、われらの王が栄光のうちにその傷を担っておられます。それゆえ、天には、わたしたちの傷のための場所が用意されているのです。

 

今日の典礼年最後の日曜日、十字架につけられた王がわたしたちの中心で腕をひろげ、愛の憐れみを以って迎えていてくださいます。

どうか、わたしたちが勇気を持って、次のようにイエスに願えますように。

王国でわたしたちを憶えていてください。この世の王国においてイエスに倣う恵みを与えてください。そして、イエスがわたしたちの命と心の扉を叩くとき、彼を迎え入れる賢明さを与えてください。

 

 


The King Who Did Not Bow Down

Biblical Reflection for Solemnity of Christ the King Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, NOV. 18, 2009 (Zenit.org).- The liturgical year ends with the Solemnity of Christ the King. In John's poignant trial scene of Pilate and Jesus (18:33-37), we see a great contrast between power and powerlessness.

 

In coming to the Romans to ensure that Jesus would be crucified, the Jewish authorities fulfilled his prophecy that he would be exalted (John 3:14; 12:32-33). Pilate asks Jesus: "Are you the King of the Jews?" (v 33). The accused prepares his answer with a previous question, which provokes the Roman official: "Do you ask this on your own or did others tell you about me?" (v 34).

 

Pilate's arrogance does not intimidate Jesus, who then gives his own answer in the well-known words: "My kingdom is not from this world" (v 36). At once, Jesus gives the reason: "My kingdom does not use coercion, it is not imposed." Jesus reiterates his point: "My kingdom is not from this world."

 

Pilate is very astute. He does not see in Jesus' answer a denial of his kingship. In fact, Pilate infers and insists: "So you are a king" (v 37). Jesus accepts his claim without hesitation: "You say that I am a king. For this I came into the world."

 

For what? To inaugurate a world of peace and fellowship, of justice and respect for other people's rights, of love for God and for one another. This is the kingdom that penetrates our human history, illuminating it and leading it beyond itself, a kingdom that will have no end. When we pray the Our Father, we pray for this kingdom to come in its fullness.

 

For what? To inaugurate a world of peace and fellowship, of justice and respect for other people's rights, of love for God and for one another. This is the kingdom that penetrates our human history, illuminating it and leading it beyond itself, a kingdom that will have no end. When we pray the Our Father, we pray for this kingdom to come in its fullness.

 

In this Gospel scene, Pilate reveals himself as a deeply perplexed leader as he encounters one who is Truth. What is there of Pilate inside of each of us? What prevents us from being free? What are our fears? What are our labels? What costumes and masks are we wearing in public and really don't care to jeopardize? What is our capacity for neglecting and trampling on others for the sake of keeping up appearances, maintaining the façade, or the important job, or people's good opinion with regard to our respectability, our reputation or good name?

 

In the Fourth Gospel, the focus is on the kingship of Christ. The core of Jesus' message is the kingdom of God, and the God of Jesus Christ is the God of the kingdom, the one who has a word and an involvement in human history from which the image of the kingdom is taken. In the kingdom of Jesus, there is no distance between what is religious and temporal, but rather between domination and service.

 

Jesus' kingdom is unlike the one that Pilate knows and is willingly or unwillingly part of Pilate's kingdom, and for that matter the Roman kingdom, was one of arbitrariness, privileges, domination and occupation.

 

  Jesus' kingdom is built on love, justice and peace.

 

Jesus proclaims the kingdom of God, the kingdom of holiness and grace, of justice, love and peace. This kingdom is God's final aim and purpose in everything he has done from the beginning. It is his final act of liberation and salvation.

 

Jesus speaks of this kingdom as a future reality, but a reality that is mysteriously already present in his being, his actions and words and in his personal destiny.

 

If today's solemnity of Christ the King upsets some of us, is it not due to our own disillusionment of earthly kings and leaders, rather than the kingship of Jesus? The kingship and leadership of God's Son refuses rank and privilege, and any attempt to be master of the world. In him there is no lust, greed and ambition for power.

 

He, the innocent king who executes no one, is himself executed. His reign completely overturns our notions of earthly kingship. His is a kingship of ultimate service, even to the point of laying down his life for others.

 

In John's Gospel, Jesus goes to his death as a king. The crucifixion is Jesus' enthronement, the ultimate expression of royal service. Because of Christ, the coronation of suffering is no longer death, but rather eternal life.

 

Very few can measure up to Jesus' kingly stature, remaining powerless in the face of the powerful. Many of us resist with power, even though we resort to very refined forms of pressure and manipulation. Jesus never responded to violence with more violence.

 

Two crowns

The solemnity of Christ the King has had particular significance for me since I lived at Ecce Homo Convent, the Sisters of Sion Center on the Via Dolorosa in Jerusalem's Old City during the years of my graduate studies in Scripture. The whole complex is built over what is believed to be Pontius Pilate's judgment hall, the setting for today's striking Gospel scene between Jesus and Pontius Pilate.

 

The holy sites in Jerusalem, which commemorate events in the life, passion and death of Jesus, often have two feasts throughout the year, feasts that remember the joyful and sorrowful aspects of Jesus' life. Ecce Homo Center's "patronal" feasts are the joyful solemnity of Christ the King at the end of the liturgical year, and the sorrowful feast of Jesus crowned with thorns on the first Friday of Lent.

 

Two feasts, two crowns, two images of Jesus the Lord set before the Christian community to ponder and imitate. The feast of Christ the King presents us with the image of Christ crowned -- first with thorns, then with the victor's laurel hat, the evergreen crown of glory. On the day of our baptism, the crown of our head was smeared with the holy oil of chrism, that royal oil that makes us another Christos, another Anointed One. We have the power to live faithfully and love fiercely as Jesus did. The crown of glory -- Christ's very own -- is promised to each of us. Which crown is found at the center of our faith and our proclamation?

 

Who, if not the condemned Savior?

Jesus answered the Roman governor's questions by declaring that he was a king, but not of this world (cf. John 18: 36). He did not come to rule over peoples and territories, but to set people free from the slavery of sin and to reconcile them with God. He states: "For this I was born, and for this I have come into the world, to bear witness to the truth. Everyone who is of the truth hears my voice" (John 18: 37).

 

What is this "truth" that Christ came into the world to witness to? The whole of his life reveals that God is love: So this is the truth to which he witnessed to the full with the sacrifice of his own life on Calvary.

 

  Jesus established the kingdom of God once and for all from the cross. The way to reach this goal is long and admits of no short cuts: Indeed, every person must freely accept the truth of God's love.

 

God is Love and Truth, and neither Love nor Truth are ever imposed. They stand gently knocking at the doors of our minds and hearts, waiting for us to open the door and welcome them. Yet so often we are afraid to usher in such guests into our lives and earthly kingdoms because of the serious implications associated with such gifts. Many of us resist the truth with power, while others will resort to very refined forms of pressure and manipulation to keep the Truth at bay.

 

As we contemplate Christ crucified, we understand something of why Christ has remained a king even up to modern times: He didn't bow down. He who was Truth incarnate never imposed himself on others. He stood, waited and knocked. He never responded to violence with more violence.

 

At the conclusion of the Stations of the Cross at Rome's Coliseum on Good Friday night in the Jubilee Year 2000, Pope John Paul II spoke these moving words: "Who, if not the condemned Savior, can fully understand the pain of those unjustly condemned? "Who, if not the King scorned and humiliated, can meet the expectations of the countless men and women who live without hope or dignity? "Who, if not the crucified Son of God, can know the sorrow and loneliness of so many lives shattered and without a future?" Jesus took his wounds to heaven, and there is a place in heaven for our wounds because our king bears his in glory.

 

On this last Sunday of the liturgical year, our Crucified King hangs in our midst, arms outstretched in loving mercy and welcome. May we have the courage to ask him to remember us in his kingdom, the grace to imitate him in our own earthly kingdoms, and the wisdom to welcome him when he stands knocking at the doors of our lives and hearts.

 


 

 

朗読

 

ダニエル 7:13-14:の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

 

黙示 1:5-8:証人(であり、)誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

ヨハネ 18: 33b-37:(そのときピラトはイエスに、)「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 

 

 

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