「韓国の教会」 教会の変化 社会の変化に伴い韓国の教会はどのように変わったか。韓国教会は、第二バチカン公会議 に関連した公文書に書かれているように、社会問題への参画の義務と権利の意識に目覚め てくる。韓国の社会は、45年の解放前と後、60年代以降の経済の持続的発展期への過度期、 そして80年代以降の新たな政治経済の安定期における活動の三つの時代に区分して考え ることができる。その中で「社会正義の問題」、「社会開発の問題」、それに「民族統一の問題」 が現れてきた。教区では教区シノドスが開かれ何を教区の中心テーマにすべきかが現在論 議されてきている。
信徒の役割 教会のアイデンティティーの確立が求められている。さもないと自分のおかれている立場が分 からなくなる。社会分析の中で教会の置かれている状況を正確に分析する事が必要です。そ して教会の外から教会に対して求められていること、教会の内部から教会に求められているこ と、この二つの側面から教会に求められていることを把握する必要があります。世界教会が伝 統的に教えてきた教えの内容と同時に韓国独自の問題を捉えるようにとの要請が教皇および 教皇庁からあった。アドリミアで与えられた韓国教会の使命でもあります。
世界の教会として韓国教会に求められているものは、第二バチカン公会議の内容とその他の 回勅が世界の教会に求めているのと同じ要請です。それは「愛の文化の養成」ということで理 解されています。「愛の文化」と言う表現はあまり使われてこなかったと思います。これまでの 教会活動は、それぞれ個々に、貧しい人々にたいする医療活動とか、外国人労働者のため に政治的に活動することなどでしたが、諸活動のすべてを総合して広く文化全体に及ぼす活 動として「愛の文化」と言う言葉で意識化されてきたのです。「愛の文化」と言う視点から公会 議の公文書を読み解き、それを韓国教会の活動の基本的指針としてきました。第三千年期と いう回勅が出されてからは、その内容を取り入れ三本柱となりました。それに加えて、1996年 のアドリミナで北朝鮮と中国の宣教を準備するようにとの教皇のご意向が伝えられたので、そ のために特別な宣教センターが設立されて研究活動が行われています。
次に外から求められているものは何かを知るために、これまで教会の意識調査は一般信徒を 対象にして実施されてきましたが、その後、司祭修道者の意識調査もすべきであるとの議論 が活発になっています。修道会も自己診断を行っているところが多くなりました。一般の研究 所調査機関に依頼して修道会の分析が行われているのです。正確な自己分析なしには新し い教会を目指す活動はできないでしょう。
これらの動きの中で気になるのは教会がだんだんと世俗化してゆくことです。教会が教会とし ての自分の姿勢を保たないで一般の人々と同じようになって行くなら教会のアイデンティティ ーはなくなってゆくと思います。
教会の中でも権力とか金銭の問題が出てきている。経済の発展から教会の信者も貧しい者た ちの教会から豊かな者の教会に変わりつつある。教会の中で貧富の格差の問題がおきてい ます。教会の巨大化現象もおきている。組織としての教会の存在感はあるとしても個人として の信心生活が弱ってきている。現在これらの事柄に関して司祭信徒がどのように対応すべき なのか議論されているところです。
信徒の役割の変化 これまで信徒は聖職者の決定にひたすら従わざるを得ない存在であった。韓国の教会では 司祭が教会内のすべての事柄に関わっていてすべての権限をもっていいます。信徒からの 不満が大きいのですがまだ韓国の教会でも解決されていません。現在ソウル教区では教区 シノドスが開かれていて9月ごろには一つのまとまった文章が出される予定です。一番大きな 問題は聖職者の権威主義に対する不満でした。信徒の役割はだんだん増えつつあると思い ます。昔はあたかも聖職者が全能者のような振る舞いをしてきました。現在は司祭が不足して います。信徒も教会の事柄に通じてきている。領域が細分化されてそれぞれに専門家が必要 な時代になってきている。教会の中には司祭修道者以外にも多くの専門化がいる。その専門 家としての能力を生かしてゆくことが大切でしょう。
しかし或る信徒神学者が指摘していることですが、韓国の司祭は年長者に対しても誰に対し ても敬語を使わないで話してもよいという社会的な了解事項があります。現実には二種類の 司祭がいて、司祭になった後は友達に対してこれまでと同じ対話をする人と、友達に対しても 敬語を要求する人である。このような神父の意識を変えさせるのは信徒の力が必要です(記 録者注:韓国語の敬語の用法には厳しいものがあり日本語以上です)。韓国では信徒神学者 では食べてはいけない神学は聖職者がするものであるとの認識が強いからです。信徒神学 者の意見はなかなか受け入れられない。信徒神学者としての役割を果たすのが難しい状況 にあります。信徒が学ぶ場も十分ではありません。
司祭と信徒の協力 関心の対象は司祭・修道者・信徒で異なっている結果がアンケートの分析に出ている。信徒 でもそれぞれの社会的状況によって異なっている。司祭聖職者の一番の関心事は教区運営 で特に「司教が何をしているのか分からない」という不満でした。青少年・教育・典礼秘蹟など に関するものは少なかった。修道者は聖職者問題についで教育問題でした。神学生は聖職 者そして青少年と教育でした。青年信者の場合は教育問題が一番で次に典礼秘蹟で次に宣 教問題でした。現在は特に南北統一問題や「愛の文化」をどのように実現してゆくのかに関 心がもたれていると思います。ソウル教区としては新しいソウル文化の建設に協力している。
文化つくりに際しての関心事にも司祭と信徒で差がある。司祭は霊的なもの神学的なもの司 祭の養成召命の促進、信徒からは小教区での役割についてであって、明確な差がある。バ チカン公会議以降50年が経とうとしている、社会の変化の中で教会の役割を聖職者中心に なっていて信徒の役割の意識化は殆どしてこなかった。
まとめ 教会は社会が貧しいときいろいろな社会福祉活動をしてきたが60年代になると労働者問題 に取り組み、70年―80年代には主に社会正義に関わりあってきました、その後政治的なもの よりは文化的なものに関心が変わり2000年度からは新しい文化つくりを目指しているというこ とです。しかし信徒は個人でもグループでも意見を出してきたがその意見はあまり省みられな かった。教会としての課題は専門分野を信徒にどのように任せてゆくのかといえるだろう。激 動の時代でこれからどのようになってゆくのかは、考える人々の手にゆだねられていると言え るでしょう。 インドネシアの教会 インドネシアには複雑な司教との対立があるので歴史を振り返ることからお話します。インドネ シアのキリスト教はマイノリティです。90%近いイスラム教徒の中にいる。キリスト教徒としての 使命を果たすのは非常に難しい状況にある。1945年の憲法には「国家は唯一の神に対する 信仰に基礎をおく」と書かれている。1965年にはイスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教を 公認し国民はそのいずれかに属さなければならないとした。1978年にはすべての外国人宣 教師に追放を布告した。
諸宗教の共存は1990年までは一応保たれていた。民族と宗教が一致している。そのため宗 教対立として起こる争いは実は民族対立です。宗教対立の激しい中でキリスト教が存在して いる。キリスト教は国とイスラム教から妨害されている。
7世紀にスマトラにキリスト教が入った。それはすぐに消滅した。1522年にポルトガルの植民 地がマルク島とスラウエシ島に拡大した。1546年ザビエルが一年近く滞在した。1562年イエ ズス会とドミニコ会の宣教師がくるようになった。16世紀の終わりごろには18の宣教地区と2 万5千のキリスト教徒がいた。1605年ポルトガルがオランダに敗北し宣教師は帰国してオラ ンダの宣教師がきたがその時期にはカトリックよりプロテスタント改革派教会が強くなってきた。 その後2世紀ぐらいは改革派はインドネシア諸島では唯一のキリスト教勢力であった。フラン ス革命の影響が植民地にも現れ宗教の自由が宣言された。19世紀からは他のプロテスタント 教会の伝道を開始し、カトリック教会も復帰した。そのころまで16世紀にできたカトリック信仰 共同体はまだ生き残っていた。彼らは2世紀にわたりポルトガル語のロザリオ祈り口伝聖書を 教えていた。フローレス島のラランテウカという町が特に目立つ存在であった。
第二次世界大戦の間3年ほど日本が支配していたがこの間長崎司教がフローレス島エンデ 教区長となった。戦後多くの宣教師が戻ってきた。1960年代からカトリックやキリスト教諸派の 信者が大幅に増えた。その背景は1965年共産主義者のクーデター失敗と弾圧であった。そ のときから4つの宗教のどれかに国民は属さなければならなくなった。このときほとんどの人は イスラム教になり中国系は皆キリスト教になった。それが信者が増加した主因である。
教会活動はその後政府の圧力やマイノリティとしての限界などから限定されたものとなった。 教育は修道会、病院は女子修道会。教会生活のモデルはバチカン公会議以前のモデルで あった。植民地として宣教師にただ従うだけであった。信者は何もしないですべてを司祭が行 っていた。献金はすることなくすべて外国からの援助であった。そのため現地の司祭が誕生 して自分たちで教会を運営しなければならなくなった時に問題が起きてきた。また、信仰の面 でも信者はキリスト教に入る前にはアニミズム宗教でありキリスト教に入信した後にもその信心 それは続いたのである。
第二バチカン公会議以降の現代化、インカルチュレーションが問題のなったが、」これは司祭 だけの意識であった。それも典礼だけであった。その後、国全体として教会をとらえてゆく動 きが起きてきた。しかし現実には限界があった。宗教対立のある社会の中でどのように福音を 伝えてゆくのか意識化の努力がなされた。インドネシアでは「交わり」としてのキリスト教共同体 がのびてきた。その中で信徒の役割が強調されてきた。はじめに信徒が考える。信徒の役割 が強まる一方、司祭の力が弱ってきた。司祭の社会正義に対する批判的役割も弱ってきた。 政治批判も司祭ではなく信徒が行うようになってきた。基礎共同体の中では他の宗教の人々 と生活をともにしたので、基礎共同体の中での宣教は諸宗教との対話でもあった。その結果 他の宗教との対話が始まってきた。典礼の方も代わり明るくなっていた。現地の儀式も取り上 げられてきた。
福祉活動ではだんだんNPO、NGOが伸びてくるとともに、教会全体として司教団とか教会と
かの役割は減少してきている。(政治的考慮から)司教団としてはNPO、NGO活動をさける ようにとの声が起こり、信徒は批判的役割をやらなくてもよいとの発言が教会指導者の中から
出始めてきた。信徒と聖職者の乖離が起きてきた。国に対する批判的役割は信徒がしてきた が、政府からの圧迫ではなく、教会からの圧迫の声が出てきているのです。これは大きな問
題となってきているのが現状です。
注:文章の責任は記録作成者にあります。誠実につとめましたが聞き違いもあるかもしれません。iこの記録は韓国とインドネシアかられた司祭が「学び合い」U期で話された内容の概要です。日本の信徒には諸外国の教会事情がほとんど伝わっていません。特にアジアの教会に関しては皆無に近いといって良いと思いますので貴重な情報と考え収録しました。
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