強く、勇気ある寡婦たち

年間第32主日B年聖書黙想 2009/11/08 トマス・ロシカ師

 


今日の聖書朗読のうち、旧約聖書は列王記上 17:10-16 で、福音書はマルコ 12:38-44 の物語です。    ここには二人の注目すべきやもめが登場しますが、この二人の確信と寛容と信仰はわたしたちに強く訴えかけてきます。

 

このやもめたちによって、わたしたちは、貧しい人々や貧しさに対する考え方を省み、 他者への寛大さについての自分の態度を見つめ直すように導かれます。

 

聖書に登場する二人のやもめの物語について、先ずわたしの思いを述べ、続いて彼女らの生き方を、ベネディクト 16 の最近の回勅 "Caritas in Veritate" 『真理に根ざした愛』 の視点から、わたしたちの生き方に当てはめてみたいと思います。

 

エリヤの信仰:

 

列王記上・下のエリヤとエリシャの物語を読むたびに、わたしは イエズス会士 Stephen Pisano 師への感謝の祈りを唱えます。師は、ローマ教皇庁研究所でのわたしの指導教授の一人で、「列王記における神の祭司」という、旧約聖書に関する最高の連続講義を受けました。

 

これまでわたしは、幾度その時のノートを読み返し、エリヤとその弟子エリシャの物語を味わってきたことでしょう。そして二人が、神のみ言葉がイスラエルの地に知られ愛されるようにと奮闘する姿を、繰り返し味わってきました! それは神様がご存知です。

 

列王記上 17:8-16 の中で、神は、預言者エリヤを 繰り返し試みます。 今日の朗読は 10 節から始まりますが、 テキストの意味を十分に理解するためには 8 節まで戻ることが大切です。 8 節には、「主の言葉がエリヤに臨んだ・・・」とあります。

 

エリヤは、神からメッセージを受け取って初めて出発しました。わたしたちにとっても、使命を帯びて出発する前に、御言葉に耳を傾けることによって、神との意思疎通を図ることが必要です。

 

その時 エリヤは、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。」と言われます。 サレプタは、シドンにあります。 9節には、「立て」、「行け」、「住め」という三つの命令が出てきます。エリヤは、この三つの命令の一つ一つについて、信仰、信頼、従順、献身、および命令の受託を通して試されることになります。エリヤが「立て」と言われたとき、それは身体の動きだけではなく、霊的な動きも意味しました。エリヤにとって、主に従順に従うことは、彼自身が改めて霊的に目覚めた結果なのです。

 

第二の命令「サレプタに行け」は、冒険、困難、危険を伴う旅を意味しています。エリヤは特別の場所サレプタに送られます。サレプタの意味は「精錬する場、試練の場」です。さらに、サブレタは、シドンの土地にあり、 シドンは、邪悪な王妃イゼベルのものでした。 エリヤは、決して休息や休養の旅に送られたわけではありません。

 

第3の命令「そこに住め」は、ひたすら主に仕えること のみを願う 神の祭司としてのエリヤの献身、信頼、洞察力を強く求めます。エリヤの食物は、シドンの異教の国で飢餓に 瀕している 貧しく、衣食にも事欠き、絶望しているやもめから与えられるのです。シドン人は、イスラエルの神とはっきりと対立する勢力を代表しています。

 

エリヤは、助けてくれる女性に出会います。女性は、大きな家に暮らしているわけでもなく、また、余ったものを旅の預言者たちに分け与える余裕も無く、かえって、家には乏しい食卓の準備をするための燃料さえなくて、町の入り口でわずかな薪を拾っていたのでした。

 

列王記上17章 17:1-7 にある、荒れ地の中の(ケリト川の畔で)烏に命じて、エリヤを養わせた神。 その同じ神は、やもめに命じて、エリヤを養わせようとしていたのでした。

 

サレプタで、その貧しい女性は、エリヤの導きに耳を傾けました。そしてその結果は、主のみ言葉を受けてエリヤが約束した通りになりました。やもめは、神の力を悟りました。 「こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。」( 17:15

この物語から何を学べるでしょうか?

 

一人の貧しい女性の寛容さと善良さ、そして、エリヤの忠実さの故に、神はエリヤの信仰を強め、その司牧能力を新たにし、同時に、エリヤを用いてやもめとその息子を慰めます。主なる神は、外面的な弱さ、失敗、恐れを超えて、わたしたちを養います。神の業(わざ)はいつでも、わたしたちが求め想像し得ることをはるかに超えているのです。

 

今日読まれる、よく知られたマルコ 12:38-44 の物語の中で、イエスは貧しいやもめの献金を褒めます。そして、献金の評価基準は、 神のみ業にいくら差し出すのかでも、 献金箱に入れるお金の多寡でもなく、払う人が自分のために残す額にあることをイエスは明白に示します。有り余る所持金から献金する人たちは、自分のためにも有り余るお金を残しています。

 

イエスがこの女性を褒めたのは、女性が神殿のために「銀行口座」を空にしたからでしょうか。イエスは、貧しい人を話題化し、理想化しているのでしょうか。わたしはこれまでに、「大人になったら、無一物で貧しくなり、腹ペコのホームレスになりたい。」と夢見ている人に会ったことがありません。

わたしはまた、政府が行う社会扶助の基準を次々と使って暮らすことを喜んでいる人も知りません。さらには、ゴミ置き場をあさることを楽しんでいる人とか、カナダの冬の寒さの中、不便なばかりか危険さえも犯して、電気や水道の料金が払えないと得意がっている人も見たことがありません。

今日の刺激的な福音物語に登場する女性が貧しかったのは、彼女がやもめだったからです。やもめは、その暮らしを、男性の親類縁者に完全に頼っていました。やもめになるということの悲劇は、配偶者を失うことだけでなく、まったく頼れる人を失うということにあります。やもめたちは、生活に必要な物を与えてくれる他の親類縁者や共同体の仲間の寛容によって生きていかねばなりませんでした。

 

この女性の手の中のレプトン銅貨二枚は、ほとんど彼女の全財産でした。それほどに貧しい人は、百円玉の一枚、二枚あっても、生活保護から脱して就職しようという気も起こりません。

数コインあろうとなかろうと、そのやもめは頼る人間です。 彼女は神の恵みにまったく依存していました。 彼女の暮らしは、地位や身分とは無縁です。それ にも拘わらず、彼女は神の恵みに全く依存し、その憐みの中で真に豊かでした。

 

イエスは、富んでいる人たちを決して非難しません。ただ、富んでいる人たちは、御国に入ることが難しいと知るだろうと言うだけです。

問題となるのは、銀行預金の額や債券の保有高ではなく、その金が何に向けられるかにあります。その金は、他者を助けるため、世界をよりよい場所にするために使われているでしょうか? その金は、飢えている人たちに食料を与え、裸の人たちに衣服を着せるため、家のない人たちや貧困で衣食に事欠く人たちに生活の必要物を供給するために使われているでしょうか? 命の文化を築くために使われているでしょうか? わたしたちの生活が、お金を中心にして回ってはいないでしょうか?

本当にわたしたちを豊かにしてくれる神に頼っているでしょうか? わたしたちは、「持ち主」の如く振舞ってはいませんか? それとも、「世話係」として生きていますか?

 

このやもめは、彼女の自立心のしるしを賽銭箱に投げ入れましたが、 自分の暮らしは神と隣人にまったくゆだねていました。 彼女の信仰の模範は、神の愛に根ざしています。それは、すなわち、神に対する彼女の愛と彼女に対する神の愛の姿です。

彼女は、その貧しい財産の「世話係」であって、「持ち主」ではありません。この貧しいやもめは、抑圧や卑下とは全く違う「信頼」こそが、深い喜びと感謝のうちに生きる道につながることを教えてくれます。

 

真理のおける博愛

 

ベネディクト XVI の回勅 "Caritas in Veritate" からの次の四箇所は、今週、わたしたちが注意深く黙想するために役立つでしょう。

 

1 .  「 愛と真理を探求する際、わたしたち人間がそれを不毛にすることの無いように、イエス・キリストによって清められ、解放される。そしてイエスは、神がわたしたちのために既に準備して下さっている愛の優位性と、真の生き方への計画を遺憾なく啓示してくださる。キリストにおいて、真理を愛することは、「そのペルソナの御顔」、すなわちキリストのご計画の真理のうちに、わたしたちが兄弟姉妹を愛することへの召命となる。実にキリストご自身こそが真理である。(ヨハネ  14:6 参照)

 

23 .  「 経済的な遅れから浮上するという事象それ自体は良いことだが、それは人類の進歩の複雑な諸問題を解決しないし、またそのような発展の先頭に立ってきた国々に対しても、既に経済的発展を遂げている国々対しても、諸問題の解決をもたらさない。更に、まだ貧しい国々にとっても、古い形の開発のために苦しんでいるだけでなく、不正と不均衡に特徴付けられる「成長のマイナスの結果」によっても苦しんでおり、経済の進展はそれらの問題解決とはならない。

 

42 .「長い間、貧困諸国は、 あてがわれた発展段階に留まるべきで、先進諸国の慈善行為からの援助を受けることに甘んじるべきであると考えられてきた。パウロ6世は、 ‘Populorum Progressio.' (『諸民族の進歩』) で、この考え方に強く反対した。

「今日、これらの諸国を貧困から救い出すのに役立つ物質的資源は、 以前よりも多い可能性を秘めている。 しかしそれらは、最終的には大部分が先進諸国の人たちの掌中に収められてきた。

その人たちは、資本と労働力の移動によってもたらされた自由化から更に利益を得てきた。それゆえ、繁栄の諸形態の世界規模の拡散は、自己中心的、保護主義的、すなわち個人的利益に役立つプロジェクトによって妨げられるべきではない。」

 

75 .  「 世界の貧しい人たちが、富んでいる人たちの扉をたたき続けているが、富裕な世界は、もはや、そのようなノックの音を聞くなどという危険は冒さない。それは良心が、何が人間的であるかをもはや識別できないからである。

 

神は、人間に自分自身の姿を見せて下さる。 もし、わたしたちが見たいと思うなら、理性と信仰は相伴って働き、何が善であるかをわたしたちに示す。自然法は、その中では創造的な理性が輝いていて、私たちの偉大さを示すが、一方で、倫理的真理への呼びかけを悟れない限り、私たちの惨めさをも示す。」

 

 

 

 


TWO MIGHTY AND COURAGEOUS WIDOWS

Biblical Reflection for 32nd Sunday in Ordinary Time B By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, NOV. 4, 2009 ( Zenit.org ).- Today's Old Testament reading from 1 Kings 17:10-16 and the Gospel story from Mark 12:38-44 present us with two remarkable widows who challenge us by their conviction, generosity and faith.

 

They force us to reexamine our understanding of the poor and poverty, and look at our own ways of being generous with others.

 

I would like to offer some reflections on the stories of these two biblical figures and then apply their example to our own lives, through the lenses of Pope Benedict XVI's recent encyclical letter "Caritas in Veritate."


Elijah's faith

Whenever I read stories from the Elijah and Elisha cycle in the first and second books of Kings, I always say a prayer of thanksgiving for one of my professors from the Pontifical Biblical Institute in Rome, Jesuit Father Stephen Pisano, who taught the best course I had in the Old Testament: "The Man of God in the Books of Kings."

 

God knows how many times I have gone back to those notes and appreciated anew the stories of Elijah and his disciple Elisha, and their efforts to make God's Word known and loved in the land of Israel!


In I Kings 17:8-16, God's continues to test the Prophet Elijah. While today's lectionary reading begins with Verse 10, it is important to go back to Verse 8 to understand the full meaning of the text. In Verse 8 we read: "The word of the Lord came to him, saying... ."

 

Elijah did not set out until he received the message from God. It is essential for us to be in communication with God through listening to God's Word before setting out on mission.


Elijah is then told to go to Zarephath (v. 9), which is part of Sidon. Verse nine contains three commands: "arise," "go," and "stay." The prophet will be tested with each of these commands through faith, trust, obedience, availability and commitment. When Elijah is told to "arise," it is not only a physical movement but a spiritual one. For Elijah, following the Lord obediently is the result of his own spiritual reawakening.

 

The second command -- "go to Zarephath" -- carries with it the idea of a journey, including risks, hardships and dangers. Elijah is sent to a specific place, Zarephath, which means "a smelting place, a place of testing." Furthermore, Zarephath was in the land of Sidon, which belonged to the wicked Jezebel. Elijah is hardly being sent to a vacation destination for rest and relaxation!

 

The third command -- "stay there" -- was a great challenge to his commitment, trust and vision as a man of God who was simply seeking to serve the Lord. Elijah's provision would come from a poor, destitute, depressed widow facing starvation in the pagan nation of the Sidonians who represented the forces clearly in opposition to the God of Israel.

 

Elijah encounters his benefactress, not living in a large house and sharing her excess with itinerant prophets, but rather at the gate of the city, collecting a few sticks since she had no fuel at home to cook even a meager meal.


The God who commanded the ravens and who provided for Elijah in the desert (I Kings 17:1-7), was the same God who had commanded the widow and would provide for the prophet through her.

 

At Zarephath, the poor woman listened to Elijah's instruction and it was just as he had promised according to the Word of the Lord. She saw the power of God: The widow, her son, and Elijah were all sustained.

 

What lessons can we learn from this passage?
Because of a poor woman's generosity and goodness, and Elijah's faithfulness, God strengthened the prophet's faith, renewed his capacity for ministry, using him to comfort the widow and her son at the same time. The Lord God will provide for us, beyond outward appearances of weakness, failure and fear. God always does far more than we can ever ask for or imagine.

Just a mite
In today's well-known Gospel story (Mark 12:38-44), Jesus praises the poor widow's offering, and makes it clear that the standard measurement for assessing gifts is not how much we give to the works of God or how much we put in the collection basket, but how much we have left for ourselves. Those who give out of their abundance still have abundance left.

 

貧者の一灯

Is Jesus exalting this woman because she emptied her bank account for the temple? Is Jesus romanticizing and idealizing the poor? I have yet to meet people who dream of growing up destitute, poor, hungry and homeless. I don't know anyone who delights in living from one government social assistance check to the next, nor people who enjoy rummaging through garbage bins and are proud that they cannot afford to pay for electric and water bills for their inadequate and even dangerous housing situations during cold Canadian winters.

 

The woman in today's provocative Gospel story was poor because she was a widow. She was completely dependent on her male relatives for her livelihood. To be widowed meant not only losing a spouse, but more tragically, losing the one on whom you were totally dependent. Widows were forced to live off of the generosity of other male relatives and anyone in the community who might provide for one's needs.

 

The two coins in the woman's hand were most likely all she had. When one has so little, a penny or two isn't going to move that person from complete social assistance to employment. With the coins or without them, the widow was still a dependent person. She had no status in life.

She was totally dependent on the grace of God, yet she was indeed rich in God's mercy.


Jesus never condemns the rich but simply says that they will find it difficult to enter the kingdom.

What matters is not how much money is stored in bank accounts or kept in stocks and bonds, but rather for what that money is destined. Will the money be used to assist others, to make the world a better place? Will be it used to feed the hungry, clothe the naked, provide for the homeless and destitute poor? Will it be used to build a culture of life? Do our lives revolve around the money or are we dependant on God who truly makes us rich? Do we behave as owners or live as stewards?

 

 

The widow tossed her only signs of independence into the collection basket, but she maintained her complete dependence on God and neighbor. Her example of faith is grounded in the love of God: her love for God and God's love for her.

She was a steward and not an owner of her meager possessions. This poor widow teaches us that dependence, far from being oppressive and depressive, can really lead to a life lived in deep joy and profound gratitude.


Charity in truth
Four brief sections from Benedict XVI's recent encyclical letter "Caritas in Veritate" merit our careful reflection and meditation this week.


1. "The search for love and truth is purified and liberated by Jesus Christ from the impoverishment that our humanity brings to it, and he reveals to us in all its fullness the initiative of love and the plan for true life that God has prepared for us. In Christ, charity in truth becomes the Face of his Person, a vocation for us to love our brothers and sisters in the truth of his plan. Indeed, he himself is the Truth (cf. John 14:6)."

 

23. "The mere fact of emerging from economic backwardness, though positive in itself, does not resolve the complex issues of human advancement, neither for the countries that are spearheading such progress, nor for those that are already economically developed, nor even for those that are still poor, which can suffer not just through old forms of exploitation, but also from the negative consequences of a growth that is marked by irregularities and imbalances."

 

42. "For a long time it was thought that poor peoples should remain at a fixed stage of development, and should be content to receive assistance from the philanthropy of developed peoples. Paul VI strongly opposed this mentality in 'Populorum Progressio.'


"Today the material resources available for rescuing these peoples from poverty are potentially greater than before, but they have ended up largely in the hands of people from developed countries, who have benefited more from the liberalization that has occurred in the mobility of capital and labor. The world-wide diffusion of forms of prosperity should not therefore be held up by projects that are self-centered, protectionist or at the service of private interests."

 

75. "While the poor of the world continue knocking on the doors of the rich, the world of affluence runs the risk of no longer hearing those knocks, on account of a conscience that can no longer distinguish what is human.

 

God reveals man to himself; reason and faith work hand in hand to demonstrate to us what is good, provided we want to see it; the natural law, in which creative Reason shines forth, reveals our greatness, but also our wretchedness insofar as we fail to recognize the call to moral truth."

 


 

朗読:

 

列王記上 17:10~16 ( その日 , 預言者エリヤは ) 立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

 

ヘブライ 9:24~28; なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 

マルコ 12:38~44; (そのとき、)イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

 

 

 

 

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