ミサについて : ロバート・タフト師、典礼改革を語る
「新しい典礼に反対する人々は歴史に学ぶ必要がある」と、この典礼の専門家は語る。
「全体として、典礼の刷新は大きな成功を収めているではないか」と。
20世紀の典礼改革の動きを最も熟知している学者がいるとすれば、それはイエズス会のロバート・タフト師でしょう。タフト師は、 1964 年にヨーロッパに来た時、典礼改革が軌道に乗っているのを見て驚いたのを覚えていると言います。「西ヨーロッパの労働司祭たちは、自国語でミサを挙げていた。それが、非キリスト教徒(キリスト教を脱却してしまった)の労働者たちと接触する唯一の道だったからだ。」とタフト師は言います。「彼らにとって、ラテン語でミサを捧げるなど、考えられないことだった。」
タフト師はイエズス会士ですが、 1963 年にビザンチン・カトリック教会のロシア典礼で叙階されました。 そして結局は、東方教会の古い典礼を研究することになり、それを通して過去・現在のキリスト教典礼の多様性を深く理解することになりました。 「過去の典礼の中に、倣うべき理想の形態はない。典礼は常に変化してきた。」とタフト師は言います。そ の変化の跡をたどることが彼のライフワークになりました。彼はこれまでに膨大な数の本や論文を著し、数十年にわたって世界各地で教壇に立っています。 タフト師は歴史家ですが、伝統の名の下に過去の典礼に固執する動きには批判的です。 「わたしたちが歴史を研究するのは、それを真似るためではない。伝統は過去ではない。伝統は、過去に起きたすべてのものとのダイナミックな連続性をもって、今日の教会に息づいている。過去は死んでいるが、伝統は生きている。伝統とは、いまここにあるものだ。」
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Q 第 2 バチカン公会議から40年を経ても、未だに、典礼改革についての論議がなされている。あなたは「新しい」典礼に対する反対をあなたはどう理解しますか?
A 裏表のないところをお話しましょう。わたしは、誰に恥じることもない第 2 バチカン公会議の支持者です。第 2 バチカン公会議はカトリック教会の総会であり、この公会議以降の教皇たちは、もはや後戻りは許されないと明言しています。典礼改革の方針は、公会議で圧倒的多数で可決されました。ですからそれは、好むと好まざるとを問わず、カトリックの伝統なのです。
残念なことに、故マルセル・ルフェーブル大司教とその信奉者による分派が原因の一部をなしているのですが、わたしが「ネオ・コン(新保守主義者)」と呼ぶグループの中に、「第 2 バチカン公会議の改革は、教会の多くの人の意思に反して、ごく少数の専門家たちが教会に押しつけたものだ」という構図を描こうとの試みがなされてきました。これは、わたしたちの日常語で言えば「誹謗中傷」に当たります。
公会議の改革は、教皇パウロ6世により、完璧な協働の精神のもとで実行に移されました。あらゆる改善、変更、修正についての勧告が世界中のすべてのカトリック司教に送られました。そして、返ってきた反応は、最大級の尊敬を持って扱われました。大多数の司教が変更に厳しい疑問を呈したり反対したりしたときには、司教たちの意思に沿って修正された後、再び送り返されました。ですから、典礼改革が、「典礼学者」 ― それは汚れた言葉のように使われているのですが ― の或るグループによって、無知な教会に無理矢理押しつけられたというのは、嘘であるとはっきり言わねばなりません。
Q それでは、改革は根拠なしに行われたわけではないのですね?
A 司牧的な意味を持つ典礼運動は 19 世紀に始まりました。それは信者が「ミサの場で祈る」のではなく、「ミサを祈る」ようにする試みでした。信者は聖体祭儀に与りながらロザリオを祈ったり祈祷書を読んだりと何か別なことをしていました。云わば二つのことを同時にやっていたのです。改革の要点は、信者がミサに積極的に参加できるようにすることでした。これは教皇ピオ 12 世自身が、第 2 バチカン公会議のかなり以前の 1947 年に回勅 Mediator Dei (神聖なミサに関して)の中で力説していたことです。
典礼の改革が始まったのは、第 2 バチカン公会議からではないことを、わたしたちは忘れがちです。改革を始めたのは教皇聖ピオ 10 世で、 1910 年に初聖体の年齢を物心がつく年齢にまで引き下げました。これは恐らく、教会の歴史の中で最も成功した典礼改革で、このお陰で、人々の日常の食物であるはずのご聖体は、本来の意味を取り戻しました。 歴史を知らない人々は、これには長いプロセスがあったことを理解していません。わたしが子供の頃、司祭たちは、人々に日曜日の聖体拝領をさせるためにあらゆる手を尽くしていました。「男性の日曜日」「女性の日曜日」「家族の日曜日」「コロンブス騎士団の日曜日」などがあり、信者に、少なくとも月に1回は、聖体拝領をさせるために出来る限りのことをしていました。今では信者の大多数が、ミサの度に聖体を拝領します。これは大きな成功であり、何世紀もの間信者がせいぜい年に1回、あるいは4回しか聖体を拝領しなかった歴史を一変させたのでした。
改革はそこで終わりませんでした。教皇ピオ 12 世は、 1951 年に復活徹夜祭を復活させました。これは世界を魅了し、これに続いて 1955 年には、聖週間のすべての典礼が復活しました。
第 2 バチカン公会議を批判する人たちは、それがどこで始まり、どれほど時間がかかり、教会がその準備にどれほど時間を費やしたのかを忘れています。それが慌ただしく行われ、会議の結果が教会に無理に押しつけられたという考えはまったくばかげています。
Q よく言われる典礼上の「誤用」についてはどうですか?
A 残念なことに、第 2 バチカン公会議の後、自分たちは創造的ではあるべきだったと考える人たちがいました。わたしがいつも言っていることですが、人間として、他の分野では何の創造性も示したことがない人が、どうして典礼のこととなると、突然自分がシェィクスピアやモーツァルトにでもなったように考えるのか理解できないのです。確かに、「誤用」はありましたが、その「誤用」は公会議による改革が原因ではないのです。プロテスタント改革に対する教会の抵抗の結果として、ローマが、その中にあった非常に建設的な提案まで拒絶してしまったことにも原因があります。たとえば、カリスを信者に返すという提案などがそれです。そのことがカトリック典礼を、実に何世紀にもわたって氷漬けにしてしまったのです。第 2 バチカン公会議の後、その氷が解けて、抑圧されていたものが一気に溢れ出し、人々は、典礼に関して、したいことはなんでも出来ると考えてしまいました。わたしは、そんな「 howdy-doody 」(子ども向けテレビ番組)まがいの典礼をいくつか思い出します。そうなってしまった責任の所在については、また別の問題です。何事にも負の側面があります。そして典礼改革が抱えていた負の側面の一つは、人々が爆発寸前だったということです。
Q これまでの改革は成功と言えますか?
A 典礼改革で一番よかったことは、信者が、ミサの間に(勝手に個人的に)祈るのではなく、再び、教会の(本来のミサの)祈りを唱えるようになったことです。それは、疑いもなく、自国語でミサを挙げるようになった結果です。
わたしが子どもの頃は、福音と書簡の朗読はラテン語でなされていました。時には、その後に英語で繰り返されることもありました。わたしたちは、それを一体誰のために読んでいたのでしょうか。神様のためですか? 神様はどんな言語もご存知です。ミサの祈りはわたしたちのためのものです。今では、世界中のカトリックの共同体が積極的、内面的にミサに参加し、ミサの祈りを唱え、司祭の呼びかけに応答し、聖歌を歌い、朗読に耳を傾けるなどしています。多くの国々では小教区の礼拝の中に、時課、特に朝の祈りと晩の祈りが復活しました。これも教会の祈りのひとつなのです。
成人洗礼のための入門式が復活したことは、新たな洗礼志願者を迎えるときに、小教区の全信徒の協力を強めるという点で、めざましい成功を収めました。ワシントン D.C. のある司祭は、典礼誌「 Worship 」に、成人洗礼のための入門式がどのように自分の教区を一変させたかについて、美しい記事を寄せています。そこでは信者たち自身が、洗礼志願者を、要理研究や祈り、悪魔払いの式などを通じて教会の団らんの中に迎え入れ、洗礼に至るまで世話をします。典礼改革はめざましい成功を収めてきました。それがわからないとしたら、あなたの目は開いていないといえるでしょう。
Q 未だに改革に反対する人たちの理由は何なのでしょうか?
A 批判する人たちは、「第 2 バチカン公会議の改革といわれるものは、公会議においてではなく、公会議後の特別委員会で行われたものだ。」と主張します。しかし、トリエント公会議の典礼改革も全く同じことでした。トリエント公会議は、第 2 バチカン公会議と同様に、典礼改革の実行という課題を当時の教皇ピオ 5 世に託しました。当然ながら教皇は、実際の作業をする他の人々を指名しました。こうした批判をする人たちは、どうしてトリエント公会議でのやりかたには不平を言わないのでしょうか。わたしに言わせればこれはまったく馬鹿げた話です。本当の話を知らない人たちの愚かさです。
A 教皇ヨハネ・パウロ2世が教皇着座後まもなく、第 2 バチカン公会議以前の典礼に戻ることを望むかどうかについて、カトリック組織内(司教)の意見調査をしたところ、教区内の司祭・信者がそれを望んでいると答えた司教はわずか 1.5 %に過ぎませんでした。ですから、古い典礼に戻ることを求める大きな声などなかったのです。残りの司教たちは、そのままにしておくようにと答えました。(それにもかかわらず)教皇ヨハネ・パウロ2世は、彼なりの理由で、古い典礼の続行を許可する決定をしました。そして現在の教皇は、いわゆる「伝統主義者」を引き戻すために、それを更に拡大しました。 しかし、本当の問題は典礼にあるのではなく、ルフェーブルの一派を含む例の人たちが、第 2 バチカン公会議の教えを受け入れないことです。この教えがカトリック教会の教えなのにです。そのような人たちは、第 2 バチカン公会議が誤謬を教えたと信じています。彼らは、教皇パウロ6世は本当の教皇ではないと信じているのです。もしも、それがあなたの考えならば、あなたはカトリック信者だと公言できますか? わたしは誰にもカトリック信者になれと強制しませんが、カトリック信者のふりをするのはやめましょう。Q 古い典礼の方が、新しい典礼よりも「神秘的」であり、あるいは敬虔さが感じられると主張する人たちについてどう思いますか? 彼らは正しいでしょうか?
A それは全く間違っています。わたしたちがミサで祝おうとする神秘は、イエス・キリストが死んで、わたしたちの救いのために復活したことです。わたしたちは、洗礼を通して既に一度死んで復活し、イエス・キリストのうちに新しいいのちを生きているのです。そのいのちが、ミサの中で表わされます。そのいのちは、聖書と聖体拝領と祈りを通して養われます。そのためにラテン語は必要ではありません。
ミサはわたしたちから神への贈り物だと考える人たちもいます。日曜日に教会に行くことで、わたしたちは神に本当に大きな贈り物をしているというのです。 しかし、そうではなくて、わたしたちが捧げるミサは神からのわたしたちへの賜物です。 わたしたちからの贈り物ではありません。聖パウロは、「ミサで大切なのは、わたしたちがミサ中に何をするかではない。」と明快に確信しています。ミサの意味は、「いのちの典礼」といわれるものを素朴に表現し、豊かにすることにあり、それはまた、この世でのわたしたちの生き方でもあります。
ですから聖パウロは、キリストの模範に倣う生活を描写するときを除いて、「犠牲」とか「聖職」とか「礼拝」という言葉は決して使いません。「生きているのはわたしではなくて、わたしの中にいるキリストです。」とパウロは書いています。これが典礼の神秘の全てです。
Q あなたは、人々がそのような(キリストとの)関係を持っていると考えていますか?
A もちろん、ほとんどの人がそれを悟っていません。それについて考えるために時間を費やすことがないからです。そのためにわたしたちは説教をするのです。
説教者は、人々にそれについて考えさせなければなりません。説教者は人々を目覚めさせなければなりません。説教者は、人々にとって、また日々の生活にとって意義のあることを話し、注意を引かなければなりません。ですから、司牧者にとって日曜日の準備で最も大切なことは、朗読箇所について祈り、黙想することでなければなりません。
それは簡単ではありませんが、可能なことです。週の始めに、聖書を読み、祈り、それについて黙想します。わたしはいつも、典礼の答唱と祈りの文も入念に読みます。しかし、率直に言って、それに必要なのは「努力」の一言です。 さらに説教者は、典礼の意味を明らかに示さなければなりません。時々、香部屋に来て、こう尋ねる人が居ます。「神父様、今日のミサを何に捧げるおつもりですか?」わたしは、いつもこう答えます。「本(祈りの本)を開いてください。全てはそこに書かれています。それを準備したのはわたしではありません。」
ただ祈りの本を読んで下さい。そこには、洗礼式でわたしたちが何をしているのか、結婚式で何をしているのかが書いてあります。人々は、婚姻の秘跡が、男女が一対一で愛を表現する儀式と考えていますがそれはナンセンスです! それなら市役所でもできることです。
Q その違いは何ですか?
A キリスト者の結婚は、イエス・キリストの死と復活がどのように婚姻のうちに働いているかを考えなければなりません。キリストは聖パウロを通して、エフェソの信徒への手紙の中で何をわたしたちに告げているでしょうか。この手紙には、キリスト者の結婚はキリストと教会の間の一致と同じであると書かれています。それは永遠の一致、愛の一致、分け合ういのちの一致です。キリスト者の結婚は、単なる一人の男と一人の女の愛を意味するものではありません。それは、イエス・キリストが、実にわたしたちの救いのために死に、そして復活したという文脈の中に置かれた一人の男と一人の女の愛を意味するものです。
典礼は、わたしたちが立つべき場所を表すもので、それをわたしたちのレベルまで引き下げてはいけません。典礼は、自分をそこまで高めねばならない理想です。典礼は、自分のために生きるいのちではなく、他者のために与えられるいのちの模範です。わたしたちが裂くパンは、わたしたちのために裂かれたからだのしるしです。わたしたちが飲むカリスは、わたしたちのために流された血です。それらは、他者のために生き、与えられるいのちの象徴です。わたしたちは、典礼の中でそのような真実を祝うとき、それが聖体拝領であろうと、赦しの秘跡であろうと、婚姻の秘跡であろうと、こう言います。「神の恵みによって、わたしたちは、そのような高みに登ることを誓っています。もしそうでなければ、わたしたちはそこに居てはなりません。時間を浪費するだけですから。」
Q 典礼からは何も得られないという不満にはどのように答えますか?
A 典礼から得られるものは、全能の神の栄光を称えるという特権です。もし、それがあなたを称えるものと考えるなら家に留まりなさい。それはあなたを称えるものではありません。あなたのためにあるのですが、あなたが対象ではありません。
今日の、とくに若い世代の一部に見られる大きな問題は、「救いの歴史は、自分自身の歴史」と考えることです。彼らは自分が宇宙の中心と考えます。ヨハネ3章で洗者ヨハネは、イエスは救い主かと問われたときに、実に明快に、イエスこそが重要な方だと言います。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。あらゆる人がこれを聞く必要があります。わたしが中心ではありません。あなたが中心でもありません。中心にあるのは、わたしたちよりも遥かに重要な何かなのです。
Q なぜ典礼は、毎週毎週、基本的に同じであることが重要なのでしょう? A もしも、司祭が毎回新しい典礼文を読んだり、教会の典礼の内容がくるくる変ったりしたら、人々はいつまで経っても典礼を自分のものには出来ないでしょうし、一体このミサは誰のものでしょうか。カトリック信徒は、典礼をいじりまわすのをやめる必要があります。それをあるがままに受け取り、より良く行うよう最善を尽くすべきです。そうすれば、問題は消えていくでしょう。 平和のキス(挨拶)を例に挙げましょう。時には、この人に挨拶しようか、しないでおこうかと迷うことがあります。わたしはいつも学生たちに、これは「平和の挨拶」であって「個人的な挨拶」ではないと教えます。平和の挨拶は典礼上の行為(動作)です。それは何を意味しますか? それは、それなりの意味を持った正式な動作なのです。 「平和の挨拶」は、あなたの周りに立っている誰かに向けた友情の表現ではありません。また、人をかき分けて 3 列向こうの知人のところまで行く必要もありません。その挨拶は、すぐ近くにいる人たちの間で、同じ舟に乗り合わせているしるしとして分かち合うものです。同じ事は、伝統的な挨拶などにも言えることです。
Q 典礼に、創造性を生かす場所はあるでしょうか?
A わたしたちの創造性に任せられている箇所が二つあります。それは朗読の後の説教と、とりなしの祈りですが、多くの場合典礼が救いがたいほどひどいものになるのもこの二箇所です。もしあなたが創造的でありたいと望むなら、典礼が許す場所でその創造性を捧げて下さい。
わたしは、将来の典礼の改革に反対しているのではありません。言語が進化するように、典礼も自然に進化して行きます。新しい言葉などを取り込むなどして。
今日の人々は「かっこいい」ことを「クールだ。」と言います。 クール は、わたしが子供の頃には冷蔵庫から出したばかりの冷たいものを意味しました。このように言葉は新しい意味を獲得するのです。 しかし、それは個人が勝手に行うことではありません。わたしが「窓」という言葉を「ドア」に対して用い、「ドア」という言葉を「窓」に対して用いると言っても、それは認められません。それが今わたしのいる世界なのです。勝手な言葉を使っても人々にはわたしたちが何を話しているのか分からないでしょう。 同じことが典礼にも言えます。典礼はそのままにしておきなさい。そうすれば、ひとりでに成長するでしょう。しかし、日曜日毎に典礼を覆したりはしないで下さい。信者たちはうんざりしてしまいますから。Q 第 2 バチカン公会議以前のように、典礼がどこでも同じになることを望んでいる人々もいます。それは、わたしたちが目指していることでしょうか?
A 典礼がどこでも同じであったことなど一度もありません。仮に人々が、一部のカトリック信者のように、キリストの教会の範囲をローマ典礼に限定し、東方カトリック諸教会の典礼を排除したいと望むなら話は別ですが、それはまったくばかげたことです。 教会は、多様な伝統、多様な民族が織り成す偉大なモザイクです。すべての文化の一つ一つの中に真の教会生活が花開くまでは、まだまだ何かが欠けていることになります。聖パウロは、「キリストの身体に欠けているものをわたしたちが満たさなければならない。」と言いました。 キリストの身体で欠けているのは、神に関わるものではなく、わたしたちに関わる何かです。言い換えれば、全人類がキリストの神秘と完全に一致するまでは、何かが欠けているのです。 この「欠けているもの」を満たすためには、ベトナムや中国、アフリカ、インドに、その場所に真に根付いた教会生活を実現することが必要です。秘跡はひとつ、信仰もひとつですが、 ただ、それらは様々異なった表現を持っており、その表現はすべて正しいのです。ですから、しなければならない仕事は、まだたくさん残されています。
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このインタビューは、 U.S. Catholic 誌編集長 Bryan Cones が、 2009 年 6 月の「典礼のためのノートルダム・センター年次会議」の間に行った。この記事は、 U.S. Catholic 誌(第 72 巻、 No.12 、 P.26-30 ) 12 月号に掲載された。
訳注: タフト師は、1932年に米国ロード・アイランド州プロビデンス市に生まれ、以前、教皇庁東方教会研究所の東方典礼の教授であった。東方正教会の典礼、(インド、マラヤーラム典礼を含む)シリア典礼、アルメニア典礼の研究で多くの貢献をしている。彼の代表作は、「教父聖クリュソストムス(347~407)の典礼の歴史」(A History of the Liturgy of St.John Chrysostom)である。
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(訳文に関する文責:「学び合いの会」翻訳グループ)
Opponents of the modern liturgy could use a history lesson, says this scholar of the church's prayer. Overall, the liturgical reform has been a great success.
If any scholar could claim a ring-side seat to the liturgical reform of the 20th century, it would have to be Father Robert Taft, S.J. Taft recalls being surprised when he arrived in Europe in 1964 to see liturgical change already well underway. "Worker priests in Western Europe were celebrating the liturgy in the vernacular because it was the only way to come into contact with the de-Christianized workers there," he says. "The notion of celebrating the liturgy for them in Latin was simply absurd."
A Jesuit ordained in the Russian rite of the Byzantine Catholic Church in 1963, Taft eventually focused his studies on the ancient liturgies of the Christian East, work that has led him to a profound appreciation of the diversity of Christian liturgy in the past and present. "There is no ideal form of the liturgy from the past that must be imitated," he says. "Liturgy has always changed." Tracking those changes has been his life's work, a career that has included decades of teaching all over the world as well as hundreds of books and articles.
Though a historian, Taft is critical of attempts to remain in the liturgical past in the name of tradition. "We don't study the past in order to imitate it," he says. "Tradition is not the past. Tradition is the life of the church today in dynamic continuity with all that has come before. The past is dead, but tradition is alive, tradition is now."
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Forty years after the Second Vatican Council, there is still argument about its liturgical reform. What do you make of the continuing opposition to the "new" liturgy?
Let me put my cards right on the table: I'm a Vatican II loyalist without apologies to anyone.
The Second Vatican Council was a general council of the Catholic Church, and the popes since the council have made it clear that there's no going back. The mandate for liturgical reform was passed by the council with an overwhelming majority, so it is the tradition of the Catholic Church, like it or lump it. Unfortunately, partly as a result of the schism of the late Archbishop Marcel Lefebvre and his followers, there has been an attempt on the part of a group of what I call "neo-cons" to portray the reforms of Vatican II as something that was foisted upon the church by a small minority of professionals contrary to the will of many people in the church. This is what we know in the vernacular as slander.
The reforms of the council were carried out under Pope Paul VI in a spirit of complete collegiality. Every suggested adaptation, change, or modification was sent out to every Catholic bishop in the world, and the responses that came in were treated with the utmost respect. When changes were severely questioned or opposed by a large number of bishops, they were revised according to the will of the bishops and then sent back again. So the notion that the liturgical reform was somehow forced on an unknowing church by some group of "liturgists," as if that were a dirty word, is a lie, and that needs to be said.
So the reform didn't come out of nowhere?
The pastoral liturgical movement began in the 19th century as an attempt to get the people not to pray at the liturgy but to pray the liturgy. People were at the Eucharist, but they were praying the rosary or reading a prayer book or something. You had two things going on at once. The whole point of the reform was to allow people to be active participants in the liturgy, as Pope Pius XII himself insisted in his encyclical Mediator Dei (On the Sacred Liturgy) in 1947, well before Vatican II.
What we sometimes forget is that it wasn't the Second Vatican Council that began the reforms of the liturgy. It was Pope St. Pius X, who in 1910 reduced the age of First Communion to the age of reason and, in perhaps the most successful liturgical reform in the history of the church, restored the Eucharist as the daily food of the people. People who don't know any history don't understand that this was a very long process. When I was a kid, pastors did everything they could to get people to go to Communion on Sunday. They had Men's Sunday, Women's Sunday, Family Sunday, Knights of Columbus Sunday-whatever they could do to get people to go to Communion at least once a month.
Now the vast majority of people go to Communion at every single liturgy-a great success that turned around centuries of history in which people used to go at the most once or maybe four times a year.
It didn't end there. Pope Pius XII restored the celebration of the Easter Vigil in 1951, which took the world by storm, followed by all the liturgies of Holy Week in 1955.
People who complain about the Second Vatican Council forget where it began and how long it took and how long the church prepared for it. The notion that it was done in a rush and shoved down the church's throat is simply ridiculous.
What about the oft-mentioned liturgical "abuses"?
After Vatican II some people unfortunately thought that they had to be creative. As I've said more than once, I have never understood why people who have never manifested the slightest creativity in any other aspect of their human existence all of the sudden think they're Shakespeare or Mozart when it comes to the liturgy. That's sheer arrogance. Certainly there were abuses, but the abuses weren't the responsibility of the council's reforms. In part as a result of the church's resistance to the Protestant Reformation, Rome refused even very positive suggestions that were part of it, for example, returning the chalice to the people. This in effect put the Catholic liturgy in the freezer for centuries.
When the ice melted after Vatican II, things overflowed and people thought that they could do what they wanted with the liturgy. I can remember some of those "howdy-doody" liturgies. But let's put the responsibility where it belongs.Everything has its downside, and one of the downsides of the reform was that people were ready to burst.
How has the liturgical reform been a success?
The best thing about it is that people have come once again to pray the prayer of the church rather than praying during it, which is, without any doubt, the result of celebrating the liturgy in the vernacular.
When I was a kid, the gospel and epistle readings were proclaimed in Latin and then sometimes the gospel might be repeated in English. Who were we reading them for, God? God knows all the languages already. The prayers of the liturgy are for us.
Now Catholic communities throughout the world participate in the liturgy actively and interiorly, praying the prayers of the liturgy, giving the responses, singing the hymns, paying attention to the readings, and so forth. The Liturgy of the Hours, especially Morning and Evening Prayer, has been restored in parish worship in many countries. This is part of the prayer of the church, too.
The restoration of the Rite of Christian Initiation for Adults has been a marvelous success for activating entire parishes to cooperate in bringing new candidates into the church. A pastor in Washington, D.C. wrote a beautiful article in the liturgical journal Worship describing how the RCIA had transformed the entire life of his parish, with the people themselves bringing the candidates into the bosom of the church through catechesis, prayer, the exorcisms, and so forth, until they reach Baptism.
What are the arguments of those who still oppose the reforms?
The reform has been an enormous success, and if you can't see this, then you must be blind.
Some complain that Vatican II's reform wasn't done by the council but by post-conciliar commissions, but the same is true of the liturgical reform of the Council of Trent. Trent, like Vatican II, left it to the pope at the time, Pius V, to implement changes in the liturgy. He naturally appointed others to do the actual work. Why aren't they complaining about the way things were done at the Council of Trent? This is all foolishness as far as I'm concerned, foolishness of people who don't really know the true story.
When Pope John Paul II canvassed the Catholic hierarchy concerning the desire for the pre-Vatican II liturgy early in his pontificate, less than 1.5 percent of the bishops said that their priests and people were in favor of it, so there was no great outcry for its return. The rest of the episcopate said to leave it alone. For his own good reasons, Pope John Paul decided to permit the continued use of the old rite, and the present pope has extended it to win back these so-called "traditionalists."
But the real problem isn't the liturgy, it's that people, including the Lefebvrites, don't accept the teaching of the Second Vatican Council, which is the teaching of the Catholic Church. They believe that the Second Vatican Council taught error. They believe that Pope Paul VI was not a real pope.
How can you pretend to be Catholic if that's your point of view? I'm not attempting to force anybody to be Catholic, but let's stop this pretense.
What about those who claim that the old liturgy is more "mysterious" or reverent than the new? Are they right?
Absolutely not. The mystery we're trying to celebrate in liturgy is the fact that Jesus Christ died and rose for our salvation, and we have died and risen through Baptism to new life in him.
That life is expressed in the liturgy. It is nourished through scripture and the Eucharist and prayer. You don't need Latin for that. Some people think liturgy is our gift to God. If we go to church on Sunday, we're doing God a real big favor.
But our liturgy is God's gift to us, not ours to him. St. Paul is quite clear that the purpose of the liturgy is not what we do at the celebration itself. That is simply the expression and nourishment of what is supposed to be the "liturgy of life," the way we live in the world.
That's why St. Paul never uses words such as sacrifice, priesthood, or worship except to describe the life we live after the model of Christ. "It is not I who live," he writes, "but Christ who lives in me." That's the mystery the liturgy is all about.
Do you think people make the connection?
Most people don't realize it, of course, because they don't spend any time thinking about it. That's why we have preaching.
The preacher should make them think about it. The preacher should wake them up. The preacher should catch their attention by saying something that has meaning for them and their lives today. That's why one of the most important aspects of preparation for Sunday on the part of the pastor should be his prayer and meditation on the readings.
It's not easy, but it can be done. It's done at the beginning of the week, reading and praying over the scriptures, meditating on them. I always read very carefully the texts of the refrains and prayers of the liturgy as well. But, to put it bluntly, it takes that four-letter word, work.
Beyond that the preacher has to open up the meaning of the liturgy itself. Sometimes people will come into the sacristy and ask, "What are you offering the Mass for today, Father?" I always answer: "Open the book, it's all right there. I didn't make it up."
Just read the prayers. They say what we are doing in Baptism, what we are doing in Matrimony. People think Matrimony is a ritual expression of the love between a man and a woman. Baloney. You can do that at City Hall.
What's the difference?
A Christian marriage should be about what Jesus Christ's death and Resurrection has to do with marriage.What does Christ tell us through St. Paul in Ephesians? Ephesians says Christian marriage is like the union between Christ and the church, a permanent union, a union of love, a union of shared life. It's not about the love of a man and a woman; it's about the love of a man and a woman in the context of the fact that Jesus Christ died and rose for our salvation.
Liturgy is the expression of where we're supposed to be, not something that we drag down to where we're at. Liturgy is the ideal to which we must rise. Liturgy is the model of a life given for others rather than life lived for ourselves. The bread we break is the sign of a body broken for us, and the chalice we drink is the blood poured out for us. They are symbols of a life lived and given for others.
When we celebrate that reality in the liturgy, whether in Eucharist or Reconciliation or Matrimony, we're saying: This is what we, with the grace of God, pledge that we're trying to be. If it's not, then we shouldn't be there; we're wasting our time.
How do you respond to the complaint that people don't get anything out of the liturgy?
What you get out of the liturgy is the privilege of glorifying almighty God. If you think it's about you, stay at home. It's not about you. It is for you, but it's not about you.
One of the great problems today, especially among some of the younger generations, is that they think that salvation history is their own autobiography. They think they're the center of the universe. In John 3, when John the Baptist is asked whether Jesus is the Messiah, John says quite clearly that Jesus is the important one: "He must increase, I must decrease."
He must increase, I must decrease. Everybody needs to hear that. It's not about me, it's not about you. It's about something infinitely more important than us.
Why is it important that liturgy stay basically the same week to week?
People will never take possession of the liturgy as their own if every time the pastor reads a new article, the liturgy in the parish is turned on its head. Who does this liturgy belong to?
Catholics need to stop tinkering with the liturgy. They need to take it the way it is and celebrate it as well as possible. If they do that, the problems will disappear.
Take the kiss of peace, for example. Sometimes people don't know if they're going to get kissed or jumped. I always tell my students that it's the "kiss of peace," not "a kiss apiece." The kiss of peace is a ritual gesture. What does that mean? That means it's a formalized gesture that carries its own meaning. The kiss of peace is not an expression of your friendship with whomever is standing around you, and you don't have to crawl over three pews to get to somebody you know. It is shared among people in your immediate vicinity as a sign that we're in the same boat together. The same thing is true of things such as the traditional greetings and so forth.
Is there any place for creativity in the liturgy?
The two places that the church has left to our creativity, the homily and the prayers of intercession following the readings, are the two places where our liturgies are generally irredeemably awful. If you want to be creative, devote your creativity to the places where the liturgy allows it.
I'm not preaching against future liturgical change. Liturgies evolve normally, like languages do. They acquire new words and so forth. People today say, "That's cool." Cool when I was a kid meant that something just came out of the fridge. So words acquire new meanings. But it's not the work of individuals. It's not up to me to say I'll use the word window for door and door for window, because that's where I'm at today. If we do that with language, people won't understand what we're talking about.
The same thing is true of liturgy. Leave it alone and it will grow by itself, but don't stand it on its head every Sunday, because people are sick of that.
Some people would like the liturgy to be the same everywhere, as it was before Vatican II. Is that what we should be shooting for?
It was never the same everywhere, unless you wish, as some Catholics would, to limit the boundaries of Christ's church to the Roman rite and exclude the liturgies of the Eastern Catholic Churches, which would be sheer foolishness. The church is a great mosaic of different traditions, of different peoples. Until the life of the church has reached expression in every single culture, there will still be something lacking. St. Paul said we have to fill up what is lacking in the Body of Christ.
What's lacking in the Body of Christ is not anything about God; it's about us. In other words, until the whole of humanity has become completely conformed to the mystery of Christ, then there's something lacking. To fill up that lack, we need to have Vietnamese and Chinese and African and Indian expressions of that reality. The sacraments remain the same, the faith remains the same, but they take on different expressions that can all be valid. So there's still a lot of work to be done.
This interview was conducted by Bryan Cones, managing editor of U.S. Catholic , during the annual conference of the Notre Dame Center for Liturgy in June. This article appeared in the December 2009 issue of U.S. Catholic (Vol. 74, No. 12, pages 26-30).