恥辱と憐みの出会う日

四旬節第5主日(C年) 福音黙想 2010/3/21  トマス・ロシカ師

 

今日の感動的な福音の物語 ヨハネ 8:1-11 は、姦通の女性の印象的なエピソードを語ります。第一の場面でわたしたちは、姦通の現場で捕らえられた女についての、イエスと、律法学者およびファリサイ派の人々との問答に立ち会います。彼女は、レビ記  20:10 の掟(人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。)に従えば、石打ちの刑に処せられることになっていました。 第二の場面では、イエスと罪深い女の間で、短いけれども感動的な会話が展開します。

 

イエスの生涯の中でも、この出来事ほど、裁きに対する憐れみの勝利を明白に示したものはないでしょう。この物語には、二つの興味をそそる面があります。

その第一は、ヨハネのこの物語が古代ギリシャの文書からほとんど失われていること、そしてそれが、第四福音書の中の場違いな個所に挿入されていることです。この物語の語法とスタイルは、ヨハネというよりは ルカの記述に近いように思われます

 

「オリーブ山」( "the Mount of Olives" )( 8:1 )、 「律法学者」( "The Scribes" 8:3 及び 「罪に定める」( "I condemn" 8:11 )と言った語句や表現は、 ヨハネ福音書にはあまり見られない独特なものですが、それらは全て、共観福音書ではよく使われる表現です。しかし、ルカ的な表現があるにもかかわらず、ルカが書いたものではないことを示す非ルカ的な表現もあります。

他方、この物語の用語の一部は、他の福音書のいずれにも使われていません。それらは、「(姦通を)しているときに」( "in the act" 8:4 、「罪を犯したことのない」 "sinless" 8:7 )  そして「イエスひとり(と、真ん中にいた女)が残った。」 "he was left" 8:9 という言葉です。こうした言葉遣いが、この物語を新約聖書の中でユニークなものにしていることは疑いありません。

 

罪にやさしい?

姦通に厳しい姿勢をみせた初代教会の人々は、イエスの憐れみ深さに戸惑い、少々度が過ぎると思ったのではないか、と聖書学者たちは感じてきました。今日のこの物語が、長い間ヨハネ福音書の文書から除外されていたのは、そのためなのでしょうか。この物語はおそらく口伝で拡がり、記述者はこの物語が失われるのを惜しんだのでした。

 

ヨハネ 8 章のこの物語を注意深く読むと、イエスが決して罪にやさしい訳ではないことに気づきます。むしろ、イエスは、罪人に対する憐れみ( compassion )と赦しの心から、彼女に向い「これからは、もう罪を犯してはならない。」( "to not sin again." )と要求します。

イエスのこの女に対する姿勢は、弟子たちと教会に対する永遠の呼びかけであり、要求でもあるのです。

 

この物語が興味をそそる第二の面は、福音書全体の中でこの女の物語だけに、イエスが地面にものを書く場面が登場することです。もし一度ではなく、二度書いたとしたら何を書いたでしょうか。わたしロシカは、イエスのメッセージを書きとめて、いつもそれを、罪人とどう向き合うかの手本にしたいものです。イエスのメッセージは、わたしたちの誰もが、司牧に先立って学ぶことのできる、最良の「告解の実習」( "confession practicum )になるでしょう。

 

一つの傾向として、文脈の中からイエスの憐れみだけを取り上げるケースが見られますが、それは、イエスが罪人に優しすぎると主張してそのような憐れみの姿勢を抑圧してしまう恐れがあります。

別の傾向は、罪の存在、回心の必要、神の赦しの賜物を、すべて完全に否定してしまうことです。

どちらの傾向も正しくありません。わたしたちが罪に陥りやすいこと、わたしたちが神の恩寵と赦しに心を開くことを否定するのは、イエスのメッセージを否定することになります。

 

キリスト:

司牧者、およびおとなのカトリック信者として、この二つの傾向(考え方)のどちらが優位に立つかを決める大きな役割(責任)があります。わたしたち一人ひとりは、教会の伝統と、透明さ、やさしさ、憐れみに満ちた信仰共同体とを受け継いで行くように招かれています。

 

赦しの質とその範囲

聖週間が近づき、主イエスの最後の苦難が迫るにつれて、イエスは地元の有力者たちとの争いに巻き込まれるようになり、彼らにとっての脅威となって行きます。

次週の日曜日には、この苦境 conundrum の赴くところ、すなわち、カルワリオと十字架に立ち会うことになります。今日の福音は、独特でドラマチックな方法で、神の赦しの質と範囲を示します。

その罪は大変重い筈ですが、罪人たちはいつも(神から)愛されています。姦通で捕えられた女性は、律法学者とファリサイ派の人々によってイエスの前に引き出されました。それはイエスが、モーセの律法に従って女性を裁くよう仕向けるためでした。

 

女性を告発した人々に対するイエスの最初の答えは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」というものでした。この言葉はイエスの、人間の条件に対する現実的な理解を良く表しています。その人間理解は、一人また一人と、立ち去っていった人々について、先ず示されています。

 

わたしたちはまた、この不幸な女性に接する姿勢の中にイエスの深い人間性を見ます。

「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と彼女に告げたのは、彼女の罪を決して容認しなかったからです。イエスは、上訴もできずに告発の重みに耐える女性を押しつぶしたりはしませんでした。

 

そして二人は残された

他者の罪を見つけて指摘することは、すなわち、自分も罪人であり、神の限りない憐れみを必要としていると認めることを意味します。深い個人的回心と神の憐れみの無償の賜物の必要性を認めることなくイエス・キリストの福音を説くことは、回心についてのキリスト教の中心的な教えを否定することになります。

 

アウグスチヌスは、ヨハネ福音書についての優れた注釈* Io. Ev. tract 33, 5 の中で、「主は、その応答において、律法の尊重を損ねることなく、自らの従順さから逸れることもなかった。」と述べます。

アウグスチヌスは更に、イエスはこれらの(応答の)言葉によって、告発者たちが自らを省み、自分も罪人ではないか確かめるように促したのだと記します。こうして、「人々は、あたかも光のように大きな投げ矢によって貫かれたように、一人また一人と立ち去って、誰もいなくなった」のです。

*訳注:  Io. Ev. Tract In Johannis evangelium tractatus  「 ヨハネによる福音書講解説教」

 

皆が去ったあとには、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。それはアウグスチヌスが、 "relicti sunt duo, misera et misericordia" そして二人が残った、哀れな者そして憐れむ者が。 という言葉で美しく描写した、心に残り、訴えかける光景です。わたしは、ローマの教皇庁聖書研究所でヨハネ福音書を学んでいたとき、アウグスチヌスの言葉にどれほど感動したかを憶えています。

 

かがみ込んで地面に書いていた人は目を上げ、女性と視線を合わせました。彼は説明を求めませんでした。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 v 10

彼がその女性に、こう尋ねたのは皮肉でしょうか。そして、イエスの答えは驚くべきものでした。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 v 11

 

再び、アウグスチヌスはこう語ります。 「主も(女性を)咎められたが、それは人をではなく、罪を咎められたのである。もしもイエスが罪のパトロンならば、彼は女性にこう言っただろう。『わたしもあなたを罪に定めない。行って好きなように生きなさい。わたしの救いの業に頼り、いくらでも罪を犯しなさい。わたしは全ての罰から、おまえを救ってあげよう。』 しかしイエスはそうは言わなかった。」 Io Ev. tract. 33, 6

 

わたしたちの真の敵は、人生を失敗に導く罪への結びつきです。イエスは、姦淫の罪を犯した女に、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」という勧めを与えて去らせました。イエスが彼女を赦すのは、「これからは」 もう罪を犯さないようにさせるためです。

                               

開かれた誠実な心で受ける神の赦しと神の愛だけが、わたしたちに、悪と戦い、「これからはもう罪を犯さない」力を与えてくれます。神の愛に打たれて、それがわたしたちの力になるのです。

イエスの振舞いは、全ての共同体が従うべき模範となります。全ての共同体は、愛と赦しをその生活の中心に置くように招かれています。

 

赦しのための戦い

旅の途上にある今、わたしたちは何者なのでしょうか。この世にも、教会にも、多くの悲惨な状況があり、そのどちらも、憐れみの体験に飢え渇いています。・・・憐れみに満ちた共同体と、憐れみと共感に溢れた人々を求めています。しかしこの憐れみは、福音のメッセージ(の厳しさ)を手加減するものではありません。むしろそれは、わたしたちへの神の厳しい愛、日々の闘いのうちに勝ち取るべき愛なのです。

 

シスター・ヘレン・プレジャン のベスト・セラー「デッドマン・ウォーキング」 の引用を記しておきます。

それは、今日の福音朗読に照らしても、また四旬節の旅路のためにも、実にふさわしい言葉です。

なぜならば、それは、キリスト者の生活の中心にある赦しと和解のための、わたしたちの日々の闘いに光を当てるからです。

 

シスター・プレジャン はこう書いています、「 ロイド・ルブラン は、 自分の 息子を殺した パトリック・ソニアー 投獄されて満足していた、と語りました。彼が刑の執行に立ち会ったのは、復讐のためではなく、( パトリックから) 詫びの言葉を聞きたかったからだ、と言っていました。」

 

パトリック・ソニアー は、彼を失望させていませんでした。電気椅子に座る前に彼は言いました。

ルブラン さん、自分とエディー(相棒)のしたことを赦してください。』 そこで ロイド・ルブラン は、自分が既に赦していることを伝えるために、うなずいて見せました。」

 

「ルブランはこう言います。…息子の死体を確認するために、副保安官と砂糖きび畑に行き、息子の傍に膝まずいて、(息子は、小さな両の目を弾丸のように突き出して横たわっていました。)…そこでわたしは『主の祈り』を唱えました。そして、『わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します』 の個所に来た時、つづけて、ためらいもなく 『これを行った者がだれであれ、わたしは彼らを赦します。』と祈りました。」

 

「しかし、彼( ルブラン) は、苦しみと復讐の感情を克服することは闘いだと認めました。その感情は、

とりわけ、毎年 デビッド の誕生日を迎え、息子を失ったことを改めて思い起こすたびに高まります。

デビッド 20 歳…  デビッド 25 歳…  デビッドの 結婚… 膝にまとわりつく子どもらと一緒に裏口に立つ デビッド…  立派に成人した デビッド…  決して会うことのない、自分によく似たその男の姿…。

赦すことは、簡単なことではありません。そのために日々祈り、闘って克ち取らなければならないものなのです。」   (「 Dead Man Walking P244-245   New York: Vintage Books, Random House, 1993

 

訳注 Sister Helen Prejean 中神由紀子訳「 デッドマン・ウォーキング 」徳間文庫 96 年版。

シスター・ヘレン・プレジャンは 1939 年米国ルイジアナ生まれ、メダイユ聖ヨゼフ修道女会員。 1993 年「デッドマン・ウォーキング」を出版後、死刑廃止のために幅広い活動を続けており、来日も数回にわたる。

 

「デッドマン・ウォーキング」あらすじ

 

1982年、シスター・ヘレン・プレジャンは、相棒と二人で若いカップルを誘拐・殺害した死刑囚、パトリック・ソニアー(ルイジアナ州刑務所に収監)と文通を始め、その後もニュー・オーリンズの「聖トマスの希望の家」で働きながら、パトリックの精神的助言者として交流を重ねる。
死刑執行の日が迫り、ヘレンは弁護士を通してパトリックの特赦を働きかけるが却下される。その裏には、州知事らの政治的思惑が働いており、また特赦審問会の座長は、パトリックの境遇に対する偏見を自ら認める。
彼女は、殺された少年デビッドの父親(ロイド・ルブラン から、「犯人の家族とばかり会って被害者の遺族を無視している。」と非難され、被害者の遺族を訪問、愛する家族を殺された人たちの怒りと悲しみを知る。
死刑当日、ヘレンはパトリックに、憎しみではなく愛の言葉を遺して行くよう励ます。特赦のための全ての努力は報われなかったが、パトリックは冷静に自分の生涯を顧みる。
ヘレンは、処刑室へ向かうパトリックに付添う。パトリックは、死刑執行に立ち会った被害者の父ルブランに詫び、ヘレンには、あなたを愛していると告げる。
ヘレンは、パトリックの家族とカトリック教会の助けを得て彼を埋葬する。彼女はもはや自分は死刑囚と接することが出来ないと考えるが、カウンセリングを受け、死刑廃止のために戦う決心をする。

(著書の後半は別の死刑囚、ロバート・ウイリーとの交流を記しているが、ここでは触れない。

また 1995 年、同名のアメリカ映画でヘレンを演じたスーザン・サランドンが第 68 回アカデミー賞主演女優賞を受けている。

 

 


聖書朗読

 

イザヤ 43:16-21 43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方・ 43:17 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。 43:18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。 43:20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。 43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

 

フィリピ 3:8-14 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

ヨハネ 8:1-11 :  8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。 8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 

 


The Day Misery and Mercy Met

Biblical Reflection for 5th Sunday of Lent C By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, MARCH 16, 2010 Zenit.org .- Today's moving Gospel story John 8:1-11 recounts the episode of the adulterous woman in two vivid scenes: In the first, we witness a dispute between Jesus and the scribes and Pharisees concerning a woman caught in flagrant adultery who, in accordance with the prescriptions of the Book of Leviticus 20:10 , was condemned to stoning. In the second scene, a brief but moving dialogue develops between Jesus and the sinful woman.

 

There is no other event in Jesus' life that more clearly illustrates the triumph of mercy over justice than this story. There are two intriguing aspects of the story: The first is that John's story is missing from most of the ancient Greek manuscripts, and is certainly out of place in the fourth Gospel. The language and style of the story appear to be closer to Luke's account than John's.

 

Unique words and phrases not common in John's Gospel include "the Mount of Olives" 8:1 , "The Scribes" 8:3 and "I condemn" 8:11 , all of which are more commonly found in the Synoptic Gospels. Words and phrases like "all the people" 8:2 and "the Scribes and the Pharisees" 8:3 are more common to Luke. However, despite the fact that there are Lukan words in this story, there are also non-Lukan phrases, which suggest a non-Lukan text.

On the other hand, some words in the story are not found anywhere else in the Gospels, including: "in the act" 8:4 , "sinless" 8:7 and "he was left" 8:9 . There is no doubt that the language of this story makes it unique within the New Testament.

 

Soft on sin?

Scripture scholars have felt that the early Church, which took a severe attitude toward adultery, was embarrassed by the degree of Jesus' mercy and found it a bit too much to believe. Could it be the reason why for many years, today's story was left out of the manuscripts of John's Gospel? This story was most likely circulating orally and scribes did not want this story to be lost.

 

An attentive reading of the story from John 8 shows that Jesus is not at all soft on sin. Rather, his compassion and pardon toward the sinner led him to challenge her "to not sin again."

Jesus' stance before this woman remains a permanent call and challenge to his disciples and to the Church throughout the ages.

 

The second intriguing aspect of the story is that the story of the woman presents the only occasion in the entire Gospels where Jesus is shown writing on the ground. What could he have been writing -- not once, but twice? I would love to retrieve his message, and use it as a constant model of how we are to deal with sinners. His message would be the best "confession practicum" that anyone of us could take before we enter ministry.

 

One tendency, which takes Jesus' mercy out of context, would be to stifle such merciful gestures, claiming that Jesus is too easy with sinners. Another tendency would be to completely deny the existence of sin, the necessity of conversion and the gift of God's forgiveness. Neither tendency is correct. To deny our proneness to sin, and our openness to God's grace and forgiveness is to deny the message of Jesus

 

Christ.

As pastoral ministers and adult Catholics, we have an enormous role to play in determining which tendency will prevail. We are each invited to pass on the tradition of a Church and a faith community remarkable for its clarity, tenderness and mercy.

 

Quality and extent of forgiveness

As we near Holy Week and the final struggle of the Lord Jesus, he is becoming more and more embroiled in a contest with the local authorities, and becomes a growing threat to their authority. Next Sunday, we will see to where the conundrum leads -- to Calvary and the cross. Today's Gospel demonstrates in a particular and dramatic way the quality and extent of divine forgiveness. The sin may be terrible, but sinners are always loved. The woman caught in adultery is brought before Jesus by the scribes and Pharisees in order to force him to give judgment on the basis of the Mosaic Law.

 

Jesus' first reply to the woman's accusers, "Let him who is without sin among you be the first to throw a stone at her," gives us an insight into his realistic understanding of the human condition, beginning with that of his questioners who began to drift away one by one.

 

We also observe Jesus' profound humanity in his treatment of the unfortunate woman, of whose sins he certainly disapproved, for he said to her, "Go and do not sin again." Jesus did not crush her under the weight of a condemnation without appeal.

 

And two were left

To recognize and bring out the sin in others means also recognizing oneself as a sinner, and in need of God's boundless mercy. To preach the Gospel of Jesus Christ without acknowledging the necessity of profound personal conversion and the free gift of God's mercy is to deny the central Christian message of conversion.

 

In his magnificent commentary on St. John's Gospel Io. Ev. tract 33, 5 , St. Augustine writes: "The Lord, in his response, neither failed to respect the law nor departed from his meekness." Augustine added that with these words, Jesus obliged the accusers to look into themselves, to examine themselves to see whether they too were sinners. Thus, "pierced through as if by a dart as big as a beam, one after another, they all withdrew."

 

In his magnificent commentary on St. John's Gospel Io. Ev. tract 33, 5 , St. Augustine writes: "The Lord, in his response, neither failed to respect the law nor departed from his meekness." Augustine added that with these words, Jesus obliged the accusers to look into themselves, to examine themselves to see whether they too were sinners. Thus, "pierced through as if by a dart as big as a beam, one after another, they all withdrew."

 

In his magnificent commentary on St. John's Gospel Io. Ev. tract 33, 5 , St. Augustine writes: "The Lord, in his response, neither failed to respect the law nor departed from his meekness." Augustine added that with these words, Jesus obliged the accusers to look into themselves, to examine themselves to see whether they too were sinners. Thus, "pierced through as if by a dart as big as a beam, one after another, they all withdrew."

 

The one who had bent down to write in the dust, raised his eyes and met those of the woman. He did not ask for explanations. Is it not ironic when he asked the woman: "Woman, where are they? Has no one condemned you?" v 10 . Jesus' reply was overwhelming: "Neither do I condemn you; go, and do not sin again" v 11 .

 

Again, St. Augustine observed: "The Lord did also condemn, but condemned sins, not man. For if he were a patron of sin, he would say, 'neither will I condemn you; go, live as you will; be secure in my deliverance; however much you sin, I will deliver you from all punishment.' He said not this" Io Ev. tract. 33, 6 .

 

Our real enemy is attachment to sin, which can lead us to failure in our lives. Jesus sent the adulterous woman away with this recommendation: "Go, and do not sin again." He forgives her so that "from now on" she will sin no more.

 

Only divine forgiveness and divine love received with an open and sincere heart give us the strength to resist evil and "to sin no more," to let ourselves be struck by God's love so that it becomes our strength. Jesus' attitude becomes a model to follow for every community, which is called to place love and forgiveness at the center of its life.

 

Struggling for forgiveness

Who are we at this moment in our journey? There is so much misery in our world and in our Church, and both the world and the Church desperately need the experience of Mercy -- in merciful communities, and merciful, compassionate people. But this mercy is not a watering down of the Gospel message. Rather it is God's tough love for us, a love worth struggling for each day.

 

Let me leave you with this quote from Sister Helen Prejean's best selling book "Dead Man Walking." It is particularly appropriate in light of today's Gospel, and of our Lenten journey, for it highlights our daily struggle for forgiveness and reconciliation that lies at the heart of the Christian life.

 

Sister Prejean wrote: "Lloyd LeBlanc has told me that he would have been content with imprisonment for Patrick Sonnier [who murdered LeBlanc's son]. He went to the execution, he says, not for revenge, but hoping for an apology.

 

"Patrick Sonnier had not disappointed him. Before sitting in the electric chair he had said, 'Mr. LeBlanc, I want to ask your forgiveness for what me and Eddie done,' and Lloyd LeBlanc had nodded his head, signaling a forgiveness he had already given.

 

"He says that when he arrived with sheriff's deputies there in the cane field to identify his son, he had knelt by his boy -- 'laying down there with his two little eyes sticking out like bullets' -- and prayed the Our Father. And when he came to the words: 'Forgive us our trespasses as we forgive those who trespass against us,' he had not halted or equivocated, and he said, 'Whoever did this, I forgive them.'

 

"But he acknowledged that it's a struggle to overcome the feelings of bitterness and revenge that well up, especially as he remembers David's birthday year by year and loses him all over again: David at 20, David at 25, David getting married, David standing at the back door with his little ones clustered around his knees, grown-up David, a man like himself, whom he will never know. "Forgiveness is never going to be easy. Each day it must be prayed for and struggled for and won."

 

Dead Man Walking pp. 244-245 New York: Vintage Books, Random House, 1993

 

 

home page