愛のしるしを読み取ることを学ぶ
四旬節第3主日(C年) 福音黙想 2010/3/7 トマス・ロシカ師
ルカ福音書の15章は、新約聖書の「探し物のコレクション」と呼ばれます。それは、この章が、「見失った羊」のたとえ
( 1-7
) で始まり、「無くした銀貨」のたとえ
( 8-10
) が続き、「放蕩息子」のたとえ
( 11-32
) でクライマックスに達するからです。
今日の福音の放蕩息子の物語は、いつの時代にも聞く人すべての心を捉える数少ない宝石の一つに数えられます。このたとえ話は、巧みな語り手としてのルカの才能をよく示しています。
ルカには、人間関係を生き生きと感性豊かに「描く」能力があり、それが各人の生活体験に訴えかけるのです。
殆どの人は、生涯の様々な時期に、ここに出てくる様々な役柄を演じた経験があるでしょう。あるときは、愛情に溺れ、見るからに甘やかし放題の親の役であり、あるときは、罪深さと思い上がりから身を持ち崩し、憐れみにすがる下の息子の役であり、またあるときは、上の息子のように、自分の責任を果たし、後ろ指一つ差されたことがない一方で、他者の弱さと罪が、寛大に、憐み深く扱われることに不満を抱く役のときもあるでしょう。
わたしたち一人一人も、これらの性格を幾分かずつ持っています。ルカが語る、この独特ですばらしい放蕩息子のたとえ話は、そもそも、イエスが徴税人やその他のいかがわしい人たちと親しく交わることに憤慨していた、その時代の有力者たちに向けられたものだったのです。
教皇ヨハネ ・ パウロ2世は、「和解についての司教会議」に続く 使徒的勧告 「教会の使命としての和解と償い」( Reconciliatio et paentientia 、 1984 年 12 月 2 日)の中で、次のように語ります。
「放蕩息子のたとえ話は、何よりもまず、父なる神の言い尽くせぬ愛の物語です。父なる神は、その子が自分のもとに帰るとき、その子に完全な和解の賜物を与えます。(中略)それゆえにこのたとえ話は、神の憐れみの再発見と、兄弟姉妹の間の誤解と敵意に対する勝利とによって、心の底から一変することの必要性を思い起こさせます。」
3人の登場人物像
古代のユダヤ社会では、「 primogeniture 」(家族の中で最初に生まれた男であること)の権利とは、長男が父親の遺産を他の子の倍額受け取ることを意味していました。
そこで、この次男は父親の財産と所有物の評価額のおよそ三分の一を受け取ることになりました。
しかし、遺産の贈与を求めること自体( 12 節)が、父への重大な侮辱になります。何故ならばそれは、父が「長生きしすぎていて」、次男が老人の死を待ちきれなくなっていることを意味するからです。
弟は旅立った先は、明らかに異教徒(異邦人)の国です。 ( v 13 ) 誇り高いユダヤ人の農夫は、決して豚を飼わないからです。豚は non-kosher (ユダヤ教の掟に反した不浄な食べ物)と見なされていました。この息子が長い旅をしたのは確かです。彼は、自分の国では決して見つけられなかった幸福や刺激が、どこか異国に行けば見つかるだろうと想像していました。
結果はその反対でした。彼は年季奉公の奴隷になり下がり、不浄な動物の世話を強いられ、十分に食事を取れぬまま、次第に餓死に向かっています。
弟は「財産を無駄遣いしてしまった」 ( v 13 ) と記されています。ここでもう一度、これ(財産)は確かにギリシャ語の名詞 ( ousia ) の意味の一つですが、 ousia には 他にも、「存在そのもの、自分自身」という意味があります。若者は向う見ずに金と財産を使い果たしただけでなく、自分自身をも使い果たしてしまったのです。彼は自分の存在そのものを「失った」のです。
「そこで、彼は我に返って」 ( v 17 ) と記されています。おそらく、若者は自分がいかに愚かであったかを覚り、「自分を取り戻した」と言って良いでしょう。真の悔い改めではないにしても、それは悔い改めの始まりでした。
惜しみなく与える父
「待ちわびる父」の最も 胸を打つ場面で、 この年老いた大農園の持ち主は、遥か遠くからゆっくりと、そしてためらいつつ、こちらに向かって歩いてくる息子を目にします。息子は自分の状態を恥ずかしく思っています。 ( v 20 ) 。
最初に走り寄ったのは父親です。父は、息子がのろのろと家に向かって歩いてくるのを待たずに、途中まで出向いてわがまま息子を迎えたのです。
父親の行動は、非常に不適切で、恥ずべきことと思われるかも知れません。この父親の反応には、愛と憐れみと優しさがあふれ出ています。父親は、「走り寄って首に腕をまわし」、息子を抱きしめ、接吻します。そして、息子が自由と、家族内の立場を回復したことの象徴として、一番よい服を着せ、足に履物を履かせ、手に指輪をはめるように命じます。まるで何事もなかったかのように。
息子のひどく侮辱的な行動と、家族に負わせた恥を考えれば、父親が息子を追い払っても不思議ではありません。
弟息子が帰れば、村中に敵意がわき上がるだろうことは容易に想像がつきます。村人たちは、自分の弟息子が同じような考えを持つことを恐れるでしょう。
権利の悪弊
兄の反応 ( 25 節 -29 節 ) は、当然の憤りです。彼の言葉からすぐに見えてくることがあります。それは、次のようなことです。彼は子としての義務を果たしてきましたが、それは愛や寛容の思いから出た行為ではないようです。そうではなく、彼は何年もの間、しかるべき感謝も受けずに、父親のために「奴隷のようにあくせく働くこと」を強いられて来たと感じています。彼は、自分が与えられてきたものにではなく、奪われたと感じているものに目を向けています。彼は、恐ろしい権利の悪弊に陥っています。
兄は、自分の弟の行為を断固として非難します。「あの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」 ( v 30 ) と言って非難します。弟の行いの噂が広まって、やがては故郷の町や家族に伝わっていたのでしょうか? それとも兄は、弟について最悪な状況を想像しただけで、彼のことを辛らつ極まる言葉で非難したのでしょうか。
兄は、心の中で弟との兄弟関係を「帳消し」にし、いまでは弟を「あなたのあの息子」と呼ぶのです。「彼はあなたの息子でしょうが、わたしの兄弟ではありません」と!
心の中では全く息子だと思っていなくても、息子のように見えることがある、とイエスは言います。それを兄が自分の行動で示したのです。
自由であると信じられていた者 ( 弟 ) が、自分を奴隷のように感じていたことが分かり、一方で、父親の家に留まっていた者 ( 兄 ) が、自分を異国人やよそ者のように感じ、その家の息子だとはまったく感じていなかったことが明かにされたのは、興味深いことではありませんか。
和解に向けて
この深い感動を与えるたとえ話は、ルカの特徴的な強調点を二つ示します。
(一つは)罪人や、社会的にも宗教的にも受容れられない人を、神は喜んで迎え入れること、そして、(もう一つは)神に迎え入れられた者に与えられる喜びと祝いは、神が招く「悔い改め」に向けられた賜物であることです。
二人の息子の寛大な父親は、相続財産を浪費した弟の帰還を歓迎します。しかし又、この父親は、父の気前のよさに抗議しながらも忠実を守る兄を拒絶しません。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」 ( v 31 ) と言うのです。
「…死んでいたのに生き返った」、「いなくなっていたのに見つかった」息子の復帰 ( v 32 ) は、兄の忠実さを無駄にはしません。父の家に復帰した弟は、まじめな生活を始めるに違いありません。神との和解によって、二人の息子は、ともに和解に向けて努力することになるでしょう。
兄は、最後には弟と和解して彼の復帰を受け入れるのでしょうか? 兄は心から弟をゆるし、父親と一緒に喜ぶでしょうか? あるいは、最終的に彼は、弟が経験したより以上に自分が疎外されていると思うのでしょうか? この物語の中で母親はどこにいるのでしょうか? 母親はどんな反応を見せるのでしょうか? わたしたちは、イエスが示さなかった結論を望みながらとり残されます。それが、たとえ話のたとえ話であるゆえんです。これらのたとえ話は、わたしたちが物語を味わい、自分の生活と時代の中で答えを見つけるようにと招きます。
「わがままな息子」、「気前のよい父親」、「憤慨する兄」などのたとえ話は、わたしたちが自分自身を省みて、自分の動機が真実にさらされるときに、多くの悲しみを引き起こすことになるでしょう。
寛大な父は、わたしたちの小ささ、みじめさ、自信の無さ、傲慢さの上にも、惜しみなく愛を浪費なさいます。
開けた野原
今年の四旬節の読書のなかで、わたしは小さな宝石に出会いました。それは「愛だけは信じられる」( "Love Alone is Credible" by Hans Urs Von Balthasar : Ignatius Press, 2004 )という本です。この本の終わりの方で次の言葉が目に飛び込んで来ました。
「人がひとたび、愛のしるしを読み取ることを学び、そしてそれを信じるならば、愛はその人を開けた野原に導きます。その場所では、その人自身が愛せるようになります。」
「もしも放蕩息子が、父親の愛がそこで彼を待っていることを信じなかったなら、彼は家へ帰る旅につくことができなかったでしょう・・・彼が想像さえもしなかった方法で父親の愛が彼を迎えたとしても。」
「決定的なことは、その罪人が愛を承知していることです。自分のためにあるかもしれない愛、自分のために現実にそこにある愛を知っていることです。彼が自分を神に合わせているのではありません。いつもそうであるように、神が彼の中に「愛なき罪人、(イコール)愛される子供」を既に見ているのです。そして、彼を心にかけ、この愛の光の中で彼に尊厳を与えるのです。」 ( p. 103 )
わたしたちに委ねられた司牧
2 コリント 5:17-21 からの今日の第 2 朗読は、ルカの放蕩息子のたとえ話を美しく要約しています。
パウロは多様な異なるカテゴリーによって、神の和解の行動の意味を説明しようと試みます。
彼の注目点は、神の行為と彼自身の司牧との間を行ったり来たり、すばやく動きつづけます。
もしわたしたちが、神と、自分自身と、そして人々と和解するならば、そして、もしもそれによって社会の中にキリストの和解を育むなら、わたしたちは自信を持って、平和の君キリストの大使となるよう要求できるでしょう。この世との和解のために神がその独り子を送ったように、神はわたしたちが、壊れた世界に、傷ついた家庭に、そしてしばしば分裂を起こす教会に、率先して調和を取戻すよう期待します。
この四旬節第4主日にあたり、多くの赦しを与えられたわたしたちが、聖体祭儀の中で祝う赦しの典礼に共に与る罪人一人ひとりを、兄弟姉妹として抱擁できますように。
父なる神へと向かう四旬節の旅路をたどるとき、感謝と喜びの歌がわたしたちの心の荒れ野に響き渡り、また復讐心、卑劣さ、頑なさに満ちた心の砂漠に鳴り渡りますように。
朗読:
ヨシュア 5:9a, 10-12 : (その日) 5:9 主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」 5:10 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。 5:11 過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。 5:12 彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。
2 コリント 5:17-21 : 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 5:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 5:19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 5:20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とな さいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
ルカ 15:1-3, 11-32 : 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
Learning to Read Signs of Love
Biblical Reflection for 4th Sunday of Lent C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MARCH 9, 2010 ( Zenit.org
) .-
Chapter 15 of Luke's Gospel is often referred to as the "Lost and Found
Collection" of the New Testament since it begins with the parable of lost
sheep ( vv
1-7 ) ,
followed by the parable of lost coin ( vv
8-10 ) ,
reaching its crescendo in the parable of prodigal son (
vv 11-32 )
.
The Prodigal Son story in today's Gospel is one of those rare gems that captivates the mind of every listener, then and now. The parable epitomizes Luke's gifts as a storyteller -- his ability to "paint" a scene with such vividness and sensitivity to human relationships that it can echo with each person's lived experience.
At different times in our lives, most of us have played each of these roles:
that of the doting, loving, apparently overindulgent parent; that of the younger
son who experiences being brought low by sinfulness and pride, and desperately
in need of mercy; the older son, who is responsible and above reproach, and
who is frustrated by the generosity and leniency with which the weaknesses and
sins of others are dealt with.
There is some of each of these characters in each one of us. Luke's unique and
marvellous parable of the Prodigal Son was originally aimed at Jesus' respectable
contemporaries who resented his fraternizing with tax collectors and other disreputable
types.
In his 1984 apostolic exhortation "Reconciliatio et Pænitentia"
that followed the Synod on Reconciliation, Pope John Paul II wrote:
"The parable of the prodigal son is above all the story of the inexpressible love of a Father-God -- who offers to his son when he comes back to him the gift of full reconciliation. [...] It therefore reminds us of the need for a profound transformation of hearts through the rediscovery of the Father's mercy and through victory over misunderstanding and over hostility among brothers and sisters."
Portraits of 3 characters
In the ancient Jewish world, the right of "primogeniture" (
being the first-born male in a
family )
meant that the eldest son received a double share of his father's inheritance.
Thus, the younger son would have received roughly one-third of the value of his father's property and possessions. But the very fact of asking for his inheritance ( v 12 ) would have been a grave insult to his father, suggesting that his father was "taking too long to die," and that he had become impatient with waiting for the old man's death.
The younger son obviously goes off to a pagan (
Gentile )
nation (
v 13 )
, since no self-respecting Jewish
farmer would raise pigs -- an animal that was considered non-kosher. The son
apparently traveled a long way, imagining that he would find in some other country
the happiness and excitement he had apparently not found in his own land. The
result was just the opposite: he is reduced to indentured slavery, is forced
to tend unclean animals, and being ill-fed, he is slowly starving to death (
v 17 )
.
We are told that younger boy "squandered his property" ( v 13 ) . Once again, this is certainly a possible meaning of the Greek noun ( ousia ) , but it also has the sense of "his very being, himself." Not only did the young man recklessly surrender his money and property but he surrendered himself as well: he "lost" who and what he was.
We read that the younger son "came to himself" ( v 17 ) . Perhaps it is sufficient to say that the young man came to realize how foolish he had been and so "came to his senses." That is a prelude to repentance, even if not repentance itself.
The prodigal father
In one of the most poignant scenes of "an expectant father," the old
owner of this plantation sees the son, even while the boy is a long way off,
walking home slowly, awkwardly and ashamed of his state (
v 20 )
.
It is the father who takes the first step, who chooses to go out and meet his wayward son en route, instead of waiting for him to come crawling home.
The father's actions would have been considered highly inappropriate and a source
of shame. The father's reaction is an overflowing of love, compassion and tenderness:
he "falls on his son's neck," hugging and kissing him, and demands
that the symbols of his freedom and of his status within the family -- the best
robe, sandals, ring -- be restored to him, as if nothing had happened (
v 22 )
.
This father would have been well within his rights to turn the son away, on the basis of his deeply insulting actions, and the shame he had caused his family.
We can only imagine that village hostility would have been substantial upon the younger son's return. Village families would be afraid their own younger sons would get similar ideas!
The
disease of entitlement
The reaction of the elder son ( vv
25-29 )
is one of righteous indignation: His words quickly make it clear that, although
he has done his filial duty, it has apparently not been out of any sense of
love or generosity; instead, he feels that he has been imposed upon, has "slaved
away" for years for his father without appropriate gestures of gratitude.
He focuses, not on what he has been given, but on what he feels he has been
deprived of. He suffers from the terrible disease of entitlement!
The elder son is very concrete in condemning his brother's behavior, speaking of how he has "devoured your money with prostitutes" ( v 30 ) . Did rumors about the younger boy's actions eventually filter back to his hometown and family?
Or is the elder son simply imagining the worst about his brother, and describing him in the harshest possible terms?
The elder son has "written off" his sibling in his heart, and now refers to him only as "this son of yours" -- he may be your son, but he is no longer my brother! It is, Jesus says, possible to seem to be a son without really being a son in one's heart, and that is what the elder brother reveals by his reaction.
Isn't it interesting that the one who was believed to be free, reveals himself to have felt like a slave, and he who remained in the father's house reveals himself to have felt like an alien and an outsider, not to have felt like a son at all?
Working out reconciliation
This deeply moving parable highlights two of Luke's characteristic emphases:
God's welcome of sinners and those considered socially and religiously unacceptable,
and the rejoicing and celebration that are meant to accompany that welcome,
that are meant to respond to the repentance that God invites.
The generous father of both sons welcomes back the youth who squandered his inheritance but does not repudiate the older son who protests the father's prodigality yet remains faithful to him. "Son, you are always with me, and all that is mine is yours" ( v 31 ) .
The restoration of the son who "was dead and has come to life." who "was lost and has been found" ( v 32 ) , does not invalidate the fidelity of the older son. The younger son, restored to the father's household, must make a new beginning in the life of fidelity. Reconciled to God, both sons must work out together their reconciliation with each other.
Does the elder son finally make peace with his brother and welcome him back?
Does he find it in his heart to forgive, and to share in the father's rejoicing? Or does he, in the final accounting, find himself even more alienated than his younger brother had been? Where is the mother in this story? What was her response? We are left hoping for a conclusion that Jesus never provides. That's what the parables are all about: They invite us to enter into the story and to find the answers in our own lives and times.
The parable of "The Wayward Son" or "The Prodigal Father"
or the "Indignant Elder Brother" can cause much grief for us, as we
see ourselves and our motives exposed for what they really are. The prodigal
Father squanders his own love on our pettiness, our meanness, our diffidence,
and our arrogance.
Open
fields
For my Lenten reading this year, I came across the little gem of a book "Love
Alone is Credible" by Hans Urs Von Balthasar (
Ignatius Press, 2004 )
.
Toward the end of the book, these words jumped off the page: "Once a person learns to read the signs of love and thus to believe it, loves leads him into the open field wherein he himself can love.
"If the prodigal son had not believed that the father's love was already
there waiting for him, he would not have been able to make the journey home
-- even if his father's love welcomes him in a way he never would have dreamed
of.
Ministry
entrusted to us
Today's second reading from St. Paul ( 2
Corinthians 5:17-21 )
summarizes beautifully Luke's masterful Gospel parable of the Prodigal Son.
Paul attempts to explain the meaning of God's reconciling action by a variety
of different categories; his attention keeps moving rapidly back and forth from
God's act to his own ministry as well.
'The decisive thing is that the sinner has heard of a love that could be, and really is, there for him; he is not the one who has to bring himself into line with God; God has always already seen in him the loveless sinner, a beloved child and has looked upon him and conferred dignity upon him in light of this love" ( p. 103 ) .
If we are reconciled with God, with ourselves and with others, and if we in turn foster Christ's reconciliation in society, we can make a convincing claim to be ambassadors of the Prince of Peace.
Just as God took the initiative in sending his son to reconcile the world, so
he expects us to take the initiative to restore harmony to a broken world, to
wounded families, and an often-divided Church.
On
this fourth Sunday of Lent, may we, who have been forgiven so much, embrace
as brothers and sisters every sinner who joins us in the feast of forgiveness
we celebrate in the Eucharistic liturgy.
Along our Lenten journey on the road to the Father, may a song of gratitude
and joy burst forth in the wilderness of our hearts and the deserts of our vengeance,
meanness and hardness of hearts.