聖なる大地に立って

四旬節第3主日(C年) 福音黙想 2010/3/7  トマス・ロシカ師


今日の第一朗読は、出エジプト記( 3:1-8a; 13-15 )からです。ここを読むと、エルサレムで学んでいた 1990 年に初めて訪れたシナイ山と聖カタリナ修道院を思い出します。シナイ山の「聖なる地」に立ったときのあの荘厳な体験は、忘れることができません。そこは神が人間に神の掟、十戒を与えた場所です。

 

訳注:  聖カタリナ修道院 (英名 : Saint Catherine's Monastery ):  エジプト シナイ山 の麓にある峡谷の河口、 シナイ半島 に位置する 正教会 修道院 。修道院は現在も継続して機能する、 キリスト教 :正教会の世界最古の修道院で、 ユネスコ 世界遺産 に登録されている。

同時に思い出すのは、 2000 2 26 に、教皇ヨハネ・パウロ2世がシナイ山の聖カタリナ修道院で語った感動的な言葉です。その時教皇は、この人間の救いの土地へヨベルの年の巡礼の旅に来ていました。「わたしたち以前に、どれほど多くの人々がこの地に来たことでしょう! 神の民はここに幕屋を張りました。(出エジプト 19:2 参照) 預言者エリヤはここの洞穴に逃れました(列王記上 19:9 )。殉教者カタリナの遺体はここに眠っています。毎年ここを訪れる巡礼団の案内人は、ここから、ニッサの聖グレゴリオが「欲望の山」と呼んだシナイ山に登りました。( The Life of Moses, II, 232 ) そしていつの時代にも、修道僧たちは、ここを見守り、ここで祈ってきました。」

「わたしたちは謙虚にその人々の足跡をたどり、アブラハム、イサク、ヤコブの神が、モーセに、その民を解放する使命を授けた『聖なる土地』へと向かいます(出エジプト 3:5-8 )。」

 

今日の出エジプト記第3章の有名な一節を読むと、「聖なる土地」のイメージが目に浮かんできます。何世紀もの間、霊的著作者たちは、聖なる土地と聖なる場所が持つ深い意味に思いを巡らせてきました。シナイ山周辺には、岩だらけの美しい自然があり、また神の聖なる山の麓には今も古い修道院が佇んでいます。この地域全体が、神の人間の歴史への介入を沈黙のうちに証ししています。

「モーセよ、モーセよ」:                                                   今日の第1朗読の中で、「モーセは、しゅうとであり、ミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、(いつも通りに単純に)その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。」 出エジプト 3:1ff ホレブがこの特別な呼び名を与えられたのは、おそらくそこが、エジプトを出発したイスラエルの民が一時滞在した場所である上に、ここに神が出現したことによるのでしょう。

「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。」                                  モーセは、恐れ、ショックを受け、驚きました。なぜなら、だれか彼を知る者が、本当にモーセに関心をもつ者が、ここにいるに違いないと気づいたからです。「彼が、『はい』と答えると、神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』 3:2-5

モーセは、「モーセよ、モーセよ!」と自分の名を呼ぶ声を二度聞きます。聖書の中では、名前を二度呼ばれることは稀なことです。創世記 22:1 では、アブラハムが、「アブラハム、アブラハム!」と呼ばれ、息子を犠牲に捧げるよう召されます。

(訳注:新共同訳では、「神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、」と一度だけの呼びかけになっている。 なお11節では主の御使いが二度呼びかけている。)

 

それはアブラハムの生涯の大きな転換点でした。彼の忠実が試されたのです。二度名前を呼ばれるもう一つの例は、サムエル記上の 3:10 にある「サムエル!サムエル!」という呼びかけです。そして、「サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております。』

(訳注:新共同訳はここも一度の呼びかけになっている。) 

混乱した士師の時代が終わり、列王(記)の時代が始まろうとしています。それは神が、新たなかたちでご自分の民に近づく時代の始まりなのです。

 

柴が燃え続ける現象を見たモーセは、それを、神について、歴史について、また歴史の中に現存する神についての自分の理解の範囲で捉えようとしました。しかし、柴の間から聞こえてきた主の力強い言葉は警告です。それはあたかも「モーセよ、お前は自分のものの考え方(思想体系)でわたし(神)を理解したつもりで、わたしに近づいてはならない。お前は自分の計画の中にわたしを取り入れる立場には居ない。そうではなく、わたしがお前を、わたしの計画の中で生かしたいのだ。」と言っているかのようでした。 人はだれも、神の神秘をたやすく手に入れることはできません。主なる神がモーセを必要としたのです…偶々そこにいた彼を…。主はわたしたち一人ひとりにも同じようになさいます。

時と場所:                                                                          神は、特別の場所で、特別のやり方でモーセにご自身を現されましたが、それによって、神がその場所や方法に縛られるものではないということを決して忘れてはなりません。このように、神を特定の時、場所、民族に限定する傾向は次第に薄れ、わたしたちは神の完全な支配を理解できるようになるでしょう。

神の現存とイエスの力は、単なる場所に限定されることはありません。神は、わたしたちがどこにいようとも、その間の距離、構造、境界線、規則を超越して語りかける偉大な力を持っておられます。それを認めましょう。神がわたしたちに語りかけるのは、かつてモーセに言われたこの言葉です。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 

真の岩:                                                                            砂漠、岩、水に関する旧約聖書の予型論は、今日の第二朗読、パウロの「コリントの信徒への手紙 10:1-6,10-12 に大変明快に示されています。聖パウロはこう記します。「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 10:3-5 」  

訳注:予型論=新約聖書における出来事は旧約聖書の中にすでに予表または表象されているとする教説。)

パウロは、イスラエルの民について来た霊的な岩に言及します。ユダヤ教のトーラーは、水が流れ出た岩についてのみ語りますが、ラビの言い伝えの中では、流浪の旅の間ずっとイスラエル人に離れずについて来た泉へと話が拡がりました。パウロは、この言い伝えを文学的な表現に用いました。そして、岩そのものをイスラエル人たちに従わせ、岩に霊的意味を与えています。その岩はキリストでした。


旧約聖書において、主なる神は、「神の民の岩」です 申命記 32 章モーセの歌 :32:4 「主は岩」 。 パウロはここで、キリストにそのイメージを当てはめました。キリストはいのちの水の源であり、イスラエルの民に離れずに従い、砂漠を経験した時の道しるべとなった真の岩です。

 

神の民全ての命運

10 年前、 2000 2 月のヨベルの年の巡礼のとき、シナイ山の聖カタリナ修道院でヨハネ・パウロ2世が語った言葉をよく考えてみましょう。

 

「ここシナイ山で、『神とは何か』の真実が契約の基礎となり保証となりました。モーセは、『光る暗闇』に入り The Life of Moses, II, 164 、そこで『神の指で記された』掟を授かります(出エジプト 31:18 )。

しかしこの掟とは何でしょうか? それはいのちと自由の掟です! 人々は紅海で偉大な解放を体験しました。人々は神の力と誠実を目のあたりにしました。この御方こそ、約束通り本当に自分たちを解放してくれる神であると気付いていました。しかし今、シナイ山の高みで、この同じ神が、決して破棄することのない契約を結ぶことでその愛を封印します。

もし民がその神の掟に従えば、彼らは永遠に自由を味わうのです。出エジプトと(神の)契約は、単なる過去の出来事ではありません。それらは、永遠に、全ての神の民の定めなのです!

 

「十戒は、専制的な主が恣意的に押し付けたものではありません。十戒は石に記されました。しかしその前に、十戒は時代や場所を越えて生き続ける普遍的な道徳律として人間の心に記されたのです。」   今日も変わることなく、掟の十の言葉は、個人、社会そして国家の生活の、唯一で真(まこと)の基礎になっています。今日も変わることなく、十戒は人間家族の唯一の未来です。十戒は、利己主義、憎悪、欺瞞の破壊的な力から人間を救います。」

「十戒は、人を奴隷状態に導く全ての偽の神々を明らかにします。それは、神を退けるほどの自己愛、あるいは、正義の秩序を破壊し自らと隣人の尊厳を貶めるほどの権力と享楽への欲望です。もしも、これらの欺りの偶像から離れ、ご自分の民を解放していつも共に居てくださる神に従うなら、わたしたちは、山上で四十日を過した後のモーセのように、神の光に輝いて浮かび上がること出来るでしょう。 Saint Gregory of Nyssa, The Life of Moses, II, 230

「十戒を守ることは、神に忠実であるということですが、それは自分自身に対しても、また自分の真の本性、自分の最も深い望みにも忠実であるということです。今日もシナイ山から吹く風は、神が、被造物の成長において、また成長を通して、賛美されたいと望んでおられることを思い出させてくれます。   'Gloria Dei, homo vivens.' この意味において、その風は常にわたしたちを、人間家族に仕える偉大なる一神教(複数)の信者たちとの対話に招いています。それは、わたしたちが、神において(一致する)出会いの場所を見出すことができることを示唆しています。全能で憐れみ深く、宇宙の創造主であり歴史の主である神は、わたしたちが地上の存在を終えるとき、完全な正義を以てわたしたちを裁かれます。」

解放をもたらす従順:                                                     四旬節第3日曜日の、シナイの教えは明らかです。わたしたちもイエスのような従順を学ぶなら真に解放されるでしょう。シナイのホレブ山上における神とモーセの出会いは、解放をもたらす従順の神秘をわたしたちの宗教の核心に置きます。そしてそれは、ベツレヘムでの生誕からエルサレムでの十字架に至る、キリストの完全な従順の中に成就されるのです。


聖書朗読:

出エジプト 3:1-8a, 13-15 : 3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 

  1 コリント: 10:1-6 、 10-12 : (偶像への礼拝に対する警告) 10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、 10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、 10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。 10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

 

ルカ 13:1-9 : (悔い改めなければ滅びる) 13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

Standing on Holy Ground

Biblical Reflection for 3rd Sunday of Lent C By Father Thomas Rosica, CSB


TORONTO, MARCH 2, 2010
Zenit.org .- Today's first reading from Exodus 3:1-8a; 13-15 carried me back to my first visit to Mount Sinai and St. Catharine's Monastery in 1990, during my years of study in Jerusalem. I remember well that awesome experience of standing on "holy ground" in Sinai, at the place where God gave humanity his Law, the Ten Commandments of the Covenant.

 

I also recall the moving words of Pope John Paul II spoken at St. Catherine's Monastery in Sinai on Feb. 26, 2000, during his historic Jubilee Pilgrimage to the places of our salvation: "How many have come to this place before us! Here the People of God pitched their tents cf. Exodus 19:2 ; here the prophet Elijah took refuge in a cave cf. 1 Kings 19:9 ; here the body of the martyr Catherine found a final resting-place; here a host of pilgrims through the ages have scaled what Saint Gregory of Nyssa called 'the mountain of desire' The Life of Moses, II, 232 ; here generations of monks have watched and prayed. "We humbly follow in their footsteps, to 'the holy ground' where the God of Abraham, of Isaac and of Jacob commissioned Moses to set his people free cf. Exodus 3:5-8 ."

Moses, Moses
In today's first reading, Moses is simply "minding his business" keeping the flock of his father-in-law Jethro, the priest of Midian, when he comes to Horeb, the mountain of God . Horeb has this special designation probably because of the divine apparitions that took place there, as well as the place where the Israelites sojourned after the departure from Egypt.

The angel of the LORD appeared to Moses in a flame of fire out of a bush; he looked, and the bush was blazing yet it was not consumed. Then Moses said, "I must turn aside and look at this great sight, and see why the bush is not burned up." When the LORD saw that he had turned aside to see, he called to him out of the bush, "Moses, Moses!" Moses, fearful, shocked and amazed, became aware that someone who knows him must be here, someone who is truly interested in him. And Moses said, "Here I am." Then the Lord said, "Come no closer! Remove the sandals from your feet, for the place on which you are standing is holy ground" Exodus 3:2-5 .

 

Moses hears his name called out twice: "Moses, Moses!" In the Bible it is rare for a person to be called twice. In the book of Genesis 22:1 , Abraham is summoned to sacrifice his son. "Abraham, Abraham!"

 

It is a major turning point in his life. His own sincerity was put to the test. Another instance of a double name calling is in 1 Samuel 3:10 "Samuel! Samuel!" And Samuel said, "Speak, for your servant is listening." The confusing period of the Judges is ending and the time of the kings, which marks a new nearness of God to his people, is beginning.

Moses tried to consider the phenomenon of the burning bush as a part of his view of God, of history, and of God's presence in history. But the Lord's strong words to Moses from the bush are a warning, as if Moses were being told: "Moses, you are not going to come to me by enclosing me into your personal scheme of things. You are not the one to integrate me into your personal plans. Instead, I want to fit you into my master plan!"     No one of us waltzes into availability to the mystery of God. It is the Lord God who seeks Moses [...] where he happens to be. The Lord does the same with each of us.

Time and place
We must never forget that while God revealed himself to Moses in a particular place and through a particular fashion, this does not limit God, to those places and ways. Our human tendency to limit this God to certain times, places and peoples will be lessened to the degree that we understand the absolute sovereignty of God.

The presence of God and the power of Jesus cannot be limited to mere places. Let us recognize God's great ability to break through our distances, structures, borders and rules in order to speak to us wherever we are the words once spoken to Moses: "Come no closer! Remove the sandals from your feet, for the place on which you are standing is holy ground."


True rock
The Old Testament typology of desert, rock and water is very evident in today's second reading from St. Paul's first letter to the Corinthians
10:1-6, 10-12 .

St. Paul writes: "All ate the same spiritual food, and all drank the same spiritual drink, for they drank from a spiritual rock that followed them, and the rock was the Christ. Yet God was not pleased with most of them, for they were struck down in the desert."

Paul refers to a spiritual rock that followed the people. The Torah speaks only about a rock from which water issued, but rabbinic legend amplified this into a spring that followed the Israelites throughout their migration. Paul uses this legend as a literary type: He makes the rock itself accompany the Israelites, and he gives it a spiritual sense. The rock was Christ.


In the Old Testament, the Lord God is the Rock of his people
Moses' song to the Lord, the Rock in Deut 32 . Paul now applies this image to the Christ, the source of the living water, the true Rock that accompanied Israel, guiding their experiences in the desert.

 

Destiny of all God's people
Let us ponder words of Pope John Paul II spoken ten years ago at St. Catherine's Monastery in Sinai during his Jubilee Pilgrimage in February 2000

"Here on Mount Sinai, the truth of 'who God is' became the foundation and guarantee of the Covenant. Moses enters 'the luminous darkness' The Life of Moses, II, 164 , and there he is given the Law 'written with the finger of God' Exodus 31:18 . But what is this Law? It is the Law of life and freedom! At the Red Sea, the people had experienced a great liberation. They had seen the power and fidelity of God; they had discovered that he is the God who does indeed set his people free as he had promised. But now on the heights of Sinai, this same God seals his love by making the Covenant that he will never renounce. If the people obey his Law, they will know freedom forever. The Exodus and the Covenant are not just events of the past; they are forever the destiny of all God's people!

"The Ten Commandments are not an arbitrary imposition of a tyrannical Lord. They were written in stone; but before that, they were written on the human heart as the universal moral law, valid in every time and place. Today as always, the Ten Words of the Law provide the only true basis for the lives of individuals, societies and nations. Today as always, they are the only future of the human family. They save man from the destructive force of egoism, hatred and falsehood.

They point out all the false gods that draw him into slavery: the love of self to the exclusion of God, the greed for power and pleasure that overturns the order of justice and degrades our human dignity and that of our neighbor. If we turn from these false idols and follow the God who sets his people free and remains always with them, then we shall emerge like Moses, after forty days on the mountain, 'shining with glory' Saint Gregory of Nyssa, The Life of Moses, II, 230 , ablaze with the light of God!

"To keep the Commandments is be faithful to God, but it is also to be faithful to ourselves, to our true nature and our deepest aspirations. The wind which still today blows from Sinai reminds us that God wants to be honored in and through the growth of his creatures: 'Gloria Dei, homo vivens.' In this sense, that wind carries an insistent invitation to dialogue between the followers of the great monotheistic religions in their service of the human family. It suggests that in God we can find the point of our encounter: In God the All Powerful and All Merciful, Creator of the universe and Lord of history, who at the end of our earthly existence will judge us with perfect justice."

Liberating obedience
On this Third Sunday of Lent, the lessons of Sinai are clear for us: We too shall be truly free if we learn to obey as Jesus did. The encounter of God and Moses on Mount Horeb in the Sinai enshrines at the heart of our religion the mystery of the liberating obedience, which finds its fulfillment in the perfect obedience of Christ, by his birth in Bethlehem and his crucifixion in Jerusalem.

 

home page