タボル山の隠された栄光
四旬節第2主日(C年) 福音黙想 2010/2/28 トマス・ロシカ師
今日の福音朗読は、わたしたちに「主のご変容」を語ります。これは、新約聖書の中でも最も神秘的で荘厳な光景の一つで、3つの共観福音書に描かれています。 ( マルコ 9:2-8; マタイ 17:1-8; ルカ 9:28-36 )
ルカによる変容の場面は第9章にあり、イエスが何ものであるかに焦点を当てた一連の出来事の一つとして描かれています。この章全体は、福音書に記されたヘロデの疑問、「「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」 ( 9:9 ) を軸に展開します。
これに続くエピソードで、ルカは、ヘロデの疑問に対する様々な答えを読者に示します。イエスは、神の力備えた方で、神の民に必要なものを与える方です。 ( 9:10-17 ) ペトロは、イエスは「神からのメシアです。」と宣言します。 ( 9:18-21 ) イエスは、自分は苦しみを受ける人の子 ( 22:43-45 ) であると告げます。イエスは主であり、死に至るまで従うべきお方です ( 9:23-27 ) 。そして最終的には、イエスは神の子、神から選ばれた者です。 ( 9:28-36 ) そのことが、ご変容という今日の荘厳な場面で明らかにされるのです。
ルカは、マタイやマルコと同様に、最初の受難予告の直後にこの物語を配置しています。この位置に置くことで、ご変容は、イエスの洗礼 ( 3:21-22 ) に匹敵する「戦略的意味」を持つことになります。準備の洗礼を受けて公生活を始める前に、イエスは、神の子として天からの確認を受けました。
イエスのご変容の場面を、受難と死、そして復活の最初の予告の直後に置くことで、イエスの苦しみは栄光のうちに終わるというイエスの宣言もまた、天からの確認を受けることになります。
六日間、高い山、イエスの顔の輝き、そして雲という記述は、すべてシナイ山のモーゼの物語にあります。(出エジプト記 19:16; 24:15-28; 34:29-35 ) 「山」は、ルカ福音書ではいつも祈りの場所です。 ( 6:12; 22:39-41 参照 ) 。エリヤとモーゼは、旧約聖書の律法と預言者を象徴しています。ユダヤ教の伝統によれば、預言者たちは死なず、直接天国に行ったとされています。「幕屋」すなわちテントは、屋台が立ち並ぶ祭りを示唆します。
ルカは、山上の会話の内容が、イエスの「脱出」 ( 31 節 ) 、すなわち運命の都エルサレムで起こるであろうイエスの死、復活、そして昇天 ( 9:51 ) についてだと考えます。「脱出」の話となると、エジプトから約束の地へ脱出したイスラエル人の物語をまた思い出します。このエピソードの最後に天から声が聞こえ、イエスの洗礼のときと同じ言葉で、いまやイエスこそがその言葉を聞くべき者であると認めます。変容物語の背景: ルカは、ご変容を語るにあたって、旧約聖書のいくつかの文言を思い起こすように最も印象的な方法をとりました。出エジプト記 24:12-18 に記されたもう一つの山上の神の出現を思い出してみましょう。ここでは、「 16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。 17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。 18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」と語られています。 出エジプト記の神の出現の記述は、ご変容の物語と細かな共通点が沢山あります。すなわち、山、雲、6日間(マルコ 9:2 ; ルカは8日間)、モーセ、声、栄光です。さらに、神と対面した後のモーセの顔の輝き ( 出 34:29-35 ) は、間違いなく、今日の福音の個所に影響を与えたでしょうし、ご変容を、イエスご自身を啓示する出来事の文脈に据える手助けとなっています。
砂漠の荒れ野で日夜誘惑を受けた後、そしてゴルゴタの暗黒に先立ち、ご変容の栄光に満ちた光が今日の福音の中に輝きわたります。タボル山上の出来事で確かなことが一つあります。イエスと三人の弟子たちが、神の現存を深く味わったということです。すべてのキリスト者の運命は、二つの山の間に書かれていると言われてきました。二つの山とはカルワリオの丘とご変容の山のことです。今日の福音をよく見ると、わたしたちの四旬節の旅路に関しての保証と希望を見いだすことができます。わたしたちは皆、自分自身の恐ろしい夜を過ごすために、一服の「栄光」を必要としているのです。
ルカによる変容物語の地理
地理は、ご変容の出来事を理解する助けになります。タボル山は、近くのダボリエとナインという二つの街との関係の中に位置づける必要があります。ルカ福音書の第7章 ( 11 〜 17 ) で、イエスは、タボル山のちょうど反対にある小さな村ナインで、やもめの息子を生き返らせます。イエスはやもめの一人息子の死と闘い、名声はこの地方一帯に広まります。イエスは死んだ若者に触れ、その命を取り戻すという奇跡を通して、ある一線を越えました。 そして、ルカによるご変容の記述のすぐ後に、イエスと弟子たちは山を下り、麓にある小さな町に入ります。新約聖書には名前が記されていないのですが、その町は、いまではアラビア語でダボリエ( Dabboriyeh )と呼ばれています。それは士師記 ( 4:4 ) に登場する伝説上の女預言者で士師のデボラに因んでつけられたものです。イエスが町に近づくと、一人の男が群衆の中から走り出て、一人息子のてんかんの症状を説明します。イエスは再び人間の苦しみ、悲しみと闘います。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親に返されます ( 9:42 ) 。ご変容の出来事は、ナインとダボリエの間で起こります。それはあたかも、イエスがエルサレムに向かう旅の間に起きた(イエスの)変化と飛躍の瞬間のように見えます。やもめの息子の蘇りとてんかんの少年のいやしは、タボル山での体験全体をひとまとめにします。タボル山の頂上に留まっていたいという弟子たちの願いは、人生の困難、危険、争い、挑戦を避け、今のままでいたいという大きな誘惑を表しています。弟子たちが、できれば世間と交わらず、狂乱する群衆から離れ、死者に触れる危険と距離を置き、典礼上の不浄を逃れ、悪魔との戦いを免れることを望んでいる、まさにそのとき、イエスは彼らを導いて幻影の山を下り、さらに多くの悪魔に立ち向かい、苦しんでいる人々に神の無償の癒しをもたらします。
山頂での学び 弟子たちは、山頂で何を学んだのでしょうか。弟子たちはイエスの本質を深く見つめ、イエスに与えられた神の使命をよりよく理解しました。エルサレムに向かう旅の中で、このタボル山の体験は必要なのです。その体験がイエスと弟子たちを強め、またわたしたちにとっても、キリスト者として、イエスの弟子として必要な視野と理想と力を得る助けとなります。 変容の体験について、わたしたちも自分自身に問いかけてみましょう。神は、何故タボル山ですべての栄光を隠されたのでしょうか。そこには、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外に目撃者は居ませんでした。 神は、何故すべての栄光を十字架のために取っておかなかったのですか。光がわたしたちに降り注ぐ前に、わたしたちは闇を通り抜けなければなりません。ご変容がわたしたちに教えるのは、神の輝くいのちは死を包含していること、そして、それを避けることなどできるわけもなく、ただ通り過ぎることしかできないということです。それはまたわたしたちに、恐ろしい闇は、輝き、まぶしいこともあるということを思い出させます。
わたしたち自身のタボル山
過去一年をふり返って、わたしたち自身の旅の中での「タボル山」の時を探してみましょう。その時、誰があなたの傍にいましたか? 何故、その時が重要だったのですか? 山の上で、何があなたを怖がらせましたか? 何故、そこにいることが良かったのでしょうか? 幻影の山から下りるのを恐れたのは何故でしょう? 山の麓では誰が、何が待っているのでしょう? 旅のどの部分が最も多く語りかけ、新たな理想であなたを前進させましたか? その新しい理想とはなんですか?
わたしたちが生活の変化や飛躍のさなかにあるときに、どうすればわたしたちは、憐れみ深く希望に溢れた人になれるでしょうか?
四旬節第2主日に当たり、この変容をキリストの現存と考えましょう。それはわたしの中の全てを引き受け、わたし自身を妨げるものさえもさせます。神は、わたしの中の頑なで疑い深く、不安な部分を見通されます。それについて、わたしにはどうしたらよいか分からないのです。神は輝く光と、聖霊のいのちによってそれらを貫き、それらに神ご自身の顔を与えます。
今週は、キリストの言葉によって変容される人々の一人になりましょう。幻影の山を降りなから、カルカッタのマザー・テレサの美しい祈りを唱えましょう。これは、ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の祈りに触発されて、マザー・テレサが自分の共同体の公式の祈りにしたものです。
イエスさま、わたしの行く先々にあなたの香りを広げるよう助けてください。
わたしの魂が、あなたの霊といのちで溢れますように。
わたしの存在の全てを貫いてあなたのものとし、
わたしのいのちの全てが、ただあなたの輝きとなりますように。
わたしを通して輝き、また、私が触れるひとつひとつの魂が、
わたしの魂の中にあなたの現存を感じることができますように。
人々が最早わたしではなく、イエスだけを見上げますように!
わたしの内に留まり、あなたが輝くようにわたしも輝き始めますように、
そして、その輝きが人々の光となりますように。
光は、おおイエスよ、全てあなたから発します。決してわたしからではありません。
わたしを通して人々を照らすのは、あなたです。
こうして、あなたが最もお喜びになる方法であなたを賛美できますように、
わたしの輝きが周囲の人々を照らすことによって。
教えるのではなく、あなたを伝えさせてください、
言葉ではなく、わたしの行いで、
捉える力によって、また、わたしの行いが及ぼす影響によって、
あなたに捧げる、この愛の溢れる証しによって。 アーメン
(この有名な祈りには既にいくつかの優れた訳があります。上記は直訳のままですが、ご参考までに別の訳を二つだけ、末尾に付しておきます。)
朗読:
創世記 15:5-12, 17-18 :主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 15:7 主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」 15:8 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」 15:9 主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」 15:10 アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。 15:11 禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。 15:12 日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。
すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。 15:17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。 15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」
フィリピ 3:17-4:1 または 3:20-4:1 : 3:17 兄弟たち、(皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。) 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
ルカ 9:28b-36 :(イエスの姿が変わる) 9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
The Hidden Glory of Mount Tabor
Biblical Reflection for 2nd Sunday of Lent Year C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, FEB. 23, 2010 ( < http://www.Zenit.org > Zenit.org ) .- Today's Gospel presents us with the Transfiguration of the Lord, one of the New Testament's most mysterious and awesome visions related to us in the three synoptic Gospels ( Mark 9:2-8; Matthew 17:1-8; Luke 9:28-36 ) .
Luke's version of the Transfiguration is found in Chapter 9 in a collection of incidents that focuses on the identity of Jesus. The whole chapter centers on the question that Herod asks in this Gospel: "Who then is this about whom I hear such things?" ( 9:9 ) .
In subsequent episodes, Luke reveals to the reader various answers to Herod's question. Jesus is one in whom God's power is present and who provides for the needs of God's people ( 9:10-17 ) . Peter declares Jesus to be "the Messiah of God" ( 9:18-21 ) . Jesus says he is the suffering Son of Man ( 22:43-45 ) . Jesus is the Master to be followed, even to death ( 9:23-27 ) . Finally, Jesus is God's son, his Chosen One ( 9:28-36 ) , as revealed in today's majestic scene of the Transfiguration.
Luke joins Matthew and Mark in placing this story immediately after the first prediction of the passion, a position that gives the Transfiguration a strategic importance parallel to Jesus' baptism ( 3:21-22 ) . After submitting to the baptism of preparation and before beginning his public ministry, Jesus received heaven's confirmation as Son of God. Situated shortly after the first announcement of the passion, death, and resurrection, the scene of Jesus' Transfiguration provides the heavenly confirmation to Jesus' declaration that his suffering will end in glory ( 9:32 ) .
The six days, the high mountain, the radiance of Jesus' face, and the cloud, are all in the story of Moses on Mount Sinai ( Exodus 19:16; 24:15-18; 34:29-35 ) . The "mountain" is the regular place of prayer in Luke ( cf. 6:12;22:39-41 ) . Elijah and Moses represent the Old Testament law and the prophets. According to Jewish tradition, they did not die, but went directly to heaven. The "tabernacles" or tents suggest the Festival of Booths.
Luke identifies the subject of the mountaintop conversation as the "exodus" ( v. 31 ) of Jesus, a reference to his death, resurrection, and ascension that will take place in Jerusalem, the city of destiny ( 9:51 ) . The mention of exodus also calls to mind the Israelite Exodus from Egypt to the Promised Land. At the end of this episode, the heavenly voice, with words similar to those spoken at Jesus' baptism identify him as the one to be listened to now ( 9:35 ) .
Background of the Transfiguration story
Luke's Transfiguration is told in a most striking fashion so as to call to mind several passages of the Old Testament. Let us recall another mountaintop revelation of God in Exodus 24:12-18. In that story, the "glory of the Lord covered the mountain and on the seventh day the Lord called to Moses from within the cloud. To the Israelites the glory of the LORD looked like a consuming fire on top of the mountain. Then Moses entered the cloud as he went on up the mountain. And he stayed on the mountain forty days and forty nights."
The account of the Exodus theophany shares many details with the transfiguration story: the mountain, the cloud, six days ( Mark 9:2; Luke has eight ) , Moses, the voice, the glory. In addition, the shining of Moses' face after being in the presence of God ( Exodus 34:29-35 ) surely influenced today's Gospel and helps to place the transfiguration in the context of revelatory events.
Following the days and nights of temptation in the desert wilderness, and preceding the blackness of Golgotha, the glorious rays of the transfiguration burst forth in today's Gospel. One thing is clear on Mount Tabor: Jesus and his three disciples have a profound experience of God's presence. It has been said that the destiny of every Christian is written between two mountains: from Calvary to the mountain of the Transfiguration. When we look closely at today's Gospel, we find some affirmation and hope for our own Lenten journey. Each of us needs a dose of glory, to get us through our own terrifying nights.
The Geography of Luke's Transfiguration story
Geography sheds light on our understanding of the Transfiguration event. We need to situate Mount Tabor in relation to Dabboriyeh and Nain, two nearby villages to the mountain. In Chapter 7 of Luke's Gospel, Jesus raises the widow's son in the little village of Nain, just opposite Mount Tabor. Jesus struggles with the death of the widow's only son and his fame spreads throughout the countryside. Through the miracle, Jesus broke through boundaries by touching the dead boy and restoring him to life.
Then immediately after Luke's account of the Transfiguration, Jesus and the disciples descend the mountain to a little town at the foot of the mountain. Though not named in the New Testament, that town is called today Dabboriyeh in Arabic, after the legendary prophetess and judge Deborah in the Old Testament book of Judges. As Jesus draws near the village, a man from the crowd runs forth to describe the epileptic condition of his only son. Once again Jesus struggles with human suffering and sadness; he rebukes the unclean spirit, heals the boy, giving him back to his father ( 9:42 ) .
The Transfiguration event takes place between Nain and Dabborriyeh, almost like a moment of transition and breakthrough during Jesus' journey up to Jerusalem. The raising of the widow's son and the healing of the epileptic boy bracket the whole Tabor experience. The Apostles' desire to remain atop the mountain illustrates the great temptation to want to stay put; to avoid the difficulties, risks, controversies and challenges of life. Just when they would prefer to remain secluded, far from the madding crowds, distant from the risks of touching the dead, immune from the ritual impurity, free from battling with the demons, Jesus leads them down the mountain of vision to confront more demons and bring God's gratuitous healing to all those who suffer. ( 9:42 )
The lessons of the mountaintop
What do the apostles learn on the mountaintop? They peered deeply into the identity of Jesus and understood better his divine mission from heaven. The Mount Tabor experience is necessary in the midst of the journey up to Jerusalem, for it strengthened Jesus and the apostles and helps us, also, to gain the necessary perspective, vision and strength required for our Christian lives and discipleship.
Of the Transfiguration experience we might ask ourselves: Why did God hide all the glory on Tabor, where no one other then Peter, James and John could witness? Why didn't God save it for the cross? Before light flows over us, we need to go through darkness. The transfiguration teaches us that God's brilliant life included death, and there is no way around it -- only through it. It also reminds us that the terrifying darkness can be radiant and dazzling.
Our own Tabor moments
Looking back over the past year, let us try to identify some "Tabor" moments in our own journeys. Who was with us during those moments? Why were such moments important? What made us afraid on the mountain? Why was it good to be there? What frightens us about going down from the mountain of the vision? Who or what is waiting for us at the foot of the mountain? What part of our journey speaks the most to us and sends us forth with renewed vision? What is that new vision? How can we become compassionately hopeful people in the midst of the transitions and breakthroughs of our life?
On this second Sunday of Lent, let us look upon the Transfiguration as the presence of Christ, which takes charge of everything in us and transfigures even that which disturbs us about ourselves. God penetrates those hardened, incredulous, even disquieting regions within us, about which we really do not know what to do. God penetrates them with radiant light, with the life of his Spirit, and gives them God's own face.
This week let us be counted among those who listen to Christ's Word and are transfigured by it. As we come down from the mountain of vision, let us pray the beautiful words of Blessed Teresa of Calcutta, who was inspired by the Venerable John Henry Cardinal Newman to formulate this prayer for her community:
Dear Jesus, help me to spread Your fragrance everywhere I go.
Flood my soul with Your spirit and life.
Penetrate and possess my whole being so utterly
That all my life may only be a radiance of Yours.
Shine through me and be so in me that every soul
I come in contact with may feel Your presence in my soul.
Let them look up and see no longer me but only Jesus!
Stay with me and then I shall begin to shine as You shine,
So to shine as to be a light to others;
The light, O Jesus, will be all from You; none of it will be mine:
It will be You shining on others through me.
Let me thus praise You in the way You love best:
By shining on those around me.
Let me preach You without preaching,
Not by words, but by my example,
By the catching force, the sympathetic influence of what I do,
The evident fullness of the love my heart bears to You. Amen.
<付録> ニューマン枢機卿の祈り(マザーテレサの共同体の祈り)
@片柳弘史神父のブログより
主よ、わたしたちの行くところに、イエスの香りが広がっていきますように。
わたしたちの心に、あなたの霊といのちをあふれるほど注いでください。
わたしたちのすべてを貫き、あなたのものにしてください。
わたしたちの人生が、あなたの輝きになるほどに。
わたしたちの中で輝き、またわたしたちを通して輝いてください。
出会うすべての人が、わたしたちの心の中にあなたを感じることができますように。
その人たちがもはやわたしたちを見るのではなく、わたしたちの中にイエスだけを見ますように。
わたしたちと一緒にいてください。そうすれば、わたしたちはあなたと同じように輝き始めるでしょう。
世の光になれるでしょう。
イエスよ、すべての輝きはあなたからのものです。わたしたちのものではありません。
わたしたちを通して輝いているのは、あなたなのです。
周りにいる人たちにあなたの輝きをもたらすことで、
あなたを讃えることができますように。
説教なしで、あなたを人々に知らせることができますように。
言葉ではなく、わたしたちの生き方によって、
人を魅了する力によって、行いに込められた思いやりの力によって、
そして、わたしたちの心があなたへの愛にあふれているという事実によって。 アーメン
A渡辺和子訳「マザー・テレサ愛と祈りのことば」より
イエス様、私がどこにいても、
あなたのかおりをはなつことができますように、
私を助けて下さい。
私の心をあなたの霊といのちであふれさせてください。
私の存在に浸み通り私を捕らえつくすことによって私の生活のすべてが、
ひたすらあなたの光をかがやかすものとなりますように。
私をあなたの光をかがやかせるものとしてお使いください。
私が出会うあらゆる人々が、
私の中にあなたのみ姿を感じることが出来ますように、
私のうちでかがやいてください。
主よ、人々がもはや私ではなく、あなただけを見ますように。
私の中におとどまりください。
そうすれば私があなたの光でかがやき、
私の光で他の人々もかがやくことができるのです。
主よ、光はすべてあなたからのもの、
ごく僅かの光でさえ、私のものではありません。
あなたが私を通して人々を照らしておられるのです。
私の周囲にいる人々を照らすあなたへの賛美を 私の唇にのぼらせてください。
言葉でよりも行動で、私の生き方、
あなたから与えられる私への愛が、
目に見える光りとなって、
あなたを人々にのべ伝えることができますように。