これはとても王にはふさわしくない…それともふさわしいのだろうか?

年間第 33 主日 聖書黙想  2010/11/14   トマス・ロシカ師

 

 

典礼年 C 年のグランド・フィナーレとなる今日の「王であるキリスト」の祝日は、わたしたちが文化的環境の中で抱いてきた統治者や国家についての考え方を改め、イエス・キリストが、何故、この世の支配者たちとは違う真の王なのかを発見する機会を与えてくれます。

 

この一年間わたしたちは、イエスに倣うこと、特に赦しと和解を説くイエスの使命に倣うという、大切なルカのテーマを見てきました。心を動かすルカの「十字架上の受難」の物語で、このテーマは頂点に達します。

 

イエスの最期の時

今日の福音( 23:35-43 )の記述は、ルカ福音書だけに見られるものです。回心した罪人が十字架上のイエスによって救いを受けます。感動的なルカ福音書の「十字架上の受難」の光景は、ルカのイエス描写に特有な細部の表現に満ちています。イエスは、二人の犯罪人に挟まれて十字架につけられ、最後の晩餐の食卓でご自身が予告したことばを実現します( 22:37 )。イエスは弟子たちに、くり返し、暴力に更なる暴力で応えてはならない、常に赦しなさいと教えてきましたが、まさにそのように、自分に有罪の判決を下した者も、身体に釘を打ち込む者も赦します( 23:34 )。

 

共に十字架につけられていた犯罪人の一人が、イエスの死に至るまで続く嘲りの合唱に加わるとき、もう一人の犯罪人は罪を悔い、憐れみを願います。( 23:39-43 これは、罪を認めた徴税人の物語( 18:9-14 )に例示されているように、真の回心へのルカの処方箋です。そしてイエスは、この犯罪人を赦すばかりでなく、神へと向かう彼の旅が、喜びに満ちて楽園に到達するまさにその日に、彼はイエスと一緒にいると約束なさいます。

訳注:ルカ 18:9~18:14 :(ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』   言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

ルカだけが記す強く心に訴える場面です。( 23:39-43 ) 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください。」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

ルカ福音書に描かれた死にゆくイエスのイメージは、わたしたちに深い屈辱感と無力感を与えます。ルカは神の御子、ユダヤ人の王の死をそのように描いているのです。ルカは、嘲りと辱めの言葉の数々を列挙します。犯罪人、有罪判決、はりつけ、裸にする、あざ笑う、侮辱する、愚弄する、あざける、ののしる、せせら笑う、などなど…。これらは全く王にはふさわしくない扱いです。そこには王冠は無く、いばらの冠だけがあります。わたしたちが直面するのは苦しみと嘆き、そして賛歌や賛美ではなく、耳障りな嘲りの声です。

 

受容する王職

王であること、そこに神が介在するとき、王は民が自らの過ちを無視することは望みませんが、その事実を受け容れて人々を救います。救いの歴史を通して、民への神の約束は、地において正しく賢明に振る舞い、公平と正義を行い、民の安全な暮らしを実現する「王」をもたらすことでした。イエスによって神はその約束を果たしました。

 

イエスの物語の中で王の役割は書き換えられます。神は、人間の心に潜む絶望を共にしてくださいますが、それは王として、また、わたしたちの希望といのちの源泉としてそうしてくださるのであり、奇跡はそこから生まれるのです。今日の福音の場面( 23:35-43 )で、イエスと共に十字架につけられた犯罪人も、そのことを少し理解しました。その犯罪人は、「あなた(イエス)の御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と頼みました。彼は、将来の(イエスの)支配を期待していたのですが、イエスはすぐさま、王としての赦しを与えました。これこそ、イエスの生き方の極みでした。

イエスは、わたしたちが考える王のような服装をすることはありませんでしたし、わたしたちが当然と思うような行動も取りませんでした。イエスの王国は、ピラトが考えるような、また、彼が好むと好まざるとに関わらず属しているような王国とは別なものです。ローマ帝国は、専制、特権、支配、悪意、報復、覇権を旨とする王国の一つでした。一方、イエスの王国は、愛、奉仕、正義、和解、平和の上に築かれる王国です。

 

力あるものの前で無力のままでいながら、王であるキリストの偉大さに達することの出来る人は、ごくわずかです。わたしたちの多くは力で抗い(あらがい)ます。たとえ、十分に洗練されたやり方での圧力や操作に訴えるにしても力で抵抗します。十字架につけられたキリストを黙想することによって、キリストが現代に至るまで王のままでおられる理由の幾分かを理解することができます。イエスは屈しませんでした。イエスは、暴力に更なる暴力で応えることは決してありませんでした。イエスは、最後に至るまで赦しました。

 

歴史の中の神の代理人

今日の第2朗読のコロサイの信徒への手紙( 1:12-20 )は、父である神の贖いについての要約です。そのイメージは、出エジプトの体験と、イエスのテーマである王国のイメージを反映しています。ここでの贖いは、罪の赦しとして説明されています。(使徒言行録 2:38 、ローマの信徒への手紙 3:24-25 、エフェソの信徒への手紙 1:7 参照)

 

この朗読箇所は、どうやらコロサイ人に知られていた初期のキリスト教の賛美歌で、典礼に用いられていた部分をパウロが手紙に引用したものと思われます。ここでは、キリストを創造( 1:14-18a )と贖い( 1:18b-20 )の仲介者として表現しています。キリストは(その名は述べられていませんが)、すべてのものの創造における神の代理人として、すなわちすべてのものが造られる前に生まれた方として、第一の者であり、この上ない方です。

 

コロサイ人に書き送ったパウロの手紙のこの箇所の核心には、第二の非常に重要な点があります。パウロは、しばしば教会をキリストの身体に喩えます。(一コリント 12;12-27 、ローマ 12:4-5 ) 

コロサイの信徒への手紙の筆者(パウロ)は、彼の使い慣れた言い方―「その体の頭」―の意味をはっきりさせるために「教会」という言葉を挿入したと考える人もいます。キリストが、死者の中から最初に生まれた方として神によって復活させられたとき(使徒 26:23 、黙示録 1:5 )、キリストは、ご自身が造られた共同体である教会の頭とされたばかりでなく、すべての新しい創造物の頭、すべてのものを越える者とされたことも示されています。イエスの更なる役割は、神のために万物を和解させること(コロサイ 1:20 )ですが、恐らく、「イエスご自身」と万物の和解でもあったのでしょう。「十字架の血」という言葉( 20 節)は、賛美歌の中でも、パウロの中心テーマであるキリストの死による贖いを特別に暗示する表現です。(コロサイ 2:14-15 、一コリント 1:17,18,23

 

王国と教会

今日、王であるキリストの祝日を祝うにあたり、最後に、特にこの一年間、わたしの心にあった思いを述べさせていただきます。古代イスラエルの預言者たちは、その当時の神の民が抱いていた信仰の構造的枠組みの中で働いていました。もし彼らの模範に倣うとすれば、今日のわたしたちは、非キリスト者が思い描く誤った見方、すなわち「王国、あるいは神の支配」という用語の間違った使い方が、「イエス・キリストとその教会」にそのまま当てはまるという見方によって、「キリストの啓示と、教会の伝道」を軽視するようなことがあってはなりません。教会は、必要な媒体であり、キリストと出会い、秘跡を通していのちを受け、司祭の説教と教会の教えを通して御言葉を聞き、彼方に広がる天の王国の豊かさに向かって旅するために、特別にわたしたちに与えられる道具です。

 

イエスキリストは偉大な預言者です。唯一の完全な神の啓示であり、すべての人間の主であり救い主です。このキリスト教的用語がその神学的な意味を失わないように警戒し、注意を怠ってはいけません。それは、その意味が現代の「ビジョン」あるいは「新しい知恵」とされるものによりよく統合されるためです。

 

この大祝日に当たり、イエスが自分の負った傷を天の国にまで持って行ったこと、そして、わたしたちの王は、栄光のうちに傷を負ったのですから、天の国にはわたしたちの傷のための場所があるのだということを思い起こしましょう。

恐らくわたしたちはこう叫ぶ必要があるのかも知れません。「神様、どこにおいでですか?」と。そして今日、その答えを受け取ります。神は木に架けられている。傷だらけの若い男の体で。わたしたちを抱くために両腕を広げ、わたしたちに向って、共に十字架に上り、全く新しいものの見方で世界を見るようにと穏やかに求めています。ことによると、わたしたちは大声で憐れみを求め、新しいエルサレムでわたしたちを忘れないでください、と願う必要があるのかも知れません。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と。

 

そして、わたしたちは、自身の闇と陰の深みから、エマオへの道でクレオパともう一人の弟子と共に祈らなければならないのかも知れません。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日は傾いていますから」と。 あるいは、わたしたちが絶望のただ中にあるとき、わたしたちの希望の源泉を認識してイエスの言葉をくり返すのかも知れません。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と。

 

キリストは今日、わたしたちに、何と奇妙な形の王職を提示したことでしょうか!今日の祝日によって、わたしたちが、救いの恐るべき現実を思い起こしますように。

闇、破滅、夜、そして死にさえも取り囲まれていると感じるときも、わたしたちは一人ではないということを忘れないようにしましょう。わたしたちの真ん中に、あのはりつけにされた方がおられ、愛情深い憐れみと受容の腕を広げています。

慈しみ溢れる王に向って、御国でわたしたちを思い出して下さいと願う勇気が持てますように。

そして、目に見える全てのしるしが闇と死を指し示しているときでも、楽園は既にわたしたちの中にあると覚ることができる平和をお与え下さい。

これこそが、十字架の王道を歩む豊かな生き方なのです。

 

 

◇◇◇

 

 

聖書朗読

 

2 サムエル l 5:1-3 : (ダビデ、イスラエルとユダの王となる) 5:1 イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。

  5:2 これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧する のは、あなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 5:3 イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

 

コロサイ 1:12-20 : (御子キリストによる創造と和解) 1:12 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 1:13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 1:14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 1:17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 1:18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、

  1:20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 

ルカ 23:35-43 : (十字架につけられる) 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 


This Is Hardly the Stuff of Kingship ... Or Is It?

Biblical Reflection for Solemnity of Christ the King, Year C , by Father Thomas Rosica, CSB

 

 

TORONTO, NOV. 16, 2010 Zenit.org .-

Today's solemn feast of Christ the King, the grand finale to Liturgical Year C, gives us an opportunity to lay aside a lot of cultural baggage about kings and kingdoms, and discover how Jesus Christ can be a true king, unlike earthly rulers.

 

Over the past year, we have seen the important Lukan theme of the imitation of Jesus, especially in his ministry of forgiveness and reconciliation. In Luke's moving Gospel story of the crucifixion, this theme reaches its apex.

 

Jesus' final moments

Today's Gospel 23:35-43 is recounted only by Luke. The penitent sinner receives salvation through the crucified Jesus. Luke's moving scene of the crucifixion is filled with details typical of his portrayal of Jesus. He is crucified with the two criminals surrounding him, fulfilling Jesus' own prediction at the supper table 22 :37 . Just as Jesus had repeatedly taught his disciples not to respond to violence with more violence and to be forgiving, so he forgives the very men who had condemned him and who drive the stakes into his body 23:34 .

 

When one of the crucified criminals joins in the chorus of derision that accompanies Jesus to his death, the other confesses his sin and asks for mercy 23:39-43 . It is Luke's prescription for authentic conversion as exemplified in the story of publican and the sinner 18:9-14 and so Jesus promises this man not only forgiveness but also a place at his side that very day as his journey to God triumphantly reaches its home in paradise.

 

Only Luke describes this poignant scene 23:39-43 : One of the criminals who hung alongside Christ derided him, saying, "Are you not the Messiah? Save yourself and us!" But the other rebuked the other criminal, saying, "Do you not fear God, since you are under the same sentence of condemnation? And we indeed have been condemned justly, for we are getting what we deserve for our deeds, but this man has done nothing wrong." This one then said, "Jesus, remember me when you come into your kingdom." Christ replied, "Truly I tell you, today you will be with me in paradise."

 

The image of the dying Jesus jars us with such a sense of shame and powerlessness in Luke, who describes the death of the Son of God, the King of the Jews. Luke gives us a lexicon of abuse and humiliation: criminals, condemnation, crucifixion, nakedness, scoffing, mocking, taunting, deriding, reviling, sneering ... hardly the stuff of kingship, and no crowns here except one of thorns. We are face-to-face with agony and grief, and a cacophony of insults instead of songs and praise.

 

A kingship that embraces

Kingship, when God is involved, does not ask people to ignore the failures, but embraces those experiences and redeems them. Throughout salvation history, God's promise to the people was a king who is righteous, deals wisely, executes justice and righteousness in the land, and enables the people to live securely. In Jesus, God has fulfilled that promise.

 

In the story of Jesus, kingship is recast. The miracle lies in the fact that God shares the potential hopelessness of the human situation, but does so as king, as the source of our hope and life. That is what the criminal on the cross with Jesus in today's Gospel scene 23:35-43 partly grasped.

He asked Jesus to remember him when he came into his kingdom. He was looking to a future reign, but Jesus handed out the royal pardon immediately. This was simply the culmination of the way Jesus lived: He never dressed as we think a king should, or did things properly by our standards.

Jesus' kingdom is unlike the one that Pilate knows and is willingly or unwillingly part of.

The Roman kingdom was one of arbitrariness, privileges, domination, vengeance, vindictiveness, and occupation. Jesus' kingdom is built on love, service, justice, reconciliation and peace.

 

Very few can measure up to Christ's kingly stature, remaining powerless in the face of the powerful. Many of us resist with power, even though we resort to very refined forms of pressure and manipulation. As we contemplate Christ crucified, we understand something of why Christ has remained a king, even up to modern times: He didn't bow down. He never responded to violence with more violence. He forgave until the end.

 

God's agent in history

Today's second reading from Paul's letter to the Colossians 1:12-20 is a summary about redemption by God the Father. The imagery echoes the Exodus experience and Jesus' theme of the kingdom. Redemption in this text is explained as forgiveness of sins cf. Acts 2:38; Romans 3:24-25; Ephesians 1:7 .

 

The lines of this reading are most likely an early Christian hymn, known to the Colossians and taken up into the letter from liturgical use. They present Christ as the mediator of creation 1:15-18a and of redemption Colossians 1:18b-20 . Christ though not mentioned by name is preeminent and supreme as God's agent in the creation of all things, as prior to all things.

 

There is a second, very important point at the heart of this section of Paul's letter to the Colossians. Pauline usage is to speak of the church as the body of Christ 1 Corinthians 12:12-27; Romans 12:4-5 . Some think that the author of Colossians has inserted the reference to the church here so as to define "head of the body" in Paul's customary way. When Christ was raised by God as firstborn from the dead cf. Acts 26:23; Rev 1:5 , he was placed over the community, the church, that he had brought into being, but he is also indicated as crown of the whole new creation, over all things.

His further role is to reconcile all things Colossians 1:20 for God or possibly "to himself." The blood of his cross 20 is the most specific reference in the hymn to redemption through Christ's death, a central theme in Paul cf. Colossians 2:14-15; 1 Corinthians 1:17, 18, 23 .

 

The kingdom and the Church

As we celebrate the feast of Christ's kingship today, let me leave you with this one thought that has been on my mind for the past year in particular. If we follow the example of the prophets of ancient Israel who worked within the framework of the structures of the faith of God's people of their day, then we in our day cannot marginalize Christian revelation and its ecclesial transmission by proposing a non-Christian vision where misuse of the terminology "Kingdom or Reign of God" is a substitute for Jesus Christ and his Church. The Church is the necessary vehicle, and privileged instrument for us to encounter Jesus Christ, to receive his life through the sacraments, to hear his Word mediated through preaching and the interpretation of the Church, and to journey toward the fullness of the kingdom of heaven, which lies ahead of us.

 

Jesus Christ is our great prophet. He is the only full revelation of God and he is the Lord and Savior of all men and women. We must be watchful and vigilant that the Christian terminology is never emptied of its theological meaning so as to be better integrated into a "vision" or a supposedly "new wisdom" of this age.

 

On this great feast, let us remember that Jesus took his wounds to heaven, and there is a place in heaven for our wounds because our king bears his in glory.

Perhaps we need to cry out: "Where are you, God?" And today we are given the answer: God is hanging on a tree, in the broken body of a young man -- arms outstretched to embrace us, and gently asking us to climb up onto the cross with him, and look at the world from an entirely new perspective. Or perhaps we need to cry out for mercy, asking that he not forget us in the New Jerusalem: "Jesus, remember me, when you come into your kingdom."

 

And from the depth of our own darkness and shadows, we might have to pray with the Cleopas and his companion on the road to Emmaus, "Stay with us, Lord, for it is almost evening and the day is far spent." Or maybe in the midst of our despair, we recognize the source of our hope and echo the words of Jesus, "Father, into your hands I commend my spirit."

 

What a strange form of kingship Christ offers us today! May today's feast force us to remember the appalling fact of our salvation.

When all around us seems to be darkness, destruction, night, and even death, let us never forget that we are not alone. In our midst hangs the Crucified One, arms outstretched in loving mercy and welcome.

May we have the courage to ask our benevolent king to remember us in his kingdom, and the peace to know that paradise is already in our midst even when every external sign indicates darkness and death. This is abundant life on the Royal Road of the Cross.

 

 

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