「公会議は大した変化をもたらさなかった」 などと、誰にも言わせてはならない
ロバート・ブレア・カイザー 2012 年タブレット誌 解説記事
2012 年 10 月 11 日
近頃、教会の右派からも左派からも、公会議は失敗であったという声が聞こえてくる。左派は、公会議は十分に目的を達成しなかったと言う。一方右派は、それは行き過ぎてあったと言う。
わたしには公会議が失敗であったなどとはとても思えない。それは、既に、カトリック信者としてのわたしたちの生き方―考え方―を変えてしまっている。わたしは、第 2 バチカン公会議が残した憲章こそ、位階制度の教会ではなく、神の民の教会を救う唯一のものと信じている。
わたしは、第 2 バチカン公会議を特別によく見通せる立場にあった。わたしはタイム誌の公会議特派員だったが、それは、かつてイエズス会に 10 年間在籍した経験と、公会議の公用語であるラテン語を不自由なく話せる、世界的にも数少ないレポーターであることが買われたからである。
そんなわけでわたしは、 1962 年 8 月中旬のある日、カステル・ゴンドルフォにある教皇の夏の別荘で、教皇ヨハネ 23 世の秘書官である ロリス・ F. カポヴィッラと世間話をしていた。すると、突然、ヨハネ 23 世が、大理石の廊下を慌ただしくこちらへやってくるではないか。教皇は、「おや」と声をかけ、両手を差し出して、「なんとすばらしいサプライズだ。」と言った。もちろんそれはサプライズなどではなかった。それは全て、ニューヨークにいるタイム誌の友人フランシス・スペルマン枢機卿によって、教皇が伝統を破ることのなくわたしと会えるようにと、あらかじめアレンジされていた会見だった。
わたしは、教皇とわずかな時間おしゃべりをしたうえで、その場を去ることになると思っていた。しかしそうではなかった。教皇は、わたしの腕をつかんで、何か話したいことがあると言った。
教皇は、最終的に世界に呼びかける決断をしたのだ。(しかもそれをタイム誌で行おうとしていたのだ。教皇が告げたかったのは、この公会議を、単なる教会の行事ではなく、全ての人々、あらゆる宗教の人々、そしていわゆる無神論の共産主義者さえも共に呼び集める意図を持った、世界規模の行事とするつもりであるということであった。
ヨハネ 23 世の前任者であるピオ 12 世とピオ 11 世は、共産主義に対抗する十字軍を仕掛けた。歴史家でもあるパパ・ロンカリ(教皇ヨハネ 23 世)は、その十字軍がいかに大惨事を招いたかを知っていた。そして、今や、メガトン級の核弾頭で武装されている世界にあって、「もはや十字軍はいらない。」と告げるべき時が来ていると言った。実際、ヨハネ 23 世は、公会議が、何に対しても、誰に対しても、非難攻撃をしないことを望んでいた。
タイム誌の外信部長ヘンリー・グランワルドは、わたしのレポートを信じようとしなかった。しかし、彼はどうすることもできなかった。ローマ特派員であるわたしは教皇自身と話したのだし、彼は話していないのだ。そして、タイム誌は、この 「もはや十字軍はいらない」 という談話と、教皇が取り始めていたその他の多くの優れたイニシアティブに関するわたしのレポートを掲載することになった。
グランワルドは次のことを認めなければならなかった。「われわれは、ロンカリ教皇を注視しなければならない。この‘アジョルナメント'という言葉は何なのか?彼は何をしようとしているのか?」
わたしは、次のことを認めなければならなかった。「アジョルナメント(現代化)」という言葉は、永遠の都ローマにおいて教皇が使うにはかなり大胆な表現であった。ローマでは全てが「変わらない」からである。決して変わることのない教会に、どうやって「更新(現代化)」をもたらすのか?
ローマの枢機卿のトップであり、検邪聖省長官代理のアルフレド・オッタビアーニにとっては、アジョルナメントという言葉が暗示するいかなる変化も思いも及ばぬことであった。そして、わたしはほどなく、イヴ・コンガール、 ジーン・ダニエロウ、カール・ラーナー、そして エドワード・スヒレベークスといった神学者たちから、オッタビアーニが、公会議の主要な変化プロジェクトの行く手を何とか阻止しようとできる限りのことをしているということを知らされた。この神学者たちは皆、その「過激な思想」の故に第 2 バチカン公会議を前にして沈黙させられていたのであった。では、なぜオッタビアーニは現代化を受け入れられなかったのだろうか?それについては彼の紋章の文字がそのすべてを語っている。 Semper Idem (ラテン語で「いつも同じ」)。 それは「相も変わらぬ」という意味でもある。
では公会議は、どのようにして物事を現代化したのだろうか。早い段階では、それは、だれにもそれほどはっきりとしてはいなかった。ことによると、教皇自身にもはっきりしていなかったのかも知れない。教皇は、「知っての通りわたしは不可謬ではないのだから!」という「落ち」で、秘書官とのジョークを終わらせていたような謙遜な人物であった。しかし、彼には、司教会議のような場で自由に話せるようになった 2500 人の司教たちが、その答えを出すだろうとの直感があったのだ。
司教たちは、すぐさまその答えを出した。教会が、伝統的なラテンミサを廃止して各国語を用いるべきであるかどうかに関する 1 ヶ月にわたる議論の後に、公会議の神父たちのうち、反対 200 票に対し、 2200 人の神父が、人々の言葉を用いる方に賛成票を投じたのであった。「第 2 バチカン公会議は、人々の教会を、再創造しようとしていた。」これが、わたしたちの得た最初の手ごたえであった。
これまで、司教たちは教導職―教える教会に属しており、他のわたしたちは教えられる側―学ぶ教会に属していたが、公会議に参加した司教たちは、教えられる側の一員になったのである。司教たちは、コンガール、ダニエロウ、シュニュ * 、 スヒレベークスといった神学者たちと親しくつきあい、教会について、新しいやり方で話し始めたのだ。そして、過度の聖職者主義、教会法偏重主義、カトリック至上主義との結びつきを漸進的に縮小していくのではなく、新しい種類の教会、すなわち神の民の教会を造り出すのだと約束した。公会議には、次のような優れたスピーチが登場するようになった。
「今や、わたしたちは、神が、人類全体のうちに働かれているだけでなく、すべての男女、個人個人のうちに働かれていると信じる教会、わたしたちが皆、次の世だけでなく、今の世にも存在できるものとなることを望む教会を呼び求めている。」
訳注:マリー・ドミニク・シュニュ( Marie-Dominique Chenu ):フランスのドミニコ会士。公会議主義者、新神学の提唱者の一人として知られる 。
公会議が始まると、わたしは、アメリカの非常に高名なカトリックの説教師であるフルトン・シーン司教(彼は、ヴィアベネトの最高級ホテル、エクセルシオールに滞在していた)を探し出し、彼の公会議に寄せる期待を聞いてみた。彼は、公会議そのものの人間性( Humanity ) (訳注:「哲学」、あるいは「血のかよった柔軟さ」の意か) を否定することで、わたしの求めをはねつけた。「公会議は聖霊次第です。」と彼は言った。「聖霊が何を言うべきか、何をすべきか教えてくれるでしょう。」シーン司教は、わたしがどうやって聖霊にインタビューすればいいのかは教えてくれなかった。
わたしは、他にも会える限りのすべて人へのインタビューを続け、しばしば一日に 18 時間も仕事をした。そして、自分でも驚いたことには、ほぼ毎週、公会議のストーリーを雑誌に寄稿していた。すると、公会議の最初の会期の終了時に、アメリカのマクミラン出版社と、バーンズ・オーツ&ウォシュバーン( Burns, Oates and Washburn )出版社のトム・バーンズが、わたしに公会議の最初の会期に関する本を書くよう依頼してきた。タイム誌の編集部は、そのために 6 週間の休暇を与えてくれた。わたしは、神言会のローマ総本部に行き、 24 時間体制で書きまくった。(日に2時間ほどは昼食に戻った。)イギリスの新聞、オブザーバー紙は、 1963 年 8 月に 4 週続けて、その内容を日曜日の第一面に連載した。そして、その本が出版されると、ロンドンとダブリンで、最初にベストセラーリストの第一位を獲得した。
その本の中でわたしは、広い意味での比喩を使い、教会をペトロのバーク(小型帆船)、すなわち、あまりにも長い間停泊していたので、底にフジツボがびっしりとついてしまって、もはや航行することもできない小舟の姿でイメージした。そして今、教皇ヨハネは、公会議を呼びかけることで、その船を世界の海へと船出させたのだと記した。
パウロ 6 世は、そのイメージをたいそう気に入り、ローマに居住していたアメリカ人のモンシニョールの一人を通し、わたしの本をイタリア語に翻訳して出版させる許可を求めてきた。それは、公会議が、新しい種類の教会、権力に執着しない教会、もっと人類に奉仕する教会を造り出そうとしていることを少しも理解できていないイタリアの司教たちのためであった。
わたしのペトロの小舟のイメージは、第 2 バチカン公会議のどこが、他の公会議と違うのかを明確に示していた。過去に行われた 20 余りの公会議のすべてにおいて、教会は自らの内側に目を向けていた。しかしこの公会議は、外側へ、世界へと向きを変えたのである。
しかし、誰もがそのように正しく理解したわけではなかった。教皇ヨハネの教皇庁は理解しなかった。彼らはいまも理解していないのかも知れない。好奇心が人一倍強い人には、イヴ・コンガールの「公会議議事録」( Journal of the Council ) を読むことをお勧めする。この日記には、舞台の裏で、コンガールがオッタビアーニとその一番の側近であったオランダ人イエズス会士のセバスチャンの二人と徹底的に戦い、疲労困憊した日々の様子が書かれている。この人たちは、公会議の準備をするために、ピオ 9 世以来書かれたすべての回勅が明確に述べているものとして、信仰の大要を巧妙に練り上げていた。第 2 バチカン公会議を、もう一つのトリエント公会議にするために、できることはすべてしていたのだった。
コンガールはこう書いている。「これはすべて誤りだ。これは教皇主義者たちのばかげた仕業だ。彼らは、公会議を教科書のような『手引き書』にしようとしており、教皇ヨハネ 23 世が呼びかけるアジョルナメントをもたらす手助けとはならないだろう。アジョルナメント、それは信仰の原初的な姿の再創造である。そのような信仰の美しさを再発見するために、わたしたちは聖書をより深く見直し、教父たちを研究しなければならない。そしてその後に初めて、公会議は、世界が理解できる言葉で、世界に向かって話しかけられるようになるのだ。」
コンガールの報告を読むと、わたしがタイム誌に書いた最初の会期のレポートと、本とは、当時の熾烈な戦いがどれほどのものだったかを、おぼろげにしか反映していないことを悟るのである。オブザーバー紙は、ロンドンのすべての地下鉄の駅に、わたしの連載のためのポスターを貼った。そのポスターは、「教皇ヨハネを邪魔立てする陰謀」との大見出しを掲げていた。コンガールを読めば、この大見出しさえも控えめな表現であったことが分かるだろう。
わたしが、なぜこのような話をしているのか? それは、来るべき年(信仰年)は、公会議を沈黙させてしまおうという取り組み―公会議は教会をそれほど変えなかったのだとあなたたちを納得させようという取り組みの年であり、わたしはそのことを、来るべき年の間にあなたがたに気づいて欲しいからである。わたしは、公会議は教会を大きく変えたと考える。そして、第 2 バチカン公会議以前にわたしたちが生きていた種類の教会を思い起こしたなら、あなたたちはわたしに同意し、公会議がしたこと、そして、それがもう元に戻ることはないとわたしが願っていることの故にわたしと喜びを共有し、満たされるだろうと思う。
公会議は、わたしたちが、神のこと、わたしたち自身のこと、自分たちの伴侶やプロテスタントの親類縁者や仏教徒やヒンズー教徒やイスラム教徒、またユダヤ人たちのことを考えるやり方を変え、そしてロシア人のことを考えるやり方さえも変えた。ほんのわずかでも、公会議による共産主義への非難を執拗に求め続ける司教がいれば、ヨハネ 23 世は、その種の協議はただ世界を爆破させてしまうだけだと主張し続けた。教皇ヨハネとその公会議は、東西冷戦を終わらせる手助けとなる前触れの運動を生み出した。それ故、タイム誌は、ヨハネ 23 世をその年の the Man of the Year にしたのだった。
ユダヤ人たちについてはどうか。公会議は、教会の長年にわたる反ユダヤ主義を逆転させた。公会議前のカトリック信者は、もしユダヤ人がカトリックに改宗しないなら、その人はどこかが間違っていると信じていた。公会議の神父たちは、その考えに別の目を向け、ユダヤ人たちはまだ、神と彼らの間で交わされた旧い契約の中で生きているのだという判断を示した。わたしたちはユダヤ人に何らの誤りもないと確信し、ユダヤ人はわたしたちの兄弟姉妹となった。
公会議前、わたしたちは、自分たちが人間に過ぎないが故に、惨めな罪人であると思っていた。
公会議後、わたしたちは、新しい自分観を持つようになった。わたしたちは、「道」であるイエスを見出し、イエスに従うことに、より重きを置くことを学んだ。(これは、わたしたちが、使徒信条で唱えていたことに対立する。)わたしたちが何を唱えていたかは大したことではない。問題は、わたしたちが何を行ったかである。 飢えている人々に食物を与え、裸でいる人々に着せ、家のない人々に宿を見つける手伝いをすること。それが、わたしたちを、キリストに従う者とするのだ。
公会議前、プロテスタント教会に足を踏み入れれば破門されると教えられていた。
公会議後、(公会議ではプロテスタントのオブザーバーが迎え入れられ、上座を与えられ、もはやプロテスタントとは呼ばれず、「別れた兄弟」と呼ばれた。)わたしたちはメソジストや長老派教会の人々と戦うのをやめ、正義と平和を求める戦いで互いに助け合い、彼らと共に、 Selma ( 最終的な平和 ) に向かって進んでいる。
公会議前、わたしたちは、聖書を読むのはプロテスタントの人たちだけだと思っていた。
公会議後、わたしたちは、聖書に関して新しいカトリックの評価を目にしてきた。聖書はミサの中でより高い地位を与えられ、多くの小教区では聖書研究のために毎週集まるグループができた。
公会議前、わたしたちは、何世紀も唱え続けてきた「教会の外に救いなし」というマントラ (訳注:念仏、呪文、祈り) によって、わたしたちこそ地上で救いを期待できる唯一の民なのだと確信することを誇りとしていた。
公会議後、わたしたちは、あらゆる宗教に何かよいところやすばらしいところがあることを覚り始めた。そして、わたしたちがすべての答えを持っているとは思わなくなった。第 2 バチカン公会議後、わたしたちは、自分たちが「唯一の、真の教会」ではないと考え始めた。
わたしたちは「旅する教会」なのだ。これは、旅の途上にある貧しい旅人の一団を想起させるイメージである。雨や雪、強風や嵐、渇きや飢え、ペストや疫病の危険、そして、豹やいなごの大群の攻撃に身をさらしながらも、わたしたちは、目的地に到達する希望と祈りと共にこつこつと歩み続けているのだ。このイメージには、まったく根拠のない古い自己概念、即ちすべての答えを持ち、人類の支配者のように振る舞ってきた「勝利の教会」という自己概念を消し去るという狙いがあった。
公会議前、わたしたちは「救い」を「天国に行く」ことと同一視していた。
公会議後、わたしたちは、今のこの社会にあって、世界に正義と平和をもたらす義務があることを知り、イエスが、「み国の来たらんことを。み旨の天に行われる如く地にも行われんことを。」と祈るよう教えたときにわたしたちに与えたみ言葉を、新しいかたちで理解した。
会期の最後の方になって、わたしたちは、公会議でもっとも影響力のあった人物のうちの二つの謙遜な魂と巡り会うことができた。一人はドロシー・デイという女性で、カトリック労働者運動( the Catholic Worker movement ) の創立者であったが、第 2 バチカン公会議に列席する司教たちに話しかけることは許されていなかった。(許されている女性は居なかった)。もう一人は鳥のような風貌の人物で、ブラジル・レシフェ地区のヘルダー・カマラ大司教であった。二人ともローマ中に出かけて、司教の一人一人に、そして、公会議の最重要文書である現代世界憲章をまとめる作業をしている人々に対して、「貧しい人々のことを忘れないで下さい。」と語りかけた。
公会議は、貧しい人々のことを忘れなかった。 2011 年 10 月にローマから発せられた、教会を世界の持たざる人々と結びつける声明で、やっと、教会の現在の権力者たちさえもそれを理解したことを証明した。(不可解なことは、まだまだ沢山あるが。)
ここで、現代世界憲章(の、その部分)を引用したい。
・・・・現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。・・・ ・(「現代世界憲章」序文 1 より)
公会議前、わたしたちは、罪にとりつかれていた。金曜日の夜、試合の後にハンバーガーを食べることさえ罪であった。
公会議後、わたしたちは、罪について新しい感じ方を持つようになった。わたしたちが罪を犯しても、神を傷つけてはいない。誰か他の人を、あるいは自分自身を傷つけるとき、わたしたちは罪を犯している。公会議後、わたしたちは、自分自身を聖なる希望に満ちて眺めるようになり、有名なトラピストの修道者トマス・マートンがしたように、神聖さの定義を書き換えたのだ。「聖なる者となること、それはすなわち人間らしくなること。」
公会議前、もしわたしたちが、そのとき子供を作るつもりなしに配偶者と性行為をすれば、地獄行きの大罪とされた。
公会議後、たとえもう一人子供を持つ余裕がなくても、わたしたちには性行為の義務(そして神は快楽を認めている)があると知った。
公会議前、わたしたちは、神が教皇に直接話しかけ、教皇はそのみ言葉を、教会のピラミッドに沿って、先ず司教たちへ、次に司祭たちへ、それから修道女たちへ、そして適切なフィルターを通してわたしたちへと降ろすのだと思っていた。
公会議後、わたしたちは新しい幾何学を学んだ。教会はピラミッドではなかったのだ。教会はむしろ円に近くて、わたしたちは皆、自由に発言していいのだ。わたしたちが教会なのだ。わたしたちには、どんな教会を望むのかを声にする権利と義務がある。
さて、ここで注意を喚起したい。今まで述べてきたこれらの変化(公会議前と公会議後)の多くは、実際には起こらなかったのである。
第 2 バチカン公会議の神父たちは、わたしたちが既に使徒信条の中で信仰告白をしていた内容を改訂したに過ぎなかった。彼らは、わたしたちの信仰を変えはしなかった。すなわち、新しい神理解を見出すことはできなかったのだ。未だに、一人の神、二つの本質、三つのペルソナなのである。
この意味に限って、わたしは、「継続性の解釈学」(第 2 バチカン公会議はカトリック教の伝統を中断させず継続させているという考え)と呼ばれるものに固執し続けるベネディクト 16 世に同意するものである。
彼が、「公会議は何ら新しいものを見出さなかった。」と言うとき、わたしは同意せざるを得ない。
そう、新しい教義は何一つ生まれなかった。(そして、そのことを神に感謝したい。現代の思慮深いカトリック信者が一番嫌うのは、いかなる種類であれ教義なのだ。「教義」、あるいは「教義上の」という言葉は、すこしも心に響かない表現である。教義という言葉は、トリエント公会議が命じた何百もの破門を思い起こさせる。「これらの教義上の課題を信じなさい。さもなくば地獄に落とされる。」)
湖を見渡す丘の上で多くの人々に話しかけたとき、イエスは、十戒を読み上げて彼らの心を照らそうとはしなかった。イエスは、何が人間を幸福にするのかを教えることで、人々の心を燃え立たせた。
公会議の神父たちはトリエントの例に倣わなかった。彼らはイエスの例に倣ったのだ。(公会議において)彼らは、誰をも、何物をも破門しなかった。彼らは、どうすれば命を得ることができ、その命をより豊かに生きることができるのかを教えてくれた男に倣うための、わたしたち自身の新しい思考方法を示してくれたのだ。
第 2 バチカン公会議の 16 の公文書をくまなく調べ、将来、望ましい教会のかたちが実現するという、明白な保証を見つけようとするのは誤っている。わたしたちにできるのは、それらすべての文書に満ちあふれている新しい種類の「ことば」を見ることによって、公会議の真に革命的な意味をとらえることだけである。それは、オッタビアーニ枢機卿が愛したような律法主義の言葉ではない。アメリカ人のイエズス会士で、公会議についての最も権威ある著書「第 2 バチカン公会議で何が起こったか」を書いたジョン・オマリーは、「公会議のメッセージは、シンプルな光景の裏に隠されている。」と言っている。オマリー師は、それを古いものと古い言葉との対照によって説明している。
・・・・・問題となるのは、カトリック信仰のほぼ二つの異なる考え方である: 命令から招きへ、法から理念へ、定義から神秘へ、脅迫から説得へ、強制から良心へ、独白から対話へ、支配から奉仕へ、孤立から融和へ、縦から横へ、排除から包含へ、敵意から友情へ、対立から協調へ、疑いから信頼へ、停滞から前進へ、受動的承諾から能動的関与へ、あら探しから賞賛へ、規範から信念へ、行動の抑制から内的充足へ・・・・。 ( 訳注: John W. O'Malley 「 What Happened at Vatican U」 Conclusion P307)
これは言葉遊びに過ぎないのだろうか。わたしはそうは思わない。これらの言葉は、わたしの主張を明確に示してくれる。公会議は、わたしたち皆が、より偽りのない、より人間らしい、より愛情あふれる者となる手助けをしてくれた。公会議は、この世界はよい場所であると悟る手助けをしてくれた。この世界は、神が造られたのだからよいものだ。そしてまた、神はわたしたちを愛し、この世界を愛したから、この世界を造られたのだ。わたしたちもまた、神と、この世界を愛さなければならない。
(おわり)
ロバート・ブレア・カイザー: 1930 年生。アメリカの作家・ジャーナリスト。カトリック教会に関する多くの著書で知られる。タイム誌特派員時代、第2バチカン公会議の報告記事が 1962 年の「最も優れた海外からの雑誌リポート」として、海外特派員クラブのカニンガム賞受賞。 2008 年にはケネディ暗殺を題材にした 1970 年の自作ベストセラー小説の改作版を出版。彼が 2010 年 8 月にアイルランドで行った講演がきっかけで、この国のカトリック教会に司教を自ら選ぶなどの大胆な改革への動きが現れた。アメリカのカトリック刷新グループを精神的に支える存在でもある。 http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Blair_Kaiser
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Don't let anyone tell you the Council didn't change much
Robert Blair Kaiser gives the 2012 Tablet Lecture
11 October 2012
These days, both wings in the Church are saying the Council was a failure. The left wing is saying the Council didn't go far enough. The right wing is saying it went too far.
I do not believe the Council was a failure. It has already changed the way we live - and think - as Catholics. I believe the charter that was written at Vatican II is the only thing that will save the Church, the people-of-God Church, not the hierarchical Church.
I had a peculiar vantage point on Vatican II. I was Time magazine's man the Council, sent there in part because I had spent 10 years in the Jesuits and because I was one of the few reporters on earth who could speak fluent Latin, the official language of the Council.
So, here I am in mid-August 1962, chatting with Pope John XXIII's secretary, Loris Capovilla, at the papal summer residence, Castel Gondolfo. All of a sudden here comes John XXIII bouncing up the marble hallway. 'Why,' he says, arms outstretched, 'What a wonderful surprise!' Of course, it wasn't a surprise at all. It was all prearranged by Time magazine's friend in New York , Cardinal Francis Spellman, arranged that way so the Pope wouldn't be breaking tradition.
I thought I might have a few mostly chatty minutes with the Pope, and then make my move to leave. But no. The Pope grabbed my elbow and said he had some things he wanted to tell me. He was at last ready to tell the world (and he chose to do it through Time magazine) that he did not intend his Council to be a strictly churchy event, but a worldly event designed to bring people together, people of all faiths, even the so-called godless Communists.
His predecessors, Pius XI and Pius XII had mounted crusades against communism. As an historian, Papa Roncalli knew what a disaster the Crusades had been. Now, he said that, in a world that was armed with megaton nuclear warheads, the time had come to say, 'No more crusades.' In fact, he didn't want the Council to launch condemnations of any anything or anyone.
Time magazine's foreign editor Henry Grunwald didn't want to believe my report, but what could he do? This Rome correspondent had talked with the Pope and he hadn't. So Time ran with my reporting, on this NO MORE CRUSADES story, and on a good many other initiatives the Pope was starting to make.
Grunwald had to admit: 'We've got to watch this Roncalli pope. What's this word aggiornamento? What is that all about?'
I had to admit: aggiornamento was a pretty bold word for the pope to use, in Roma aeterna, where nothing ever changed. How do you bring a Church that never changes 'up to date'? The top cardinal in Rome, Alfredo Ottaviani, the pro-prefect of the Holy Office of the Inquisition, could not conceive of any of the changes that the word aggiornamento implied, and I soon found out from theologians like Yves Congar, Jean Danielou, Karl Rahner, and Edward Schillebeeckx (all of whom had been silenced before Vatican II for their 'radical thinking') that Ottaviani was doing almost everything he could to put roadblocks in the way of Council's major change-projects. And why wouldn't he? His coat of arms said it all: Semper Idem. Always the same.
How would the Council bring things up to date? Early on, this wasn't too clear to anyone, not even perhaps to the Pope himself. He was a modest man who used to end jokes with his secretary with the punch line, 'I'm not infallible, you know!' But he had an intuition: that 2,500 bishops encouraged to speak freely in a kind of parliament of bishops would figure it out.
They did this very quickly. After a month-long debate on whether the Church should scrap its traditional Latin Mass for the vernacular, the Council Fathers voted 2200 to 200 in favour of the language of the people. It was our first clue: that Vatican II was trying to re-create a people's Church.
Up to now, the bishops had been part of the ecclesia docens, the teaching Church, while the rest of us were the ecclesia discens, the learning Church. Here at the Council, the bishops all became part of the learning Church. Hobnobbing with theologians like Congar, Danielou, Chenu, Schillebeckx, they began to start speaking of the Church in new ways, promising to create a new kind of Church, a people's Church, not a Church that was making itself less and less relevant with its excessive clericalism, juridicism and triumphalism. Some of the best Council speeches were now calling for a Church that believed God was at work in all men and women, in individuals as well as in humankind as a whole, a Church that wanted us to be all that we could be - in this life as well as in the next.
As the Council opened, I sought out America 's most famed Catholic preacher, Bishop Fulton Sheen (he was staying at the Excelsior, the most pricey hotel on the Via Veneto), to ask him about his hopes for the Council. He turned down my request by denying the very humanity of the Council itself. 'It will be all about the Holy Spirit,' he said. 'He will tell us what to say and do.' Bishop Sheen didn't tell me how I should go about interviewing the Holy Spirit.
I went on to interview everyone else I could find, often in 18-hour-days, and, much to my surprise, I was getting stories about the Council into the magazine almost every week. And then at the end of the Council's first session, the Macmillan Publishing Company in the U.S. and Tom Burns of Burns, Oates and Washburn asked me to do a book on that first session of the Council. Time's editors gave me six weeks off to do it. I went off to the Rome headquarters of the Society of the Divine Word and wrote pretty much around the clock (with a couple of hours home for lunch every day). The Observer serialised the book, installments on page one every Sunday for four Sundays in a row in August 1963. And when the book came out, first in London and Dublin , it shot to number one on the bestseller list.
In the book, I used an extended metaphor, imagining the Church as the barque of Peter, a boat that had been in port for too many centuries, its bottom so encrusted with barnacles that it couldn't even sail. Now, by calling a Council, I said that Pope John had figuratively launched that vessel out on to the seas of the world.
Pope Paul VI liked the image so much that he got one of his American monsignor friends who lived in Rome to ask me for permission to have my book translated into Italian and published for the benefit of the Italian bishops who didn't quite understand the Council was trying to create a new kind of Church, one less concerned with its own power, one more at the service of humankind.
My barque-of-Peter image underlined what was different about Vatican II. For all the other councils of history (20 of them) the Church turned inward on itself. This council was turned out to the world.
Not everyone understood that right away. Pope John's Curia didn't get it--they may have never gotten it. The most curious among you might want to read Yves Congar's Journal of the Council, a daily diary of his exhaustive and exhausting work behind the scenes, battling with Cardinal Ottaviani and his chief aide, the Dutch Jesuit Sebastian. To get ready for the Council, they were crafting a compendium of the faith as enunciated by all the papal encyclicals written since Pius the Ninth, doing everything they could to make Vatican II into another Council of Trent.
'This is all wrong,' Congar wrote. 'This is papalist nonsense. It is making the Council into a textbook manual that will not help bring about the aggiornamento Pope John XXIII is calling for--a recreation of what the faith was in its primitive beginnings. To rediscover the beauty of that faith, we have to take a deeper look at Sacred Scripture, and study the Fathers of the Church. And only then will the Council speak to the world in language it can understand.'
Reading Congar's accounts now, I realise my reports in Time and my book on the first session reflected only dimly what a fierce battle was going on. The Observer had a poster for my series that appeared in all the tube stations of London . It screamed out the headline THE PLOT TO THWART POPE JOHN. Read Congar and you will see that headline was an understatement.
Why am I telling you these stories? Because I want you to be aware during the coming year of efforts to dumb the Council down, of efforts to convince you that the Council didn't change the Church very much. I think it did, and after you recall what kind of Church we lived in before Vatican II, I think you will agree with me, and rejoice with me and be glad for what the Council did do, irreversibly, I hope.
The Council changed the way we thought about God, about ourselves, about our spouses, our Protestant cousins, Buddhists, Hindus, Muslims and Jews, even the way we thought about the Russians. When a handful of bishops kept pushing for conciliar condemnation of Communism, John XXIII kept insisting that that kind of talk would only blow up the world. Pope John and his Council made some preliminary moves that helped end the Cold War. For this, the editors of Time made John XXIII the Man of the Year.
The Jews? The Council reversed the Church's long-standing anti-Semitism. Until the Council, Catholics believed that, if Jews didn't convert to Catholicism, there was something wrong with them. The Council Fathers took another look at that idea and decided that Jews were still living their ancient covenant with God. We decided there was nothing wrong with the Jews; they became our brothers and sisters
Before the Council, we thought we were miserable sinners when we were being nothing but human. After the Council, we had a new view of ourselves. We learned to put a greater importance on finding and following Jesus as 'the way' (as opposed to what we said in the Creed.) It didn't matter so much what we said. What mattered was what we did: helping to feed the hungry, clothe the naked and find shelter for the homeless. That's what made us followers of Jesus.
Before the Council, we were told we were excommunicated if we set foot in a Protestant Church. After the Council (where Protestant observers were welcomed, given, and spoken of no longer as Protestants, but as 'separated brethren'), we stopped fighting the Methodists and the Presbyterians and conspired with them in the fight for justice and peace and marched with them to Selma.
Before the Council, we thought only Protestants read the Bible. After the Council, we've seen a new Catholic appreciation of the Scriptures; they've been given a more prominent place at Mass; and in many parishes, we have groups gathering every week for Bible study.
Before the Council, we took pride in knowing that we were the only people on earth who could expect salvation, according to the centuries-long mantra, 'There is no salvation outside the Church.'
After the Council, we began to see there was something good and something great in all religions. And we didn't think we had all the answers. After Vatican II, we started thinking of ourselves not as 'the one, true Church'. We were 'a pilgrim people'. It was a phrase that summoned up an image of a band of humble travellers on a journey who, though we are subject to rain and snow and high wind and hurricane, to thirst and starvation and pestilence and disease and attack by leopards and locusts, keep on plodding ahead with a hope and a prayer that we will someone reach our destination. The image was calculated to counter an old self-concept that hadn't stood up to scrutiny - of a triumphal Church that had all the answers, lording it over humankind.
Before the Council, we identified 'salvation' as 'getting to heaven.' After the Council, we knew that we had a duty to bring justice and peace to the world in our own contemporary society, understanding in a new way the words that Jesus gave us when he taught us to pray, 'thy Kingdom come, thy will be done on earth as it is in heaven.'
By the end, among the most influential figures at the Council, we encountered two humble souls, one a woman, Dorothy Day, the founder of the Catholic Worker movement, who wasn't allowed to speak to the assembled bishops at Vatican II (no woman was), and a bird-like figure, Dom Helder Camara, the archbishop of Recife, in Brazil. Both of them went around Rome telling individual bishops and those who were putting together the Council's crowning document, Gaudium et Spes: please don't forget the poor.
The Council did not forget the poor, and the statement out of Rome in October 2011 allying the Church with the world's have-nots only proves that even the current powers-that-be in the Church (still so unaccountable in so many other ways) get it.
I will quote Gaudium et Spes:
The joys and the hopes, the griefs and the anxieties of the men of this age, especially those who are poor or in any way afflicted, these are the joys and hopes, the griefs and anxieties of the followers of Christ.
Before the Council, we were sin-obsessed. It was even a sin to eat a hamburger on Friday night after the game. After the Council, we had a new sense of sin. We didn't hurt God when we sinned. We sinned when we hurt somebody else. Or ourselves. After the Council, we had a new holy hopeful view of ourselves, redefining holiness as the famous Trappist monk Thomas Merton did: to be holy is to be human.
Before the Council, we were told we were condemned to hell if we made love to our spouses without at the same time making babies. After the Council, we knew we had a duty (and the God- approved pleasure) to make love even if we could not afford to have another baby.
Before the Council, we thought God spoke directly to the Pope and that he passed the word down the ecclesiastical pyramid to the bishops, then to the priests, then the nuns, and, properly filtered, to us. After the Council, we learned a new geometry. The Church wasn't a pyramid. It was more like a circle, where we are all encouraged to have a voice. We are the Church. We have a right and a duty to speak out about the kind of Church we want.
Please note that most of these changes did not come about because the Fathers of Vatican II revamped what we had already professed believing in the Apostles Creed. They didn't change our faith, they didn't come up with a new understanding of God. Still one God, two natures, three persons. Only in this sense can I agree with Pope Benedict XVI when he keeps insisting on something he calls 'the hermeneutic of continuity.'
I have to agree with him when he says the Council didn't come up with anything new. No, no new dogmas. (And thank God for that. The last thing modern, thinking Catholics want are dogmas of any kind. 'Dogma' and 'dogmatic' are words that we do not much resonate with. When I think of dogma, I think of the hundreds of anathemas laid down by the Council of Trent: 'believe these dogmatic propositions or be damned.') 。
When Jesus addressed the multitude on that hillside overlooking the lake, he did not enlighten their minds by reading them the Ten Commondments. He enkindled their hearts by telling what would make them happy.
The Council Fathers did not follow the example of Trent. They followed the example of Jesus. They did not anathematise anyone or anything. They set a new style of thinking about ourselves as followers of the guy who told us how we could have life and have it more abundantly.
We make a mistake if we comb through the sixteen documents of Vatican II and hope to find explicit warrants for the Church we want to see take shape in the future. We can only capture the real, revolutionary meaning of the Council by looking at the new kind of language that permeated all those documents. It was not the kind of legalistic language Cardinal Ottaviani loved. The American Jesuit John W. O'Malley, author of the most authoritative work on the Council, What Happened at Vatican II, says the Council's message was hidden in plain sight. Fr O'Malley describes it by contrasting the old language with the old:
* ...at stake were almost two different visions of Catholicism: from commands to invitations, from laws to ideals, from definition to mystery, from threats to persuasion, from coercion to conscience, from monologue to dialogue, from ruling to service, from withdrawn to integrated, from vertical to horizontal, from exclusion to inclusion, from hostility to friendship, from rivalry to partnership, from suspicion to trust, from static to ongoing, from passive acceptance to active engagement, from fault finding to appreciation, from prescriptive to principled, from behaviour modification to inner appropriation.
Mere words? I do not think so. They underline my thesis - that the Council helped us all be more real, more human and more loving. The Council helped us realise that the world was a good place. It was good because God made it, and he made it because he loved us and loved the world, too. As should we.