この文章はマシア神父様が2015年12月19日開催の「学び合いの会」で「贖宥」の説明の参考とするため
に提供していただいた資料です。「学び合いの会」に参加できなかった方々にも是非読んでいただきたいと思い、
神父様の了解をえて掲載することになりました。
教皇フランシスコによるindulgenceの見直し
私たちは、教会のカテキズムをつうじて、「私たち信徒はみな同じ身体のメンバーとして、お互いのために祈りを分かち合うべきである」と教わってきました。これは、どういうことでしょうか。これは、いわゆる「聖徒の交わり」と呼ばれるものです。この世に生きる私たち信徒も、既に亡くなった信徒も皆、お互いのために祈ることで、私たち皆が神さまの尽きることのない慈しみにあずかることができることを意味します。神さまの慈しみは、体の中を循環している血液に似ています。心臓から全細胞に酸素、そして命をもたらすのは血液です。この血液が神さまの慈しみだと考えてください。そして私たちが祈りを通じて分かちあうことで、血液が身体に行き渡って命が与えられるのと同じように、神さまの慈しみが私たちに注がれて流れていくのです。だから、私たちはいつも慈しみにあずかっています。この状態が聖徒の交わりです。つまり、聖徒の交わりとは、聖霊の働きによって、キリストはもちろん、信徒同士もつながって、神さまの慈しみをいただいているということです。
教会は、そして私たちは、この聖徒の交わりを生きています。私たちはいつも、神さまの慈しみのなかにあります。神さまの慈しみは泉のようで、尽きることがありません。この慈しみは、①赦しの秘蹟では、罪の赦しとなって現れます。②「償いのための祈り」や「贖宥を得るための祈り(註)」においては、癒しや回復の恵みとして現れます。
そしてまた、神さまの慈しみは「Indulgence(特別な恵み)」となって、罪が許されたあとの癒し、傷を回復させるための力となります。神さまの慈しみは、いつでもわたしたちのなかにある恵みなのです。これまでは、この恵み=「贖宥」は、なにかを我慢して罰を軽くしてもらうこと、お金を払うことでたやすく手に入れることができるかのように誤解されていたかもしれません。そうではないのです。
これまでは「贖宥」といえば、「懲罰」や「対価」としての意味合いが強調されてきました。しかし、教皇フランシスコは、「贖宥」は特別な恵みだと考えます。「贖宥」を神さまから受ける慈しみとしてとらえて、解釈しなおしています。よくあるように、罪を犯し罰を受ける人がなにかをすることで罰の軽減を求めるとか、お金で解決できるものとしてとらえてはいません。そうではないのです。フランシスコのいう「贖宥」とは、あくまで祈りを通じた信徒の交わりであり、神さまが与えてくれる癒しのコミュニケーションです。神さまの憐みはいつも私たちのあいだにあるのです。神さまは裁判官ではありません。むしろ、私たちをいやすお医者さまだということができるでしょう。癒しによる心の回復を、神さまは私たちに与えてくださるのです。聖年において「特別な恵みのなかに生きることで、父なる神の慈しみに近づくことができ、神さまの慈しみが私たちの信仰生活全体に行き渡るのだと意識してみましょう。私たちは常に「贖宥」=特別の恵みを受けているのです。」(『慈しみの顔22番、意訳』)
参考資料:
1.贖宥の歴史について
贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)とは、罪の償いを軽減する証明書16世紀に、カトリック教会がその証明書を発行していた。免罪符、免償符、贖宥符とも呼ばれる。古代教会には、場合によっては、課せられる「罪の償い」は重いものであった。教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれた。これが「贖宥」の由来である。贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。贖宥状、免罪は十字軍などを契機に教会慣習となったが、やがて死んだ聖人の功績が他の人の免罪に用いられ(「教会の宝」という)。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥が得られた。後にボニファティウス9世の時代には、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持っていた聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の、果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。ルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた。この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターは、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を図ったが、トリエント公会議の決議により、金銭による贖宥の売買は禁止されることになった。なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。
贖宥 indulgentia indulgenceすでに赦された罪に伴う有限な罰の免除「免償」とも言う。古代教会では、罪を告白する信者に、長期の償いが課せられていた。その償いが教会の権威によって軽減免除されたのが、贖宥の始まりである。
やがて個人告白の慣習が広がり、罪の軽重に従って様々な償いが課せられたが、巡礼・祈り・善幸などで償いが全面的ないし部分的に免除されることが定められていった。このように贖宥は告白の秘跡にともなって生まれたが、中世以降、信心業などをもって、自分ないし他者、特に罪の清めを受けている死者の罰を軽減することと理解されるようになっていった。
償いの免除が罪のゆるしそのものと混同され、迷信的様相も見られたため、特に宗教改革において、前述したように、ルターから批判された。トレント公会議は教令をもって贖宥の正当性を主張、近世以降もカトリック教会では、自他のため、特に死者のために贖宥を得ることは信心業として大切にされてきた。贖宥の本質的意義は、教会は一体であり、互いのために祈り支え合うことができるということにある。現代の贖宥の公式見解は、教皇パウロ6世の使徒憲章「免償の教理」(1967)に見られる。
2.『キリスト教辞典』より
「すでに赦された罪に伴う有限な罰の免除「免償」とも言う。古代教会では、罪を告白する信者に、長期の償いが課せられていた。
その償いが教会の権威によって軽減免除されたのが、贖宥の始まりである。
やがて個人告白の慣習が広がり、罪の軽重に従って様々な償いが課せられたが、巡礼・祈り・善幸などで償いが全面的ないし部分的に免除されることが定められていった。
このように贖宥は告白の秘跡にともなって生まれたが、中世以降、信心業などをもって、自分ないし他者、特に『煉獄で罪の清めを受けている死者の罰を軽減することと理解されるようになっていった。
償いの免除が罪のゆるしそのものと混同されたり、迷信的様相も見られたため、特二宗教改革においてルターから批判された。
トレント公会議は教令をもって贖宥の正当性を主張、近世以降もカトリック教会では、自他のため、特に死者のために贖宥を得ることは信心業として大切にされてきた。
贖宥の本質的意義は、教会は一体であり、互いのために祈り支え合うことができるということにある。現代の贖宥の公式見解は、教皇パウロ6世の使徒憲章「免償の教理」(1967)に見られる。
免罪符 免罪(贖宥)のために中世カトリック教会が発行した証書、贖宥状、免罪は十字軍などを契機に教会慣習となったが、やがて死んだ聖人の功績が他の人の免罪に用いられ(「教会野宝」という)。免罪符として販売された。
教皇レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂建設資金のため免罪符を発行、マインツのアルブレヒトは大司教座主任時の借金返済のため販売を儲け負い、それをドミニコ会士J.テッツェルに任せた。その免罪符に悔い改めの欠如をみたルターは1517年19月31日、「95カ所の提題」をヴィッテンベルグ城教会の罪に提示したと伝えられ、これが宗教改革運動の始まりとなった。のちにカトリック教会はトリエント公会議で金銭での免罪符販売を禁じた。