添付記事

1. 「家庭シノドス」を惑わす障害物

2014.7.30 NCR(ナショナル・カトリック・リポーター誌)論説記事

 

前々回の286号で秋の臨時シノドスの「討議要綱」に関する反響を

お伝えしましたが、今回もNCRの論説委員による「辛口」のコメント

をご紹介します。

シノドス(世界代表司教会議)はわたしたちの信仰生活に深い繋がり

を持つ大切なイベントですが、何故かわたしたちがこの会議について

学ぶ機会は少なく、従って関心を持つ人も僅かです。

(中央協議会HPには会議報告などがupされていますが・・・)

カトリック教会の、「国会」にも例えられるような大きな会議で、どんな

人たちが、何を、どのように話し合うのか。

当海外ニュースでは、出来るだけ関連記事をフォローして参ります。

 

 

 

    論説委員による原注: 50ページに及ぶ「討議要項」、すなわち10月に開かれる「家庭に関する世界代表司教会議」の討議の指針となる作業用文書が6月26日に発表されたが、それを読んだNCRのスタッフは、文書の内容が無味乾燥で人間味がなく、いのちの息吹が感じられないことにがっかりしている。

 

    わたしの個人的経験や、同僚、読者、友人たちに聞いたところでも、わたしたちは結婚と家庭生活を、いのちを生みだすもの、喜びに満ちたものと捉えてきた。結婚や家庭生活は必ず障害や困難を伴うものだが、それは謙遜と寛容の教訓を十分に提供してくれる。しかしまた、それは、最も順調なときの栄養となることもあるのだ。

    今や「討議要綱」は世界中の各教区で学ぶことを期待されているのだが、これを書いた人物が、結婚生活や家族を養うという、人としての基本的な体験に基づいて筆をとってくれたなら、どんなにか違うものになっていたことだろう。

    そこでわたしたちは、NCRの寄稿者二人に次の点に答えてくれるよう依頼した。

    「仮に司教会議がわたしに、結婚について尋ねて来たら、何と答えたら良いか?」

    そして月曜日にはマイク・リーチ(Mike Leach)の意見を、火曜日には、メリッサ・ムジック・ヌスバウム(Melissa Musick Nussbaum)の意見を掲載した。

今日はスタッフによる論説を以下に記す。

 

現代の世相を見渡した教会の指導者たちは、結婚が、これまで無かった側面から攻撃を受けているのを見て、急いで正常な状態に戻そうと決心したのだ。

そのような判断と欲求は、バチカンでこの10月に開催される予定の「福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題 」をテーマとする世界代表司教会議臨時総会のために用意された、50ページにわたる「討議要項(作業用文書)」の中にはっきりと見て取れる。その感覚は理解できるし、賞賛に値するかも知れない。しかし、それを実現させる道筋は複雑な障害物だらけだ。残念ながら、司教たちはもっとも脅威となる障害物に気づいていない。そのうちの多くはまさに文化の中に内在し、司教たちはその文化の外側で働いているのである。

皇パウロ6世が1965年にその形式を確立して以来、司教会議は13回の通常総会と2回の臨時総会を開き、世界の特定の地域の問題に焦点を当てた「特別」集会を10回開催している。

れらの会議は、期待に反してほとんど何も生み出さなかった。それは良くて平穏無事、最悪の場合は逆行的であった。その大半はヨハネ・パウロ2世の治世に行われたのだが、この教皇は、それらの会議の内容を要約した教皇の最終文書が、実際に会議で話し合われた内容に沿ったものであるかどうかという点にはほとんど関心がなかったようだ。それらは結局、教皇の司教会議であり、その司教会議は、教皇が望む結論を出し、教皇が望まない(教会が無視したい)問題は却下するようになった。

教皇フランシスコが、解決すべき課題と本物の対話に関して、前任者よりはるかに寛容であるように見えるというだけで、わたしたちは、その教皇にインスピレーションを受けた司教会議が、より信頼出来るものになるだろうという期待を抱く。

従って、来るべき臨時シノドス(引き続き同じテーマを扱う通常シノドスが2015年10月に開催される)のための「討議要項」は、自然法や、離婚し再婚した信徒に関して注目すべき考察と問題提起を含んでいる。

しかしながら、何よりも先ず必要なのは、司教会議の方向性の根本にある文化を理解することだ。世界中から集まる司教の会議は、抱える問題も、参加者の個性も様々だが、一本の共通の糸がこれらの集会のすべてを結びつけている。司教会議は、これまで例外なく、人々の中のほんの小さな部分を占める代表者、それも独身の男性だけによって組織され、出席者も、会議の結果を世界に発信する者も彼らに限られてきた。彼らは、経歴の大部分を、非常に閉鎖的な共同体を維持するために献げてきた人たちである。

議論し結論を出す人々と、議論の対象となる人々との差違はこの場合特に目立つ。「討議要綱」が取り上げているのは、主に既婚の男女、あるいは同性愛者に関する問題なのだ。

この問題を軽く見るつもりはないが、しかし想像してほしい。聖職者だけで構成されるシノドスで、叙階された男性が、自分の生活にあまり関係のない問題の枝葉末節について意見を述べるのだ。しかも彼らは基本的に(会議の場において)直接的な意見交換や対話を禁じられているのだ。

訳注: この段落については、シノドスの会議運営の詳細が分からないため、正しい翻訳になっていない恐れがあります。下記原文を参照し解釈をご教示いただければ幸いです。

    Not to make too light of the matter, but imagine a synod on the clerical state in which ordained males were only tangentially consulted, 

and in which they were essentially barred from any direct involvement in the shaping of the conversation or in the conversation itself.

 

問題は「討議要項」の導入部の最初のページからすでにはっきり見えている。そこでは、次のような説明がなされている。2014年の第一段階では、「司教会議の教父たちは、家庭の新しい課題に対応するために、個々の教会から受け取った情報や証言や提言を徹底的に研究し分析する。」そして、2015年の第二段階では、その作業は「司教団の大部分」の代表者によって継続される。

彼ら全員は、「東方典礼カトリック教会の司教会議、司教協議会、ローマ教皇庁の各省、そして修道会総長連合によって提出された質問書に対する回答を検討する」ことになっている。(質問書の重要度の順番では)「家庭」は、司教区、小教区、活動体、グループ、教会内組織体に続く一番最後に置かれており、「所見」というカテゴリーでの応答提出が許可されている。しかも何らかの理由で文中のその部分はイタリック体になっている。

論点をはっきりさせよう。かりに、現実の家庭、すなわち妻、夫、母親、父親、養子はもちろん生物学上の自分の子供を育ててきた人々が直接的な情報を提供していたなら、すべての作業はもう少し信頼性を勝ち得ていたかも知れない。このプロジェクトに必要なのは、現代世界の大部分の家庭と著しく異なる生活に自らを献げ、誓約・誓願のもとにある男女の体験とは別のものなのだ。

二番目の主な障害はシノドスの基本的視点……いうなれば、聖職者が置かれている状況とは違って「結婚」が特に困難な状況にあり、それを脅かす全ての「…主義」と闘う方法を見つけるために教会の特別な配慮が必要だ、という考え方である。結婚と家庭が、消費主義、拝金主義、個人主義、世俗主義、快楽主義、相対主義といった現代の風習に激しく脅かされていると思い込んでいる人たちの批判の中に重要な真実があるのだ。

しかしながら、現在困難な状況にある家族の数が、前の一世紀と比べてどれぐらい増えているのかを問うのが正しい態度だろう。過去の一世紀の間、世界は二度戦火に覆われ、憎しみ、虐殺、そして他者への無関心といった、ほとんど想像を絶する行動原理の下に置かれ、さらに、何十年もの間、地球は核による全滅の危機に瀕してきたのだ。

結局、繰り返しなるが、共同体の大多数のメンバーが50年以上もの間一貫して受け入れてこなかった避妊に関する規則に、制度内の独身男性たちが固執している状況の中で、一つの司教会議が結婚と家庭の問題を検討してもどれほどの効果があるだろうか。

この文書のあるセクションは、結婚を三位一体の神の愛や、キリストと教会との関係になぞらえて説明し、結婚について高邁な美辞麗句で溢れている。結婚は「偉大なる神秘」であり、基本的な「愛の共同体」と呼ばれる。

しかし、二人の人間の永続的な愛のもっとも深い人間的な表現である性行為を語るとなると、人間はヒヒのレベルまで下げられ、性行為の唯一の合法的な目的は、ただ更に年若い人間を生産することに限られる。愛と生殖は、生物学的必然性にまで落とされてしまう。そして、仮にそれがすべての性行為の第一目的でないならば、教会の目にはその結婚は不完全なものと映るのである。

シノドスの作業文書(討議要綱)は、その教えが受け入れられない理由は、教理の教え方(カテケージス)がよくないからだと主張している。一方で多くの既婚者たちは、その理由は、良くない神学と人間学(人間理解)にあるとシノドス事務局に回答している。規則を作った男性たちは、永続的で信頼し合う関係にある夫婦の愛の、深い喜びと、終わりのない密接な関係を本当には理解できない。その人たちは、その基本的な「愛の共同体」を、現在進行形で、あるいは経験的に理解できない。それは子孫を生むことを遙かに超えることだ。責任ある親であるということは、性的表現のそれぞれの段階が結果的にもう一人の子どもをもたらす可能性があると確認することより、遥かに大きなことを伴っているのだ。

この文書はまた、妊娠できない人々、妊娠可能な時期を過ぎて結婚する人々にとって、結婚がどんな意味を持つかについても、何も触れていない。そして、社会のある部分、すなわち信頼し合い、愛し合う関係にある同性愛者の間に広がっていると思われるロジック(考え方)が、わたしたちに重くのしかかっているという現実にもあえて触れておきたい。

ことによると、50年前の第2バチカン公会議の各集会において、意図しない成果を生みだした原動力が、今度の集会でも力を発揮して、当初可能と思うよりも遥かに深くて創造性に富んだ討議を呼び起こすかも知れないのだ。

前段で示唆したように、この長文の「討議要項」の中には、明るい兆しも見えており、次の二つはとりわけ妥当な内容である。第一は「自然法」という言葉に二ページ半以上を費やしており、この概念は「様々な文化的背景にあって、完全に理解不能ではないにしても、非常に問題があることが分かった」という事実である。

この概念が理解不能なのは、文化的背景が多様であるからだけでなく、もっと基本的なレベルで、これら多くの問題を扱う方法としては時代遅れだからと言えるだろう。

準備文書はまた「教会法上違法な結婚」をしている人々について、さらには「新しい結びつき(結婚)に対する憐みと温情と寛大さ」をより強調して彼らに接する方法について、遅ればせながら活発な議論が行われることを約束しているのだ。

最後に、教会は自分自身を見る、特に、スキャンダルと贅沢に暮らす聖職者たちのことを見ることが必要であるということへの言及が、この文書にはほとんどないということにまで、この集会が発展していくという望みはある。それは、その文化のより深い検討につながるべきで、つながるのなら、議論する価値があるだろう。実際、その議論と検討は、結婚したカトリック信者を、すべての規則に従わせようとする新たな一連の文書よりも遙かに緊急に必要なものなのだという討議がなされるかも知れない。(完)

 

(以下に英文添付)

Editorial: Obstacles riddle synod on the family's path

By NCR Editorial Staff  2014.7.30

 

Editor's note: The 50-page instrumentum laboris, or working document, that was released June 26 and will guide the discussion 

during the October Synod of Bishops on the family was dry and impersonal, lifeless almost, and that confounded us at NCR.

 

From personal experience and from listening to colleagues, readers and friends, we have experienced marriage and family life as life-giving and joyous. Marriage and family life is not without its challenges and struggles; 

it offers ample lessons in humility and forgiveness, but that, too, at the best of times can be nurturing.

If the writers of the instrumentum laboris, which is now supposed to be being studied in dioceses throughout the world, 

had begun with the fundamental experience of people who have lived in marriages and raised families, we wondered, how different would it have been?

 

So we asked two NCR contributors to answer this: If the Synod of Bishops asked me about marriage, what would I say? 

On Monday, we ran Mike Leach's response. On Tuesday, Melissa Musick Nussbaum's. Today, we editorialize.

 

Church leaders, looking around the contemporary landscape, concluded that marriage is under assault in an unprecedented way, 

and they're determined to fix it right now.

 

That assessment and desire are apparent throughout the 50-page instrumentum laboris, or working document, for the Synod of Bishops on "The Pastoral Challenges of the Family in the Context of Evangelization,

" scheduled for this October at the Vatican. The instinct may be understandable, even commendable,

 but the pathway to fulfilling it is riddled with complex obstacles. The bishops, unfortunately, seem unaware of the most threatening obstacles, 

many of them inherent in the very culture out of which they work.

 

Since Pope Paul VI established the format in 1965, the Synod of Bishops has met 13 times in ordinary sessions, twice in extraordinary session, 

and has also held 10 "special" meetings focused on issues in specific areas of the globe.

 

The gatherings have produced little that was unexpected. They have been benign at best and regressive at worst. 

The bulk of them occurred during the reign of Pope John Paul II, who seemed to have had little concern that his final documents summing up 

the content of the meetings bear any resemblance to what had actually been said. 

They were, in the end, his synods, and they would conclude what he wanted them to conclude and ignore the questions he wanted the church to ignore.

 

We are led to expect more authenticity from a Pope Francis-inspired synod if for no other reason than that he seems far more tolerant of questions and real dialogue than his predecessor.

 

Accordingly, the instrumentum laboris for the upcoming extraordinary session (a second, ordinary session dealing with the same subject will be held 

in October 2015) bears some remarkable observations and questions on such topics as natural law and divorced and remarried Catholics.

 

It is imperative, however, to first understand the culture in which the synod mentality is rooted. 

As diverse as the issues and personalities involved in meetings of bishops from around the world, a common thread binds all of these gatherings. 

They have been, without exception, organized by, participated in and interpreted for the world by a tiny representation of humanity,

 celibate and exclusively male, whose careers have been largely dedicated to maintaining the status quo in a very exclusive fraternity.

 

The disparity between those who will be doing the talking and deciding and those who will be talked about -- the instrumentum is concerned primarily with married men and women, as well as homosexual persons -- is, in this instance, particularly glaring.

 

Not to make too light of the matter, but imagine a synod on the clerical state in which ordained males were only tangentially consulted,

 and in which they were essentially barred from any direct involvement in the shaping of the conversation or in the conversation itself.

 

The problem is quite evident on the first page of the introduction to the instrumentum, which explains that during the first phase in 2014,

 "the synod fathers will thoroughly examine and analyze the information, testimonies and recommendations received from the particular churches 

in order to respond to the new challenges of the family." In the second phase in 2015, the work will continue by a representation of "a great part of 

the episcopate."

 

All of those men will consider answers to a questionnaire submitted by "synods of the Eastern Catholic churches ... episcopal conferences, 

the departments of the Roman Curia and the Union of Superiors General." Actual families are finally mentioned as among those -- dioceses, parishes, movements, groups and ecclesial associations -- permitted to submit responses categorized as "observations." For some reason, the word is italicized in the text.

 

The point is easy to make. The whole exercise might have a bit more credibility if actual families -- wives, husbands, mothers, fathers, people who had raised children, their own biological children as well as adopted children -- had some direct input. This project is in need of the experience of other than vowed and celibate men and women

 who have given themselves to a way of life markedly different from that of most families in the modern world.

 

The second major obstacle is the synod's fundamental point of view that marriage, unlike, say, the clerical state, is in particular trouble and

 needs the church's special attention in order to figure out how to combat all the "-isms" assaulting it. A significant truth resides in the critique of those who see marriage and the family mightily challenged by contemporary 

mores of consumerism, greed, individualism, secularism, hedonism and relativism.

 

It is fair to ask, however, how much more families are in trouble today than they were, say, during the past century, 

when twice the world was aflame and subject to almost unimaginable manifestations of hatred,

 bloodshed and disregard for other humans, and for decades the globe teetered on the brink of nuclear annihilation.

 

Finally, how effective might a synod be in its consideration of marriage and the family when, again, 

the celibate men of the institution insist on rules regarding contraception that much of the community has consistently rejected for more than 50 years?

 

A section of the document abounds in the church's soaring rhetoric about marriage, analogizing it to the Trinitarian love of God and Christ's relationship

 with his church.

 Marriage is called "the great mystery" and a fundamental "community of love."

 

But when discussing sex, the deepest human expression of enduring love between two people, humans are reduced to the level of baboons, 

their only legitimate purpose for engaging in sex the production of more little humans. Love and procreation are reduced to biological necessity. 

And if that is not the primary intent of every sexual act, then the marriage is fundamentally flawed in the church's eyes.

 

The working paper for the synod claims the reason the teaching is rejected is because of lousy catechesis. 

Lots of married people would tell the synod it's because of even worse theology and anthropology. T

he men making the rules really don't understand the profound joy and endless implications of conjugal love in an enduring, committed relationship.

 They don't understand, in any ongoing, experiential way, that fundamental "community of love." It is about far more than producing offspring. 

Responsible parenthood involves so much more than making certain that each instance of sexual expression could result in another child.

 

Nor does the paper address at all what marriage could mean for those unable to conceive, or those who marry beyond their childbearing years.

 And dare we mention the reality that keeps pressing on us with a logic that seems to be accepted more and more by segments of the community -- homosexuals in a committed, loving relationship?

making certain

 

Perhaps the dynamic of unintended consequences that accompanied the meetings of the Second Vatican Council 50 years ago will be at play in these meetings, 

and we'll be treated to a much deeper and creative discussion of these issues than seems possible at the outset.

 

As hinted above, some encouraging signs poke through the lengthy instrumentum, and two are particularly relevant here. The first is the more than two-and-a-half pages spent on the term "natural law" and the fact that the concept "turns out to be, in different cultural contexts, highly problematic, 

if not completely incomprehensible."

 

One might add that it is incomprehensible not only because of varying cultural contexts but also because, on a more basic level,

 it is an outdated way to approach many of these issues.

 

The preparatory document also promises a robust and overdue discussion of people in "canonically irregular marriages" 

and how to approach them with a greater emphasis on "mercy, clemency and indulgence towards new unions."

 

Finally, there is hope that the gatherings will expand on the document's few mentions of the church's need to look at itself, 

especially the scandals and clerics who live lavishly. 

It will be worth the discussion if it leads, as it should, to a deeper examination of that culture. In fact, 

the argument could be made that that discussion and examination is far more urgently needed than another set of documents trying to get married Catholics 

to follow all of the rules.

(End)