人類の未来は家族から
聖家族の祝日 福音黙想 2009/12/27 トマス・ロシカ師
クリスマスの余韻のうちに、教会は聖家族の祝日を祝い、いのちという賜物とその神秘、とりわけ家族という恵みを黙想するようわたしたちを招きます。
今日の福音朗読の物語(ルカ 2:41-52 )は、ルカ福音書にしかないイエスの少年時代の出来事です。
ルカによるイエスの幼年時代の物語は、生涯の最初の部分に関してそれほど詳しいわけではありませんが、「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。」 ( 2:41 ) と、両親が、律法とイスラエルの伝統に敬虔で忠実であったことには触れています。
「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」 ( 2:42 ) 。
「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。」 ( 2:43 ) 、「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」 ( 2:46 )
ここで、両親に向けたイエスの謎めいた言葉は、イエスを見つけた二人の喜びを押しとどめるものでした。 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 ( 2:49 )
このフレーズを、次のように解釈することもできます。「わたしが、自分の父の御業に没頭するのは当たり前です。」 どちらにしても、イエスは神を自分の父と呼びます。イエスにとって、自分が神の子であること、すなわち天の御父の御旨に従順であることは、家族の絆にまさるものなのです。
この出来事 を別にすれば、 福音書にはイエスの幼少期と青年期について何も書かれていません。
それは、イエスの「隠された生活」の時期と言えるもので、ルカはこれを簡単な二つの記述に要約しています。 「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」 ( 2:51 ) 、
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」 ( 2:52 )
このエピソードをもって、少年期の物語は、その始まりと同じようにエルサレムの神殿という場面設定の中で終わります。
福音書のこの個所から、イエスが家族と一緒にヨセフの家で暮らしていたことが分かります。
ヨセフは、マリアの子の父親の役割を果たし、その子を助け、保護し、大工という自分の職業を通して少しずつ教育していきました。ナザレの町の人たちは、イエスを「大工の息子」と呼んでいました( マタイ 13:55 )。
イエスが教え始めると、故郷の人々は驚いて尋ねました。「この人は、マリアの子で、大工ではないか。」 ( マルコ 6:3 ) その人たちは、イエスの母の名前の他に「兄弟」「姉妹」の名前もあげました。
兄弟姉妹たちは、ナザレに住んでいました。この人たちこそ、福音記者マルコが触れている、イエスに説教活動を思いとどまらせようとした人たちでした( マルコ 3:21 )。明らかに、この人たちは、イエスが新しい活動を始めた動機を理解できませんでした。彼らは、イエスは他のイスラエルの人と何ら変わりはないのだから、そのように振る舞うべきだと考えたのです。
ナザレという学校
1964 年 1 月 5 日、ナザレでの教皇パウロ 6 世の言葉は、ナザレの出来事と聖家族の神秘を美しく言い表しています。教皇の言葉に励まされて、わたしたちは、沈黙、家庭生活、仕事の美しい価値において、神の家族に倣う気持ちにさせられます。
パウロ6世は、こう述べました。「ナザレは一種の学校です。そこは、わたしたちが、キリストの生活がどのようであったかを知り、彼の福音を理解するようになる最初の場所かも知れません。
ここで、わたしたちは、神の子が世に知られるようになった道筋、隠されてはいるけれど深い意味を持つこの物語の、素朴な呼びかけを味わい、いろいろと思い巡らすことができるのです。」
「そして、次第にイエスに倣うことができるようになるかも知れません。ここでわたしたちは、キリストが実際にどんな人だったのかを知ることが出来ます。
さらにわたしたちは、地上でのイエスの生活を取り巻き、影響を与えた状況と環境を感じとり、それらを考慮に入れることができます。それらとはすなわち、その場所、その時代の傾向、文化、言語、宗教的慣習など、要するに、イエスがご自分を世に知らしめるのに用いたすべてのもののことです。」
「第一に、わたしたちはその沈黙から学びます。そのためには、沈黙の偉大な価値を正しく評価するだけでいいのです。 わたしたちは、心のこのすばらしい状態を必要としています。なぜなら、わたしたちは、今日の荒れ狂う時代の特徴である、執拗な抗争や相争う主張の不協和音に取り囲まれて生活しているのですから。 ナザレの沈黙は、平和と静けさの中で黙想する方法、霊的に深く熟考する方法、神の内面的な知恵とイエスの真の教師たちの勧告を素直に受け入れる方法を教えてくれるでしょう。ナザレは、学習と準備の価値、黙想の価値、秩序だった個人の霊的生活の価値、そして神にのみ知られる沈黙の祈りの価値を、わたしたちに教えてくれます。」
「第二に、わたしたちは家族生活について学びます。ナザレがわたしたちにとっての、家族の模範になりますように。家族の、聖なる永続的なあり方を教え、社会における基本的な役割の雛型を示してくれますように。
それは、愛と分かち合いの共同体です。そこでの出来事、それがもたらす報いに対して申し分のない共同体…要するに子どもを育てる完全な環境…。家族は何ものにも代えがたいものです。」
「最後にわたしたちは、ナザレの大工の息子の家庭から、仕事と、そのための修行について学びます。わたしはその価値…要求し、かつ報いること…に注目し、そこに深い敬意を払いたいと思います。
どんな仕事にも尊厳があることを思い起こして下さい。しかしそれ自身が目的ではありません。仕事の価値と自由な性格は、よく言われるように経済システム上の役割によるだけではなく、むしろそれが奉仕する目的にかかっているのです。」
現代への挑戦:
今日、わたしたちは教育的環境の欠如を心配しています。それは教会外にとどまらず、教会内の問題でもあります。キリスト者の家庭には最早次の世代に自分の信仰を伝える力がありません。
また、小教区も同じ有様です。そこは、どんな状況にあっても、教会の司牧の使命にとって不可欠な場所なのに、です。
キリスト者の共同体として、また一般社会の一員として、わたしたちは、全ての市民生活の変らぬ基礎である男女の深い結びつきを一層大切にしなければなりません。それは子どもたちの権利と必要を満たすための最良の支えであることが証明されています。
結婚について新たな定義を下すのは、その社会的影響を考え、慎重でなければなりません。
結婚という、男と女の一生の結びつきに、社会がもはや特別な意義と基本的な価値を認めなくなったなら、その影響は計り知れません。
家族は社会の要石であり、子供たちを受け入れるのに最も望ましい環境です。性別に拘わりなく、全ての人の人格の尊厳は尊重されねばなりませんが、同時に、良心と宗教の自由が確保されねばなりません。
結婚と家族生活をめぐる現代の盛んな論戦の中から、二つの明確な挑戦が表面化しています。
きょうの聖家族の祝日は、特に一般信徒に向けて、結婚という重要な制度と秘跡の尊厳を維持するようにという緊急の招きを発しています。
あなたの小教区での「結婚準備プログラム」を応援して下さい。あなたの小教区と教区に、青少年のためのしっかりとした召命のプログラムを設けるべきだと訴えて下さい。
小教区、教区、信徒の活動に、若い人たちのための創造的な司牧計画や召命プログラムがないとしたら、倫理的な大混乱、誤った考え、誤った情報、空しさに対して無防備な状態と言えます。
同時に、社会には、愛と相互依存、委任と相互責任という別の絆が存在することを忘れてはいけません。それらは、善いものかも知れません。それらは、法律で認められてもいるかも知れません。
それらは、結婚と同じではありません。違うものです。法的な目的のために専門用語の拡大解釈をしても、男と女の強い結びつきだけが守ってきた現実を変えることはできません。その現実には、二人の成人の間の相互依存の絆だけでなく、子供を産むという固有の能力もあるのです。
この聖家族の祝日に、人間らしい家族をつくり、結婚を強め、神聖なものとして大切にし、子供たちを祝福して養育し、わたしたちの家庭、家族、小教区共同体を聖化し、そして、あらゆる人種、言語、志向、生活様式の女性、男性を喜んで迎え入れる場とすることを、改めて約束しましょう。
社会の基礎:
尊者教皇ヨハネ・パウロ2世はよくこう言われました。「人間の将来は、家族にかかっています。」
今日の朗読でわたしたちは、家族が社会に重大な影響を与えていることを思い起こします。
社会の基礎は家族です。そして、家族の基礎は結婚です。結婚への召命は、男女の本質に深く刻み込まれています。家族は、社会の要石であり、子供たちを迎えるのに最も望ましい環境です。
若い青年男女が、喜び、確信、信仰、希望を以って宣言する、「わたしはそのように行います。」という言葉を聞きたいものです。彼らは、わたしたちの未来であり希望です。結婚する人が居なければ、社会と教会の未来を築くことはできません。深く結び付き、結婚する人たちが居なければ、現代の聖家族が生まれることもないでしょう。
"The Future of Humanity Passes Through the Family"
Reflection for Feast of Holy Family Year C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 22, 2009 ( Zenit.org ) .- In the afterglow of Christmas, the Church celebrates the feast of the Holy Family, inviting the faithful to reflect on the gift and mystery of life, and in particular the blessing of family.
Today's Gospel story ( Luke 2:41-52 ) relates an incident from Jesus' youth that is unique in the New Testament.
Luke's infancy Gospel, however scarce in details concerning the first part of Jesus' life, mentions that "his parents went to Jerusalem every year at the feast of the Passover" ( 2:41 ) , an indication of their piety, their fidelity to the law and to the tradition of Israel .
"When [Jesus] was 12 years old, they went up according to custom" ( 2:42 ) . "When they were returning, the boy Jesus stayed behind in Jerusalem, without his parents knowing it" ( 2:43 ) . After searching for three days "they found him in the temple, sitting among the teachers, listening to them and asking them questions" ( 2:46 ) .
Jesus' mysterious words to his parents seem to subdue their joy at finding him: "How is it that you sought me? Did you not know that I must be in my Father's house?" ( 2:49 ) . This phrase can also be translated, "I must be immersed in my Father's work." In either translation, Jesus refers to God as his Father. His divine sonship, and his obedience to his heavenly Father's will, take precedence over his ties to his family.
Apart from this event, the whole period of the infancy and youth of Jesus is passed over in silence in the Gospel. It is the period of his "hidden life," summarized by Luke in two simple statements: Jesus "went down with [Mary and Joseph] and came to Nazareth, and was obedient to them" ( Luke 2:51 ) ; and "He progressed steadily in wisdom and age and grace before God and men" ( Luke 2:52 ) . With this episode, the infancy narrative ends just as it began, in the setting of the Jerusalem temple.
We learn from the Gospels that Jesus lived in his own family, in the house of Joseph, who took the place of a father in regard to Mary's son by assisting and protecting him, and gradually training him in his own trade of carpenter. The people of the town of Nazareth regarded him as "the carpenter's son" [Matthew 13:55].
When he began to teach, his fellow citizens asked with surprise: "Is not this the carpenter, the son of Mary?" ( Mark 6:3 ) . Besides his mother, they mentioned also his "brothers" and his "sisters," who lived at Nazareth . It was they who, as the evangelist Mark mentions, sought to dissuade Jesus from his activity of teaching ( Mark 3:21 ) . Evidently, they did not find in him anything to justify the beginning of a new activity. They thought that Jesus was just like any other Israelite, and should remain such.
School of Nazareth
The words of Pope Paul VI spoken in Nazareth on Jan. 5, 1964, are a beautiful reflection on the mystery of Nazareth and of the Holy Family. His words inspire all of us to imitate God's family in their beautiful values of silence, family life and work.
He said: " Nazareth is a kind of school where we may begin to discover what Christ's life was like and even to understand his Gospel.
Here we can observe and ponder the simple appeal of the way God's Son came to be known, profound yet full of hidden meaning.
"And gradually we may even learn to imitate him. Here we can learn to realize who Christ really is. And here we can sense and take account of the conditions and circumstances that surrounded and affected his life on earth: the places, the tenor of the times, the culture, the language, religious customs, in brief everything which Jesus used to make himself known to the world. [...]
"First we learn from its silence. If only we could once again appreciate its great value.
We need this wonderful state of mind, beset, as we are, by the cacophony of strident protests and conflicting claims so characteristic of these turbulent times. The silence of Nazareth should teach us how to meditate in peace and quiet, to reflect on the deeply spiritual, and to be open to the voice of God's inner wisdom and the counsel of his true teachers. Nazareth can teach us the value of study and preparation, of meditation, of a well-ordered personal spiritual life, and of silent prayer that is known only to God.
"Second, we learn about family life. May Nazareth serve as a model of what the family should be.
May it show us the family's holy and enduring character and exemplifying its basic function in society: a community of love and sharing, beautiful for the problems it poses and the rewards it brings -- in sum, the perfect setting for rearing children -- and for this there is no substitute.
"Finally, in Nazareth , the home of a craftsman's son, we learn about work and the discipline it entails.
I would especially like to recognize its value -- demanding yet redeeming -- and to give it proper respect. I would remind everyone that work has its own dignity. On the other hand, it is not an end in itself. Its value and free character, however, derive not only from its place in the economic system, as they say, but rather from the purpose it serves."
Challenges for today
Today we are witnesses to a worrisome lack of educational environments not only outside the Church, but even within the Church. The Christian family is no longer capable on its own of passing on the faith to the next generation, and neither is the parish, even though it continues to be the indispensable structure for the Church's pastoral mission in any given place.
As a Christian community and as a society in general, we must do more to encourage the committed relationship of man and woman that remains so basic to all civilizations, and has proven to be the best support for the rights and needs of children.
We must reflect carefully on the social consequences involved in the redefinition of marriage, examining all that is entailed if society no longer gives a privileged place and fundamental value to the lifelong union of a man and a woman in marriage.
As the keystone of society, the family is the most favorable environment in which to welcome children. At the same time, freedom of conscience and religion needs to be ensured, while also respecting the dignity of all persons, whatever their sexual orientation.
Two distinct challenges emerge from this great debates of our times surrounding marriage and family life. Today's feast of the Holy Family issues an urgent invitation, especially to lay people, to uphold the dignity of the important institution and sacrament of Marriage.
Support the Marriage Preparation Programs in your parish communities. Insist that in your parishes and dioceses, there are solid vocational programs for young adults and young people.
Parishes, dioceses and lay movements that do not have creative pastoral strategies and vocational programs about marriage for young people leave the door open to tremendous moral confusion and misunderstanding, misinformation, emptiness.
At the same time, we cannot forget that other bonds of love and interdependency, of commitment and mutual responsibility exist in society. They may be good; they may even be recognized in law.
They are not the same as marriage; they are something else. No extension of terminology for legal purposes will change the observable reality that only the committed union of a man and a woman carries, not only the bond of interdependency between the two adults, but the inherent capacity to bring forth children.
On this feast of the Holy Family, let us recommit ourselves to building up the human family, to strengthening and enshrining marriage, to blessing and nurturing children, and to making our homes, families and parish communities holy, welcoming places for women and men of every race, language, orientation and way of life.
Foundation of society
"The future of humanity passes through the family," as the Venerable Pope John Paul II would say so often. Today's readings remind us that the family has a vital impact on society.
The foundation of society is the family. And the foundation of the family is marriage. The vocation to marriage is written in the very nature of man and woman. As the keystone of society, the family is the most favorable environment in which to welcome children.
We need young adults to say their "I do" with joy, conviction, faith and hope. They are our future and our hope. Without married people, we cannot build the future of society and the Church. Without committed, married people, we will not have holy families today.
朗読
1 サムエル 1:20-22, 24-28:ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
1 ヨハネ 3:1-2, 21-24:御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
ルカ 2:41-52:(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
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