真理と喜びに向かう長い長い旅路
主の公現 ( A 年) 聖書黙想 2011/1/2 トマス・ロシカ師
“epiphany” (ご公現)という単語は、「外に現れること」を意味します。神の出現は、大きなものであっても、小さなものであっても、私的な体験の場合が多いのですが、それは公的にも大変大きな意味を持ちます。神の出現のくわしい様子を誰かと分かち合うのは大変厄介なことです。言葉では決して正確に表現できません。いくら熱心な聴き手でも、説明と、実際にその場で起きたことの間にあるギャップを完全に埋めることはできません。ほとんどの人は、私的な神的体験を他人に話したりはしません。誰がそれを信じてくれるでしょうか? そして、誰が本当に理解してくれるでしょうか。しかし皮肉なことに、神の出現は、たとえそれを完全に伝えることが出来なくても、人々の間で共有されるように定められているのです。
メシアと主
これは、わたしたちの主イエス・キリストのご公現の聖なる祝日を語る、素晴らしい福音物語にも当てはまることです。この日は、イスラエルのメシア、神の御子、世の救い主としてのイエスを顕示するのに最もふさわしい祝日です。この日、教会は、東方から来た賢者たち(マギ)によるキリストの礼拝を祝い、同時に、イエスをこの世に公に啓示した他の 2 回の大切な「時」も祝います。他の 2 回とは、ヨルダン川でのイエスの洗礼とガリラヤのカナの婚礼です。
マギ(占星術の学者たち)の物語全体の目的は、明らかにキリスト論的です。この外国人たちは異教徒であり、「ユダヤ人の王」によってもたらされる善い知らせが全世界に広がることを暗示しています。
彼らは善意の人々で、神に心を開き、神の呼びかけを聞いてそれに従おうとしている人々です。彼らはどこへでもためらうことなく星に従っていく人々です。オープンで理想に満ちた目を持ち、素朴で純真な人たちなので、利己的な祭司や残忍な王たちには易々とだまされます。彼らは、ロマンチックで愛すべき人たちで、真理を追い求め、この世では手に入らない深くて永遠に続く喜びを捜し求めています。
悲劇的な、大人の物語
マタイの福音物語を注意深く読むと、これは、決して子供向けのおとぎ話などではなく、悲劇的な大人向けの物語であることが分かります。マタイはそのことを、イエスの物語のまさに冒頭にわたしたちに示しています。イスラエルを支配することになっているイエスは、ある人々の喝采と、その他の人々の不安による怒りとに迎えられます。将来イエスに向けられる、イスラエルによる拒絶と、異教徒たちによる受容とが、物語のこの場面に先取りして書かれています。
マタイは、マギの物語を、「ヘロデ王の時代に」( 2:1 )という言葉で始めています。ヘロデは、紀元前 37 年から紀元前 4 年まで統治していました。「マギ」は、もともとペルシャの祭司階級の称号で、のちには人間の知識を超えたことを知っているとされる人々に用いられるようになりました。マタイが記す「マギ」は、占星術師のことで、新しいしるしと不思議な出来事を天に捜し求める人たちです。
マタイは、旧約聖書のバラムの物語を利用します。バラムは、「一つの星がヤコブから進み出る。」(民数記 24:17 )と預言しました。そこでは、星は遠い天空の現象ではなく、王そのものを意味しています。貧しい羊飼いたちとは違って、マギは長い道のりを旅しなければなりませんでした。マギが目的地に到達するためには困難に立ち向かわねばなりませんでした。おなじみの飼い葉桶の場面に描かれているのは、決してロマンチックで、センチメンタルな巡礼の旅などではなかったのです!
マギが、ユダヤ人の王に敬意を表するためにエルサレムに来たということは、彼らが、諸国の王となるべき方を、イスラエルにおいて、ダビデの星の救いの光の内に捜し求めていることを示しています。そしてマギのイエス訪問の意味は、異教徒たちにとって、ユダヤ人に向き合い、旧約聖書の救い主の約束を彼らから受け取ることによってのみ、イエスを見つけ、神の御子として、世の救い主としてのイエスを礼拝することができるということです。
この物語は、わたしたちにとってどのような意味があるか。
幼子イエスが巻き起こした波紋―、マリア、ヨセフ、マギ、ヘロデ、エルサレム全体、ベトレヘムのすべての新生児の人生にもたらされた波乱の成り行きを読むとき、わたしたちは、成人したキリストが同じようにわたしたちの生活に入り込み、影響を与えているのかどうか、自問せざるを得なくなります。
そして、羊飼いたちが見た天使たちの合唱の部分を読むと、神が同じようにわたしたちの生活に入り込んでいることを改めて発見します。ベトレヘムでのイエス誕生のときに天使が果たした役割を思い起こし、追体験すると、霊の世界とわたしたちを隔てるベールが開け放たれます。マギの体験を読むと、真理に向かう長い長い旅をしているすべての人々は、最後には真理に出会い、そこに至る過程でも変えられるということを思い出させてくれます。彼らは、「普段通りの」生活に戻ることなど、もはや不可能です。キリストに出会い、真のキリストを知ったなら、それまでと同じでいることなど、とうてい不可能なことなのです。そして、その時になって初めて、わたしたちは、キリストの使命を共にしようと思えるようになるのです。
真の喜び
イギリスの偉大なキリスト教作家であり、護教論者でもあった C. S. ルイスと言えば、何と言っても、彼の「喜び」という言葉の使い方を思い起こします。面白いことに彼は、「喜び」という表現を、永遠に続く神の現存の感覚を表すよりは、いま、自分が抱いている神への思いを語るために用いることの方が多かったのです。マギと、天の星の輝きの物語は、他の多くの聖なるしるしと同様に、時にはその意味が失われてしまう危険をはらんでいるにもかかわらず、深遠な感情を喚起します。
飼い葉桶の物語の中にわたしたちが観想する星もまた、現代のわたしたち一人ひとりの思いと心に語りかけてきます。マギの旅と、星とは、この世俗化した文化に語りかけ、今を生きる人々の心に、真理を捜し求める巡礼の姿、究極の願望、そして深く永遠に続く喜びへの郷愁を呼び覚まします。
訳注: C. S. Lewis ( 1898- 1963 )。北アイルランド生まれの小説家、中世文化研究者、キリスト教擁護者。宗教書、ノンフィクション、小説など著書多数。全 7 巻からなる『ナルニア国物語』は岩波書店から日本語訳が出ている。
喜びについて考えるとき、 ベネディクト 16 世 の使徒的勧告 "Verbum Domini" (神のみことば)の中の、「御言葉と喜び」に関する #123 を読むことをお勧めします。
「わたしたちも、神の御言葉の中に、いのちの言葉を聴き、覚り、触れるのです。わたしたちは恩寵により、永遠のいのちを啓示する宣言を受け入れ、それによって他者との親しい交わりを認識するようになりました。わたしたちが交わる他者とは、信仰のしるしを帯びて既に世を去った人々、そして世界中の、御言葉に耳を傾け、ミサを祝い、生涯を愛の証言者として生きる人々です。
使徒ヨハネは、『わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。』と記して、そのことを思い起こさせます。 ( 1 ヨハネ 1:4 )」
「司教会議は、ヨハネが語るすべて、すなわち、御言葉の宣言が交わりを生み出し喜びをもたらすということを、わたしたちが体験できるようにしてくれました。これは、三位一体のいのちの中心にその起源をもち、御子においてわたしたちに伝えられる深い喜びです。この喜びは、この世では得られない、計り知れない賜物です。(わたしたちの力では)祝うことは出来ても、喜びまでは創り出せません。聖書によれば、喜びは聖霊の結ぶ実りです。 ( cf. ガラテア 5:22 ) 聖霊は、わたしたちが御言葉の内に入り、神の御言葉がわたしたちの内に入って、永遠のいのちの実りを結ぶことができるようにして下さいます。聖霊の力で神の御言葉を宣言することによって、わたしたちもまた、表面的で束の間の喜びではなく、主イエスだけが永遠のいのちの言葉を持つという信仰から生まれる、真の喜びの源泉を分かち合いたいと望みます。 ( cf. ヨハネ 6:68 )」
訳注:ヨハネ 6:68 「シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
クリスマスの真の業
マギたちが自分自身の道を歩み、シニシズム(冷笑主義)の誘惑を斥け、この大きな喜びへの驚きを受け入れたために、ついに彼ら自身が関与したその星が再び現れました。これは、イエスが生まれた時代の物語であるばかりでなく、わたしたちの時代の物語でもあります。わたしたちを取り巻く憂鬱、冷笑主義、絶望、無関心と無意味さの中に、変わらぬ喜びを見出したとき、わたしたちがすべきことはただ一つ、大昔のベツレヘムで、あの異国からの探求者たちがしたように、跪き、礼拝することだけです。
もし、わたしたちがほんとうに賢明ならば、賢い占星術師がしたようにしてみましょう。死と恐怖と冷笑主義の古き王の声を聴いたとしても、勇気を以て自分自身の道―「喜びの道」を歩もうではありませんか。その星と旅路は新しい道筋を示し、光の子と平和の御子の存在に向かってわたしたちを前進させます。その御子によって、光、正義、愛、平和への、人類の深い望みと願いが実現するのです。
今日、わたしたちは、深い、永続する喜びを以て真に叫ぶことができます。主よ、地上の全ての民は、あなたを礼拝します。古くからシェーカー教徒の間に伝わる詩は、クリスマスとキリストの真の業が何であるかを示しています。
訳注:・シェーカー教徒: http://woodnavi.moo.jp/newpage3syerker.html 参照
「天使の歌が静まるとき、
空の星が過ぎ去るとき、
王たちが家に帰るとき、
羊飼いたちが群れと再び共にいるとき、
シメオンとアンナが平和のうちに主のみもとに行くとき、
そのときクリスマスの業が始まる : 失われたものを見つけ、傷ついたものを癒し、
囚われ人を解放し、国々を建て直し、
全ての民に平和をもたらし、
その心に音楽を鳴らす。 アーメン」
聖書朗読
イザヤ 60:1-6 : 栄光と救いの到来 60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。 60:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 60:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。 60:6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
エフェソ 3:2-6 : 3:2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。 3:3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。 3:4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。 3:5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や “ 霊 ” によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 3:6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
マタイ 2:1-12 : 占星術の学者たちが訪れる 2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
The Tedious Journey to Truth and Joy
Biblical Reflection for Jan. 2, Solemnity of the Epiphany, Year A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 25, 2010 ( Zenit.org ) .- The word "epiphany" means "to show forth." Epiphanies, both large and small, tend to be private events -- yet events with great significance for the public.
Trying to share the details with another of an epiphany is fraught with complications. The words are never quite right, and even the most sympathetic listener cannot fully bridge the gap between description and what is was like being there. Most of us keep our personal experiences of the Holy to ourselves. Who would believe it? And who would really understand? The irony is that epiphanies are made for sharing, even as they are impossible to communicate fully.
Messiah and Lord
This is certainly the case of today's extraordinary Gospel story for the solemn feast of the Epiphany of our Lord Jesus Christ. It is the feast par excellence of the manifestation of Jesus as Messiah of Israel, Son of God and Savior of the world. Today the Church celebrates the adoration of Jesus by the wise men ( magi ) from the East, and also commemorates two other important moments of public revelation of Jesus to the world: at his baptism in the Jordan and the wedding feast at Cana in Galilee.
The purpose of the whole magi story is clearly Christological. The foreigners are Gentiles, illustrating the universal breadth of the good news brought by the "king of the Jews." They are people of good will, open to God, ready to hear and follow the call of God. They are people willing to follow a star, wherever it might lead. Open and starry-eyes, they are naive, guileless, easily taken-in by self-serving priests and murderous kings. They are romantic and lovable figures, pursing the truth and searching for a deep and abiding joy that the world cannot give.
A tragic, adult story
If we read Matthew's Gospel story carefully, we realize that far from being a children's tale, it is a tragic adult story. Matthew's shows us that right at the beginning of the story of Jesus, the one who is to rule Israel is greeted with the cheers of some and the fearful fury of others. The future rejection of Jesus by Israel and his acceptance by the Gentiles are retrojected ( read back ) into this scene of the narrative.
Matthew begins his story of the magi with the words: "In the days of King Herod" ( 2:1 ) . Herod reigned from 37 to 4 B.C. "Magi" was originally a designation of the Persian priestly caste, and the word became used of those who were regarded as having more than human knowledge. Matthew's magi are astrologers, searching the heavens for new signs and wonders.
Matthew draws upon the Old Testament story of Balaam, who had prophesied that "a star shall rise from Jacob" ( Numbers 24:17 ) , though there the star means not a phenomenon of the distant heavens but the king himself. Unlike the poor shepherds, the Magi had to travel a long road; they had to face adversity to reach their goal. It was anything but a romantic, sentimental pilgrimage that we often see in our manger scenes!
The magis' coming to Jerusalem in order to pay homage to the king of the Jews shows that they seek in Israel, in the messianic light of the star of David, the one who will be king of the nations. Their coming to Jesus means that pagans can discover Jesus and worship him as Son of God and Savior of the world only by turning towards the Jews and receiving from them the messianic promise as contained in the Scriptures of the Old Testament.
What does the story mean for us?
When we read the story of the turmoil the child Jesus brought into the lives of Mary, Joseph, the Magi, Herod, the whole of Jerusalem, and all the newborn babies of Bethlehem -- we are forced to ask ourselves whether the adult Christ challenges and moves our lives in the same way.
When we read the story of the shepherds and their vision of angelic choirs, we discover anew how God can break into our life as well. In remembering and reliving the angelic roles in Jesus' birth in Bethlehem, the veil that separates us from the world of the spirit is drawn back. The experience of the magi reminds us that all who make the tedious journey to the truth will finally encounter it and be changed in the process. They can never go back to a "business as usual" way of life. When we meet Christ and see who he really is, we will never be the same -- and only then can we hope to begin to share in his mission.
True joy
The great English Christian writer and apologist C.S. Lewis is associated more than anything else with his use of the word "joy." It is interesting that he used it, not so much to describe his sense of the abiding presence of God, as to speak of the ongoing longing for God. The story of the magi and the brightness of the star in the heavens evokes profound feelings despite the fact that, as with many other signs of the sacred, it runs the risk at times of being emptied of its meaning. The star we contemplate in the manger also speaks to the mind and heart of the men and women of our time. The journey of the magi and the star speak to our secularized culture, awakening in our contemporaries the nostalgia of our condition as pilgrims in search of truth, of the absolute desire, and of a deep, abiding joy.
Speaking of joy, I encourage you to read section #123 of Benedict XVI's apostolic exhortation "Verbum Domini" about the "The word and joy."
"In God's word, we too have heard, we too have seen and touched the Word of life. We have welcomed by grace the proclamation that eternal life has been revealed, and thus we have come to acknowledge our fellowship with one another, with those who have gone before us marked with the sign of faith, and with all those who throughout the world hear the word, celebrate the Eucharist and by their lives bear witness to charity. “ This proclamation has been shared with us," the Apostle John reminds us, so that "our joy may be complete" ( 1 John 1:4 ) .
The synodal assembly enabled us to experience all that Saint John speaks of: the proclamation of the word creates communion and brings about joy. This is a profound joy which has its origin in the very heart of the trinitarian life and which is communicated to us in the Son. This joy is an ineffable gift which the world cannot give. Celebrations can be organized, but not joy. According to the Scripture, joy is the fruit of the Holy Spirit ( cf. Galatians 5:22 ) who enables us to enter into the word and enables the divine word to enter into us and to bear fruit for eternal life. By proclaiming God's word in the power of the Holy Spirit, we also wish to share the source of true joy, not a superficial and fleeting joy, but the joy born of the awareness that the Lord Jesus alone has words of everlasting life ( cf. John 6:68 ) .
The true work of Christmas
In the end, the magi went their own way, and because they refused to be seduced by cynicism, because they allowed themselves to be surprised by this great joy, the star to which they had committed themselves appeared again. This is not only the description of the times into which Jesus was born, but also our times. When we have found our lasting joy in the midst of the encircling gloom, cynicism, despair, indifference and meaninglessness, the only thing to do is to kneel and adore, as did those foreign seekers long ago in Bethlehem.
If we are truly wise, let us do what the wise astrologers did. When we hear the voice of the old king of death and fear and cynicism, let us have the courage to go our own way -- rejoicing. The star and the journey will send us onwards, by newer paths, to come into the presence of the Child of Light and the Prince of Peace, who is the fulfillment of humanity's deepest hopes and desires for light, justice, love and peace.
Today we can truly exclaim, with deep and abiding joy: Lord, every nation on earth will adore you! This poem from the Shaker tradition illustrates what the real work of Christmas and of Christ is all about:
"When the song of the angels is stilled,
When the star in the sky is gone,
When the kings are back home,
When the shepherds are once more with their flocks,
When Simeon and Anna have gone to their Master in peace,
Then the work of Christmas begins: To find the lost, to heal the broken,
To release the prisoners, to rebuild nations,
To bring peace to all people,
To make music in the heart. Amen."