星と純粋な心
主の公現 福音黙想 2010/1/3 トマス・ロシカ師
公現という言葉は、「示す」とか「知らせる」、あるいは「現れる」を意味します。「主の公現」は、もともと東方教会で祝われ始めました。ベトレヘムに近いエルサレムでは、この祝日には、キリストの降誕と特別な関係がありました。
今日、東方正教会がこの祝日で強調するのは、主の洗礼の時に、イエス・キリストが救い主であり、また三位一体における第二のペルソナであることが明らかになり、輝きわたったことです。
通常は、「神の顕現」の祝日と呼ばれ、典礼年の中で、最大の祝日の一つに数えられています。
「 Theophany 」 は、「神が輝きわたる」というギリシャ語に由来します。
西方教会では:
西方教会は、東洋の1月の祝日を取り入れ、その主な特徴は保ちながらも、時の経過とともに、贈り物を持って幼子イエスを訪れたマギ(占星術の学者)の訪問を圧倒的に重視するようになりました。占星術の学者たちの訪問は、イエスが主であり王であることを世に「明らかにした」のです。
この祝日が強調するのは、イエスがすべての人の救い主であることを「示し」つつ、人々に手をさしのべるという教会の使命です。後の、イスラエルによるイエスへの拒絶と異邦人によるイエスの受容が、マタイの物語のこの場面に投影されています。
詳細:
ヘロデ王が統治していたのは、紀元前 37 年から 4 年まででした。「マギ」は、ペルシャの祭司階級の呼び名で、この語は、後に人知の及ばぬものを持つとされる人々の呼び名に使われるようになりました。マタイの言う 「マギ」 は、占星術の学者です。マタイの物語に出てくる星に関して、古代の人々は、新しい支配者が生まれる時には新星が現れるものと信じていました。
マタイは、また旧約聖書のバラムの物語を引用しています。バラムは、「ひとつの星がヤコブから進み出る。」(民数記24:17)と予言しています。しかし、ここでの星が意味しているのは、天文学的な事象ではなく、王自身のことです。
マギによる礼拝の行為は、幼子イエスが、「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」(ルカ2:32)となるように、というシメオンの祝福に対応しています。そして、イエスが、すべての人々、すべての民族、すべての人種のために来たこと、この世における神の業は、少数の人々に限られることはないことを最初に示す行為となっています。
遥かな異国の地にあって、マギたちは貴族の生活をしていましたが、何かが欠けていました・・・彼らの心は休まず、満たされませんでした。彼らは、自らの先見力で見たものが約束する真実を確認するために、進んで全ての危険を冒しました。
貧しい羊飼いたちと違って、マギたちは長い道のりを旅し、目的地に達するために苦難に遭わねばなりませんでした。羊飼いたちも苦難を知っており、それが天使の言葉を受け入れる素地となったのです。
しかし、ひとたびその恐怖を克服したとき、彼らは幼子キリストに会うために、易々と「ベツレヘムに到着」しました。その道程は、わたしたちが馬小屋の飼葉桶に見るような、ロマンティックで 感傷的な巡礼旅行ではありませんでした。
どこから見ても異国人であり、東方からやってきたマギたちは、自分たちの知恵や知識だけではなく、現在は旧約聖書に記されているヘブライの文書の助けも借りました。
これは重要な意味を持っています。 キリストは、全ての国の人々…ユダヤ人も異邦人も、自分に従うようにと招きます。エルサレムと旧約聖書は、これら異邦人の巡礼者にとって、イエスに向かう信仰の道への新たな出発点ということができます。
大都市(エルサレム)の人々は、実にヘロデその人でさえ、マギたちをキリストへと導く道具になったのでした。
悲劇的な大人の物語:
マタイ福音書は、イエスの物語の 最初に次のように伝えています。 イスラエルを支配する者(ヘロデ)が一部からは持て囃され、一部からは恐れられています。マタイは、邪悪なヘロデの助言者として 「 民の祭司長たちや律法学者たち、皆」について記します。
彼らは、単に(ヘロデの)神学的な質問に答えているだけのように見えるかもしれません。しかし、マタイは何か 別のことをほのめかして いるに違いありません。最初の場面では、彼らも、マギたちの 「 メシア誕生 」 という言葉に不安を抱きました。ヘロデが自分の王座を脅かす事態にうろたえたのを見て、マギたちは、ヘロデが幼い 「 ユダヤ人の王 」に好意的でない ことを悟ったに違いありません。
メシアが生まれた場所をヘロデに明かしたために、マギたちは、事実上、ヘロデの邪悪な企ての協力者になってしまいました。実のところ、 「 ユダヤ人の王 」 に死をもたらすのはヘロデではなく、マギたちです。(マタイ 26:3-5, 47; 27:1-2, 12, 20 ) イエスの逮捕と殺害を企てるのは「祭司長たちや民の長老たち」です。律法学者や長老たちについては マタイ 26:57 および 27:41 に記されています。
幼な子イエスはヘロデや律法学者たちの脅威でした。王座にいる一人にとって、そして人々が信じる宗教的な王国にとって。
ヘロデとその助言者である律法学者や長老たちの否定的な反応は、幼な子の物語を真正な福音の物語に変えます。注意深くこの物語を読むならば、それが子供の物語からほど遠い、大人に向けた悲劇の物語であると悟るでしょう。
既にクリスマスの時点で、この 「 新しく生まれた王 」 の避けがたい犠牲死についてのヒントが示されています。・・・ 世間的なイデオロギーと神のそれとの対決です。戦線が敷かれ、軍勢が整います。
マタイ福音書は、イエスの物語の始めで、イスラエルを支配する者が一部からは歓迎され、他からは恐れを以って迎えられていることを示します。時代と場所のしるしに気づく者にとって、イエスの到来は、信仰といのちの旅路へと危険を冒して船出することへの招きを意味しています。
今日、キリストを発見する:
死を司る権力が支配している同じ時に幼子が生まれます。
ヘロデ王は、賢者たちがその旅(の目的)を果たせないように、また未来の可能性と新しい命への彼らの関わりを断つために、先回りを試みます。物語全体の際立ったコントラストの中心に、喜びである幼子イエスがいます。ヘロデは、この 「 全ての人々にとっての偉大な喜び 」 を恐れます。
わたしたちの社会と文化は、日増しに、人間のいのち … 全ての人々にとっての最も偉大な喜び … を恐れるようになっています! わたしたちは、いのち … それを保護し、支え、祝福し、この最も偉大な賜物に感謝をささげる … いのちを、あらためて大切にすべきです。
ある人は、マギたちのように、長く延々と続く旅路の果てに、ようやく幼子キリストを見出すように定められています。世間的な知恵や、やりかた、教会風の見せかけを払拭する必要があります。犠牲を払って、最も深い目的と平和、すなわちキリストを見出す必要があります。最も賢明な人にとっては、永続する目的を見出そうとするならば、困難な道のりを選ぶ必要があります。
単純な人々は、ふつう、羊飼いたちのように野原を横切って主を見出します。彼らは貧しく、謙遜で、単純な、開かれた心をもっています。しかし、知識、知恵、権力、名声の上に、謙遜が欠ける場合には、しばしば絶望につき当たります。なにごとにつけ、すばやく直感的に究極の真理を把握し、明快に理解出来ると信じている人は、得てして、荒涼とした袋小路に迷い込むか、または孤独と自己満足と自己中心と絶望の荒れ野に踏み迷うのです。
結局は、マギたちは、自分たちの道を歩みました。そしてシニシズム(冷笑主義)の誘惑を拒絶し、
この偉大な喜びの驚きに身をまかせたので、彼らが関わった星が再び現われました。
この記述はイエスが生まれた時代のことばかりではなく、現在のわたしたちの時代のことでもあるのです。永続する喜びを、わたしたちを取りまく暗闇、シニシズム、絶望、無関心と無意味さの只中に見出したとき、わたしたちがなすべき事は、ひざまずいて、主を賛美することだけです。
ほんとうに賢いならば、わたしたちも、賢い占星術の学者たちがしたようにしてみましょう。
死、恐怖とシニシズムの老いた王の声を聞くとき、自分の道 ・・・ 喜びの道を歩む勇気をもちましょう。
星とその旅路はわたしたちを、新しい道を通り、光の子、平和の王子の現存へと導くでしょう。彼こそは、光、正義、愛と平和への人間性の最も深い希望と願望の実現です。
旅は続く:
フランスの偉大なカトリック作家ベルナノス( Georges Bernanos 、 1888-1948 ) は、わたしたちの時代のこの偉大な祝祭の意味を見事に語りました。
「その始まりから、 “ わたし ” の教会は今日の姿のままであり、時の終わりまでそのままでしょう。
それは、強者への中傷、弱者への失望、自分だけを求める内部の魂たちの試練と慰めです。
そうです・・・そこに “ わたし ” を捜し求める人はだれもが、そこでわたしを見つけるでしょう : しかし、彼は捜さなければなりません。そしてわたしは、人々が考えるよりは上手に隠れており、ある司祭たちがあなたに信じさせたよりずっと上手に隠れているのです。
わたしがベツレヘムの小さな馬屋にいる時以上に、いまだにわたしを見つけることは困難です。
それは彼らが、羊飼いやマギたちの謙遜さをもって “ わたし ” に近づかないからです。
「 “ わたし ” を称えるために、衛兵と歩哨を配し、数知れぬ、壮麗に日夜照らされる回廊と柱列の宮殿が建てられたことは本当です。
「しかし、もしもそこに “ わたし ” を見つけたいのならば、賢明なのは、雪にうずもれたユダヤへの古い道を彼らがたどったとおりに行くことです。そして、あなたが必要な唯一つのこと ・・・“ ひとつの星、清い心 ”- - を求めなさい。」
◇◇◇
A Star and a Pure Heart
Biblical Reflection for Solemnity of the Epiphany Year C
By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 24, 2009 ( Zenit.org ) .- The term epiphany means "to show," "to make known" or "to reveal."
The solemnity of the Epiphany had its origin in the Eastern Church. In Jerusalem, close to Bethlehem, the feast had a special reference to the Nativity.
Today in Eastern Orthodox churches, the emphasis for this feast is on the shining forth and revelation of Jesus Christ as the Messiah and second person of the Holy Trinity at the time of his baptism.Usually called the feast of the Theophany, it is one of the great feasts of the liturgical year. "Theophany" comes from the Greek for "God shining forth."
The West
The West took up the Oriental January feast, retaining all its chief characteristics, though attaching overwhelming importance, as time went on, to the visit of the Magi who bring gifts to visit the Christ child, and thus "reveal" Jesus to the world as Lord and King.The feast is observed as a time of focusing on the mission of the Church in reaching others by "showing" Jesus as the Savior of all people. The future rejection of Jesus by Israel and his acceptance by the Gentiles are retrojected into this scene of the Matthew's narrative.
Details
King Herod reigned from 37 to 4 B.C. The "magi" were a designation of the Persian priestly caste and the word became used of those who were regarded as having more than human knowledge. Matthew's Magi are astrologers. As for the star in Matthew's story, it was a common ancient belief that a new star appeared at the time of a ruler's birth. Matthew also draws upon the Old Testament story of Balaam, who had prophesied that "a star shall advance from Jacob" ( Numbers 24:17 ) , though there the star means not an astral phenomenon but the king himself.The act of worship by the Magi, which corresponded to Simeon's blessing that the child Jesus would be "a light for revelation to the Gentiles" ( Luke 2:32 ) , was one of the first indications that Jesus came for all people, of all nations, of all races, and that the work of God in the world would not be limited to only a few.
At home in their distant, foreign lands, the Magi had all the comfort of princely living, but something was missing -- they were restless and unsatisfied. They were willing to risk everything to find the reality their vision promised.
Unlike the poor shepherds, the Magi had to travel a long road; they had to face adversity to reach their goal. The shepherds also knew adversity, and it had prepared them to accept the angels' message.
But once they overcame their fright, they simply "crossed over to Bethlehem" to meet the Christ child. It was anything but a romantic, sentimental pilgrimage that we often see in our manger scenes!
The Magi from the East, foreigners in every sense of the word, were guided not only by their own wisdom and knowledge of the stars, but were aided by the Hebrew Scriptures that now form the Old Testament.
The meaning of this is important -- Christ calls all peoples of all nations, Gentiles as well as Jews, to follow him. We could say that Jerusalem and the Old Testament serve as a new starting point for these Gentile pilgrims on their road to faith in Jesus.
The people of the big city, indeed even Herod himself, were instrumental in leading the magi back to Christ!
A tragic adult story
Matthew's Gospel shows us that right at the beginning of the story of Jesus, the one who is to rule Israel is greeted with the cheers of some and the fearful fury of others. Matthew introduced "all the chief priests and scribes of the people" as advisers of the sinister Herod.
It might appear that they do no more than answer a theological question. Matthew certainly implies something else. In the first place, they, too, had been troubled by the Magis' word of birth of the Messiah. Knowing that he was paranoid on the subject of any threat to his throne, the Magi should have realized that he would not look kindly upon an infant "king of the Jews."
By disclosing to Herod the birthplace of the Messiah, the Magi became, effectively, collaborators in his evil intent. In fact, it is they, not Herod, who will bring about the death of the "king of the Jews."
It is the "chief priests and elders of the people" who will plot to arrest and kill Jesus ( Matthew 26:3-5, 47; 27:1-2, 12, 20 ) ; "the scribes” are mentioned in 26:57 and 27:41. He was a threat to Herod and to them: to the throne of one, to the religious empire of the others.
The negative reaction of Herod and his advisers, the chief priests and scribes, turns the infancy narrative into a veritable gospel. If we read the story carefully, we realize that far from being a children's tale, it is a tragic adult story.
Already at Christmas, we see a hint of the inevitable sacrificial death of this "newborn king" -- the schism between a worldly ideology and a godly one. The battle lines are drawn and the forces are being marshaled.
Matthew's Gospel shows us that right at the beginning of the story of Jesus, the one who is to rule Israel is greeted with the cheers of some and the fearful fury of others. To those who are alert to the signs of the times and the places, the coming of Jesus is an invitation to risk and to embark on a journey of faith and a journey of life.
Finding Christ today
A child is born at the same time as a death-dealing power rules. King Herod tries to co-opt the wise men to betray their journey, to end their commitment to future possibility and new life. At the centre of the whole story of striking contrasts lies a baby who is joy. Herod is afraid of this "great joy for all the people."
Our societies and cultures are becoming increasingly afraid of human life -- the greatest joy for all peoples! We must recommit ourselves to life -- preserving it, upholding it, blessing it and giving thanks to God for this greatest of gifts.
Some of us are destined to find the Christ child only after a long, tedious journey like that of the Magi.
Our worldly wisdom and worldly ways, our ecclesiastical façades need to disappear; we must make sacrifices to find our deepest meaning and peace that is Christ. Most wise people need to make quite a trek if they are to find any lasting meaning.
Simple folk can usually find the Lord by crossing a field like shepherds; they bring their poverty, humility and simple openness. But knowledge, wisdom, power, prestige, and the lack of humility often lead to despair. People who believe they have the immediate, final truth and clarity about anything often are led into bleak, dead-end streets or they remain lost in the desert of solitude, self-sufficiency, selfishness and despair.
In the end, the magi went their own way, and because they refused to be seduced by cynicism, because they allowed themselves to be surprised by this great joy, the star to which they had committed themselves appeared again. This is not only the description of the times into which Jesus was born, but also our times. When we have found our lasting joy in the midst of the encircling gloom, cynicism, despair, indifference and meaninglessness, the only thing to do is to kneel and adore.
If we are truly wise, let us do what the wise astrologers did. When we hear the voice of the old king of death and fear and cynicism, let us have the courage to go our own way -- rejoicing.
The star and the journey will send us onwards, by newer paths, to come into the presence of the Child of Light and the Prince of Peace, who is the fulfillment of humanity's deepest hopes and desires for light, justice, love and peace.
The journey continues
The words of the great French Catholic writer Georges Bernanos ( 1888-1948 ) speak beautifully of the meaning of this great feast in our day:
"From the beginning, My Church has been what it is today, and will be until the end of time, a scandal to the strong, a disappointment to the weak, the ordeal and the consolation of those interior souls who seek in it nothing but myself.
"Yes [...] whoever looks for Me there will find Me there; but he will have to look, and I am better hidden than people think, or than certain of My priests would have you believe.
I am still more difficult to discover than I was in the little stable at Bethlehem for those who will not approach Me humbly, in the footsteps of the shepherds and the Magi.
"It is true that palaces have been built in My honor, with galleries and peristyles without number, magnificently illuminated day and night, populated with guards and sentries.
But if you want to find Me there, the clever thing is to do as they did on the old road in Judea, buried under the snow, and ask for the only thing you need– a star and a pure heart."
朗読
イザヤ 60:1-6 : (エルサレムよ)起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
エフェソ 3:2-3a, 5-6 : あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や “ 霊 ” によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
マタイ 2:1-12 : イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
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