歴史に残されたイエスの復活の足跡
復活の主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/4/24 トマス・ロシカ師
四つの福音書の復活の章を読むと、それぞれの記述の違いがはっきりわかります。
どの福音記者も、復活の事実については詳しく語っていません。それはイエスと御父の間に存在する神の神秘の内に起きている出来事です。まさにその性質のために、復活の出来事は人間的経験(理解)の外に置かれるものです。
それぞれの福音書の記述のうち、特に、今日述べられたマタイの物語から、復活についてどんな教えを学ぶことができるでしょうか。
マルコの十字架への召命
最も初期の福音書であるマルコ福音書にある記述( 16 章)では、最後のシーンは、驚くような場面です。物語は次のように終わります。「 [ 婦人たちは ] 墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」( 16:8 )
マルコのエンディングで最も印象的なのは、人々が復活したキリストに一度も出合わないということです。その代わりに、畏れを抱かせるような、不気味とも言える光景を目にします。
朝早くまだ暗いうちに、婦人たちは、遂行できそうもない目的のために墓にやってきます。この婦人たちだけが、十字架の下まで、そして墓までもイエスに従った人たちです。婦人たちは、墓が開き、空になっているのを発見します。そして、若者の姿をした天からの使いによって迎えられ、次のような任務を与えられます。「さあ、行って、弟子たちペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」( 16:7 )
マルコの復活の記述には、クリスチャンの読者の心を掻き乱し、気楽な態度を否定しよういう意図があります。わたしたちは、気楽さに流れ、キリストの弟子になることへの召命は、十字架への召命であるということを忘れがちです。マルコ福音書の読み手は、十字架の下で自分の生活を検証するよう招かれます。
マタイによる生きているキリスト
マタイは、復活の物語を、四つの場面で語ります。すなわち、墓での婦人たちの体験( 28:1-7 )、復活したイエスと婦人たちの短い出会い( 28:8-10 )、この出来事を隠蔽しようとするユダヤ人の指導者たちの試み( 28:11-15 )、ガリラヤでの弟子たちへの出現 ( 28:16-20 ) の四つの場面です。そして、大いなる委託( 28:19-20 )で終わる最後の場面は、マタイ福音書全体への綿密に配慮された結論として、完結性のある項目になっています。
マタイ福音書の復活の章に登場する婦人たちはイエスの復活を目撃していません。婦人たちは、地震を経験し、天使の出現を経験し、空になった墓を経験します。そのすべては、この出来事をもたらした神の働きの、しるし、あるいは痕跡です。
マタイは福音書の最後の場面、すなわちイエスが弟子たちを派遣した山の上に、実際にイエスを登場させます( 28:16-20 )。福音書の最後でマタイは、ガリラヤの山上でイエスが初めて語った綿密な構成を持つ説教を、もう一度思い起こさせます( 5:1-7:21 )。
マタイの描く柔和で謙遜なイエスは、柔和と謙遜の模範であるばかりでなく、その教師でもあります。マタイは、そのマルコ福音書を改訂するに当たって、イエスの像とキリスト者の生活のイメージを慎重に作り上げています。
十字架と死せるイエスの厳粛なイメージと招きの内には、生きて現存するイエスが満ちあふれています。イエスの言葉は、学びに熱心な弟子たちにとって、イスラエルの聖典を反映した、慰めに満ち、分かりやすい「方法」を示してくれます。 マタイは、従順で謙遜なイエスについて学ぶように呼びかけています。
ルカの交響曲
ルカ福音書の復活祭の章( 24 章)は、美しい交響曲のように、聖書に基づく司牧の実践と、紛れのないキリスト者の生活のあり方を示してくれます。第一楽章( 24:1-12 )では、神が単独で無力な状況を打開します。第二楽章( 24:13-35 )は、エマオへの道でのイエスと弟子たちの不思議な物語の中で、神はイエスのペルソナを通して、絶望の旅路をたどる二人に同行します。第三楽章( 24:36-53 )の物語は、人々を共同体の体験へと導きます。
ヨハネ福音書の復活した主
ヨハネは、エルサレムとガリラヤにおける、復活した主のご出現について語ります。この第四福音書の復活の物語は、イエスと、多様な信仰の反応を示す弟子たちとの一連の出会いの物語です。
これらの出会いには、シモン・ペトロ、愛する弟子のマグダラのマリア、その他の弟子たち、そしてトマスとの出会いがありますが、どのシナリオも、信仰の範疇の中で、心の準備には人によって様々なレベルがあり、また、信仰に至るにも様々な要因があることを思い起こさせてくれます。
存在の新しい次元
ベネディクト 16 世 は最新の著書、「ナザレのイエス 第 2 部:聖週間 ‐‐ エルサレム入城から復活へ」 ( Ignatius Press, 2011 ) の中で、「イエスの復活の性質とその歴史的意義」について書いています。
教皇の優れた文章の中から、いくつかの点に光を当ててみましょう。「イエスの復活は、結局は生物学の法則に従って再び死なねばならないような、単なる通常の生物学的生命に戻ったのではありません。」(中略)
「イエスは、死霊(「霊」)ではありません。言い換えれば、彼は死者の国には属さず、何故か生者の国において自身を啓示することが出来るのです。」
「復活した主との出会いは神秘体験とは違います。そこでは、人間の霊は束の間外に漂い出て、聖なる永遠の世界を知覚し、そして再び通常の存在の地平に引き戻されるに過ぎません。神秘体験は、霊魂の空間的、経験認識的な限界を一時的に取り除くだけのことです。」 ( pp. 272-273 )
ベネディクト 16 世 は次のように続けます。「<復活>は歴史的出来事ですが、それにも拘らず、歴史の次元を打ち破り、それを超越します。 ここでは、類似した言葉に頼らせていただきます。それは、多くの点で不適切なのですが、それでもなお理解への道筋を開くことができます。 既にこの章の最初で述べたように、復活は 革命的な『進化の跳躍』 に似たものと考えることができるでしょう。その過程で、生命の新しい次元、人間存在の新しい次元が出現するのです。」 ( p. 273 ) .
教皇はさらに 付け加えます。 「復活は、歴史を打ち破り超越するものでありながら、歴史の中で起き、今もなお、ある点で歴史に属しています。多分次のように言うことができるでしょう。イエスの復活は、歴史を超越したものを指し示す一方で、歴史の中にその足跡を残しています。それ故、(復活は)全く新しい種類の出来事として、証人たちによって証明され得るのです。」 ( p. 275 )
神秘を探求する
高度に技術化された現代世界の中で、復活の現実を探求することはますます難しくなっています。そこで、 その神秘の深さを探求するよりもむしろ、それをごまかして日々を過ごしている人々が多すぎます。 そして彼らは、復活の朝に起こった出来事を探求しようと試み、復活を信じるキリスト者の共同体を離れ、自我と観念の領域に閉じこもり、コンピューターの前に凍りついて、たった一人で答えを探そうとするのです。
ある人は大変率直に、この話全体が単純に時代遅れなのだと言います。しかし復活は、頭(思考)や理論や観念の問題ではなく、信仰共同体の礼拝と典礼を 通して体験し学ぶしかない心の問題なのです。 復活を十分に体験し、理解するためには、心を揺らす美しい音楽、燻香の煙と香り、パンと葡萄酒、小声で交わす挨拶や喜びの声、まばゆい色彩などが必要ですが、とりわけ、普段は必ずしも教区の集会の「常連」でなくても、毎年の復活祭の信仰宣言に集まってくる、現実の人々の立体的な(三次元の)身体を伴う環境が必要なのです。
コンピューターの前に座り、「イエスは復活される」と打ち込むだけではいけません。行動し、実行に移さなければなりません。もしも、復活を歴史的に証明可能な出来事にしようと思われたなら、神は、闇の中で、目撃証人もなしにそれをなさることはなかったでしょう。復活は、聖霊である神の力によって、父である神と子である神の間で成し遂げられた出来事でした。
どの福音書も、それ(復活)がどのように起こったかを語ってくれません。わたしたちは死者の中から復活したイエスがどのような姿だったのか知りません。栄光の内に墓を打ち破ったのか?ラザロのようにゆっくりと身体を巻いた亜麻布を取り、周囲をそっと不思議そうに見回しながら、イースターの朝のエルサレムの園へと出てきたのか?わたしたちは知る由もありません。
言葉を探す
復活を表す言葉はどのようにして見つけるのでしょうか?死と地獄の征服を、そしてわたしたちを神の生命に加える清めを、どのように表現できるのでしょうか。
そこには何の言葉もありません。 … 不適切な言葉…比喩、イメージの繰り返し、表象に過ぎない言葉…それらは、言葉を超える神秘にわたしたちを踏み迷わせるだけです。
わたしは、4年間聖なる都エルサレムに暮らし、カルワリオの丘と聖墳墓のあった場所に建てられた教会の遺跡を何百回も訪れました。そこはキリスト者にとっての真の聖地であり、そこを訪れて感動しなかったことは一度もありませんでした。その古い建物は、実に、わたしたち自身の生と、心と、教会を表す小宇宙です。
暗く、薄汚れて、混沌とした聖墳墓教会の真ん中に、イエスの墓、復活したキリストにささげられた聖堂があります。しかし、イエスはそこにはいません。その墓の周囲は、 2000 年にわたる恐るべき人間的腐敗の(歴史の)残骸に囲まれています。それにもかかわらず、そこはキリスト者にとっての最も重要な聖堂であり聖地なのです。キリストは、死者の中から復活したのです!
カルワリオの丘に、そして聖地の至る所に、腐敗がはびこっているように思えます。しかし、神は勝利するでしょう。何故なら、カルワリオの丘から 70 フィートのところに空の墓があるからです。
そして、その教会について、別の驚くべき真実があり、その教会が記念する「時」があります。それは、わたしたち一人一人は皆、自分の中に復活したキリストに捧げる聖堂を持っています。その聖堂は、イエスに対する、そしてイエスだけに捧げる、わたしたちの愛の初穂です。
イエス・キリストは死者の中から復活しました。わたしたちは、本当に光の子、生ける御方の子として生きているでしょうか。イエスの復活は、最後には神が勝つというしるしです。
聖墳墓教会の中に満ちている全ての混沌のただ中で、わたしは、次のような発見をしました。教会の一隅で、見るからに互いにいがみ合っている宗教巡礼グループに混じって、ゆっくり時間をかけて跪いていると、騒ぐ心が静まり、しばしば不思議な平和、深い喜び、慰めを味わったのです。それは、神の御子、わたしたちの救い主である人物の復活の故です。復活した主の現存を識別し、感知し、発見する唯一の方法は、教会と世界の混沌のただ中に跪くことです。
イエスの、死に対する勝利は、教会で行われている司牧生活、秘跡生活と、世界における使命に属することです。教会は、イエスを復活した主と認めることのできる人々の共同体です。教会には、復活の主を識別する特別な能力が備わっています。わたしたちがイエスとの対話を続ける限り、わたしたちの闇は夜明けに変わるでしょう。そして、わたしたちは、証しする「能力を持つ者」になるのです。能力主義に傾きすぎる時代にあって、わたしたちは、いつのときも復活を識別する能力を大切にすべきでしょう。
復活とは何でしょうか?ベネディクト 16 世は著書の「ナザレのイエス」の中で、それをうまく説明しています。
「それ(復活)は、神の神秘の一部です。その神秘とは、神が穏やかに働いて、人類の偉大な歴史の中にご自分の歴史を少しずつゆっくりと作りあげる神秘。神が人間となられ、それ故に同時代の人々や歴史の決定的な力によって見過ごされたという神秘。彼が苦しんで死に、再びよみがえり、ご自分を現した弟子たちの信仰によってのみわたしたちのもとに来ることを選んだ神秘。そして、神がわたしたちの心の扉を叩き続け、わたしたちが扉を開けば、ゆっくりとわたしたちの目を開いてくださるという神秘です。」
「しかしながら、これが本当の神のやり方ではないでしょうか?外的な力で圧倒するのでなく、自由を与えたうえで、愛を提供し、そして引き出すというやり方です。そして、もしもわたしたちが、そのことを本当に考えるなら、小さく思えることが、本当は偉大なことなのではないでしょうか?」 (p,276)
聖書朗読
使徒言行録 10:34a, 37-43 : (その日)ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 10:37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 10:38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 10:39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 10:40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 10:41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 10:42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
コロサイ 3:1-4 : さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
ヨハネ 20:1-9 : 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
JESUS' RESURRECTION LEFT A FOOTPRINT WITHIN HISTORY
Biblical Reflection for Easter Sunday, Year A By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, APRIL 19, 2011 ( Zenit.org ) .-
In reading the Resurrection chapters of the four Gospels, the differences between the accounts are very obvious.
Not one of the evangelists recounts the actual Resurrection. It is an event that is taking place within the mystery of God between Jesus and the Father; by its very nature, the resurrection event lies outside human experience.
What lessons can we learn about the Resurrection from each of the Gospel accounts, particularly from Matthew's story that we hear proclaimed today?
Mark's call to the cross
In the earliest Gospel account in Mark's Gospel ( Chapter 16 ) , the last scene is a startling one ... for the story ends with "[The women] came out and fled from the tomb, for they were possessed by fear and trembling, and they said nothing to anyone" ( 16:8 ) .
The most striking aspect of Mark's ending is that we never encounter the Risen Lord. Instead, we see an awe-inspiring, almost eerie scene.
In the darkness of early morning, the women arrive at the tomb to accomplish a nearly impossible task. These women are the only ones who follow Jesus to the foot of the cross and to the tomb. They find the tomb opened and empty, and are greeted by a heavenly figure who gives them a commission: "Go and tell his disciples and Peter that he goes before you into Galilee; there you will see him as he told you" ( 16:7 ) .
Mark's Resurrection account is meant to disturb the Christian reader; to undo the ease that makes one forget that the call to discipleship is the call to the cross. Readers of Mark's account are invited to view their lives in the shadow of the cross.
Matthew's living Christ
Matthew tells the story of the resurrection in four scenes: the women's experience at the tomb ( 28:1-7 ) ; their short encounter with the risen Lord ( 28:8-10 ) ; the Jewish leaders' attempt to suppress the story ( 28:11-15 ) ; the appearance to the disciples in Galilee ( 28:16-20 ) . The final scene, ending with the Great Commission ( 28:19-20 ) , stands on its own as a programmatic conclusion to the entire Gospel.
The women present in Matthew's Resurrection chapter do not witness the Resurrection. They do experience the earthquake, the appearance of the angel, and the emptiness of the tomb -- all of which are signs or traces of divine activity that has brought these things about.
Matthew literally makes Jesus present in the last scene of the Gospel on the mountain where Jesus had directed the disciples to go ( 28:16-20 ) . At the end of the Gospel, he points us back to the first programmatic sermon of Jesus on the mountain in Galilee ( 5:1-7:21 ) .
Matthew's meek and humble Jesus is the teacher as well as the example of meekness and humility. In revising Mark's Gospel, Matthew deliberately completes the picture of Jesus and of the Christian life.
The bleak image and invitation of the cross and the dead Jesus are filled out with a living and present Jesus, whose words, reflected upon the Scriptures of Israel, offer a consoling and learnable "way" for those disciples willing to learn. Matthew issues the call to learn of the meek and humble Jesus.
Luke's symphony
The Easter chapter of Luke's Gospel ( 24 ) , like a beautiful symphony, presents us with a biblically oriented pastoral practice and distinct way of Christian living. In the first movement ( 25:1-12 ) , God alone breaks open a helpless situation. In the second movement of the marvelous story of Jesus and the disciples on the road to Emmaus ( 25:13-35 ) , God, in the person of Jesus, accompanies people on their journeys through despair. The stories of the third movement ( 25:36-53 ) lead people into an experience of community.
John's Risen Lord
John tells of appearances of the Risen Lord in both Jerusalem and Galilee. The resurrection stories of the fourth Gospel are a series of encounters between Jesus and his followers that reveal diverse faith reactions.
Whether these encounters are with Simon Peter and the Beloved Disciple, Mary Magdalene, the disciples or Thomas, the whole scenario reminds us that in the range of belief there are different degrees of readiness and different factors that cause people to come to faith.
A new dimension of existence
Benedict XVI writes about "The Nature of Jesus' Resurrection and Its Historical Significance" in "Jesus of Nazareth Part 2: Holy Week -- From the Entrance Into Jerusalem to the Resurrection" ( Ignatius Press, 2011 ) .
I would like to highlight several points made by the Pope in this masterful text: "Jesus did not simply return to normal biological life as one who, by the laws of biology, would eventually have to die again. [...]
"Jesus is not a ghost ( 'spirit' ) . In other words, he does not belong to the realm of the dead but is somehow able to reveal himself in the realm of the living. [...]
"The encounters with the Risen Lord are not the same as mystical experiences, in which the human spirit is momentarily drawn aloft out of itself and perceives the realm of the divine and eternal, only to return then to the normal horizon of its existence. Mystical experience is a temporary removal of the soul's spatial and cognitive limitations" ( pp. 272-273 ) .
Benedict XVI continues: "[The resurrection] is a historical event that nevertheless bursts open the dimensions of history and transcends it. Perhaps we may draw upon analogical language here, inadequate in many ways, yet still able to open up a path toward understanding: as already anticipated in the first section of this chapter, we could regard the Resurrection as something akin to a radical 'evolutionary leap,' in which a new dimension of life emerges, a new dimension of human existence" ( p. 273 ) .
He added: "As something that breaks out of history and transcends it, the Resurrection nevertheless has its origin within history and up to a certain point still belongs there.
Perhaps we could put it this way: Jesus' Resurrection points beyond history but has left a footprint within history. Therefore it can be attested by witnesses as an event of an entirely new kind" ( p. 275 ) .
Fathoming a mystery
In our highly technological world, the reality of the Resurrection becomes increasingly difficult to fathom. So many spend their lives explaining it away rather than probing the depths of its mystery. And they try to do this alone, separated from a believing community of Christians, locked in the prison of self and of ideas, frozen before a computer screen as they try to fathom what happened on Easter morning.
Some people state quite frankly that the whole story is simply out of date. But the Resurrection is not a matter of the head, of theory and ideas, but a matter of the heart that can only be experienced and learned through a community's worship and liturgy. To be fully experienced and grasped, the Resurrection requires an environment of hauntingly beautiful music, of smoke and incense, bread and wine, murmurs of greeting and shouts of joy, dazzling colors and most of all, three-dimensional bodies of real people, even those who aren't necessarily "regulars" of our parish communities, who gather together every year to hear the Easter proclamation.
One doesn't sit at a computer and tap out "Jesus is risen." It has to be performed and enacted. If the Resurrection were meant to be a historically verifiable occurrence, God wouldn't have performed it in the dark without eyewitnesses. The Resurrection was an event transacted between God the Father and God the Son by the power of God the Holy Spirit.
Not a single Gospel tells us how it happened. We don't know what he looked like when he was no longer dead, whether he burst the tomb in glory or came out like Lazarus, slowly unwrapping his shroud and squinting with wonder against the dawn of Easter morning in a garden in Jerusalem.
Finding the words
How shall we find words for the Resurrection? How can we give expression to the conquest of death and the harrowing of hell and the washing that has joined us to God's life? There are no words -- there are only the wrong words -- metaphors, chains of images, verbal icons -- that invite us into a mystery beyond words.
For four years I lived in the Holy City of Jerusalem and hundreds of times I visited the remains of the Church building that houses the place of Calvary and the Holy Sepulcher.
It is truly holy ground for Christians, and being there never failed once to move me. That old building is truly a microcosm of our own lives, our hearts and our Church.
In the midst of the dark, dirty and chaotic Holy Sepulcher Basilica is the tomb of Jesus, a shrine to the risen Christ. But he is not there. All around that tomb are the remnants of 2,000 years of dreadfully human corruption. Nevertheless, it is the most important shrine and holy place for Christians. Christ is risen from the dead!
At Calvary, and elsewhere in the Holy Land, corruption seems so rampant ... but God shall be victorious, because 70 feet away from Calvary there is a tomb that is empty.
And there is also another startling truth about that Church and the moments that it commemorates: Every single one of us has within us a shrine to the Risen Christ. That shrine is our first love for him, and him alone.
Jesus Christ is risen from the dead. Do we truly live as children of the light, of the Living One? The Resurrection of Jesus is the sign that God is ultimately going to win.
In the midst of all the chaos found in the Holy Sepulcher building, I found that if I knelt long enough in some corner of the Church amidst religious groups seemingly at war with each other, disquiet disappeared and I often experienced a strange peace and deep joy and consolation because of the resurrection of the man who was God's Son and our Savior. The only way to discern, detect and discover the presence of the Risen Lord is on one's knees, in the midst of the chaos of the Church and the world.
Jesus' victory over death belongs to the Church's ongoing pastoral and sacramental life and its mission to the world. The Church is the community of those who have the competence to recognize Jesus as the Risen Lord. It specializes in discerning the Risen One. As long as we remain in dialogue with Jesus, our darkness will give way to dawn, and we will become "competent" for witness. In an age that places so much weight on competency, we would do well to focus every now and then on our competence to discern the Resurrection.
What is the Resurrection? Benedict XVI explains it so well in "Jesus of Nazareth": "It is part of the mystery of God that he acts so gently, that he only gradually builds up his history within the great history of mankind; that he becomes man and so can be overlooked by his contemporaries and by the decisive forces within history; that he suffers and dies and that, having risen again, he chooses to come to mankind only through the faith of the disciples to whom he reveals himself; that he continues to knock gently at the doors of our hearts and slowly opens our eyes if we open our doors to him.
"And yet -- is not this the truly divine way? Not to overwhelm with external power, but to give freedom, to offer and elicit love. And if we really think about it, is it not what seems so small that is truly great?" ( p. 276 ) .
Basilian Father Thomas Rosica, chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada, is a consultor to the Pontifical Council for Social Communications. He can be reached at: rosica@saltandlighttv.org.