イエスにおいて、メディアはメッセージそのもの
主の降誕(日中のミサ) ( A 年) 聖書黙想 2010/12/25 トマス・ロシカ師
わたしたちは毎年、クリスマスのメッセージを聴くたびに、胸を打たれ、あれこれと想像をかきたてられます。聖なる三位一体の第二のペルソナ、父の独り子、永遠のみ言葉であるわたしたちの創り主は、自らに人性をまとって人となり、わたしたちの兄弟、わたしたちの一人となることを望まれます!
神ご自身が、完全な人間として、また完全な神として、飼い葉桶に身を横たえるのです。これが、荘厳なる現実です。
神の語りかけ
主の降誕(日中のミサ)の第二朗読 ( ヘブライ 1:1-6 ) の冒頭は、御子の中に示された、神の人類への啓示の頂点を振り返ります。神の語りかけは旧約聖書の時代に始まり、預言者を通して断片的に、さまざまな方形で続けられてきました。しかし、最後の日々―「この終わりの時代」(ヘブライ 1:2 )には、救いを目ざす神の啓示は、御子、すなわち神の独り子を通して達成されます。その幼子の役割は創造の贖い手、仲介者です。御子は死によって栄光の座に揚げられ、万物の相続人となりましたが、人となる前に既に存在しておられたのです。神は御子を通して宇宙を創造されました。かつて辱められ十字架につけられたイエスは、神の御子と呼ばれ、その御名は天使に優ることを示しています。
わたしたちの中にある神の幕屋
ヨハネ福音書のプロローグは、いのち、光、真理、世界、証し、そしてイエス・キリストの「先在」、父である神を啓示するロゴス(ことば)の受肉という、この第四福音書の主要テーマを語ります。
このプロローグの原型は、多分初代キリスト者の讃歌だったのでしょう。その他、 これに最も近いものには、コロサイの信徒への手紙 1 : 15-20 、 フィリピの信徒への手紙 2 : 6-11 のキリスト賛歌があります。その核心は、「階段型並行」でつながれた短い節からなる詩のような構造を持ち、一つの節の最後の言葉が、次の節の最初の言葉になっています。
「初めに」という言葉は、旧約聖書の最初に出てくる言葉を想起させます。(創世記 1:1 ) 御言葉(ギリシャ語の logos )は、神のダイナミックで創造的な言葉(創世記)と、神の創造活動の道具としてペルソナを与えられ初めから存在する「知恵」(箴言)、それに、この世の現実の究極的な知的理解(ヘレニズム哲学)とを結びつけます。
(ヨハネ福音書の)プロローグは、次のような言葉でクライマックスに達します。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」( 14 節) (ギリシャ語直訳: わたしたちの間に幕屋を築かれた。)
すなわち、神がわたしたちの間に仮住まいをされるということです。この神の現存は、無償の愛から生まれます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(ヨハネの手紙一 4:9 ) 御言葉は、わたしたちが言葉に出来るような単純なメッセージではありません。イエスにおいて、メッセージとその伝達手段は一体となります。イエスにおいて、伝達媒体(メディア)は、メッセージそのものになります。
想像を超えた新しさ
「教会生活と宣教における神のみことば」をテーマとした、世界代表司教会議第 12 回通常総会 (シノドス: 2008 年 10 月)を受けて出された使徒的勧告「神のみことば( Verbum Domini )」 の #11 で、 ベネディクト 16 世 はこのように書きます:
「わたしたちは、先例のない、人間的に想像もつかない新しさについて語っています。 『 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 』( ヨハネ 1:14a ) この言葉は修辞的表現ではなく、生きた体験を示します。目撃証人のヨハネは、『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』 ( ヨハネ 1:14b ) と語ります。この使徒的信仰は、永遠の御言葉がわたしたちの一人となられたことを証しします。神の御言葉は、人間の言葉で本当に表現されます。」
神は遠くから愛するのではない
クリスマスのメッセージは、わたしたちの間に新たな神の現存を告げます、毎日の生活の中で、わたしたちは、互いに心を通わせる人々との個人的な関係を求めます。友情や愛を遠ざけた生活は想像できません。写真や記憶、手紙、 e メール、 text message 、電話では十分ではありません。わたしたちは、自分の心を充たしてくれ、自分を心にとどめてくれる人が居たらいいなと思っています。わたしたちは神の心の中に生きており、クリスマスには、わたしたち一人ひとりを無限に心にかけてくださる神の子が、目に見える姿で来られます。神は遠くから愛することを望まれなかったのです。
聖体の一つ一つは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ( ヨハネ 3:16 ) と宣言します。キリストの生き方は他者に向けられているので、カトリック教会もこの生き方を世界と分かち合うべきです。キリストの生き方は教会への賜物であり、それは教会の賜物が世界へ向けられるべきことを意味しています。わたしたちは聖体の内にキリストのいのちを受けるだけではありません。この最も貴い賜物を見つめながら、三位一体の神を礼拝し、讃え、心を高めるのです。
神の手段
御言葉は、 e メールや SMS や text message を通すようなものではなく 、あるいは遥か昔に遠い天国で語られた神のお告げのようなものでもありません。御言葉はマリアを通して人となられ、その幕屋をわたしたちの間に築いたのです。御言葉は、現実の世界で生身の人間に近づきました。受肉(托身)の不思議と神秘によって、御言葉は、哲学、思想、概念のように、議論したり解釈したり思案したりする対象にはなりませんでした。そうではなく、御言葉は、それに従い、楽しみ、愛すべきペルソナになりました。わたしたちの贖い(あがない)はベツレヘムの幼子の中にあるのです!
訳注:* SMS ( Short Message Service )、 Text message : いずれも、ネットを通じて交わされる短い文章のやりとり。
神のコミュニケーションの手段は、人間としてのペルソナであり、クリスマス(ご降誕)は、神とわたしたちがまったく新しい交わりに入るということです。
(インターネットのような)仮想空間の中での友人関係は、現実の友人関係と全く違います。真の友人関係は、互いに心を開くことに始まり、プライバシーと礼節を守ることによって花開きます。インターネット上の友情や人間関係が持つ距離感と非現実性とは、わたしたちがこの新しい現実に、賢く、慎重に、注意深く対応しなければならないことを教えています。さもないと、わたしたちの文化の中から、総体的に感受性が失われてしまう恐れがあります。インターネット化の浸透と共に、孤独を訴える人が増えているという報告があります。 SNS 化(社会的インターネット化)の増大現象から、ある疑問が浮かびます。それはわたしたちにとって何の役に立っているのか? それはわたしたちに何をしているのか? わたしたちの、周囲の世界に対する感覚にどんな影響を与えているのか? 自分個人に対する感覚は? 友情に対する感覚は? わたしたちは(ネット上に)全てをさらけ出していますが、そこから何かを感じ取っているのでしょうか?
フェイスブック と ツイッター の時代の大きなチャレンジは、テクノロジーの表面的性格に惑わされずに、イエスの深いメッセージと教会の教えを伝えることにあります。すべてをテキストファイルや e メールに依存することは、社会全体として、共に暮らしたり共同体をつくったりするために必要な、個人間のコミュニケーションを構築する能力の一部を失いつつあることを意味します。福音宣教と大衆教育にメディアを用いるときに、わたしたちが決して忘れてはならないことは、一人ひとりに接触し教えるとき、あたかも、その人だけに向って語りかけているという姿勢を失わないことです。
人間であることの不思議
クリスマスに当たり、使徒的勧告「神のみことば( Verbum Domini )」 の ベネディクト 16 世 の言葉を想起しましょう。
訳注:エニグマ ( enigma ) とは、西洋語で「謎」、「なぞなぞ」、「パズル」等を意味する。古代ギリシア語の ainigma (「謎めいた言葉」「なぞなぞ」などの意)がラテン語を経て転訛したもの。
「もしも、神がわたしたちとの愛の一致に入るという事実の前で立ち止まるだけならば、ヨハネのプロローグのメッセージを十分に理解することは出来ないでしょう。現実に、「万物は言によって成」り ( ヨハネ 1:3 ) 、「言は肉とな」る ( ヨハネ 1:14 ) にしても、神の御言葉は、「初めにあったことば」 ( ヨハネ 1:1 ) と同じ御言葉なのです。この御言葉が創世記の冒頭の言葉 ( cf. 創世記 1:1 )の引喩 であることを悟るならば、わたしたちは、自分が、神の内面的ないのちについて語りかける、絶対的な「始まり」に直面していることに気付くのです。
「ヨハネ福音書のプロローグは、このロゴス(言)が真に永遠であり、かつ神ご自身が永遠であることをわたしたちに悟らせます。神は常にロゴスと共におられました。御言葉は創造の前に存在します。従って、神のいのちの中心には霊の交わりがあり、絶対の賜物があります。使徒ヨハネが他の場所でも語っているように、彼が「神は愛です」 ( 1 ヨハネ 4:16 ) と記すとき、それは、『キリスト者の神のイメージと、その結果としての、人間とその宿命のイメージ』を指し示します。神はご自分を、無限の愛の神秘としてわたしたちに示し、その愛の中で御父は、御言葉を、聖霊を通して永遠に告げられるのです。その結果、初めから神と共に在り、神そのものである御言葉は、神ご自身を(三位一体の)神のペルソナ間の愛の対話の中に啓示され、その愛を分かち合うようにわたしたちを招いておられます。
愛である神のイメージと似姿に創造されたわたしたちは、御言葉を受け入れ、聖霊の業に従うことによってのみ、自分自身を理解することができます。神の御言葉が告げる啓示の光の中に、人間の条件の不思議(エニグマ)が決定的に明らかにされます。」 (「神のみことば」 No. 6 )
聖書朗読
イザヤ 52:7-10 : 52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。 52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 52:10 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。
Hebrews 1:1-6 : 1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 1:4 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 1:5 いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。
1:6 更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。
ヨハネ 1:1-18 : 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しを するため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 1:8 彼は光ではなく、光について証しを するために来た。 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
[ または John 1:1-5, 9-14 :(上記の一部) ]
In Jesus, the Medium Is Indeed the Message
Biblical Reflection for Christmas Day Mass, Year A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 21, 2010 ( Zenit.org ) .-
The message of Christmas takes our breath away every year and continues to stagger the imagination: the Second Person of the Blessed Trinity, the only begotten Son of the Father, the eternal Word, our Creator, wills to clothe himself in our nature, and to become man, our brother, one of us! God himself lies in the manger, completely human, completely divine. It is an awesome reality!
The second reading for Christmas Mass during the day ( Hebrews 1:1-6 ) opens with a reflection on the climax of God's revelation to the human race in his Son. The divine communication was initiated and maintained during Old Testament times in fragmentary and varied ways through the prophets. But now in these last days ( v. 2 ) the final age, God's revelation of his saving purpose is achieved through a son, i.e., one who is Son, whose role is redeemer and mediator of creation. He was made heir of all things through his death and exaltation to glory, yet he existed before he appeared as man; through him God created the universe. The once-humiliated and crucified Jesus has been declared God's Son, and this name shows his superiority to the angels.
Divine camping in our midst
John's Prologue ( 1:1-18 ) states the main themes of the fourth gospel: life, light, truth, the world, testimony, and the preexistence of Jesus Christ, the incarnate Logos, who reveals God the Father.
In origin, the Prologue was probably an early Christian hymn. Its closest parallel is in other Christological hymns, Colossians 1:15-20 and Philippians 2:6-11. It's core is poetic in structure, with short phrases linked by "staircase parallelism," in which the last word of one phrase becomes the first word of the next.
"In the beginning" evokes the first words of the Old Testament ( Genesis 1:1 ) . The Word ( Greek logos ) combines God's dynamic, creative word ( Genesis ) , personified pre-existent Wisdom as the instrument of God's creative activity ( Proverbs ) , and the ultimate intelligibility of reality ( Hellenistic philosophy ) .
The prologue climaxes with the announcement: "The Word became flesh and dwelt among us" ( v. 14 ) ( in Greek literally: pitched his tent among us ) . It's a form of divine camping in our midst! This presence came about through the free love of God: "In this way the love of God was made manifest among us, that God sent his only Son into the world that we might live through him" ( 1 John 4:9 ) . The Word is not simply a message that we can put into words. In Jesus, the message and the messenger are united. The medium is indeed the message!
Inconceivable novelty
In his apostolic exhortation "Verbum Domini", that followed the 2008 Synod on the Word of God in the Life and Mission of the Church, Benedict XVI writes in #11:
"We are speaking of an unprecedented and humanly inconceivable novelty: 'the word became flesh and dwelt among us' ( John 1:14a ) . These words are no figure of speech; they point to a lived experience! St. John, an eyewitness, tells us so: 'We have beheld his glory, glory as of the only Son from the Father, full of grace and truth' ( 1:14b ) . The apostolic faith testifies that the eternal Word became one of us. The divine Word is truly expressed in human words."
God does not love at a distance
The Christmas message announces a new divine presence among us. Each day of our lives we seek the personal presence of those whom we care for and who care about us. We cannot imagine leaving friendship and love at a distance. Photographs, memories, letters, e-mails, text messages and phone calls are not enough. We want to enjoy the personal presence of those who fill our minds and let us live in their hearts. We live in God's heart, and Christmas visibly brought among us the Son of God who cares infinitely for each of us. God did not want to live that love at a distance.
Every Eucharist proclaims, "God so loved the world that He gave His only Son, so that everyone who believes in Him may not perish but may have eternal life" ( John 3:16 ) . Because the life of Christ is oriented toward others, the Church must share this life with the world. The Life of Christ is his gift to the Church that is meant to be the Church's gift to the world. In the Eucharist we don't only receive the life of Christ. Beholding this most precious gift, we are moved as well to worship and adore the Triune God.
God's Platform
The Word did not become an e-mail, an SMS or text message, or some kind of divine oracle uttered from some distant heaven long ago. Through Mary, the Word became flesh and pitched his tent among us. The Word became close to real people in real time. Through the wonder and mystery of the Incarnation, the Word did not become a philosophy, a theory, or a concept to be discussed, debated, exegeted or pondered. But the Word became a person to be followed, enjoyed and loved! Our redemption is found in the Child of Bethlehem.
God's communication platform is the human person and Christmas inaugurates a completely new kind of real friendship with God.
Friendship in virtual spaces is quite different from real time friendship. True friendship depends on mutual revelations, and can only flourish within the boundaries of privacy and modesty. The distance and abstraction of our online friendships and online relationships can lead to a kind of systemic desensitization as a culture if we are not wise, prudent and attentive to these new realities. Along with the increase in online networking, there are increasing levels of reported loneliness. Certain questions arise from the phenomenon of Social Networking. What is it doing for us? What is it doing to us? What is it doing to our sense of social boundaries? To our sense of individuality? To our friendships? We expose everything, but are we feeling anything?
訳注: A social network service is an online service, platform, or site that focuses on building and reflecting of social networks or social relations among people, e.g., who share interests and/or activities. It essentially consists of a representation of each user ( often a profile ) , his/her social links, and a variety of additional services. Most social network services are web based and provide means for users to interact over the internet, such as e-mail and instant messaging. Although online community services are sometimes considered as a social network service. In a broader sense, social network service usually means an individual-centered service whereas online community services are group-centered. Social networking sites allow users to share ideas, activities, events, and interests within their individual networks.
The great challenge in the era of Facebook and Twitter consists in presenting the profound message of Jesus and the teaching of the Church without being sidetracked by technology's superficial aspects.
An almost exclusive use of text and emails means that as a society we're losing some of the ability to build interpersonal communication that's necessary for living together and building a community.
In using the media to evangelize and teach the masses, we must never lose sight of the need to reach and teach the individual as though he or she were the only person being addressed.
Enigma of the human condition
At Christmas, let us recall the words of Benedict XVI in his apostolic exhortation "Verbum Domini":
"Yet we would not yet sufficiently grasp the message of the Prologue of St. John if we stopped at the fact that God enters into loving communion with us. In reality, the Word of God, through whom 'all things were made' ( John 1:3 ) and who 'became flesh' ( John 1:14 ) , is the same Word who is 'in the beginning' ( John 1:1 ) . If we realize that this is an allusion to the beginning of the book of Genesis ( cf. Genesis 1:1 ) , we find ourselves faced with a beginning which is absolute and which speaks to us of the inner life of God.
"The Johannine Prologue makes us realize that the Logos is truly eternal, and from eternity is himself God. God was never without his Logos. The Word exists before creation. Consequently at the heart of the divine life there is communion, there is absolute gift. 'God is love' ( 1 John 4:16 ) , as the same Apostle tells us elsewhere, thus pointing to 'the Christian image of God and the resulting image of mankind and its destiny.' God makes himself known to us as a mystery of infinite love in which the Father eternally utters his Word in the Holy Spirit. Consequently the Word, who from the beginning is with God and is God, reveals God himself in the dialogue of love between the divine persons, and invites us to share in that love.
Created in the image and likeness of the God who is love, we can thus understand ourselves only in accepting the Word and in docility to the work of the Holy Spirit. In the light of the revelation made by God's Word, the enigma of the human condition is definitively clarified" ( "Verbum Domini," No. 6 ) .