カンタラメッサ師 アドベント説教 @

聖パウロ : キリスト者の回心のモデル

注 下記の訳文は「学び合いの会」有志による試訳です。

VATICAN CITY, 2008/12/5 ( Zenit.org ) これは、 12 月 5 日にバチカンで、教皇とバチカン職員に話されたカンタラメッサ師の待降節の説教です。 これは、 3 回ある 待降節説教の第 1 回で、そのテーマは『時が満ち、神は、その御子を送られた、御子は女性からお生まれになった。 : やがて来られるキリストに会うために、聖パウロと共に歩みましょう。』です。 次の説教は 12 月 12 日と 19 日の各金曜に予定されています。

* * *


「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」

( フィリピ 3:7)

 

パウロの回心:真のクリスチャン的回心のモデル
パウロ年はこの教会の大きな恵みですが、それは同時に危険も伴います。 パウロについて、その人物像や教義の省察に留まったまま、次のキリストへのステップを忘れる、という危険です。教皇は、このリスクについて、パウロ年宣言の説教の中で警告しました。  7 月 2 日、パウロ年を宣言された通常謁見で、教皇は「パウロ年の目的は、パウロから学ぶこと、信仰を学ぶこと、キリストについて学ぶことです。」と述べました。 キリスト教の創始者はキリストではなく、パウロだとするおかしな主張の存在を許すという点で、このような危険は過去に何度もありました。 イエス・キリストとパウロの関係は、ソクラテスとプラトンとの関係と同じです。 自分の考えを別の名前のもとに表す(代弁者の)関係です。

洗礼者ヨハネに倣って、パウロは「彼よりも偉大な」御方を指し示す存在ですが、彼自身は自分が使徒の名にふさわしいと考えていません。 先に示した(おかしな)主張は、使徒パウロに対する完全な曲解であり、ひどい侮辱です。 もし、パウロがこの世に帰ってきたら、コリント人の類似の誤解に対して「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」(1コリント 1:13 )と言ったのと同じ激しさでその主張に反論するでしょう。

信者にとってさらに克服すべきもう一つの障害は、パウロのキリストに対する愛と熱意を理解せずに、彼が説くキリストの教えを判断することです。 パウロは、信者にとって照らすばかりで 温もりのない 冬の太陽 で終わる気持ちはありません。  パウロの手紙の明らかな意向は、読み手に知識を与えるだけではなく、キリストへの愛と熱情に導こうとするものです。 この目的のために、今年 2008 年の待降節に、わたしは三回の黙想 のための説教をしたいと思います。  先ず今日、 12 月 5 日は、キリストの死と復活の後、キリスト教の将来に一番大きな影響を与えた出来事であるパウロの回心を黙想します。

•  内側から見たパウロの回心

パウロの回心についての最良の説明は、洗礼について彼自身が与える説明です。 「キリストの死にあずかるため」・・・「キリストと共に葬られ」、キリストと共に復活して「新しい命に生きる」・・・。 

•  「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6 : 3‐4 ) 
 

パウロは、キリストの過越の神秘(復活)を自分自身の中に追体験し、彼の思想のすべてはその神秘をめぐって展開するのです。 印象的な外面的類似も見られます。 イエスは、地下の墓に3日間留まりました: サウロも3日間、死んだようになっていました。 彼は見ることも、立つことも、食べることも、出来ませんでした。(使徒 9:9 ) そして洗礼の瞬間、彼の目は再び開き、食べることができ、元気を取り戻しました: 彼は、生き返ったのでした。 

•  「すると、たちまち目から うろこ のようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」 ( 使徒  9:18‐19 ) 

イエスは、受洗直後に荒れ野に退きましたが、パウロもアナニアから洗礼を受けたあと、同じように、ダマスコ近くのアラビアの砂漠に向いました。

聖書釈義は、パウロの生涯において、ダマスコ途上の出来事と会堂での宣教開始(使徒 9: 19 と 20 )との間に、約10年間の沈黙の期間があったと推定します。 ユダヤ人たちの中には彼を殺そうと狙う者がいました。 またクリスチャンは彼を信用せず、恐れていました。 彼の回心は、ニューマン枢機卿のそれを思い出させます。 聖公会の以前の兄弟たちはニューマンを背教者と考え、またカトリック信者は疑いを以って彼を見ました。 それは、彼の新しく熱烈な考えのためでした。 使徒パウロには、長い修練期間がありました。 彼の回心は、数分間のものではありませんでした。 そして、パウロがのちに世に向かって爆発させるエネルギーと光が蓄積されたのは、このケノシス(謙虚さ)、この喪失と静寂の時においてでした。

パウロの回心の記述は二つあります。 一つは、 いわば外部から、歴史的側面から、この出来事を記述したもので、もう一つは、パウロの内面から、心理的、自叙伝的側面から記述したものです。  前者は、使徒言行録の、今までに読んだ 3 つの関連箇所の中に見出すものです。 パウロ自身が、ガラテア書の 1 章 13 − 24 節に自身の出来事を引用して、どのように自分が迫害者からキリストの使徒になったかを説明しているのもそのひとつです。 後者は、フィリピ書の第 3 章です。 この中でパウロは、キリストとの出会いが彼にとって個人的にどんな意味を持つのか、それ以前の自分はどんなで、以後はどう変わったかを記しています。 言い換えれば、彼の生き方の変化は、実存的に、また宗教的に見て何であったのか、ということです。 わたしたちは、アウグスチヌスの著作を念頭において、「パウロの告白」とも呼べる彼のテキストに注目しましょう。 全ての変化には、 "terminus a quo" (出発点) と "terminus ad quem" (到達点)があります。 使徒パウロは、先ず「出発点」について述べます。最初に来るもののことです : 「 ( とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。 )  だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。 律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」 ( フィリピ 3:4-6)

わたしたちはこのパウロの言葉を誤解しがちです:  ( パウロが自分について語る ) これらの言葉は、否定的表現ではなく、その時代の聖性の最も偉大な表現なのです。 もしも当時、列聖制度があったならば、この言葉を以って、パウロの列聖のプロセスがただちに開始されたはずです。 今日的表現で言うなら: 「生まれて 8 日目に洗礼を受け、救いの最高機関であるカトリック教会に属し、教会の中の最も厳格な会(ファリサイ派は正にそれでした!)のメンバーであり、教会法と諸規則の遵法者、・・・」ということになります。 実のところ、(前出のパウロの言葉に続く)文章の最初に、手紙の内容についても、パウロの生き方についても、二つに分断するポイントがあります。それは、反語である 「しかし」 という言葉です。 この言葉が、全体の(前後の)コントラストをつくり出しています。 「 しかし 、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ 3:7-8 )

この短いテキストの中に、キリストの名が、3回も現れます。 キリストとの出会いは、彼の生き方を二分し、それ以前と以後 とに分断しました。 非常に個人的な出会い、(それは、パウロが、「 わたしたち の主」ではなく、「 わたし の主」と、単数を用いた唯一の文章です) そして、精神的な出会いというよりは、実存的な出会いです。 「サウロは 地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』 と呼びかける声を聞いた。 『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒 9:4 ) という、この短い対話の中に起きたものの深さをだれも知ることはできないでしょう。 パウロはそれを「啓示」として述べます。(ガラテア 1:15-16)  それは火の融合、光のビーム、のようなものでした。 2000年の年月を経た今日でも、それは世を照らしているのです。

2 .心の変化 

ここで、この出来事の中身を分析してみようと思います。 先ず、心、考え方の変化、文字通りには、メタノイア・回心についてです。 それまで、パウロは自分が自分自身を救えると信じ、律法と父祖伝来の伝統を誠実に守り、神の前に自分は正しいと信じてきました。 しかし、今や彼は、救いは律法の遵守とは別の道で得られることが分かりました。 わたしは見出されたい、と彼はいいます。 「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:8-9 ) イエスは、彼自身に、信仰を通して、恵みにより神に義とされる体験をさせました。 それは、パウロが後に、教会全体に公言することになる体験でした。(ガラテア 2:15-16; ロマ 3:21 )

 

フィリピ書の第 3 章を朗読するとき、心に浮かぶイメージがあります: 夜、ろうそくの光を頼りに、深い森を、ある人が歩いています。 彼は、そのともし火が消えないように気をつけて歩いています。 歩いて、歩いて、夜明けがきて、朝日が出て、ろうそくの光の明るさは弱々しく、もう役に立たなくなり、彼はそれを捨てます。 煙を立てる灯心は、彼の思う「神の義」でした。 ある日、パウロの生活の中に、神の義の太陽が立ち昇りました。 それは、主キリストでした。 その瞬間から、パウロは、キリスト以外の光を求めなくなりました。

それは、他の人々と合わせるような問題ではなく、ほかならぬキリストのメッセージの核心の問題です。 彼は、それを「彼の福音」として述べ、天使であろうと、彼自身であろうと、異なる福音を語ろうとする者は呪われよ、と述べるほどの激しさでした。 (ガラテア 1:8-9 参照:)

   「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたもの   に反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたよ   うに、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる   者がいれば、呪われるがよい。」 どうしてそれほど激しいのでしょうか? なぜなら、キリスト者の新しさがここにあるからです。 それは他の宗教や、宗教的哲学からキリスト教を区別するものです。 どの宗教も、先ず自分自身を救い「光」を得るために、人がなすべきことや果たすべき義務を語ります。 それに対してキリスト教は、義務から始めるのではなく、人間のために、キリスト・イエスにおいて神がなされたことから語り始めます。 キリスト教は、恵みの宗教なのです。

十戒の義務を果たし、掟を守るのは、大変素晴らしいことですが、それは義務や対価としてではなく、恵みへの応答として、行われるのです。 わたしたちは善行なしには救われませんが、善行によって救われるのではありません。 それは革命的なことです。  2000 年の年月を隔てて、わたしたちが今なお、心に刻むべく努力していることなのです。 宗教改革とその後の信仰の中で行われてきた「神の義」についての神学上の議論は、それ(パウロの信仰)に味方するよりは、しばしば、阻害します。 なぜなら、その議論は、反対派への論駁と、神学的レベルに留まっており、信者が生活の中で(信仰による神の義を)体験する助けにはなっていないからです。

3 .「悔い改めて、福音を信じなさい!」

しかし、ここで非常に重要な問題を自分自身に提起しなければなりません。  それは、このメッセージの発案者はだれか、という問題です。 もし万一それがパウロならば、キリスト教の創始者は、イエスではなく、パウロであるとする人々の説は正しいことになります。 しかし、パウロはその質問の発案者ではありません。 イエスが、イメージとたとえ話を以って、イエスらしい言い方で語ったメッセージを パウロは、もう少し詳しく、普遍的な表現で言い表したに過ぎません。

イエスは、その説教を 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15 )という言葉で始められました。 これらの言葉で、イエスは既に「信仰による神の義」を教えておられました。 イエス以前には、回心することは、(ヘブライ語の shub で示される)「立ち帰る」ことを意味しました。 それは、破られた契約 (the broken Covenent) を、律法をあらためて遵守することで元に戻すことを意味しました。 神は預言者を通して、「わたしに立ち戻れ・・・悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ」(ゼカリア 1:3-4 )「いつまでも背いているのか。」 ( エレミア 8:4-5)  と語られました。 この結果、回心することは、第一に苦行を伴う、倫理的な、悔い改めの意味をもち、回心はその人の生き方をどう変えるかによって影響を受けることになります。 回心は、救いの必要条件と見なされます。 すなわち、「悔い改めなさい、そうすればあなたは救われる。 悔い改めれば、救いはあなたに来る」ということです。 これが、回心という言葉が洗礼者ヨハネの口に上った主な意味です。(ルカ 3:4-6)  

しかし、イエスが回心を口にされるとき、この倫理的な意味は、新しい意味に対して二義的(少なくとも、その宣教の初めにおいて)であり、その新しい意味は現在も知られていません。  また、ここで明らかなのは、洗礼者ヨハネとイエスの話し方を分ける、新たな次元への飛躍です。

回心(回心させられること)、は、もはや古い契約に戻り、律法を遵守することを意味しません。 それは、新しい契約を結び、前に向かって飛躍し、現前する神の国をとらえ、信仰によってそこに入ることを意味します。 「悔い改め、信じなさい」ということは、順番に行う別々の事柄ではなく、同じ行為を意味するのです。 悔い改めること、それは信じることです。 信じるから、悔い改めるのです! トマス・アクイナスは、 "Prima conversion fit per fidem," と言いました。 回心の最初は、信じることにあると。

(注 1)

神は、救いの主導権を取られました。 神はまず、神の国の到来を実現し、人間は先ず、信仰において、神の指し出すものを受け入れ、その後に、守るべきことを生きるのです。 それは、王がその宮殿の扉を開き、既に宴会が準備され、戸口にあって、王は全ての通りかかる人に「どうぞ入りなさい。準備は整っています」と言っているようなものです。 それは、神の国のたとえ話といわれるものの中に響いている呼びかけです。 長く待ち侘びてきたその時が来ました。決心をすれは救われる時です。この時を見逃さないようにしましょう!

パウロは、「信仰による義」の教義によって同じことを言うのです。 さて、唯一の違いが、イエスの説教とパウロのそれとの間に見られます。 キリストは、拒否され、人間の罪のために死に追いやられました。 福音における信仰 (福音を信じなさい!)は、「イエス・キリストによる」、「イエスの血による」信仰として形成されています。

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ 3:24 ‐ 25)

パウロが、「自由に」 ("dorean") とか 「恵みによって」とか、副詞を使って表現することは、イエスが、神の国をプレゼントされる子どものイメージで語ったことです。 子供が両親の愛に期待するように、自分の善行に訴えるのではなく、神の愛にのみ訴える態度です。

聖書の釈義学者たちは長いこと、パウロの回心について語り続けるべきか否かを議論してきました。 一部の人々は、回心よりも「召命(呼びかけ)」について語ることを好みます。 パウロの回心の祭日をまったく廃止したいと言う人々もいます。その理由は、回心とは自分から何かを切り離し、放棄することを意味するからだと言います。 そして、ユダヤ人の回心は異教徒の回心と違い、何かを放棄する必要が無く、偶像崇拝から眞の神の礼拝に過ぎ越す必要もない、と言います。 わたしにとっては、これは真の問題とは思えません。 先ず、第一に、回心と召命との間には何の対立もありません。 召命は回心を暗示しますが、回心に置き換わるものではありません。 「恵み」は「自由」に置き換わるものではないからです。 しかし、今まで見てきた中で、とりわけ福音への回心は、何かを否定したり、後戻りするものではなく、新たなものを受け取り、前へ飛躍するものです。 イエスは誰に対して「悔い改めて、福音を信じなさい」と言ったのでしょうか? それはユダヤ人に対してではなかったでしょうか? パウロは、この同じ回心を 「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(2コリント 3:16) という言葉で語るのです。

この照らしのもとでは、パウロの回心は、真のキリスト者の回心のモデルのように見えます。 それは第一に、キリストを受け入れことにあります。 信仰によりキリストに「向かう」ことです。 それは見出すことであって、何かを放棄することではありません。 イエスは、「その人は持ち物を全部売ってから、隠された宝を探しに出かけた。」とは言いません。 イエスは、「人は宝を見つけて、それから、そのために全財産を売り払う。」と言われたのです。

4 .  生きた体験

1999 年に、教皇ヨハネ・パウロU世とウプサラ大司教により、サン・ピエトロ大聖堂で提出された カトリック教会とルーテル派教会世界連盟の間の「信仰による義認」( justification through faith )の同意文書の中に、最終勧告があります。 それはわたしカンタラメッサにとり、決定的に重要と見えるものです。 要約すれば、それは、(「信仰による義認」という)この偉大な真理を、信者にとっては「生きた体験」とする時が来ている。 そして、もはやこれは、過去にあったように、専門家たちの間の神学的論争の対象ではない、ということです。

パウロ年は、この経験を生きる幸先のよい機会となりましょう。 それは、わたしたちの霊的な生活に、活力と新しい自由をもたらす機会です。  シャルル・ペギー ( Charles Peguy )はその生涯の信仰の偉大な行為の物語を、第三者の立場で語ります。  

                                

 (訳注: Charles Peguy ( 1873 - 1914 ) は、フランスの詩人、エッセイスト、編集者。彼の着想   の源泉は、社会主義とナショナリズムであったが、 1908 年までに熱心なローマ・カトリックの   信者となり、その後はその影響を一番大きく受けた)

彼によると、ある男に 3 人の男の子がいました。(実際は、これがペギー自身のことと分っています。) 不運な或る日、 3 人が同時に病気になりました。 そのとき彼は、思いもよらない行動をとったのです。 思い出しても感嘆するのですが、それは実に大胆な行動であったと言わざるをえません。 ちょうど、ふだん母親や乳母が笑いながら子どもたちを集めて抱き上げ、 「あんまり大勢で重いから、どこかへやってしまおう!」と冗談を言うのと同じように、その大胆な男は病気の 3 人をやさしく抱きあげました。 彼はこの世の悲しみのすべてをその身に引き受けていたのです。 彼は言いました。「さあ、子どもたちをあなたに差上げます。 あなたが彼らを返さないように、わたしは逃げ去ります。 お分かりでしょう?彼らはもう私のものではありません。 あなたが彼らの心配をしてください。」 (この暗喩・・・こどもを手放す話・・・とは反対に、彼はパリからシャルトルへ巡礼の道を歩き通し、病気の 3 人を聖母の手にゆだねたのです。) その日から、全てがうまく運ぶようになりました。それは当然のことで、マリアさまが関わってくださったからです。 クリスチャンが全てそのようにするとは限らないのも、興味のあるところです。 それはごく単純なことなのですが、単純なことをだれも思いつかないのです。

この物語は、大胆な行動の発想ゆえに、いまのわたしたちにとって学ぶべきものがあります。 いま取り上げている話題にも関連があります。 全ての鍵は信仰にある、と言うことです。 しかし、信仰には、異なるタイプのものがあります。 知性に従う信仰、信頼の信仰、確固たる信仰、そしてイザヤが叫ぶ(イザヤ 7:9 )ように。 「信仰によって」神の義を語るとき、その信仰とは何を意味しているのでしょうか? それは、すべてを含めた特別の信仰の問題 : faith-appropriation (信仰帰属?)です。

この点について、聖ベルナールの言葉を聞いてみましょう: 「自分で得られないものは、信頼を以って主の刺し抜かれた脇腹から拝借(横領)します。 なぜなら主は憐れみ深いからです。 わたしのメリット(善行)は神の憐れみです。 わたしは、メリットにおいては、神が憐れみ豊かである限り、確かに貧しくありません。 もし、主の憐れみが豊かなら(詩篇 119 、 156 )、わたしもメリットに富むでしょう。 そして、わたしの義は何でしょうか? 主よ、わたしはあなたの義だけを忘れません。事実、それはわたしのものです。 なぜなら、わたしにとってあなたは、神の側の正義だからです。 事実、それはこう書かれています: 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」( 1 コリント 1:30 ) それは、キリストご自身のためではなく、わたしたちのために、なのです。

エルサレムの聖キュリロスは、別の言葉で、信仰の大胆な行いについて同じ考えを述べました。  「おお、人に対する神の特別な善! 旧約聖書の正義は、その長い苦難の年月に神を喜ばせた。 しかし、神に受け入れられる長い間の高潔な奉仕を通して彼らが得たものを、イエスは、ほんの僅かな時の間にあなたに与える。 事実、もしあなたが、イエス・キリストが主であり、神はイエスを死から復活させたと信じるなら、あなたは救われ善良な盗人を導いた同じ方によってパラダイスに導かれる。」

聖ヨハネ・クリュソストモスのイメージを展開する際、カバシラス ( 訳注 ) はこう記します。 闘技場で英雄的な戦いが行われているさまを想像してご覧なさい。 勇敢な男が、冷酷な暴君と立ち向い、大変な努力と苦しみを以って彼を打つ。 あなたは戦わず、苦労も傷も受けない。 しかし、もしあなたが勇敢な男を讃えるなら、もし彼と共に勝利を喜ぶなら、彼のために王冠を作るなら、彼のために集まった人々を感動で動かすなら、勝利者に喜びを以って額づくなら、彼の頭に接吻し、右の手に握手するなら、要するに、もしあなたが、彼の勝利を自分のものと考えるほど彼のために有頂天になるなら、あなたも勝利者の賞品の一端を身に受けることになります。     

(訳注: Nicholas Cabasilas (1319 1391) はビザンチンの神秘者、神学者。皇帝 John VI    Cantacuzene の寵愛を得て、その退位後、修道院に共に入った。 1355 年、伯父 Nilus    Cabasilas を継いでテサロニケの司教となる。)

しかし、まだ続きがあります: 勝利者が、賞品を必要とせず、なによりも彼の支持者が栄誉を受けることを望み、彼の戦いの賞品を友人に与えたいと考えることを想像してください。 そのような場合に、自分が苦労せず傷も受けなかったその友人は、栄誉を受け取らないでしょうか? もちろん、受け取ります。 キリストとわたしたちの関係もこのようなものです。 わたしたちは、苦労も戦いもなしに -- メリット(善行)もなしに -- 信仰を通してキリストの戦いを讃え、キリストの勝利のトロフィー(すなわち尊い十字架)に敬意を表し、心の底からの、言葉で言い表せない愛を示すのです。わたしたちは、その傷と死とを自分のものとします。(注 6) こうして、その救いは得られるのです。

降誕祭の典礼は、わたしたちに、キリストにおいてわたしたちと神の間に実現した「聖なる交換」( "sacrum commercium" )について語ります。 全ての交換の法則は、一定のフォーミュラに表現されます: わたしのものであるものは、あなたのものであり、あなたのものであるものは、わたしのものである。 それは論理的に、わたしのものである罪、弱さはキリストのものであり、キリストのものである聖性は、わたしのものになるということです。                     

カバシラスによれば、わたしたちは、自分自身のものと言うより、キリストに属していますから(1コリント 6:19-20 参照 ) 、逆に言えば、キリストの聖性は、わたしたち自身の聖性よりも、もっとわたしたちに属しています。 ( 注 7)  これは霊的生活の推進力です。 その(推進力の)発見するのは、普通、その始まりではなく、自分の霊的旅路の終わりにおいてです。 その時には他のすべての別れ道を経験し、それらに大きな違いはないことを覚っています。

カトリック教会の中でわたしたちは、この聖なる交換と信仰による恩寵の義を、具体的に、日々経験する特典をいただいています。 それは、秘跡です。 和解の秘跡に近づくとき、わたしはいつでも、 "ex opere operato" (なされた業によって:事効論)と神学で言われる恵みによって神に義と認められる具体的経験をもつのです。 わたしは聖堂に行き、神に語ります: 「おお、神さま、罪人であるわたしを憐れんでください。」 そして徴税人のように、「神に義とされて」(ルカ 18:14 参照)、赦されて、洗礼を受けた時のように輝かしい気持ちで、家に帰るのです。

「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」(ルカ 18:14 ) 

          

聖パウロに献げられたこの年に、彼のような大胆な信仰の推進力を得る恵みを、パウロがわたしたちのために祈ってくださるように。

[ 原注 ] [1] St. Thomas Aquinas, S. Th., I-IIae, q. 113, a.4. [2] Cf. J.M. Everts, "Conversione e Chiamata di Paolo," in "Dizionario di Paolo e delle sue lettere," San Paolo 1999, pp. 285-298 (summary of the positions and bibliography). [3] Cf. Ch. Peguy, "Il portico del mistero della seconda virtu." [4] In Cant. 61, 4-5: PL 183, 1072. [5] Catechesis 5, 10: PG 33, 517. [6] Cf. N. Cabasilas, "Life in Christ," I, 5: PG150, 517. [7] N. Cabasilas, "Life in Christ," IV, 6 (PG 150, 613).

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

Father Cantalamessa's 1st Advent Sermon

St. Paul : "Model of True Christian Conversion"

VATICAN CITY, DEC. 5, 2008 ( Zenit.org ).- Here is the Advent homily Capuchin Father Raniero Cantalamessa, preacher of the Pontifical Household, delivered today in the Vatican in the presence of Benedict XVI and the Roman Curia. This is the first of three Advent sermons the preacher will deliver on the theme "'When the Fullness of Time Had Come, God Sent his Son, Born of a Woman: Going With St. Paul to Meet the Christ Who Comes." The next two sermons will be held Dec. 12 and 19.

"But Whatever Gain I Had, I Counted as a Loss for the Sake of Christ"

The Conversion of St. Paul: Model of True Christian Conversion
The Pauline Year is a great grace for the Church, but it also presents a danger: that of reflecting on Paul, his personality and his doctrine without taking the next step from him to Christ. The Holy Father warned against this risk in the homily with which he proclaimed the Pauline Year in the general audience of last July 2, stating: "This is the purpose of the Pauline Year: to learn from St. Paul, to learn the faith, to learn about Christ." This danger has occurred so many times in the past, to the point of giving a place to the absurd thesis according to which Paul, not Christ, is the real founder of Christianity. Jesus Christ was for Paul what Socrates was for Plato: a pretext, a name, under which to put his own thought.

The Apostle, as John the Baptist before him, is an index pointing to one "greater than he," of which he does not consider himself worthy to be an Apostle. The former thesis is the most complete distortion and the gravest offense that can be made to the Apostle Paul. If he came back to life, he would react to that thesis with the same vehemence with which he reacted in face of a similar misunderstanding of the Corinthians: "Was Paul crucified for you? Or were you baptized in the name of Paul?" (1 Corinthians 1:13). Another obstacle to overcome, also for us believers, is that of pausing on Paul's doctrine on Christ, without catching his love and fire for him. Paul does not want to be for us only a winter sun that illuminates but does not warm. The obvious intention of his letters is to lead readers not only to the knowledge of but also to love and passion for Christ. To this end I wish to contribute the three meditations of Advent this year, beginning with this one today, in which we reflect on Paul's conversion, the event that, after the death and resurrection of Christ, has most influenced the future of Christianity.

1. Paul's Conversion Seen From Within

The best explanation of St. Paul's conversion is the one he himself gives when he speaks of Christian baptism as being "baptized into the death of Christ" -- "buried with him" to rise with him and "walk in newness of life" (cf. Romans 6:3-4). He relived in himself the paschal mystery of Christ, around which, in turn, all his thought will revolve. There are also impressive external analogies. Jesus remained three days in the sepulcher; for three days Saul lived as though dead: He could not see, stand, eat, then, at the moment of baptism, his eyes reopened, he was able to eat and gather his strength; he came back to life (cf. Acts 9:18). Immediately after his baptism, Jesus withdrew to the desert and so did Paul, after being baptized by Ananias, he withdrew to the desert of Arabia , namely, the desert around Damascus .

Exegetes estimate that there were some 10 years of silence in Paul's life between the event on the road to Damascus and the start of this public activity in the Church. The Jews sought him to death, the Christians did not yet trust him and feared him. His conversion recalls that of Cardinal Newman, whose former brothers of Anglican faith considered a renegade and Catholics looked upon with suspicion because of his new and ardent ideas. The Apostle had a long novitiate; his conversion did not last a few minutes. And it is in this his kenosis, in this time of deprivation and silence that he accumulated that bursting energy and light that one day would pour over the world.

We have two descriptions of Paul's conversion: one that describes the event, so to speak, from outside, on a historical note, and another that describes the event from within, on a psychological or autobiographical note. The first type is the one we find in the three relations that we read about in the Acts of the Apostles. To it also belong some references that Paul himself makes of the event, explaining how from being a persecutor he became an apostle of Christ (cf. Galatians 1:13-24). The second type belongs to Chapter 3 of the Letter to the Philippians, in which the Apostle describes what the encounter with Christ meant to him subjectively, what he was before and what he became afterward; in other words, in what the change in his life consisted existentially and religiously. We will concentrate on his text that, by analogy with the Augustinian work, we can describe as "the confessions of St. Paul ." In every change there is a "terminus a quo" and a "terminus ad quem," a point of departure and a point of arrival. The Apostle describes first of all the point of departure, that which was first:

"If any other man thinks he has reason for confidence in the flesh, I have more: circumcised on the eighth day, of the people of Israel, of the tribe of Benjamin, a Hebrew born of Hebrews; as to the law a Pharisee, as to zeal a persecutor of the Church, as to righteousness under the law blameless" (Philippians 3:4-6).

We can easily make a mistake in reading this description: These were not negative titles, but the greatest titles of holiness of the time. With them Paul's process of canonization could have been opened immediately, if it had existed at that time. It is as if to say of one today: baptized the eighth day, belonging to the structure par excellence of salvation, the Catholic Church, member of the most austere order of the Church (the Pharisees were this!), most observant of the Rule, etc." Instead, there is a point at the top of the text that divides in two the page and life of Paul. It is divided by an adverse "but" that creates a total contrast: "But whatever gain I had, I counted as loss for the sake of Christ. Indeed I count everything a loss because of the surpassing worth of knowing Christ Jesus my Lord. For his sake I have suffered the loss of all things, and count them as refuse, in order that I may gain Christ" (Philippians 3:7-8).

In this brief text the name of Christ appears three times. The encounter with him has divided his life in two, has created a before and an after. A very personal encounter (it is the only text where the Apostle uses the singular "my," not "our" Lord) and an existential encounter more than a mental one. No one will ever be able to know in-depth what happened in that brief dialogue: "Saul, Saul!" "Who are you, Lord? I am Jesus!" He describes it as a "revelation" (Galatians 1:15-16). It was a sort of fusion of fire, a beam of light that even today, at a distance of 2,000 years, illuminates the world.

2. A Change of Mind

We will attempt to analyze the content of the event. It was first of all a change of mind, of thought, literally a metanoia. Up to now Paul believed he could save himself and be righteous before God through the scrupulous observance of the law and the traditions of the fathers. Now he understood that salvation is obtained in another way. I want to be found, he says, "not having a righteousness of my own, based on law, but that which is through faith in Christ, the righteousness from God that depends on faith" (Philippians 3:8-9). Jesus made him experience in himself that which one day he would proclaim to the whole Church: justification by grace through faith (cf. Galatians 2:15-16; Romans 3:21 ff.)

An image comes to mind when reading the third chapter of the Letter to the Philippians: A man is walking at night in a thick wood in the faint light of a candle, being careful that it does not go out; walking, walking as dawn arrives, the sun comes out, the faint light of the candle turns pale, to the point that it is no longer useful and he throws it away. The smoking wick was his own righteousness. One day, in the life of Paul, the sun of righteousness arose, Christ the Lord, and from that moment he did not want any other light than his.

It is not a question of a point along with others, but of the heart of the Christian message. He would describe it as "his Gospel," to the point of declaring anathema whoever dared to preach a different Gospel, whether it be an angel or he himself (cf. Galatians 1:8-9).

Why such insistence? Because the Christian novelty consists in this, which distinguishes it from every other religion or religious philosophy. Every religious proposal begins by telling men what they must do to save themselves or to obtain "illumination." Christianity does not begin by telling men what they must do, but what God has done for them in Christ Jesus. Christianity is the religion of grace.

There is a place -- and how great it is -- for the duties and observance of the Commandments, but then, as response to grace, not as its cause or price. We are not saved by good works, though we are not saved without good works. It is a revolution of which, at a distance of 2,000 years, we still try to be aware. The theological debates on justification through faith of the Reformation and onward have often hampered rather than favored it because they have kept the problem at the theoretical level, the texts of opposing schools, rather than helping believers to have the experience in their life.

3. "Repent, and Believe in the Gospel"

However, we must ask ourselves a crucial question: who is the author of this message? If it were the Apostle Paul, then those would be right who say that he, not Jesus, is the founder of Christianity. But he is not the author; he does no more than express in elaborated and universal terms a message that Jesus expressed with his typical language, made of images and parables.

Jesus began his preaching saying: "The time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand; repent, and believe in the Gospel" (Mark 1:15). With these words he already taught justification through faith. Before him, to be converted meant to "go back" (as indicated by the Hebrew term shub); it meant to return to the broken Covenant, through a renewed observance of the law. "Return to me [...], return from your evil ways," God said through the prophets (Zechariah 1:3-4; Jeremiah 8:4-5). Consequently, to be converted has a primarily ascetic, moral and penitential meaning and it is affected by changing one's conduct of life. Conversion is seen as a condition for salvation; the meaning is: Repent and you will be saved; repent and salvation will come to you. This is the predominant meaning that the word conversion has on the lips of John the Baptist (cf. Luke 3:4-6). However, on Jesus' lips this moral meaning takes second place (at least at the beginning of his preaching) in regard to a new meaning, unknown until now. Manifested also in this is the epochal leap that is verified between the preaching of John the Baptist and that of Jesus.

To be converted no longer means to return to the ancient Covenant and the observance of the law, but to make a leap forward, entering into the new Covenant, to seize this Kingdom that has appeared, to enter it through faith. "Repent and believe" does not mean two different and successive things, but the same action: repent, that is believe; repent by believing! "Prima conversion fit per fidem," St. Thomas Aquinas would say, the first conversion consists in believing.[1]

God took the initiative of salvation: He has made his Kingdom come; man must only accept, in faith, God's offer and live the demands afterward. It is like a king who opens the door of his palace, where a great banquet is ready, and, being at the door, invites all passersby to enter, saying: "Come, all is ready!" It is the call that resounds in all the so-called parables of the Kingdom: The hour much awaited has struck, take the decision that saves, do not let the occasion slip by!

The Apostle says the same thing with the doctrine of justification through faith. The only difference is due to that which has occurred, in the meantime, between the preaching of Jesus and that of Paul: Christ was rejected and put to death for the sins of men. Faith in the Gospel ("believe in the Gospel"), is now configured as faith "in Jesus Christ," "in his blood" (Romans 3:25). What the Apostle expresses through the adverb "freely" ("dorean") or "by grace," Jesus said with the image of receiving the Kingdom as a child, namely, as a gift, without putting forward merits, appealing only to the love of God, as children count on the love of their parents.

For some time exegetes have discussed whether or not one must continue to talk about the conversion of St. Paul ; some prefer to speak of a "call," rather than conversion. There are those who would like the outright abolition of the feast of the conversion of St. Paul , as conversion indicates a detachment and a giving up of something, and a Jew who converts, as opposed to a pagan, must not give up anything, he must not pass from idols to the worship of the true God.[2]

It seems to me we are before a false problem. In the first place, there is no opposition between conversion and call: a call implies a conversion; it does not replace it, as grace does not replace freedom. However, above all we have seen that evangelical conversion is not about denying something or going back, but a reception of something new, a leap forward. To whom was Jesus speaking when he said: "Repent and believe in the Gospel"? Was he not speaking perhaps of the Jews? The Apostle referred to this same conversion with the words: "But when a man turns to the Lord the veil is removed" (2 Corinthians 3:16).

In this light Paul's conversion appears to us as the model of true Christian conversion that consists first of all in accepting Christ, in "turning" to him through faith. It is a finding, not a giving up. Jesus does not say: A man sold all he had and began to look for a hidden treasure; he said: A man found a treasure and because of this sold everything.

4. A Lived Experience

In the document of agreement between the Catholic Church and the World Federation of Lutheran Churches on justification through faith, presented solemnly in St. Peter's Basilica by John Paul II and the archbishop of Uppsala in 1999, there is a final recommendation that seems of vital importance to me. In essence, it says this: The moment has come to make of this great truth a lived experience on the part of believers, and no longer an object of theological disputes between experts, as happened in the past.

The Pauline Year offers us the propitious occasion to live this experience. It could give a shove to our spiritual life, a breath and a new freedom. Charles Peguy recounted, in the third person, the story of the greatest act of faith of his life.

 (訳注: Charles Peguy ( January 7 , 1873 - September 5 , 1914 ) was a noted French poet , essayist and editor . His two main inspirations were socialism and nationalism , but by 1908 at the latest, he had become a devout but non-practicing Roman Catholic [1] From then on, Catholicism had a major influence on his works.

A man, he said (and it is known he was speaking of himself) had three sons. On a bad day all three fell ill at the same time. Then he did something audacious. Thinking about it again admiringly, it must be said that it really was a daring act. Just as three children are sometimes gathered together and hoisted, almost jokingly, into the arms of their mother or nurse, who laughs and says to take them away because they are too many and too heavy, so he, daring man that he was, had taken -- one understands with prayer -- his three sick children and had peacefully put them into the arms of him who has charge of all the sorrows of the world.

"Look," he said, "I give them to you, I turn and run away, so that you will not give them back to me. I don't want them any more, you see it well! You must be concerned with them." (Apart from the metaphor, he had gone on foot on a pilgrimage from Paris to Chartres to entrust his three sick children to Our Lady). From that day on, everything went well, naturally, because it was the Holy Virgin who was involved. It is also curious that not all Christians do as much. It is so simple, but no one ever thinks of what is simple.[3]

The story is useful to us at this moment because of the idea of the audacious act; because it relates to what is being discussed. The key to everything, it is said, is faith. But there are different types of faith: there is faith-assent of the intellect, faith-trust, faith-stability, as Isaiah calls it (7:9): of what faith does one refer to when speaking of justification "through faith"? It is a question of an all-together special faith:faith-appropriation!

Let us listen to St. Bernard on this point who says, "What I cannot obtain by myself, I appropriate (usurp!) with trust from the pierced side of the Lord, because he is full of mercy. My merit, therefore, is God's mercy. I am certainly not poor in merits, as long as he is rich in mercy. If the mercies of the Lord are many (Psalm 119:156), I too will abound with merits. And what about my justice? O Lord, I will remember only your justice. In fact, it is also mine, because you are for me justice on the part of God."[4] It is written, in fact, that "Christ Jesus ... became for us wisdom, righteousness, sanctification and redemption" (1 Corinthians 1:30) -- for us, not for himself!

St. Cyril of Jerusalem expressed, with other words, the same idea of the audacious act of faith: "O extraordinary goodness of God toward men! The righteousness of the Old Testament pleased God in the toil of long years; but what they were able to obtain, through a long and heroic service acceptable to God, Jesus gives to you in the brief space of an hour. In fact, if you believe that Jesus Christ is the Lord and that God has resurrected him from the dead, you will be saved and introduced into paradise by the same one who introduced the good thief."[5]

Imagine, writes Cabasilas, when developing an image of St. John Chrysostom, that an epic fight is taking place in the stadium.

A courageous man has confronted the cruel tyrant and, with enormous effort and suffering, has beaten him. You have not fought, you have made no effort or suffered wounds. However, if you admire the courageous man, if you rejoice with him over his victory, if you weave a crown for him, stir and shake the assembly for him, if you bow with joy to the winner, if you kiss his head and shake his right hand; in sum, if you are so delirious for him as to consider his victory yours, I tell you that you will certainly have a part of the winner's prize.

(訳注: Nicholas Cabasilas (born 1319 1391) was a Byzantine mystic and theological writer. He was on intimate terms with the emperor John VI Cantacuzene , whom he accompanied in his retirement to a monastery. In 1355 he succeeded his uncle Nilus Cabasilas , like himself a determined opponent of the union of the Greek and Latin churches, as archbishop of Thessalonica . In the Hesychast controversy he took the side of the monks of Athos and Gregory Palamas . His chief work is his Περ ? τ ? ? ? ν Χριστ ? ζω ? ? (ed. pr. of the Greek text, with copious introduction, by W. Gass, 1849; new ed. by M. Heinze, 1899), in which he lays down the principle that union with Christ is effected by the three great mysteries of baptism , confirmation , and the eucharist . He also wrote homilies on various subjects, and a speech against usurers , printed with other works in Migne , Patrologia Graeca , c. i. A large number of his works is still extant in manuscript. Cabasilas' major works are Life in Christ and Commentary on the Divine Liturgy. These works display a profound understanding of the sacramental and liturgical life of the Eastern Orthodox Church and are accessible to and instructive for any Christian today worshiping in either the East or West.

But there is more: Suppose the winner had no need of the prize he won, but desires, more than anything else, to see his supporter honored and considers the prize of his fight the crowning of his friend, in such a case, will that man, perhaps, not obtain the crown if he has not toiled or suffered wounds?

Of course he will obtain it! Well, it happens in this way between Christ and us. Although not having yet toiled and fought -- although not having yet any merit -- nevertheless, through faith we extol Christ's struggle, admire his victory, honor his trophy which is the cross and valuable for him, we show vehement and ineffable love; we make our own those wounds and that death.[6] Thus it is that salvation is obtained.

The Christmas liturgy will speak to us of the "holy exchange," of the "sacrum commercium," between us and God realized in Christ. The law of every exchange is expressed in the formula: That which is mine is yours and that which is yours is mine. It derives that, that which is mine, namely sin, weakness, becomes Christ's; that which is Christ's, namely holiness, becomes mine.

Because we belong to Christ more than to ourselves (cf. 1 Corinthians 6:19-20), it follows, writes Cabasilas, that, inversely, the holiness of Christ belongs to us more than our own holiness.[7] This is the thrust in the spiritual life. Its discovery is not done, usually, at the beginning, but at the end of one's own spiritual journey, when all the others paths have been experienced and one has seen that they do not go very far.

In the Catholic Church we have a privileged means to have a concrete and daily experience of this sacred exchange and of justification by grace through faith: the sacraments. Every time I approach the sacrament of reconciliation I have a concrete experience of being justified by grace, "ex opere operato," as we say in theology. I go out to the temple and say to God: "O God, have mercy on me a sinner" and, like the publican, I return home "justified" (Luke 18:14), forgiven, with a brilliant soul, as at the moment I came out of the baptismal font. May St. Paul , in this year dedicated to him, obtain for us the grace of making like him this audacious thrust of faith.


* * *

Footnotes
[1] St. Thomas Aquinas, S. Th., I-IIae, q. 113, a.4. [2] Cf. J.M. Everts, "Conversione e Chiamata di Paolo," in "Dizionario di Paolo e delle sue lettere," San Paolo 1999, pp. 285-298 (summary of the positions and bibliography). [3] Cf. Ch. Peguy, "Il portico del mistero della seconda virtu." [4] In Cant. 61, 4-5: PL 183, 1072. [5] Catechesis 5, 10: PG 33, 517. [6] Cf. N. Cabasilas, "Life in Christ," I, 5: PG150, 517. [7] N. Cabasilas, "Life in Christ," IV, 6 (PG 150, 613).

[Translation by ZENIT]

 

home page